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二話 遊女・明け乃
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しゃんしゃんしゃりん。
山蕗の耳奥で鈴のような音色が響いている。たとえ姿を見なくても、それが明け乃の音だというのはすぐに分かった。
(そう、姉さん自慢の簪が奏でる音だ──)
明け乃自身が何度も嬉しそうに聞かせてくれたのだ、忘れようもない。
山蕗はこれが夢だと知っていた。明け乃と呼ばれていたその遊女はもう何処にも居ないのだから、彼女の音が、姿が、夢以外でそこにあるわけはないのだ。酔ったように音なる方へと足を運ぶ。
「あらまあ、山蕗、随分と探したわ。早よう来なんし。青木さまに菓子をもろうたんよ」
一緒に食べようと、柔く微笑む明け乃。淑やかにしなんし、そう言われるのも構わず、たまらず走り出す。
山蕗は姉分である明け乃が大好きだった。
それなのにあの晩、彼女は物見櫓から身を投げたのだ。誰か人と心中するつもりで、逃げられて、そのまま悲しく一人だけ死んでしまったと、そう結論づけられた。誰に気づかれる事なく、明けの空を見上げるように倒れた明け乃女郎──。
実際に見たわけでもないのにその景色が目に焼き付いて離れない。暗い暗い闇の中、誰よりいっとう美しかった遊女が落ちていく。目を見開いて、あ、の形に口を開けたまま女は落ちていく。ひらりひらりと舞う振袖が蝶の如くはためいて、しゃらりしゃらりと簪が美しく高い音を立てて──。
山蕗は為す術もなくそれを見る他ない。手は届かず、彼女の悲鳴も届かない。
どさりと鈍い音がする。
(……やっぱり)
寝具からはみ出た我が身をみて、やはり夢だったと理解するのだ。
*
陽が傾き、空が橙や紫や紺と染め上げられると、花街がゆるやかに呼吸を始める。刻々と通りを歩く人影が増えるのを横目に数えて、山蕗は居住まいを正した。
いつまでも悲しんでられない、と心ではわかっていた。どれだけ想いを馳せようが、既に恋しい人は過去の人となってしまったのだから。時間は確かに事件を洗い流して、一部の人は明け乃のことを忘れてしまったような──そんな風にさえ思えた。
(いいや、忘れられるものか)
その中で山蕗だけが時間に取り残されていた。
仇は分かっていたが、どうしても手が届かなかった。一人は大金持ちの得意の客だ。その男が何者かもしれないが、人の話によると大店の若旦那だと言う。生前は明け乃を贔屓にし、袖にされたと憤っていた真っ赤な顔はすぐにでも思い出せた。そのすぐ後、明け乃女郎が身を投げたのだ。重ねて腹立たしいことに、その野暮天はその後、明け乃と客を争っていた雛梅女郎の得意となっていると言うではないか。
山蕗は燻る思いをなんとか押さえつけて、息を殺して生きていた。
そんな最中の、ある春の日。
ふと、騒がしさに山蕗が我に帰った。
なにやら聞き慣れぬ声が聞こえる。どこぞの隠居が忍びで遊びに来たらしい。数言店の男衆に声をかけて、何かを言った後、
「あの女を呼びたい」
隠居が言った声を聞いた気がした。あの女が山蕗を指すのだと聞いて、まず驚いたのは山蕗だった。挽き茶女郎とまでは行かぬものの、人気の女郎には未だ程遠い身だ。見世には美しい娘も山ほどいるのだし、金もあるなら当然、他の娘のほうがよかろうと思うのだが、この隠居は真っ直ぐに山蕗を選んだのだ。
