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三章

26話 悪夢 ③

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 ──この国では年間、凡そ四千匹の捨て犬が殺処分されており、ペットショップで売れ残った犬の大半は適当な業者に引き取られ、満足に餌も与えられず、衰弱死を待つ運命にある。

 俺は人並みに、そして無責任に、それを可哀そうだと思っているが、どうにかするために行動を起こしたことは一度もない。そもそも、人間は食文化の維持と発展のために、牛、豚、鶏などの家畜を毎年大量に屠殺しているのだ。

 食用の家畜が屠殺されるのは、『人間が生きるために仕方のないこと』と割り切って、俺はその肉をスーパーで購入している。そんな俺が、『愛玩動物が死ぬのは可哀そう』なんて理由で、どうにかするために行動を起こすのは……何だか、釈然としない。

 食用の家畜を死なせるのは、人間の生命維持に必要なことだから仕方がない。

 愛玩動物を死なせるのは、人間の生命維持とは関係ないことだから間違っている。

 そういう割り切り方で納得出来る人もいるのだろうが、人間の都合で死を望まれた生物にとって、その死は等しく同じ『死』だと、俺はそう考えてしまう。……だから、食用の家畜を見捨てて、愛玩動物を助けるという行為は、どうしようもなく不公平で、残酷で、偽善に満ちた行為だと、そう思った。

「肯定。マスターが御考えの通り、人間の都合で死を望まれた生物にとって、その死は等しく同じ『死』だと言えるでしょう。……ですが、それと同じように、例え不公平で、残酷で、偽善に満ちた行為だとしても、救われた生物にとって、その救いは等しく同じ『救い』ですよ」

 捨てられている小犬を放置して、俺が路地から立ち去ろうとしたところで、メイドさんに至極当然の指摘を受けた。俺を責めるような口調ではないが、俺自身が罪悪感に苛まれているので、責められているように感じてしまう。

「…………まあ、そうだな。分かってるよ」

 偽善でも何でも良い。牛も豚も鶏も犬も助けない人間よりは、牛と豚と鶏は見捨てるけど、犬だけは助けるという人間の方が、遥かに上等だ。

 それくらい、誰かに言われなくても、心底理解している。

 俺はただ、小犬を助けない理由を幾つも並べて、偽善だ何だと文句を付けて、自分に圧し掛かる罪の意識を少しでも軽くしたいだけだった。

「質問。もしもマスターが、全知全能の神様であれば、今この瞬間、あの狼を助けてあげますか?」

「なんだ、その馬鹿みたいな質問……。そんなの、助けるに決まっているだろ。簡単に助けられるなら、助けない理由がない」

 街頭アンケートでメイドさんの今の質問を百人にすれば、九十九人は俺と同じ答えを返すだろう。だが、こんな質問は無意味だ。俺たちは、全知全能の神様にはなれない。

「自分が全知全能であれば、と仮定して物事を考えた時に、人の本質は見えてくるものです。『助けたい』──。それが、マスターの本質なのでしょう。……自らの本質に背いて生きるのは、辛くありませんか?」

「……お前、さっきから何が言いたいんだ? 辛くても何でも、こんなの仕方ないだろ……!? 小犬を助けるための、金も時間も気力も家も、俺は持ってないんだよ……!!」

 メイドさんの言葉に神経を逆撫でされて、俺の頭に血が上ってくる。

 雨風が頭の芯を冷やしてくれるが、苛立ちは油汚れのように、こびり付いたままだ。

「マスター。自分を見失わないでください」

 俺は自分を見失ったりしていない。俺は地に足を付けて生きている。

 毎日のように、等身大のちっぽけな自分を見つめながら、出来ることと出来ないことを取捨選択して──……選択、して……? 

 ああ、違う……。取捨選択なんて、していない。あれも出来ない、これも出来ないと、出来ない理由を探すことばかりが続いているんだ……。一体、いつからこうなった?

 何も出来ない人間は、何者でもない。だって、そんな人間、居ないのと同じだろう。

 今この瞬間、この世界から俺が消えても、誰も気に留めない。そう思うと、酷くゾッとした。

「なぁ、『自分』って、何なんだよ……?」

 どうやら自分を見失っているらしい俺が、答えを求めて後ろを振り向くと、メイドさんの姿が消えていた。

 路地には小犬とモモコが取り残されており、二匹は──いや、一匹と一個は、傘を差した段ボールの中から、寂しげに俺を見つめている。

 俺は、お前たちを見捨てるんだから、幾らでも責めてくれて構わない。

 それなのに、その目はただ、寂しそうなだけだった。






 ──俺は息を殺しながら、物音を立てないように、アパートの自室に帰って来た。

 それから、小犬を抱えて狭い風呂場に向かう。

「おい、犬。絶対に吠えるなよ? お前が吠えたら、俺たちはアパートから追い出されるんだからな」

 犬を飼うのはお金が掛かる。ネットで調べてみたところ、餌と予防接種の代金は相当な負担だった。

 多分、そのうち面倒を見切れなくなるだろう。それが分かっているのに拾ってくるなんて、無責任なことだと世間様に責められそうだ。ペット禁止のアパートに犬を連れ込んでいるのも、社会的に見て悪でしかない。

 ……そんなこと、理解している。けど、それなら見て見ぬ振りをするのが正解だったのか? あるいは、殺処分されると分かっていながらも、保健所に連絡するのが正解だったのだろうか?

 ……分からない。一体どうするのが正解だったのか──いや、もしかしたら、俺は間違いしか存在しない問題と遭遇してしまったのかもしれない。

「だとしたら、あのメイドさんは厄病神か……。まあ、とりあえず、犬を引き取ってくれる人を探してみるしかないな」

 小犬の新しい飼い主を探すための時間、それを確保するのも一苦労だった。今の職場には、休日出勤なんて当たり前のようにある。

 幸いにも、この小犬は大人しくて全然吠えないので、アパートで飼っていることがすぐに露見したりはしないはず……。多少の猶予はあると思おう。

 風呂に入れ終わった後、小奇麗になった小犬を六畳一間の居室に放すと、こいつは許可なく俺のベッドの上に飛び乗って、小さく身体を丸めた。もう段ボール箱の中ではないのに、段ボール箱の中で寝ることが身体に沁みついているような姿なので、少しだけ悲しくなる。

 俺は小犬と一緒に回収したモモコも、何となくベッドの上に乗せておいた。小犬の隣がモモコの定位置だ。

「ぬいぐるみに名前があって、犬に名前がないのは悪いよな……。引き取ってくれる人が見つかったら、改名されるかもしれないけど、適当に決めておくか……」

 毛が銀色だから『ギン』、瞳が碧色だから『アオ』、犬っぽい定番の名前で『ポチ』というのも分かり易いが……どれも何故だか、しっくりこない。小犬は俺をジッと見つめており、俺もジッと小犬を見つめ返す。

 ──ふと、俺の脳裏に、一つの名前が思い浮かぶ。

「ルゥルゥ……。よし、お前の名前は『ルゥルゥ』にしよう。愛称はルゥだな」

 ルゥはその名前が気に入ったのか、嬉しげに尻尾をブンブン振っている。飼い続けることは出来ないのに、その様子を見ていると、愛着が湧いてしまいそうだった。
 
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