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一章

01

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──このままでは無理だ。

 押し寄せてくる明日への不安。首を締め付ける将来への恐怖。
 どんなに描こうとも、幾度となく書き直しても、真っ暗な闇は晴れてはくれない。

 アダムは腕の中で泣き疲れて眠る我が子を見下ろした。
 そしてこの時、迷いは捨てると決意する。

 このままではいずれ破滅するのは目に見えている。
 ささやかな願いである、親子二人で幸せになるという夢さえ手にするのは難しい。
 どんなに世界が差別をなくすべきだと声をあげようとも、アダムたちを救ってはくれないのだ。
 アルファを尊み、ベータやオメガを道具と思うこの国では叶うことのない願いだから。

 いずれ彼らは、オメガのアダムからアルファの息子を奪うだろう。
 その時まで、追われる身の自分が生きている保証はないが──。

「愛しいサミー。大丈夫だよ、俺が絶対にお前を守るから」

 柔らかな頬に鼻を埋めて、アダムとお揃いの狐耳に口付ける。そうしてアダムは、サミーの小さな体を紐でしっかりと自分の体に括り付けた。
 恐れを取り払うように深く呼吸を繰り返す。
 閉ざされた瞼が次に開かれるときには、そこには力強い光を宿す薄紫の瞳が輝いた。
 毅然と前を向く一人の親。アダムは踏み出した一歩に誓いを立て前を向く。

 目指すは平和を謳う国──ハルデン帝国。

 バース性による差別のない国をめざして、アダムは進むことを決意した。




 †




 一年後。

「じゃあ、またくるよ」

 鬱蒼とした森の中心部にて、ふわふわの尻尾を揺らし、アダムを見送る友に手を振った。
 ここは、ハルデン帝国の王城を守護する魔の森である。現在アダムは宮廷料理人の補佐として働いていた。
 アダムが住むのは立派な王城の後ろを囲うように存在する、魔の森と隣接した古めかしい一軒家。
 本来であれば、下働きはそれぞれ城内に管理された居住区で生活するものだ。
 アダムも当然その予定ではあった。だが、とある事情により変更せざるを得なかったのだ。
 希少な「慰撫の手」をもつアダムは、今日も魔獣たちと戯れ、好きなだけモフり倒すと自宅に戻る。
 そんなアダムの後ろをついてくる影がひとつ。
 ふさふさの黒毛の塊は、立派な体躯をした狼の魔獣だ。
 アダムは振り返ると苦笑を浮かべ、「仕方ない子だなぁ」と呟いた。

「今日は肉の蒸し焼きだよ。魔の森でしかとれない、特別な果物のソースをかけてある。俺とサミーの大好物なんだ」

 部屋に狼を招き入れると、アダムは人に話すかのように説明した。
 すると、お座りをした狼はふわふわの尻尾を上品に揺らす。まるで「よろしい」とでも言うかのようだ。

「全く。お前はどうしてそんなに偉そうなんだ?」

 愛くるしい黒の鼻からふんっ、と息が吹き出た。思ったよりも風量がすごくて、アダムの白金の前髪が吹き上がる。
 くすぐったくて、笑みがこぼれた。
 ああ、なんて幸せな時間だろうか。
 飢えに怯えることもなければ、明日を考え引き攣るような痛みを感じることもない。
 アダムの緩んだ瞳は狼から背後へと移る。
 視線の先に居るのは、一人息子のサミュエルだ。愛称はサミー。今年で四歳になるやんちゃ坊主である。
 近頃なんでも一人でやりたがる息子は、キッチンからよたよたと狼の夕飯を持ってくる途中だ。

「うんしょっ、よいしょっ。どっこいしょー!」

 まだ少し危なっかしさはあれど、ずいぶんと逞しく成長したものだ。
 サミーが無事に狼の目の前に夕飯を運び終えた。そして、満足そうにこちらを振り返りその場にしゃがみこむ。
 小さな膝に顎を乗せるとニコニコと笑い狼を撫でた。
 サミーの豊かな金色の尾が揺れる。ふっさ、ふっさ、と嬉しそうに舞っていた。