山蕗としては相手が誰であっても構わなかった。元より選べる立場にいるわけでもない。慌てて支度を済ませて座敷へ向かう。名の高い女郎なら兎も角、もしくはちらと目の端に止まって呼ばれるような美人なら兎も角、山蕗はさして目立つ容姿はしていない。身体つきもふっくらとしてはいたが、もっと恵まれた女は山といる。芸はそれなりに達者だが、それは見た目だけでは判ずることはできないだろう。
(まァ、芸の話を人伝に聞いたんか、そういう趣味なんかも知らんわ)
時には物好きもいる。山蕗を天女のようだと囁く男も、過去にはいた。だからそういう男なのだろうと結論づけた。
山蕗が呼ばれた座敷には、老人と呼ぶに障りのない男が一人いた。薄い白髪を後ろに小さく結び、上物だがいささか古びた小袖を身につけている。いやに不味そうに煙管を咥えては、時折深いため息を吐く。その間に鋭い眼光が山蕗を射抜いた。
「……ようやっと、来おったか」
低い声がよく通る。随分と好色爺がいらしたこと、なんて心で思っていたのだが。
この男、山蕗が座敷に上がるなり、薮から棒にこんなことを言ったのだ。
「女。おぬしの恨み、この爺に売れ」
無論、山蕗は固まった。目玉だけを動かすと、背中手に襖を閉めて、
「わっちの恨み……でありんすか?」
なんのことかと惚けてみせる。
「ぬしには恨みがあろう。果たせぬ恨みが」
「ほほ、また酔狂な方──」
山蕗は高く笑い声を上げたが、隠居は黙ったままこちらを見据えていた。
その視線の鋭さたるや!
まるで丸裸にされたような気分になって、笑みを保つのが精一杯だった。背にじわりと汗をかく。沈黙が降りて、老人はただただ山蕗の言葉を待っていた。このまま黙っていても仕様がないのではないか、いっそ知らぬ人にでも言ってしまえばよいのではないか、そんな気持ちが湧いてきて、気づけば言葉を溢していた。
「……どうして、そう思いしなんすか」
「目でわかる」
「目?」
「応、そのいっとう昏い目じゃ」
「ふ、ふ……目でありんすか」
山蕗は思わず笑ってしまった。
昏い目、確かにそうだと納得する他なかったのだ。明け乃が死んでからというもの、山蕗は気が晴れることなど一度もなかった。誰に抱かれても、誰に愛を囁かれても、流行りの何を贈られたって気は少したりとも晴れたことはない。
右も左もわからぬうちに売られてきたこの狭い世界で、明け乃は実の姉のように様々に世話を焼き、上手く生き抜く術を与えてくれた。それもあってか、山蕗はこれまでそこそこは上手くやってこれたのである。
(そんな、誰よりいっとう幸せになってほしい姉さんが殺されたんだもの)
山蕗はちらと背後の襖に目を向けて、人の気配がないと踏むと、つつと老人に身を寄せた。その耳元に静かに囁く。
「ええ、ぬしさまの仰る通り、恨みはたんとありんすぇ」
ゆっくりと、確かめるように呟いた。
「な、ぬしさま。恨みがどうしなんした」
「その恨み、この爺に売る気はないかと思うてな」
「売ると?」
「──いや、一言に売ると言っても銭は渡せぬ。ただ、ぬしの代わりにその仇敵に引導を渡すだけじゃ。ぬしは恨みをこの爺に譲る代わりに、仇敵の死を得る」
その言葉に山蕗は息を飲んだ。高くなりかけた声を必死で抑えて、更に隠居に顔を寄せる。呼吸が速くなるのは、思いがけないことに喜びを隠せないからだ。
「お、おまえさま、まさか、わっちの代わりに明け乃姉さんの仇をとってくださりんすか!」
「そう言っている」
老人はただし、と言い添えた。
