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三章

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 一週間が過ぎ、二週間が過ぎる。もうそろそろ春が終わろうとしていた。
 時間が経つにつれて、宰相の言葉が自分の中で大きく膨らんでいく。あの日、アダムは過去の記憶を思い出し、宰相も自分のことを批難していると咄嗟に思ってしまった。だが、もしもサミーの言うように、落ち込んでいたのなら。
 そう考えると、手紙を送ってくれた繊細な心の持ち主は、違う思いで問いかけたのかもしれない。
 一度引っかかった何かはいつまでもアダムの胸をモヤモヤと掻き乱す。
 そんなふうに、なんとなく仕事に身が入っていなかったアダムは、この日初めてミスをしてしまった。

「おい! 数が違ぇぞ!」

 大きな罵声が調理場に響く。すぐ近くの頭上から浴びたアダムは身を竦ませた。だが、怯まずに頭を下げる。

「すみませんっ」
「ったく。こんな簡単なことも出来ねぇのかよ。使えねー補佐だな」

 呆れたように言われて、心臓がぎゅっと締め付けられる。
 アダムが補佐としてつく料理人の言葉は正しかった。大切な食材を三ケースも少なく、間違えて購入してしまったのだから。

「ぼんやりするのは結構だがよ、仕事に身が入らねぇのは話になんねーだろうが」
「本当に、申し訳ありませんっ!」
「……はあ。たくめんどくせぇ」

 料理人は食材を見比べると、厨房に居る他の料理人たちにメニューの変更を伝える。あちこちから上がる呆れたようなため息、迷惑そうな視線に、頭を下げてただただ黙する。
 いたたまれなさよりも、恥ずかしくて仕方なかった。真剣に仕事に取り組んでいると啖呵を切ったわりに、こんなミスをするなんて滑稽じゃないか。
 アダムは意識を切り替えると、もう一度頭を下げて出来る仕事は全て請け負った。
 仕事中に別のことを考えるのはよそうと、自分の心に強く注意する。
 なのに、アダムはそのまた数日後にも、同じようなミスをしてしまった。
 高級品と言われる南国の果物の数が、一つ合わなかったのだ。
 食材を仕入れる担当は、アダムとまだ年齢的に幼いベータの数人だけ。そして、今日の果物担当はアダムだった。
 何度も確認したのに、間違えることなんてあるだろうか?
 違和感を抱きつつも、怒声に身を震わせ謝罪する。連続に起こったミスに、周囲の視線は再び冷々としていた。
 ようやく宰相の噂が途切れて、日常を取り戻していたのに。今度ばかりは自分の責任で起きたことだ。言い訳は何一つ許されない。
 緊張する日々が続くと、ストレスのせいで体調も優れなかった。
 下腹部にはしる真横に引き裂いたかのような傷跡が、ズキズキと痛みを訴える。アダムはサミーの視線から外れると、痛みを堪えるために蹲った。
 じわじわと脂汗が浮き上がるほど痛みは激しくなっていく。腹に残る傷痕に触れると歪な肌の感触が、服の上からでも分かった。
 医療の知識もない者が無理矢理に縫いつけたそこは、肌が硬くなり引き攣れている。
 アダムはよろよろと立ち上がると、棚の中からあのからくり箱を取り出す。痛みを緩和してくれる万能薬を数えて肩を落とした。
 そういえば宰相の体を癒すために一粒使ってしまったのだ。アダムの体は抑制剤を受け付けない。
 父親から教わったこの丸薬が、アダムにとっての抑制剤だった。そして、この痛みを和らげてくれる救いでもあった。
 だが、箱に並ぶ丸薬を見比べて飲むのを躊躇う。もうそろそろ発情期がやってくるのだ。その時に服用する分を考えると、今飲んでしまうのは心許ない。
 丸薬の元になる薬草は帝国内に自生していないため、購入するにはそれなりにお金がかかる。

「おかあーしゃん? お鍋グツグツしてるよー」
「っ、うん。わかった。いま行く」

 声が震えないように。サミーに異変を気づかれないように。
 アダムは痛みを訴える腹に力を入れると、震える足を動かした。そして笑顔を浮かべて、にこにこと笑う息子の頭を撫でる。
 その日の夕食を終えたアダムは、どうにかサミーを寝かしつけたあと、一階のソファで身を横たえていた。
 これから魔の森に行かなくてはならない。
 最低でも二日に一度は必ず魔獣たちに会いに行かなくてはならないのだ。鉛のように重たい体は、発情期がくる初期症状だ。
 引き摺るように家を出て魔の森へと向かう途中。
 強い風がアダムの身を襲った。そして次の瞬間に噎せ返るような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
 ぎゅっと瞑っていた瞼を緩慢に持ち上げたアダムは、目前に立つ人に驚愕した。

「っ、誰ですか」

 深紅のローブが夜闇に浮いて見えた。苛烈なほど色鮮やかに存在しているその人は、目深くかぶったフードから覗く唇をにいっと釣り上げた。
 とても酷薄でゾッとするような笑み。

「へえ。そう。本当にあんたが彼奴の運命なんだ」
「……あいつ?」

 中性的な声だ。少女のような、少年のような。ローブを身にまとっていて詳しくは分からないが、背丈はアダムより頭一つ小さい。
 そんな幼げな印象を与える人物から告げられた台詞に宰相の顔が浮かんだ。
 運命だなんて信じていないけど、何度も言われた同じ台詞に反応してしまう。
 じりじりと警戒をして後退するアダムを見て、ローブの人物は、ケラケラと笑った。

「別になんもしないよ。僕はね。ただ確かめに来ただけだから」
「確かめにって私を?」
「うん、そう。でも顔も見たしもう帰るけどね」

 そう言うなり、ローブがふわりと空中に浮かんだ。いや、ローブではなくて、ローブを身につけたその人物の体がだ。
 驚きに目を見開くと、風に揺れてフードの隙間から銀色の瞳が覗いた。その刹那、再びあの強風が身を襲った。
 砂埃が舞い上がり強く目を閉じて開いた後には、忽然と姿を消した後だった。

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