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三章
28話 悪夢 ⑤
しおりを挟む夜行列車の中で一夜を明かすことになるかと思ったが、目的地に到着したのは深夜の三時だった。
朝まで寝ていたかったが、乗り過ごす訳にもいかないので、俺は寝惚け眼を擦りながら大人しく無人の駅に降り立つ。ちなみに、いくら眠くても、ルゥたちを車内に置き忘れるようなヘマはしていない。
こんな時間に役場の方へ連絡を入れる訳にもいかないし、民宿を探すのも難しい時間帯だ。仕方がないので、俺は駅の古ぼけたベンチで朝を待つことにした。二、三時間後には日が昇るだろうから、それほど長い待ち時間ではない。
「報告。マスター、上空をご覧ください。満天の星空が広がっています」
メイドさんに促されて、俺は夜空を見上げた。すると、確かに『満天の星空』と形容するに相応しい光景が広がっている。
都会から見上げる夜空は、星の数がとても少なくて、どこか寂しそうに見えていた。それに比べて、田舎から見上げる夜空は、無数の星々があちこちで輝いているので、非常に賑やかな様子だ。
「夜空って、その下にある人の営みとは、真逆に見えるんだな……」
「肯定。人が減っても、星がこんなに増えたのなら、もう寂しくないですね」
特に生産性のない会話をしながら、俺は段々と眠気に抗えなくなって、ゆっくりと瞼を閉じた。
──そうして、熟睡していた俺が目を覚ましたのは、朝の七時頃。この時間帯になると夏の暑さが身体を苛むが、やたらとジメジメしていた都会とは違って、田舎の風は心地良いくらい爽やかだった。
俺が周囲を見回すと、ルゥはいつの間にかキャリーバッグの外に出ており、メイドさんが自販機で買った水を貰っている。
スーツの胸ポケットに入れていたピーナは、俺と同時に目を覚ましたようで、ピッピピッピと囀り出した。俺も自販機で水を買って、餌と一緒にピーナに与えておく。
鳥用の餌はキャリーバッグと一緒にペットショップで購入したもので、ルゥのために犬用の餌もきちんと買ってある。そちらをルゥに与えると、ルゥはガツガツと勢い良く食べ始めた。
いつも皿を空っぽにした後、ルゥは食べ足りないと言わんばかりに俺を見つめてくるので、ついついおかわりを用意してしまうのだが……この犬、明らかに普通の犬よりも食いしん坊だ。
俺とメイドさんが食べるものは無いが、とりあえずルゥとピーナのお腹を満たしてから、俺たちは畦道を進んで役所を目指し始める。
見渡す限り、辺り一面が黄金色に染まった稲穂畑は、風に揺られて幻想的な光景を俺たちの目に焼き付けてくれた。そんな道中、この炎天下でも汗一つ掻いていないメイドさんが、急に立ち止まると、道端に立っている電柱を指差して口を開く。
「報告。マスター、あそこに誰か居ます。まるで遊んで欲しそうに、マスターのことを見つめていますよ」
俺が頭の上に疑問符を浮かべながら、件の電柱に目を向けてみると、その裏から一人の少女がひっそりと顔を覗かせて、こちらの様子を窺っていた。恐らく、まだ十歳にも満たない子供だろう。
少女は白いワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。日焼けした肌は健康的な褐色で、黒い髪は膝裏に届くほど長く、あちこちが外側に跳ねている癖毛だ。頭頂部から生えているアホ毛と、キラキラしている金色の瞳が、妙に印象的──と言うか、既視感を覚える。
少女の手には虫取り網が握られており、肩から吊り下げるタイプの虫かごも装備しているので、夏休みを満喫している最中かもしれない。
「ええっと、こんにちは。この辺の子供だよな……? 俺たちに何か、用事でもあるのか?」
俺が声を掛けると、少女はこくりと小さく頷いてから、おずおずと喋り出す。
「う、うむ……。あの、その……こ、この場所を通りたければ、我との勝負に勝たないと、駄目なのだぞ……?」