「一度その恨みを売れば、それは即ちこの爺の恨みとなる。故におぬしは今後仇には恨みなど持ってはならぬし、それをどうこうすることは一切叶わぬ。それでも良いか」
「ようござんす! 仇の前に、銭など、果たせぬまま埋もれてゆく恨みなど、なんの意味があるものかぇ!」
間髪入れずに山蕗は頷いていた。
(どこの誰とか、そんなの構うもンか。明け乃姉さんの仇がとれるなら、わっちは)
心に溜まったものを吐き出す。
「廓のなもかも、わっちは明け乃姉さんから教えてもらいんした。外の世界のことも楽しいことも──その愛しい姉さまの仇討ちが叶うンなら、恨みのひとつ、ふたつ、如何程でもぬしさまに売りんしょう!」
「勢いや良し。気に入った」
男はゆっくりと、頷いた。
それから居住まいを正すなり、横の山蕗の瞳を覗き込んだ。
「して、ぬしの……明け乃か。その仇は誰じゃ」
「遣手婆に雛梅姉さん、そンで、川ノ邉様じゃ」
「遣手婆に雛梅女郎か。川ノ邉とは知らぬ男だが、ほほう、これは随分と多いな……」
老人はニヤリと笑った。ここに来て初めての笑みは、まるで獲物を見つけた野犬のようでもあり、ぞっと悪寒が山蕗の背中を駆け抜ける。
それでも山蕗は頭を振って恐怖を振り払った。仇討ちができるなら、と。どんなに恐ろしい悪鬼でも、見て見ぬ振りを決める人間よりよほど助けとなる、そう心に念じる。
「明け乃女郎はなぜ殺された」
「……理由が必要でありんすか」
「必要ないが、聞いておきたい。言いたくなければ結構」
「いえ、別に隠すことでもあらんせん」
ゆるりと再度頭を振った。
「ぬしさま、明け乃姉さんは近くに身請けが決まっておりんしたんよ。さるお武家の方でさ、姉さんにうんと惚れ込んでて、姉さんも──、でも、それを聞くなり真っ赤になったのが雛梅姉さんと川ノ邉様なんす」
「ほう」
「二人とももうお冠。川ノ邉様も姉さんを好いてらしたんす──ええ、だからあの晩も姉さんに迫って、末に袖にされたんやって聞きんした。……雛梅姉さん? 雛梅姉さんは単に嫉妬でありんしょう。なんせ、雛梅姉さんの客はどうもこうも冴えん野暮天ばかりなんすえ。姉さんばっかり間夫が来る、流行り物を贈られる、身請け話が出る……なんてさ、その度に梅みたいに真っ赤っか」
「雛梅は確かに事に絡んでおるのか。その罪が嫉妬だけでは、斬れぬ」
「ええ。騒ぎの前に二人が一緒におるのを、わっちは確かに見んした。そンで揃って遣手婆と会って、それからおかさんが明け乃姉さんを部屋に呼びんした。……わっちは呼ばれて、そこまでしか……」
「ふん、まあ、よい。共謀か」
老人は鼻を鳴らした。
「遣手婆まで手を貸したか」
「おかさんは、雛梅姉さんが大層お気に入りでありんすぇ。これまでだって随分贔屓ばかり!」
老人はひとつ頷いた。山蕗からするとまだ語りきってないと言うのにこの男、今ので満足したらしい。
男がさっさと座敷を去ろうとしたのを、慌てて山蕗はその袖を引き止めていた。こんな早くに帰られてはあまりに不自然だし、何よりも名を聞いてもいない。仇討ちを為してくれる人の名をどうしても知りたかった。
「な、ぬしさま、名を聞かせてくなんし」
「……」
「な、後生だよぅ」
「……蒔田だ。蒔田雨露亮」
「蒔田さま。わっちは山蕗でありんす」
知っている、と言いたげな視線を身に受けながら、山蕗は笑顔を浮かべた。指をついて、改めて頭を下げる。
「わっちはどの道、ここから出られんせん。蒔田さま、代わりにどうか明け乃姉さんの仇を討ってくんなまし」
「そのつもりだ」
