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第一部 子育て同棲編

春太として。

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「うう、寒い」
 四月になっても寒さはまだ健在だ。
 春太は首にマフラーを巻くと、玄関の扉を施錠して頭を下げた。
「ありがとうございました。行ってきます」
 そして駅に向かう。
 春太は今日この家を出る。家政婦の契約は三月いっぱいで終えた。
 右京に水族館に行ったあと、家を出たいことを直ぐに相談したのだ。ルーク達には自分で話すから黙っていて欲しいとも。
 結局、直接さようならは言えなかったけれど、二人には手紙を残した。
 ルークとテディと夏帆が家族に戻り、春太がもっと人間として成長できたとき、いつか再会できたらと思う。
 でもその反面、無理かもなとも思った。
 ルークへの思いが風化しても、貰った言葉も思い出も、きっといつまでも特別だから。
 まだ外は暗く冷たい風が駅のホームを駆け抜けてく。それでも、都心の駅には人が多くて、春太と同じように始発を、身をすくめて待っていた。
 始発の時間が近づくにつれて人も多くなる。ベンチから立ちあがると列の最後尾に並んだ。
 考えないようにしてもこの数ヶ月を思い返してしまい、どうしようもなく切ない。昨夜の熱さえも悲しみで冷たくなっていく。
 ルークとテディの顔が脳裏に浮かぶ。
 つんと鼻の奥が痺れた。涙が零れそうになり瞬くと、遠くから春太を呼ぶルークの声が聞こえたような気がした。
 はっとして顔を上げても、周囲には春太のことなど見もしない他人ばかりだ。

「勘違いか」

 そりゃあそうだ。ルークが春太を名前で呼んだことなど一度もない。望みすぎて幻聴を聴く自分が哀れだった。
 そのとき、電車のアナウンスが響く。散らばっていた人達が列に並びだすと、目の前を電車が通り過ぎていく。速度が落ちていきやがて停止すると、ぷしゅーと音を立て扉が開いた。
 ぞろぞろと前が進み、春太もその波に乗り足を踏み出そうとした時。

「春太ッ」

 背後から腕を取られて息をのんだ。

「どうして……」

 呆然と呟く春太の先にルークが立っていた。
 少しだけ跳ねている髪の毛や寝巻き姿は、起きたばかりだと伺える。
 ルークは列から動きを止めた春太の細い体を引っ張った。

「お前は、本当にっ!」
「あいたっ」

 ルークが顔を歪めると怒りの鉄拳が落ちた。頭を抑えて呻くと、今度はいきなり抱きしめられる。
 何が起きているのか分からない春太はされるがままだ。

「なぜ勝手に出ていった」
「ごめんなさい。……でも」
「私は出ていくことを許可した覚えはないッ」
「……うん」

 ルークの言葉に頷く。けれど春太は諦めて、首を左右に振った。

「ごめん。でも、もう無理なんだ……。俺、ルークの事、好きになっちゃったから」

 視界がぼやけて涙が溢れる。俯くとぽたり、ぽたりと涙が靴の上に落ちる。
 待ち受けているであろう、軽蔑したような冷たい眼差しが怖くて、顔を上げることができない。
 けれど、ルークが零した「そんなことは知っている」と言う台詞に、春太は弾かれたように顔を上げた。

「へ?!」
「私はお前のように馬鹿じゃないんだ。意識している事は知っていた」
「じゃ、じゃあなんで、え……?」

 いつから知っていたのか。だったら何故、餌でしかない春太のことを抱いてくれたのか。
 言いたい事は沢山あるのに、言葉が詰まって出てこない。血の気が引いて額は青いのに羞恥で頬が赤くなる。
 ルークは春太の肩を掴むと顔を覗き込み嘆息した。

「ここまで言って分からないのか」
「な、なに、っどえ」

 変な奇声をあげた春太は、目の前に迫る真剣な顔に言葉を飲み込む。
 春太が震える唇を閉ざすと、ルークはゆるりと瞬き、その瞳に春太を映した。

「お前が好きだ」
「──ッ」
「私も春太が好きなんだ」

 ルークはゆっくりと、言葉を噛み締めるように告白した。
 全ての景色がモノクロになり時を止める。
 春太の目にはルークだけが色づいて見えた。

「……っうそ」
「……この私が嘘でこんな事を言うと思うか」
「でも、じゃあ……夏帆さんは……?」

 刹那、ルークの顔が不機嫌そうに歪んだ。

「あいつとは既に終わっている。あちらも復縁など望んでいない」
「そんな、だって」

 なおも言い募る春太にルークは呆れた。そして、夏帆の口から復縁を望むと聞いたのかと問われ、考えてみるが明確に「復縁」とは聞いていないと項垂れる。
 でも、夏帆は二人を知るために頑張ると言っていた。それに、テディだって母親である夏帆といる方が幸せだろう。
 春太が言うと、ルークは目を眇めた。

