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蛙の鼻歌
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降りしきる雪の中でようやくつかまえたタクシーに乗り込んでみると、運転手は雄の蛙であった。
「お客さん、ずいぶん遅いお帰りで」
蛙が言った。思いがけず、渋い声をしていた。
私が自宅の方面を伝えると、蛙はウインカーを出し、車線へとスムーズな合流を果たした。
フロントガラスの上を絶え間なく動く二本のワイパーが大粒の雪を弾き飛ばす。蛙の両目も油断なく動く。蛙の視線は真剣そのもので雪道の先を見すえていた。
私は彼を信じてもいい蛙だと判断した。
私の安堵が伝わったのか、彼はわりと気さくに話しかけてきた。
「いやあ、まいっちゃいますよね、この大雪には」
私は同意した。
「夕方からずうっと道が混んじゃって、待ちくたびれた客にシートをけられたりね、ひどいもんです」
生来のおしゃべりであるようだった。私はねぎらいの言葉を述べた。
「いえいえ、なあに、よくあることで。おっと、すみません、香料が残っていやしませんか。
お客さんの前に乗せた人がですね、ええ、それはそれはたいそうなべっぴんさんだったんですけど、今どきは、ぱふうむ、っていうんですかい? においがきついのなんのって」
彼はそう言って、蛙のツラの、そこが鼻なのだろうか、先端の部分をちょっとつまんでみせた。
私は数日前から鼻づまりの症状があったので、車内にただよっているであろうにおいについてはよくわからなかった。
「あらあら、それは、ご自愛してくださいね、おにいさん。ま、窓をすこーし、開けましょうかね」
気づかないうちに暖房にのぼせていたのか、窓のすき間から入るひんやりと透明な空気が肌になじみ心地よかった。
タクシーは赤信号にさしかかったので、しばし動きを止めた。彼はハンドルにもたれかかり、信号が変わるのを待った。赤い光に目を細めていた。やがて信号は、彼の肌と同じ青に変わった。
「おにいさんは、ひどくお疲れのようだ」
彼がつぶやくように言った。
「いや、なに、こう見えてアタシ、鼻がきくんですよ」
私は小さく笑った。好意的に聞こえればいい、と思った。
「そういうときはね、ゆっくり休むんですよ。あんまり熱くない湯に、じーっくりつかって、銭湯になんか行けるといいんですけど。
そうだ、おにいさん。アタシ、流しの歌手もやってるんですよ。よければ一曲、いかがですか。鼻歌みたいなもんですが。
……わかりました。それでは一曲、ご清聴あそばせ」
彼は息を吐き、それから大きく吸い込んだ。からだ全体が風船のようにふくれ上がり、やがて歌い出す。
おにいーさん、げーんき、出してえ
歌詞はともかく、いい声だ。不思議と心に染み入るようだ。
ヤなことあったら、ひとーつ、たかーく、ナいてみなー
歌が終わると彼は再び、ふう、と息を吐いた。車内には疲れた男二人の密やかな共感があった。
すでに、自宅のすぐそばまで来ていた。私はタクシーを止めるよう伝えた。まだもう少し、乗っていたいような気もしたが、そうもいかなかった。提示された料金を払っていると、彼は振り返り、私の顔をのぞき込んだ。
「おにいさん、笑ってみれば、不思議なもんで、心も笑うもんですよ」
そう言って、にんまりと笑ってみせた。どうやら私は自分で思っているよりも疲れていたようだった。
私を降ろし、タクシーは夜の雪に消えていった。
自宅に向かって歩き出す。心が少し軽くなったような気がして、気づけば私は蛙の鼻歌を口ずさんでいた。
ひとーつ、たかーく、ナいてみなー
「お客さん、ずいぶん遅いお帰りで」
蛙が言った。思いがけず、渋い声をしていた。
私が自宅の方面を伝えると、蛙はウインカーを出し、車線へとスムーズな合流を果たした。
フロントガラスの上を絶え間なく動く二本のワイパーが大粒の雪を弾き飛ばす。蛙の両目も油断なく動く。蛙の視線は真剣そのもので雪道の先を見すえていた。
私は彼を信じてもいい蛙だと判断した。
私の安堵が伝わったのか、彼はわりと気さくに話しかけてきた。
「いやあ、まいっちゃいますよね、この大雪には」
私は同意した。
「夕方からずうっと道が混んじゃって、待ちくたびれた客にシートをけられたりね、ひどいもんです」
生来のおしゃべりであるようだった。私はねぎらいの言葉を述べた。
「いえいえ、なあに、よくあることで。おっと、すみません、香料が残っていやしませんか。
お客さんの前に乗せた人がですね、ええ、それはそれはたいそうなべっぴんさんだったんですけど、今どきは、ぱふうむ、っていうんですかい? においがきついのなんのって」
彼はそう言って、蛙のツラの、そこが鼻なのだろうか、先端の部分をちょっとつまんでみせた。
私は数日前から鼻づまりの症状があったので、車内にただよっているであろうにおいについてはよくわからなかった。
「あらあら、それは、ご自愛してくださいね、おにいさん。ま、窓をすこーし、開けましょうかね」
気づかないうちに暖房にのぼせていたのか、窓のすき間から入るひんやりと透明な空気が肌になじみ心地よかった。
タクシーは赤信号にさしかかったので、しばし動きを止めた。彼はハンドルにもたれかかり、信号が変わるのを待った。赤い光に目を細めていた。やがて信号は、彼の肌と同じ青に変わった。
「おにいさんは、ひどくお疲れのようだ」
彼がつぶやくように言った。
「いや、なに、こう見えてアタシ、鼻がきくんですよ」
私は小さく笑った。好意的に聞こえればいい、と思った。
「そういうときはね、ゆっくり休むんですよ。あんまり熱くない湯に、じーっくりつかって、銭湯になんか行けるといいんですけど。
そうだ、おにいさん。アタシ、流しの歌手もやってるんですよ。よければ一曲、いかがですか。鼻歌みたいなもんですが。
……わかりました。それでは一曲、ご清聴あそばせ」
彼は息を吐き、それから大きく吸い込んだ。からだ全体が風船のようにふくれ上がり、やがて歌い出す。
おにいーさん、げーんき、出してえ
歌詞はともかく、いい声だ。不思議と心に染み入るようだ。
ヤなことあったら、ひとーつ、たかーく、ナいてみなー
歌が終わると彼は再び、ふう、と息を吐いた。車内には疲れた男二人の密やかな共感があった。
すでに、自宅のすぐそばまで来ていた。私はタクシーを止めるよう伝えた。まだもう少し、乗っていたいような気もしたが、そうもいかなかった。提示された料金を払っていると、彼は振り返り、私の顔をのぞき込んだ。
「おにいさん、笑ってみれば、不思議なもんで、心も笑うもんですよ」
そう言って、にんまりと笑ってみせた。どうやら私は自分で思っているよりも疲れていたようだった。
私を降ろし、タクシーは夜の雪に消えていった。
自宅に向かって歩き出す。心が少し軽くなったような気がして、気づけば私は蛙の鼻歌を口ずさんでいた。
ひとーつ、たかーく、ナいてみなー
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