「それと、もう少しでよござんす。わっちの話に付き合ってくなんし。こうも早よ帰られて、それであれやこれや疑われちゃあたまりゃせんもの。な? よござんしょう?」
「……まあ、よい。好きにしろ──」
それきり黙りこんだ蒔田相手に、山蕗はこんこんと明け乃姉さんの話を続けた。
空が明るくなる頃、ようやく蒔田は見世を後にした。
*
見世も落ち着いた頃、山蕗は夜遅くに遣手婆に呼ばれていた。朝から雨がざあざあと降り注ぐので、周りの音も花街の喧騒もすべて掻き消されるような日だった。
「おかさん、山蕗でありんす。なんでござりんしょう」
「おや、来なんしたか」
遣手婆はにこりと笑んだ。彼女も昔、この店で遊女を勤め上げてきただけあって、歳の割に若々しさを保った妖艶な女だった。いつまで経っても三十路辺りにしか見えないが、それなりに長く勤めているはずである。
山蕗は常から彼女が苦手だった。ゆったりと丁寧に言葉を運ぶのが、彼女の心を巧みに隠すようで居心地が悪くなるのだ。乱暴な物言いの楼主の方が、感情が読み易い分まだ良い。
にこにこと微笑みをたたえたまま遣手婆が首を傾げた。
「あんた、明け乃が恋しいんでありんしょう」
「……」
「山蕗。早よう答えなんし」
「……そりゃ、わっちの、姉さんですもの」
慎重に頷きながら、山蕗はしまったと内心で焦っていた。
──聞かれていた。
全てとは言わずとも、蒔田雨露亮と名乗る隠居との話を少なからず聞かれていたのだろう。それで山蕗を呼んだのだとすぐに悟る。悟ったところで、どうしようもないのだが。
「そやったね。あんたが新造になった時もよう二人で姉妹みたいになあ、喜んでおったわ」
遠い日に目を細めると、突然、ふっと遣手婆から笑みが消えた。
「そンなに恋しいなら、いっそ会わせてやろか」
「な────」
慌てて立ち上がろうとしたところで、かっと背後で襖が開き、山蕗は頭に鈍い衝撃を受けて畳に倒れ伏した。霞む視界に赤い振袖がちらりちらりと目の端で揺れ、誰かが己を縛り上げるのを感じる。
山蕗は叫ぼうとするが、すぐに噛まされた布が邪魔をして声にならなかった。襲ってきた人影が山蕗を転がして布にくるんだ。隙間から見えたのは。
(……雛梅姉さん!)
「──!」
「ぬしがいかんのよ、山蕗。ぬしがあんな女のことも忘れんから、こぉなるんよ」
そんな声が降ってきて、視界が閉ざされた。
後は暗闇ばかりである。
雛梅と遣手婆は二人で布に巻いた山蕗を何処ぞへと運んでいた。暗い道、水を跳ねる音、戸を潜るような音、どさりと地面に転がされたのはそう長くない時を経た頃である。
辺りは暗くて、それに二人が人気のない場所を選んでいたのもあって、山蕗にはここが何処なのかもわからなかった。外には出られぬはずだから、場所は限られていようが──。
遣手婆と雛梅の声が降ってくる。
「雛梅、後はあたしがやりんしょう。ここは任せてお前は先にお帰りな」
「あい。きっと川ノ邉様、首を長うしてあちきらをお待ちしておりんすぇ」
「あら、今日の手筈は伝えておりますんに」
「ねぇ? ほんに、せっかちな方」
「さ、雛梅や、早よう戻って、無事済んだと伝えなんしな。そぉれ」
どん、と脇腹に強い衝撃が加わる。ぱたぱたと走り去る一人の足音。再度、どすんと胴を蹴られる。
呻き声を上げる間も無く、ごろごろと転がされて、落ちていくのは暗い暗いドブだった。
雨音に紛れて水飛沫が上がる。
縛られては身動きひとつできない。
すぐに息を詰めて、必死に堪えるが長くはもつまい。何も見えず、何も掴めず、足掻くことすら叶わず、
(ああ、ここまでか──)
