上 下
58 / 108
三章

27話 悪夢 ④

しおりを挟む
 
 ──小犬のルゥを拾ってから、数日が経過した。

 この日は休日出勤だったが、珍しく夕方頃に仕事が片付いて、俺は時間と気力に余裕がある状態で帰路に就く。

 今日こそは、ルゥの引き取り手を探そうと決心して、自分のアパートに到着すると、黒い羊の着ぐるみから顔だけを出している大家が、俺の部屋の前で待ち構えていた。

 その足元には段ボール箱が置いてあって、そこからルゥとモモコが、しょんぼりしながら顔を覗かせている。

 大家は俺の顔を見た途端、「ここはペット禁止ッ!!」と叫び、癇癪を起しながら口汚く俺を罵った。これに関しては俺が悪いので、平謝りするしかない。

 しばらくして、次第に落ち着き始めた大家は、俺にアパートからの強制退去を命じる。部屋の中にあった家具は、全て回収業者に引き取らせたようだ。

 俺はルゥとモモコが入っている段ボール箱を抱えて、小さなアパートから立ち去ろうとした。

 そこで、大家が俺の背中に向かって、急に優しげな口調で声を掛けてくる。

「その犬と牛を捨てたら、アパートに戻って来ても良いよ」

 それは大家の温情だったのかもしれないが、俺はどうしても、ルゥとモモコを捨てる気になれなかった。……と言うか、モモコは関係ないだろ。こいつはペットじゃなくて、ぬいぐるみだぞ。

 とりあえず、行き場もないので近くの公園のベンチに座り、俺は肩の力を抜いて一息吐く。

 ルゥは自責の念に駆られているのか、ずっとしょんぼりしたままだが、こいつは俺の言い付けを守って、今まで一度も吠えたことがなかったので、俺から責めるつもりは全くない。大家にルゥの存在が露見したのは、俺のスーツに犬の毛が付いていたとか、ペットフードを購入しているところを見られたとか、そんな理由だと思う。

 俺はルゥの頭を軽く撫でながら──ふと、橙色の空を見上げた。夕陽は地平線の彼方に半分ほど沈んでおり、もう間もなく夜になってしまう。

 さて、これからどうしたものかと、俺が途方に暮れていたところで、真横から突然声を掛けられた。

「報告。あちらの木陰に、怪我をした小鳥が落ちています」

 俺が声のした方に目を向けると、何時ぞやのメイドさんが何食わぬ顔で、俺の隣に座っている。

「またお前かよ……。牛と犬の次は、鳥か……」

 俺は溜息を吐きながら立ち上がり、メイドさんが指差す方へ向かって歩き出す。そして、木陰に落ちている小鳥を発見した。どうやら、翼に軽い怪我を負って、飛べなくなっているらしい。

 俺はハンカチで小鳥を包み、そっと拾い上げた。怪我が治るまで、面倒を見てやろう。

「質問。今のマスターには、その小鳥を助ける余裕があるのでしょうか?」

「まあ、一羽の小鳥くらい、何とかなるかもしれない。……でも、これ以上は本当に無理だぞ。もう俺一人の生活じゃなくなったから、これ以上何かを助けて、皆で共倒れになるなんて御免だ」

 モモコはぬいぐるみなので関係ないが、ルゥと小鳥の生活は俺に懸かっている。こいつらを拾ってしまった以上、この小さな命に対する責任があるので、俺は取捨選択を躊躇うつもりはない。

 ……家を失って、社会人としては何歩も後退したのに、出来ない理由ばかりを探していた少し前の自分よりは、人間性が進歩した気がする。

「発見。マスターは誰かを背負って生きていた方が、三割増しで格好良く見えます」

「三割ってまた、微妙な数値だな……。じゃあ、俺はもう行くから」

 今からルゥの新しい飼い主を探すか、あるいはペットが飼えて、家賃が出来るだけ安い部屋を探す必要がある。今日中に見つからなければ、ペット専用のホテルなるものがあるみたいなので、そこにルゥと小鳥を預けないといけない。

 それと、小鳥にだけ名前がないのも悪いので、今回も名前を付けておこう。特に深い理由はないが、『ピーナ』で良いか。

「報告。当機体が調べたところ、ペットが飼える空き部屋は近辺に存在しません。また、ペット専用のホテルには、沢山の黒い羊が居座っているので、満員となっております」

「おいおい、勘弁してくれよ……。いい加減、黒い羊にはウンザリだ……」

 メイドさんは当たり前のように俺の後に付いて来て、頭が痛くなるような情報を齎してくれた。

 このメイドさんが本当のことを言っているとは限らないし、調べが甘かったという可能性もあるが、俺はその情報を疑う気になれない。

 先程から、道行く人の誰も彼もが、ペットと思しき黒い羊を散歩させているので、この街には──いや、この国には、空前絶後の黒い羊ブームが到来しているのだろう。この分なら、ペットが飼える部屋も、ペット専用のホテルも、埋まっていても何ら不思議ではない。

