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四章
閑話 マルス
しおりを挟む──国王とは何か?
王冠を戴き、玉座に腰を下ろしたその日から、イデア王国の現国王であるマルスは、この疑問と向き合い続けてきた。不治の病に侵され、生死の境を彷徨っている今も、深い深い意識の底で、絶えず自問自答を繰り返している。
『国王とは、民草の生活に責任を持つ者である』
先代の国王からそう教えられ、最初は何の疑問も抱くことなく、マルスは治世に心血を注いでいた。
この国をより良くしたい。国民を幸せにしたい。先代の国王から継承したその理想が、マルスという一人の王の原点と言える。
しかし、神ならざる身では、全ての民の生活に責任を持つことは出来なかった。平和な世の中であっても、手の平から零れ落ちる者たちは数多く存在している。
玉座という封建社会の頂点から、数多の人々の営みを見下ろしていると、人間が如何に利己的な生物であるのか、痛いほど良く分かった。大勢の者が大なり小なり、己の利益追求に躍起になっており、様々な場面で勝者と敗者に別れ、幸福度の格差は徐々に広がっていく。
この流れを押し止めるべく、様々な政策を施してきたが、将来的に無理が来るのは明白だ。なにせ、人の欲望には限りが無い。無限の濁流を押し止める堰堤など存在しないように、人の欲望を押し止める政策も存在しない。
長い間、幸福な者の方が多い時代が続いた。しかし、大勢の人々が現状に満足せず、更なる幸福を求めている。有形無形を問わず、幸福とは有限のリソースであり、誰かが掻き集めれば、誰かの手元から離れていくもの。
幸福度の格差が更に激しくなったとき、不幸な者たちの不満は何処へ向かうのか……。それは当然、幸福な者たちであり、社会そのものであり、その象徴である王家となるだろう。
不幸を背負った者の数が、幸福な者の数よりも増えて、『数の暴力』を手に入れた時──。それが、この封建社会の終わりだと、マルスはそんな未来を明確に予見していた。
それが決定付けられた歴史の流れだとして、マルスは改めて自分自身に問う。
『──国王とは、何か?』
国家の維持装置。国民の幸福度を底上げする存在。不満の捌け口。色々と思い浮かぶが、そのどれもが国王にしか出来ないことではないと思えた。
『もしかしたら、国王なんて存在は、必要ないのではないか?』
終生、その考えが脳裏から離れず、マルスは結局ただの一度も、息子たちに国王としての教育を手ずから施すことはしなかった。おかげで、ホモーダとヨクバールはどちらも暗愚に育ったが……国王など、誰がなっても同じだろう。
王制は終わる。誰が次の国王になるのかなんて、イデア王国の終わり方が変わるだけでしかない。魔王の復活と魔物の活性化。この問題に関しても、また一つ、国の終わり方が増えただけだとしか思えなかった。
封建社会以外の社会制度など、マルスには想像も付かない。だが、きっと、欲深い人々の中から、最も欲深い者が頂点に立ち、欺瞞と搾取に塗れた息苦しい世の中になるはずだ。
『余は……人の在り方に、失望しているのか……』
もう随分と昔から、心が酷く冷めている。マルスには、その自覚があった。
……ふと、自分の三番目の息子の顔が脳裏を過る。
アルスに対しての愛情は皆無だ。これは授かった天職の問題ではなく、未来がない王家という一族そのものに、関心を抱けなかったことが原因となっている。
ただ、アルスが授かった牧場主という天職を聞いたときは、数十年振りに心の奥底から笑いが込み上げてきた。
国土は牧場、国民は家畜。これくらい割り切って、国家そのものを自らの利益を生み出すために利用していれば、もっと面白い生き方が出来たのかもしれない。
──意識が浮上する。マルスはその感覚に落胆してしまった。
これ以上の人生は蛇足であり、もう何もやることがない。……いや、正確に言えば、やりたいことがないのだ。
目を覚まして、節々が傷む身体を無理やり傾けると、そこは自分の寝室にあるベッドの上だった。視線を動かすと、付きっ切りで自分を看病していた数名の医師と、王位が動く瞬間を見届ける義務を背負った宰相の姿が視界に映る。
「陛下……っ!? 良かった!! もう目を覚まさないのかと……!!」
「余の命が、風前の灯火であることに、変わりはない……。延命措置は、もう止せ」
「し、しかし……」
マルスは目力で宰相を黙らせて、医師たちを下がらせる。彼らは回復魔法を使える天職を授かった者たちだが、こんなところに居るよりも有意義な時間の使い方があるはずだ。
室内は魔法の光によって明るく照らされているが、窓の外に見える月の位置で、今が夜中なのだと理解出来た。
宰相の顔には疲労が色濃く浮かんでおり、目の下の隈を見れば睡眠不足であることは一目瞭然だ。マルスは内心で、申し訳なく思う。これは、自分が未だに生き永らえていることへの謝意か、あるいは長年、苦労を背負わせ続けてきたことへの謝意か……。
「宰相……。お前と余は長い付き合いだったが、お前から見て、余はどんな国王であった……?」
「無論っ、最上の王に御座います! 陛下ほど民を案じて、私利私欲を捨て、治世に取り組んでいた王は、歴史をどれだけ紐解いても他に存在しません!」
マルスの問いに、宰相は迫真の表情で賛辞を並べ立てた。これは決して、ご機嫌取りの言葉ではない。マルス自身も、そのような王で在ろうと立ち振る舞っていた自覚がある。
ただ、それが間違いだったのかもしれないと、今になって思ってしまった。
自分自身の幸せを追求することこそ、人間の正常な在り方なのだ。世の中には他人に奉仕するのが生き甲斐だと宣う者たちも居るが、それだって自分の心を満たす行為が、たまたま奉仕という形だったに過ぎない。
マルスは国王としての責務に取り組んできたが……それは、自分が幸せになる方法ではなかった。
自分が幸せになれない人間は、本質的に他者の幸せを望めない。
「余は……王に向いて、いなかった……」
他者の幸せを望めない者など、王としての在り方から最も遠い存在だ。
マルスが弱音を吐いている姿なんて、見たことがなかった宰相は、嗚咽を漏らしながら涙を零す。
「陛下……っ、私は、御身が王であられたことに、心の底から感謝しております……!」
「…………そうか。それだけは、救いだな……」
マルスは小さな笑みを浮かべて、自分の心が僅かに軽くなったことを感じ取る。
──と、そのとき、王城に第三王子が来訪したという知らせが届いた。
追放された身で、一体何をしに来たのか……。少しだけ興味が湧いて、マルスは三番目の息子を呼び出すことにした。
これが、お互いに愛情を抱いていない親子の、最期の対話になる。
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