諦めかけたその直後。
山蕗は勢いよく水から引き上げられた。喘ぐように息を繰り返す山蕗はやや乱暴にごろりと地に転がされて、すぐに腕と口元の縛りが解かれた。掠れた視界の端に映った影を見て、山蕗は安堵する。
(蒔田さま……)
山蕗はふっと意識を手放した。
慌てたのは、帰り路に足を踏みかけていた遣手婆である。
誰もいないはずの暗がりに一人、老人が立っているのに気がついたのだ。雨音に混じって聞こえた音に目を凝らせば、ドブに落としたはずの山蕗が地面に寝かされていた。
「た、誰じゃ」
老人は答えない。代わりに一歩二歩と跳ぶように駆けて、雨色の銀光を閃かせた。
どこか涼やかな高い音が鳴る。
それが何かと判ずる前に、遣手婆は呆然と己の身体に走る赤い傷跡に目を見張っていた。右肩からの袈裟斬り──悲鳴すら断ち切られ、力を失った身体がどぶに派手な音を立てて転がり落ちる。
「これで一人」
老人は血を払うと、すぐに足を廓の方へ向けた。暗い道を慎重に進む雛梅の後ろ姿をとらえたのはほどなくしてのことである。
雛梅は裏口に立ち尽くして、背後からひたひたと近づく影を見ていた。抜き身を手に、返り血で黒ずんだ影。引き攣った顔が恐怖の色で染まる。
「おんし、山蕗のとこの──」
今度も女が叫ぶ前に、すかさず老人が踏み込んでいた。
突きだ。
腹を貫く銀色を、雛梅は信じられぬ面持ちで眺めていた。痛みとその気持ち悪さに吐き気を覚える。
「ま、まちなんし、あちきを殺めてなんになる」
「……何にもならぬ」
老人はそのまま真一文字に引き抜いた。刀を手の内で持ち帰ると、すぐにとどめを刺す。
「これで二人」
雨に打たれたまま、雛梅がごろりと地に転がると、そのままドブへと落ちていった。
山蕗女郎を殺そうとしたドブで、女が二人浮いていた。男はさっと血を払うと、今度は外へ目を向けた。
*
長く降り注いだ雨は一度は止み、代わりに霧が深く立ち昇っている。
川ノ邉為衛門は先程捕まえたばかりの猪牙舟に、悠々と揺られていた。揚げ屋からの帰り道である。
待てども馴染みの遊女が現れず、けれど諸事情もあって居ないだなんだと騒ぐわけにも行かず、頃合いを見てそそくさと出てきたのだ。
(なに、大方後始末に手こずったのだろう)
少し前にうっかり手にかける羽目になった明け乃女郎──その事の顛末を知っていると周囲に吹き込む女がいたのだと、川ノ邉は聞かされていた。その後始末をつけるから、座敷で待っていてくださいなと言われ、随分と待たされたのだ。いざという時、助けになれるようにと随分と待ったのだが、相手はたかが女一人。そう気楽に待っていた。
しかし待てども来ない知らせに苛々として、それでも下手なことを言えば己の首を締めるような気がして男衆にも文句の一つも言えなかった。
(まァ、明日にでも話を聞きに出直すか)
幸い、川ノ邉には金があった。
どれほど経った頃だろうか。
つい、と水面に走る線が突然に途切れた。
舟が霧深い川の中央で止まる。川ノ邉もすぐに異変に気がついて、怒ったように船頭を見上げた。笠を被ったその男は、船頭というよりも何処ぞの武家の隠居という方が似合う風貌だった。
「おい、爺、どうした。まだ岸ではないぞ」
「頃合いかと思うてな」
「頃合い? なんの話じゃ」
老人は答えない。ただ真っ直ぐに川ノ邉を見据える眼光はやはり、只者のそれではない。しまった、と顔を顰めた。嵌められたのだ。
(しかし、こちらは商家の三男坊だ。わざわざおれの命を狙う輩など覚えがないぞ──!)
