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短編 祐樹の中秋節

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1996年9月 深セン


 特設売り場には金と赤の箱が山と積まれていた。

 毎年この時期になると売り場が拡大され、20個入り、30個入りといった立派な化粧箱入りの大ぶりの月餅がずらりと並ぶ。

 中身はどれも大差ないように見えるが、小豆餡はもちろんのこと、アヒルの卵黄入りやクルミ餡、クコの実餡などそれなりに豪華で違いがあるらしい。

 何十種類と並んだ月餅の箱を横目に、祐樹は奥の食料品売り場を目指した。中国駐在も3年目になり、もうすっかり買い物にも生活にも慣れている。

 特に深センは食糧事情がよく、買い物には不自由しない。研修時代に住んだ北京よりもよほど楽に生活できているだろう。

 買い物を済ませて、また月餅売り場を通り抜けながら何も考えるまいと意識を閉じる。

 そんなことを考えている時点で、もう思い出してしまっているというのに。

 祐樹にとって一生忘れられない、人生でもっとも苦くてあまい夜のことを。


 まもなく中秋節がやってくる。
 大好きだった人に抱かれて過ごした、夢のような満月の一夜。

 あれから、もうすぐ3年が経つ。
 孝弘は今年、だれとどんな中秋節を過ごすだろう。

 まだ北京に留学中だろうか。
 それとももう留学を終えて、仕事をしているんだろうか。

 仕事をしているなら、この広い中国のどこかで会うことがあるかもしれない。取引先の通訳として、あるいはどこかの企業の社員として…。

 そんな可能性を夢想しては自嘲とともに思考を散らす。

 わかっている。本気になれば孝弘の動向を調べようと思えばできることくらい。

 それをしないのは祐樹が臆病だからだ。
 あんなひどい振り方をして、孝弘はきっと祐樹のことなど見限ったに違いない。

 3年前、中秋節の翌朝に置き去りにしてきた、たった一夜の恋人。

 祐樹が好きだと真っ直ぐな目で告げてきた、あの思いに応えていたら今ごろどうなっていただろう。

 そんなことを、もう何度も考えた。

 北京と広州あるいは深センで遠距離恋愛を続けていられただろうか。

 飛行機でしか会えないくらいの遠距離恋愛。

 そんな目立つ行動を取って、もし世間からゲイだと孝弘が後ろ指を指されるようなことになれば、祐樹は後悔してもしきれなかった。

 だから、あそこで孝弘を突き放したのは正しかったのだ。

 何度思い返しても、いつもそこに答えは落ち着く。

 じぶんの本当の気持ちなど、かけらも告げなかったのは正しかったのだ。まだ10代の学生の孝弘に、道を踏み外させなくて本当によかった。

 心からそう思っている。
 それでも、毎年この時期には心が揺れる。

 忘れてしまいたいのに、…いや違う、忘れたくはない。

 ただ心の奥底に大事に大事にしまっておきたいだけなのに、中秋節は中国では春節(旧正月)と並ぶ伝統行事で、毎年盛大に祝うため色々な行事が行われる。

 その度に、孝弘との夢のような一夜を思い出す。

 戸惑いがちに、でも熱心に祐樹に触れてきた熱い手。睦言をささやいた唇、絡め取られた腕の力強さ、どくどくと早鐘を打っていた心臓の音まで、なにもかも覚えている。

 追憶の満月の夜。

 ベッドに座って、缶ビールを片手に窓から見えるほんのすこし満ち足りない月を眺めた。

 孝弘はビールが好きだった。
 同じ月をこうして彼も見ているだろうか?
 
 もしかしたら、3年前の夜を思い出したりするだろうか? 

 あるいはだれかと親密な夜を過ごしているかもしれない。
 
 ……バカなことを考えている。

 彼はもう過去の人だ。
 きっともう会うことはない人。

 胸の痛みを感じながら、祐樹はひとり切なく目を閉じた。
 
 

 完
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