「テディや私の気持ちはお前が決めることか?」
「ちがう、けど」
「テディは今泣いている。お前を探すと言ったら、自分も行くと初めて駄々をこねた。……テディはこれからもお前と一緒にだと信じていたのに、自分が悪い子だから捨てられたと思っている」
「そんな」

 テディの悲痛な泣き顔が浮かび、ぶるりと全身が震え上がった。

「それにお前が心配していることは全て杞憂にすぎない。あいつには私と住むことは苦痛でしかない言われているからな。頑張ると言ったのは、逃げてしまった過ちを受け入れることを言っているのだろう?」
「……っ」
「一人で答えを出すのはいいが、勝手に消えようとしたことは許さない」

 ボロボロと大粒の涙がこぼれた。ついには嗚咽をもらして肩を震わせる。大の大人が公共の場で大声を上げて泣いていることに、ルークは狼狽えて春太の肩を撫でた。

「な、泣くな……。泣かれるとどうしたらいいか分からないだろ」
「ごめんなさいッ、おれ、二人の邪魔したくなかったから、だから……っ」
「分かったから、泣くな! 私も……悪いと思っている」
「なんで? ルークはなにも、わるくないじゃん……っ、俺のせいでテディが……ッ。うぅっ」

 感情の回路が壊れてしまったかのように涙が止まらない。わんわんと子供のように泣いていると、顔を包まれて唇を塞がれた。
 驚きで目を見開くと、悲しそうな顔をしたルークがぼやけて映る。

「言葉にせずとも伝わると思っていた。だが、そのせいでお前をまた傷つけていたのだな」

 ルークは顔を離すと、懺悔するように呟く。

「私には春太が必要だ。……初めは顔色を伺ってばかりでつまらない男だと思った。だが、テディが関わると馬鹿みたいに噛み付いてくるところや、他人の為に一々怒るところが面白いと思った」
「そんなふうに、思ってたの?」
「そうだ。初めて靴を投げつけられた時は腹が立ったが……。お前の言葉はいつも真っ直ぐだった」

 ルークの目が柔らかく細まる。

「怯えながらも紡がれたお前の言葉が好きだ」

 濡れた眦を撫ぜながらルークは笑んだ。

「そしたらいつの間にか、お前自身を好きになっていた」

 言葉を失う春太を慰めながら、ルークは「自分がこんなにも単純な性格だとは思わなかった」と呆れていた。
 ルークにとって単純な事が春太にとっては奇跡だ。
 なのに弱虫な春太は物珍しさを恋と勘違いしたのではないかと思ってしまう。それを聞いたルークは今度こそ眦を鋭く釣り上げて怒った。

「いい加減にしろ。私にあれこれと言ってくる人間はお前だけじゃない。……例え同じ言葉を言われても、相手がお前でないのなら意味を持たない」
「……ごめ、なさい」
「まあいい。信じられないのも無理はない。これまでの私の態度が原因だ。……一生をかけて春太が好きだと証明してやる。だから、私とテディと共に暮らせ」
「っふふ。なんでそこで、偉そうなんだよ」

 ふんぞり返ったルークの眦がほんの少し赤く染まっていた。
 春太はまだ溢れそうになる涙を拭うと、しっかりとルークを見上げる。

「俺、こんなだけどいい?」
「お前がいいんだ」
「あとから要らないって言わない?」
「私は嘘はつかない。だから──」

 ルークはそこで言葉を切ると、春太の頬を撫でて言った。

「私たちの家族になってくれ」








 駅から家に向かう帰り道。
 春太とルークは手を繋いで歩いていた。部屋着姿のルークの首には、春太のグレーのマフラーが巻かれている。

「……言い忘れたことがある」
「なに?」

 腫れてしまった瞳で見上げると、ルークもこちら見下ろした。

「あの部屋が何も無い寂しい部屋なら、お前の好きなようにしたらいい」
「えっ」
「これまで言わなかったが、お前が独り言だと思って零していた小言や文句は全て聞こえていたからな」
「嘘!」
「本当だ。吸血鬼は耳もいいからな」
「なんでもっと早く言わないんだよぉ」
「ふっ」

 鼻で笑うルークを春太は睨みつけた。
 これまで零してきた様々な独り言が筒抜けだったと知り逃げたくなる。覚えてる限りでも、何度かルークをボロクソに詰ったこともあるのだ。
 でも、それでも、ルークは春太を好きになってくれた。

「春太」
「なに?」
「……悪くない。春太という響が気に入った」
「なんだよそれ」

 ルークは大切な宝物を愛でるように、春太の名前を何度も呼んだ。



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