生憎と舟の上、武器になるものも持っていない。身を固くした。
「ぬしが川ノ邉為衛門だな」
「な、何奴じゃ、名を名乗れ!」
「川ノ邉だな」
「お、おれを殺すとどうなるかわかっておるのか⁈」
「わからぬ」
「なんぞ恨みでもあるまいに──」
「ある」
「な──」
「明け乃女郎を知っておろう」
「あ、明け乃! し、知らぬ! あ、あれはあいつが、勝手に」
かちり、鯉口が鳴る。
川ノ邉は刀を見るなり、慌てて、いっそ川の中へと逃げようとした。間合いから離れて、水に潜れば逃げ切れるのではないか──。
その瞬間、老人の刃が夜闇を滑る。
刀の軌跡上にあった首が、骨ごと刎ねられていた。ぎゃあ、と叫んで、男の身体は舟から転がり落ちていく。ついで頭が後を追う。
信じられぬ、と言いたげな首が、目を見開いたまま川に沈んでいくのを、老人は一瞥する。
「誰だと問うたな。恨み屋、蒔田雨露亮だ」
*
はらりはらりと桜が舞う。
蒔田雨露亮が明け乃の仇を討った。そしてそれを願ったのは、他でもない山蕗だった。
(わっちが殺しなんした)
山蕗はそう思っていた。己の恨みが恨み屋を呼び、恨み屋に殺させたのだと、そう思っていた。
世間によると、雛梅と遣手婆は協力して足抜けしようとしたらしい。そこを馴染みの川ノ邉為衛門に見つかって、多少のいざこざの後に斬り合い掴み合いになって二人揃って斬り殺されたと──そういうことになっていた。今は目下、下手人である川ノ邉を皆は血眼になって探しているのだと言う。
山蕗はあの晩、気がつけば部屋に転がされていた。着物をきっちりとかけられてはいたものの、いかんせん濡れたままだったものだから、見事に翌日から熱を出した。そうして寝込んで、ようやく起き出したのが今朝のことである。
ことの顛末も、人伝に聞いた。
(恨みを扱う恨み屋か──)
ひとつ恨みを晴らせばまた次の恨みが生まれる。恨みとはそんなものだ。ならばあの翁も、それに託した人も、きっと随分な枷を嵌められているのだろうとぼんやりと考える。
雛梅女郎付きの新造や禿は事件の後、あの姉さんが足抜けなんぞするわけがないと、わんわんと泣いていた。なんやかんやで彼女を慕っていた遊女もすくなくはなかったようだ。遣手婆にしてもそうだ。そのうち、誰かがかつての山蕗と同じように恨みを募らせるのではないか──。
或いは川ノ邉の家の誰かが絡繰に気がついて、冤罪だと主張し、その仇を討たんと思ってもおかしくはない。巡り巡って蒔田とその依頼人である山蕗に気がつくのも、またあり得ない話でもないのだ──。
(……ふふ、明け乃姉さんの仇の、そのまた仇がわっちかぇ。ほんにおかしなこと……)
今回は助けてもらったが、次に蒔田雨露亮が現れたらどうなるか。他の誰かに希われて、山蕗を仇として狙いに来ないとも限らない。
山蕗はそわそわとまた、その老人が現れるのを待っていたのだが、春がきて、夏が来て、秋が来て、冬が来ても、ついぞ蒔田がその姿を見せることはなかった。
山蕗の耳奥で鈴のような音色が響いている。たとえ姿を見なくても、それが明け乃の音だというのはすぐに分かった。
(そう、姉さん自慢の簪が奏でる音だ──)
明け乃自身が何度も嬉しそうに聞かせてくれたのだ、忘れようもない。
山蕗はこれが夢だと知っていた。明け乃と呼ばれていたその遊女はもう何処にも居ないのだから、彼女の音が、姿が、夢以外でそこにあるわけはないのだ。酔ったように音なる方へと足を運ぶ。
「あらまあ、山蕗、随分と探したわ。早よう来なんし。青木さまに菓子をもろうたんよ」
一緒に食べようと、柔く微笑む明け乃。淑やかにしなんし、そう言われるのも構わず、たまらず走り出す。
山蕗は姉分である明け乃が大好きだった。