「提案。ここは一つ、思い切って田舎に移住しませんか?」

「いや、移住って……。家と仕事はどうするんだ?」

「回答。過疎化の一途を辿っているような田舎では、住居と仕事を役所が斡旋してくれます。丁度良さそうな移住先を見繕っておきましたので、後はマスターの決断次第です」

 このメイドさんは一体何者なのか、どうして俺の人生に食い込もうとしてくるのか、その辺りの事情は一切不明だが、不思議と敵意や悪意があるようには思えなかった。

 ルゥもメイドさんを警戒している様子はないし、信用しても良いのかもしれない。

「……まあ、田舎暮らしも悪くないかもな。他に良い案も思い浮かばないし、行ってみるか」

 今の職場には後日、退職届を郵送しよう。仕事の引継ぎをしないまま辞めるなんて、社会人として無責任だという自覚はある。しかし、これも取捨選択の一つだ。ブラック企業や、そこで働いている同僚よりも、俺には大切なものがある。

 今までの生活を一新するなんて、決して簡単ではないはず……。俺はそう思い込んでいたが、いざ行動を開始してみると、思いの他あっさりと事が進んだ。

 まずはメイドさんが持って来てくれた、某所の村興し政策に関する資料。これに目を通して、記載されている事務所の電話番号に連絡を入れ、俺の現状や経歴を包み隠さず話した。

 俺は日々を惰性で生きていた人間なので、大した経歴も資格もない。それでも、電話口の相手はこちらが恐縮してしまうくらい丁寧な対応で、今日明日にでも住居と仕事を用意出来ると言ってくれた。

「称賛。マスター、惰性で生きていたことを恥じる必要はないかと。後ろ暗いことに手を染めていなければ、生きているだけで百点満点ですよ」

 メイドさんは淡々としながらも、どこか柔らかい口調で、慰めるような、あるいは励ますような、はたまた事実を述べただけのような、判別出来ない言葉を俺に掛けてくれた。

 そして、俺は『生きているだけで百点満点』というフレーズを聞いた途端、この場に誰かが足りていないような、そんな違和感を覚える。

 ──この後、俺は道中のペットショップで購入したペット用のキャリーバッグに、ルゥとモモコを入れて、夜行列車に揺られながら、のんびりと田舎の過疎地へ向かった。

 ピーナはスーツの胸ポケットに入っており、メイドさんは俺の隣に座っている。

 家を失い、仕事を手放して、都落ちすることになった訳だが、不思議と気分は悪くない。

 ……もしかして、俺は今、幸せなのだろうか?
 
しおりを挟む
感想 120

あなたにおすすめの小説

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

転生令嬢は現状を語る。

みなせ
ファンタジー
目が覚めたら悪役令嬢でした。 よくある話だけど、 私の話を聞いてほしい。

積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!

ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。 悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

佐藤醤油
ファンタジー
 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

(完結)もふもふと幼女の異世界まったり旅

あかる
ファンタジー
死ぬ予定ではなかったのに、死神さんにうっかり魂を狩られてしまった!しかも証拠隠滅の為に捨てられて…捨てる神あれば拾う神あり? 異世界に飛ばされた魂を拾ってもらい、便利なスキルも貰えました! 完結しました。ところで、何位だったのでしょう?途中覗いた時は150~160位くらいでした。応援、ありがとうございました。そのうち新しい物も出す予定です。その時はよろしくお願いします。

黒の創造召喚師

幾威空
ファンタジー
※2021/04/12 お気に入り登録数5,000を達成しました!ありがとうございます! ※2021/02/28 続編の連載を開始しました。 ■あらすじ■ 佐伯継那(さえき つぐな)16歳。彼は偶然とも奇跡的ともいえる確率と原因により死亡してしまう。しかも、神様の「手違い」によって。 そんな継那は神様から転生の権利を得、地球とは異なる異世界で第二の人生を歩む。神様からの「お詫び」にもらった(というよりぶんどった)「創造召喚魔法」というオリジナルでユニーク過ぎる魔法を引っ提げて。

転生幼女の怠惰なため息

(◉ɷ◉ )〈ぬこ〉
ファンタジー
ひとり残業中のアラフォー、清水 紗代(しみず さよ)。異世界の神のゴタゴタに巻き込まれ、アッという間に死亡…( ºωº )チーン… 紗世を幼い頃から見守ってきた座敷わらしズがガチギレ⁉💢 座敷わらしズが異世界の神を脅し…ε=o(´ロ`||)ゴホゴホッ説得して異世界での幼女生活スタートっ!! もう何番煎じかわからない異世界幼女転生のご都合主義なお話です。 全くの初心者となりますので、よろしくお願いします。 作者は極度のとうふメンタルとなっております…

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。