「おかあしゃん。狼、にこにこだねぇ」
「そうだな」

 アダムは微笑み返して頭を撫でた。すると、興奮を表すかのように、サミーの三角耳がぴるるっと震える。お揃いの狐耳を一緒に揺らして、二人の親子は微笑みあった。
 アダムとサミーは狐の獣人だ。
 この大陸には他にも色んな種族が住んでいる。
 アダムたちと同じ獣人や、美しい翼をもつ鳥人、水の中で生きる海獣人。そして魔女と呼ばれる何の特徴も持たない人間。
 数多の種族が共存しているが、彼らには共通する特徴があった。
 それが、性別とは異なる性──バース性だ。
 バース性にはアルファ・ベータ・オメガの三性がある。アルファから順に能力は劣ると言われていた。
 少数しか存在しないアルファは、支配階級に多く、豊満な魔力を持っていた。どの国でもアルファはとても大事にされる。
 次に中間層のベータは殆どの者が該当し平民に多い。生活するのに困らない程度の魔力を持ち、全てにおいて平均的だ。
 アルファのように特別に秀でているわけではない。だがベータの中には努力で、アルファと並び活躍する者もいた。
 そして最後。アダムの性であるオメガは、三性の中で最下層だ。魔力も生命活動を脅かさない程度にしかない。
 だから、生活をするためには魔石が必要不可欠で、不便なことが多かった。
 最も、オメガはアルファより数が少ない。そのうえ特別美しい容姿をしていた。それだけでも、嫌な目で見られて、差別を受けてきた。だが、最たる理由は他にある。
 オメガには三ヶ月に一度、ヒートと呼ばれる発情期が訪れるのだ。
 一週間ほど続くヒート中は、壮絶な苦しみを強いられる。抑制剤が効かない者や、手にすることが叶わない者の中には、余りの苦しみから自害する者もいた。
 なにより厄介なのはフェロモンだろう。
 本人の意思に関係なく、ヒート中はアルファを誘惑してしまうのだ。中にはアルファのみならず、ベータやオメガさえも誘惑してしまう者もいた。
 そんなオメガを、周囲は忌諱して遠ざけた。だが、希少なアルファを産む確率が高いとわかるなり、今度はオメガを性奴隷‬として扱う。
 歴史のとおり、長らくオメガは酷い扱いを受けてきたのだ。
 だが、200年ほど前に各地で反発が起こった。
 そして、当時それぞれの国を納めていた数人の王が、奴隷禁止法を制定した。
 その革命により、オメガは人としての尊厳を取り戻す。ようやく、「普通」の生活をおくれるようになったのだ。
 だが、大陸に存在するいくつかの国では、未だに差別が存在している。
 アダムが生を受けた南の国がそれだ。オメガは孕むための道具でしかなかった。



 今でも思う。この帝国に辿り着いたのは奇跡に近いと。
 アダムはオメガだと発覚する前は、傭兵として働いていた。だから剣はそれなりに扱える。戦闘の知識もある。
 長い旅路を乗り越えるのに、経験が生きたのも確かだ。
 だが、何より「慰撫の手」であったからこそ、たどり着くことができた。
 ハルデン帝国に来ることを不安に思わなかったわけではない。だが、大陸を渡り歩く傭兵仲間の話は眩しかった。あの国はオメガにも平穏と安らぎを与えてくれる。そんな優しい国があるのかと、初めて聞いた時は苦しかった。
 だが、オメガに対して偏見のある国で育ったのだ。そうやすやすと信じることはできない。
 でも、その噂に一縷の望みをかけるほど、アダムたちは追い詰められていた。
 そして今では、あの日の決断を誇りに思う。
 噂の通りアダム達は優しくて穏やかな日々を手に入れた。
 それだけじゃない。このハルデン帝国には、あるおかしな「常識」があった。そして、アダムに新しい運命を授けてくれたのだ。


 帝国に辿り着いてすぐの頃。
 アダムは傭兵の経歴から、日雇いの雑用係として働いていた。
 約二ヶ月、住民権を得るために、アダムは必死に資金を集めた。そしてようやく必要な分のお金が貯まると、善は急げと教会へ赴いたのだ。
 あの日のことはよく覚えている。
 対応してくれたのは穏やかな面差しをした神官だった。アダムのバース性を確認しても、態度は変わらない。むしろ、他国から来たということで、ある程度の事情を察したのだろう。
 一人きりで子供を育てるアダムを慈しむように労ってくれた。そのとき、どんなに感動したことか。誰にも褒められたこなんてなかった。
 だって、親になると決めたのはアダムだから。
 でも、いつはち切れるか分からないギリギリを生きてきたアダムの心は優しさに震えた。侮蔑もなく一人の人間として扱ってくれることに密かに涙する。
 神官は別室にアダムを案内した。仰々しい部屋にたどり着くと、目前に七色に輝く水晶を置かれる。
 この時、何も知らなかったアダムは困惑していた。だが、言われた通りに恐る恐る手を翳し──僅かのあと瞠目する。
 水晶から翡翠色の光が放射線状に広がったのだ。
 揺蕩う光のなかを、黄金色の粒子が泳ぐように、「慰撫の手」と文字を描く。初めて目にする大量の魔素に見惚れた。
 その神秘的な光景は今でも脳裏に鮮明に刻まれている。
 あんなにも美しく神々しい景色を、見たことなどない。
 そうして、アダムが「慰撫の手」だと分かってからは、あれよあれよとことが進み現在に至る。
 ハルデン帝国のおかしな「常識」とは、オメガには魔力の代わりに能力があるというものだった。
 ささやかなものだが、不思議な能力を持っているというのだ。そのことは帝国に住む者なら、誰もが知る「常識」であった。
 オメガを疎む国で育ったアダムにとっては疑わしい話である。
 だが、現に慰撫の手の持ち主として、宮廷に仕えることができた。
 とはいえ、アダムの能力は本当にささやかなものだった。
 恐ろしい魔獣に好かれるという、動物好きには堪らない能力だ。
 ハルデン帝国に向かう旅路で、何度か知能を持つ魔獣に助けられたことを思い返す。時には道案内までしてくれた。
 あれは、ただの偶然や奇跡なんかじゃなかったのだ。
 アダムが魔獣に好かれる慰撫の手であるからだと、今ならば納得できた。

「美味しかったか?」

 狼が綺麗になった皿から顔をあげて、げふっと満足気に口の周りをなめる。アダムは褒めるように、狼の胸元を撫でながら笑った。
 ──どうか、こんな穏やかな日々がこれからも続きますように……。
 過去を振り返りアダムは今日も美しい月に祈る。そして、同じ色の瞳をした狼のマズルにちゅっ、と口付けた。
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