それなのにあの晩、彼女は物見櫓から身を投げたのだ。誰か人と心中するつもりで、逃げられて、そのまま悲しく一人だけ死んでしまったと、そう結論づけられた。誰に気づかれる事なく、明けの空を見上げるように倒れた明け乃女郎──。
実際に見たわけでもないのにその景色が目に焼き付いて離れない。暗い暗い闇の中、誰よりいっとう美しかった遊女が落ちていく。目を見開いて、あ、の形に口を開けたまま女は落ちていく。ひらりひらりと舞う振袖が蝶の如くはためいて、しゃらりしゃらりと簪が美しく高い音を立てて──。
山蕗は為す術もなくそれを見る他ない。手は届かず、彼女の悲鳴も届かない。
どさりと鈍い音がする。
(……やっぱり)
寝具からはみ出た我が身をみて、やはり夢だったと理解するのだ。
*
陽が傾き、空が橙や紫や紺と染め上げられると、花街がゆるやかに呼吸を始める。刻々と通りを歩く人影が増えるのを横目に数えて、山蕗は居住まいを正した。
いつまでも悲しんでられない、と心ではわかっていた。どれだけ想いを馳せようが、既に恋しい人は過去の人となってしまったのだから。時間は確かに事件を洗い流して、一部の人は明け乃のことを忘れてしまったような──そんな風にさえ思えた。
(いいや、忘れられるものか)
その中で山蕗だけが時間に取り残されていた。
仇は分かっていたが、どうしても手が届かなかった。一人は大金持ちの得意の客だ。その男が何者かもしれないが、人の話によると大店の若旦那だと言う。生前は明け乃を贔屓にし、袖にされたと憤っていた真っ赤な顔はすぐにでも思い出せた。そのすぐ後、明け乃女郎が身を投げたのだ。重ねて腹立たしいことに、その野暮天はその後、明け乃と客を争っていた雛梅女郎の得意となっていると言うではないか。
山蕗は燻る思いをなんとか押さえつけて、息を殺して生きていた。
そんな最中の、ある春の日。
ふと、騒がしさに山蕗が我に帰った。
なにやら聞き慣れぬ声が聞こえる。どこぞの隠居が忍びで遊びに来たらしい。数言店の男衆に声をかけて、何かを言った後、
「あの女を呼びたい」
隠居が言った声を聞いた気がした。あの女が山蕗を指すのだと聞いて、まず驚いたのは山蕗だった。挽き茶女郎とまでは行かぬものの、人気の女郎には未だ程遠い身だ。見世には美しい娘も山ほどいるのだし、金もあるなら当然、他の娘のほうがよかろうと思うのだが、この隠居は真っ直ぐに山蕗を選んだのだ。
山蕗としては相手が誰であっても構わなかった。元より選べる立場にいるわけでもない。慌てて支度を済ませて座敷へ向かう。名の高い女郎なら兎も角、もしくはちらと目の端に止まって呼ばれるような美人なら兎も角、山蕗はさして目立つ容姿はしていない。身体つきもふっくらとしてはいたが、もっと恵まれた女は山といる。芸はそれなりに達者だが、それは見た目だけでは判ずることはできないだろう。
(まァ、芸の話を人伝に聞いたんか、そういう趣味なんかも知らんわ)
時には物好きもいる。山蕗を天女のようだと囁く男も、過去にはいた。だからそういう男なのだろうと結論づけた。
山蕗が呼ばれた座敷には、老人と呼ぶに障りのない男が一人いた。薄い白髪を後ろに小さく結び、上物だがいささか古びた小袖を身につけている。いやに不味そうに煙管を咥えては、時折深いため息を吐く。その間に鋭い眼光が山蕗を射抜いた。
「……ようやっと、来おったか」
低い声がよく通る。随分と好色爺がいらしたこと、なんて心で思っていたのだが。
この男、山蕗が座敷に上がるなり、薮から棒にこんなことを言ったのだ。
「女。おぬしの恨み、この爺に売れ」
無論、山蕗は固まった。目玉だけを動かすと、背中手に襖を閉めて、
「わっちの恨み……でありんすか?」
なんのことかと惚けてみせる。
「ぬしには恨みがあろう。果たせぬ恨みが」
「ほほ、また酔狂な方──」
山蕗は高く笑い声を上げたが、隠居は黙ったままこちらを見据えていた。
その視線の鋭さたるや!
