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三章
27話 悪夢 ④
しおりを挟む──小犬のルゥを拾ってから、数日が経過した。
この日は休日出勤だったが、珍しく夕方頃に仕事が片付いて、俺は時間と気力に余裕がある状態で帰路に就く。
今日こそは、ルゥの引き取り手を探そうと決心して、自分のアパートに到着すると、黒い羊の着ぐるみから顔だけを出している大家が、俺の部屋の前で待ち構えていた。
その足元には段ボール箱が置いてあって、そこからルゥとモモコが、しょんぼりしながら顔を覗かせている。
大家は俺の顔を見た途端、「ここはペット禁止ッ!!」と叫び、癇癪を起しながら口汚く俺を罵った。これに関しては俺が悪いので、平謝りするしかない。
しばらくして、次第に落ち着き始めた大家は、俺にアパートからの強制退去を命じる。部屋の中にあった家具は、全て回収業者に引き取らせたようだ。
俺はルゥとモモコが入っている段ボール箱を抱えて、小さなアパートから立ち去ろうとした。
そこで、大家が俺の背中に向かって、急に優しげな口調で声を掛けてくる。
「その犬と牛を捨てたら、アパートに戻って来ても良いよ」
それは大家の温情だったのかもしれないが、俺はどうしても、ルゥとモモコを捨てる気になれなかった。……と言うか、モモコは関係ないだろ。こいつはペットじゃなくて、ぬいぐるみだぞ。
とりあえず、行き場もないので近くの公園のベンチに座り、俺は肩の力を抜いて一息吐く。
ルゥは自責の念に駆られているのか、ずっとしょんぼりしたままだが、こいつは俺の言い付けを守って、今まで一度も吠えたことがなかったので、俺から責めるつもりは全くない。大家にルゥの存在が露見したのは、俺のスーツに犬の毛が付いていたとか、ペットフードを購入しているところを見られたとか、そんな理由だと思う。
俺はルゥの頭を軽く撫でながら──ふと、橙色の空を見上げた。夕陽は地平線の彼方に半分ほど沈んでおり、もう間もなく夜になってしまう。
さて、これからどうしたものかと、俺が途方に暮れていたところで、真横から突然声を掛けられた。
「報告。あちらの木陰に、怪我をした小鳥が落ちています」
俺が声のした方に目を向けると、何時ぞやのメイドさんが何食わぬ顔で、俺の隣に座っている。
「またお前かよ……。牛と犬の次は、鳥か……」
俺は溜息を吐きながら立ち上がり、メイドさんが指差す方へ向かって歩き出す。そして、木陰に落ちている小鳥を発見した。どうやら、翼に軽い怪我を負って、飛べなくなっているらしい。
俺はハンカチで小鳥を包み、そっと拾い上げた。怪我が治るまで、面倒を見てやろう。
「質問。今のマスターには、その小鳥を助ける余裕があるのでしょうか?」
「まあ、一羽の小鳥くらい、何とかなるかもしれない。……でも、これ以上は本当に無理だぞ。もう俺一人の生活じゃなくなったから、これ以上何かを助けて、皆で共倒れになるなんて御免だ」
モモコはぬいぐるみなので関係ないが、ルゥと小鳥の生活は俺に懸かっている。こいつらを拾ってしまった以上、この小さな命に対する責任があるので、俺は取捨選択を躊躇うつもりはない。
……家を失って、社会人としては何歩も後退したのに、出来ない理由ばかりを探していた少し前の自分よりは、人間性が進歩した気がする。
「発見。マスターは誰かを背負って生きていた方が、三割増しで格好良く見えます」
「三割ってまた、微妙な数値だな……。じゃあ、俺はもう行くから」
今からルゥの新しい飼い主を探すか、あるいはペットが飼えて、家賃が出来るだけ安い部屋を探す必要がある。今日中に見つからなければ、ペット専用のホテルなるものがあるみたいなので、そこにルゥと小鳥を預けないといけない。
それと、小鳥にだけ名前がないのも悪いので、今回も名前を付けておこう。特に深い理由はないが、『ピーナ』で良いか。
「報告。当機体が調べたところ、ペットが飼える空き部屋は近辺に存在しません。また、ペット専用のホテルには、沢山の黒い羊が居座っているので、満員となっております」
「おいおい、勘弁してくれよ……。いい加減、黒い羊にはウンザリだ……」
メイドさんは当たり前のように俺の後に付いて来て、頭が痛くなるような情報を齎してくれた。
このメイドさんが本当のことを言っているとは限らないし、調べが甘かったという可能性もあるが、俺はその情報を疑う気になれない。
先程から、道行く人の誰も彼もが、ペットと思しき黒い羊を散歩させているので、この街には──いや、この国には、空前絶後の黒い羊ブームが到来しているのだろう。この分なら、ペットが飼える部屋も、ペット専用のホテルも、埋まっていても何ら不思議ではない。
「提案。ここは一つ、思い切って田舎に移住しませんか?」
「いや、移住って……。家と仕事はどうするんだ?」
「回答。過疎化の一途を辿っているような田舎では、住居と仕事を役所が斡旋してくれます。丁度良さそうな移住先を見繕っておきましたので、後はマスターの決断次第です」
このメイドさんは一体何者なのか、どうして俺の人生に食い込もうとしてくるのか、その辺りの事情は一切不明だが、不思議と敵意や悪意があるようには思えなかった。
ルゥもメイドさんを警戒している様子はないし、信用しても良いのかもしれない。
「……まあ、田舎暮らしも悪くないかもな。他に良い案も思い浮かばないし、行ってみるか」
今の職場には後日、退職届を郵送しよう。仕事の引継ぎをしないまま辞めるなんて、社会人として無責任だという自覚はある。しかし、これも取捨選択の一つだ。ブラック企業や、そこで働いている同僚よりも、俺には大切なものがある。
今までの生活を一新するなんて、決して簡単ではないはず……。俺はそう思い込んでいたが、いざ行動を開始してみると、思いの他あっさりと事が進んだ。
まずはメイドさんが持って来てくれた、某所の村興し政策に関する資料。これに目を通して、記載されている事務所の電話番号に連絡を入れ、俺の現状や経歴を包み隠さず話した。
俺は日々を惰性で生きていた人間なので、大した経歴も資格もない。それでも、電話口の相手はこちらが恐縮してしまうくらい丁寧な対応で、今日明日にでも住居と仕事を用意出来ると言ってくれた。
「称賛。マスター、惰性で生きていたことを恥じる必要はないかと。後ろ暗いことに手を染めていなければ、生きているだけで百点満点ですよ」
メイドさんは淡々としながらも、どこか柔らかい口調で、慰めるような、あるいは励ますような、はたまた事実を述べただけのような、判別出来ない言葉を俺に掛けてくれた。
そして、俺は『生きているだけで百点満点』というフレーズを聞いた途端、この場に誰かが足りていないような、そんな違和感を覚える。
──この後、俺は道中のペットショップで購入したペット用のキャリーバッグに、ルゥとモモコを入れて、夜行列車に揺られながら、のんびりと田舎の過疎地へ向かった。
ピーナはスーツの胸ポケットに入っており、メイドさんは俺の隣に座っている。
家を失い、仕事を手放して、都落ちすることになった訳だが、不思議と気分は悪くない。
……もしかして、俺は今、幸せなのだろうか?
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