「勝負……? 勝負って、つまり遊んで欲しいのか? 別にそこまで急いでいる訳じゃないから、少しくらいなら付き合っても良いけど」
流石に日が暮れるまで遊んでやることは出来ないが、一時間くらいなら問題ないだろう。そう思って俺が承諾すると、少女はパッと笑顔を咲かせて、電柱の裏から飛び出してきた。
そして、虫かごから一匹のセミを取り出し、俺に向かって突き出してくる。
「行くのだっ、セミざえもん! ミンミン攻撃!!」
田舎の畦道を歩いていたら、虫取り少女が勝負を仕掛けてきた。
少女が手掴みにしているセミざえもんは、ミーンミンミンと盛大に鳴いて、俺の鼓膜にダメージを与えてくる。……良く分からない勝負だが、これがこの辺りで流行っている遊びなのかもしれない。ただ、残念ながら俺はセミを持っていないので、勝負の土俵に立つことが出来なかった。
──ああいや、待てよ。俺にはこいつが居るな。
「行け、ルゥ。ワンワン攻撃だ」
俺の命令に従って、ルゥが少女の目の前に飛び出し、ワンワンと軽く吠える。
「ぬわぁっ!? あっ、あ──ッ!! わ、我のセミざえもんが!! 待ってたも! 待ってたもー!!」
ルゥに吠えられて驚いた少女は、尻餅をついてセミざえもんを手放してしまった。
自由を得たセミざえもんは、捕まっていた鬱憤を晴らすように、少女の顔におしっこを引っ掛けると、空の彼方へ向かって飛び去って行く。
「お、おい……。大丈夫か……?」
「うっ、うぅ……っ、うわあああああああああああん!! 我のセミざえもんが逃げたのだ!! しかもっ、我におしっこ引っ掛けて逃げたのだぁ!! うわああああああああああん!!」
「…………まさかこれ、俺が悪いのか?」
少女がギャンギャン泣き始めたので、俺は途方に暮れてしまった。メイドさんを見遣って助けを求めるも、こいつは我関せずの態度を貫くように、無表情かつ不動の姿勢を保っている。
子供の機嫌を取る方法なんて知らない俺が、ひたすら少女に謝っていると、少女はぐずりながらも、許す条件を提示してきた。
「ぐすん……。ともだち……。我と、友達になってくれたら、許すのだ……」
「友達……? そういうのは同年代の相手を探した方が、良いんじゃないのか?」
「この辺りに、子供は我しかいないのだ……! だから毎日っ、我は一人ぼっちで遊んでいるのだぞ……!?」
少子高齢化と若者の田舎離れが重なって、この少女は随分と可哀そうな境遇に置かれているらしい。
……まあ、そんな事情があるのなら、どれだけ遊んでやれるか分からないが、友達になってやろう。
「友達になるなら、まずは自己紹介からだな。俺は──……あれ? 俺は、誰だ……?」
「むっ、自分の名前が分からないなんて、変なお兄ちゃんなのだ!」
「あ、ああ……。確かに、変だよな……」
頭の中に霞が掛かっているような、奇妙な感じがする。自分の名前が思い出せないなんて、明らかに異常なことなのに、異常だと認識するための思考そのものが、徐々に輪郭を失っていく。
俺が自分の名前を思い出せないまま戸惑っていると、その様子を見ていた少女がくすくすと笑った。
「仕方ないから、我の名前だけ教えてあげるのだ! 我は──……あれ? 我は、誰なのだ……?」
「おい、人のこと笑えないだろ。お前の名前は『アルティ』だ。こんなこと、忘れるなよ」
そうだ、俺は忘れたりしない。大切な仲間の名前なんだから、それを忘れる訳がない。
色々なものが霞む頭の中で、仲間たちの名前だけが、確かな輪郭を保っている。
「むむむ……? いやっ、我の名前は……もっとこう、長くて、偉大で、最強で、格好良い名前だった気が……」
「それは気のせいだな。お前はただのアルティだ。それ以上でも、それ以下でもない」
……大切な仲間の名前なんだから、それを忘れる訳がない。
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