まるで丸裸にされたような気分になって、笑みを保つのが精一杯だった。背にじわりと汗をかく。沈黙が降りて、老人はただただ山蕗の言葉を待っていた。このまま黙っていても仕様がないのではないか、いっそ知らぬ人にでも言ってしまえばよいのではないか、そんな気持ちが湧いてきて、気づけば言葉を溢していた。
「……どうして、そう思いしなんすか」
「目でわかる」
「目?」
「応、そのいっとう昏い目じゃ」
「ふ、ふ……目でありんすか」
山蕗は思わず笑ってしまった。
昏い目、確かにそうだと納得する他なかったのだ。明け乃が死んでからというもの、山蕗は気が晴れることなど一度もなかった。誰に抱かれても、誰に愛を囁かれても、流行りの何を贈られたって気は少したりとも晴れたことはない。
右も左もわからぬうちに売られてきたこの狭い世界で、明け乃は実の姉のように様々に世話を焼き、上手く生き抜く術を与えてくれた。それもあってか、山蕗はこれまでそこそこは上手くやってこれたのである。
(そんな、誰よりいっとう幸せになってほしい姉さんが殺されたんだもの)
山蕗はちらと背後の襖に目を向けて、人の気配がないと踏むと、つつと老人に身を寄せた。その耳元に静かに囁く。
「ええ、ぬしさまの仰る通り、恨みはたんとありんすぇ」
ゆっくりと、確かめるように呟いた。
「な、ぬしさま。恨みがどうしなんした」
「その恨み、この爺に売る気はないかと思うてな」
「売ると?」
「──いや、一言に売ると言っても銭は渡せぬ。ただ、ぬしの代わりにその仇敵に引導を渡すだけじゃ。ぬしは恨みをこの爺に譲る代わりに、仇敵の死を得る」
その言葉に山蕗は息を飲んだ。高くなりかけた声を必死で抑えて、更に隠居に顔を寄せる。呼吸が速くなるのは、思いがけないことに喜びを隠せないからだ。
「お、おまえさま、まさか、わっちの代わりに明け乃姉さんの仇をとってくださりんすか!」
「そう言っている」
老人はただし、と言い添えた。
「一度その恨みを売れば、それは即ちこの爺の恨みとなる。故におぬしは今後仇には恨みなど持ってはならぬし、それをどうこうすることは一切叶わぬ。それでも良いか」
「ようござんす! 仇の前に、銭など、果たせぬまま埋もれてゆく恨みなど、なんの意味があるものかぇ!」
間髪入れずに山蕗は頷いていた。
(どこの誰とか、そんなの構うもンか。明け乃姉さんの仇がとれるなら、わっちは)
心に溜まったものを吐き出す。
「廓のなもかも、わっちは明け乃姉さんから教えてもらいんした。外の世界のことも楽しいことも──その愛しい姉さまの仇討ちが叶うンなら、恨みのひとつ、ふたつ、如何程でもぬしさまに売りんしょう!」
「勢いや良し。気に入った」
男はゆっくりと、頷いた。
それから居住まいを正すなり、横の山蕗の瞳を覗き込んだ。
「して、ぬしの……明け乃か。その仇は誰じゃ」
「遣手婆に雛梅姉さん、そンで、川ノ邉様じゃ」
「遣手婆に雛梅女郎か。川ノ邉とは知らぬ男だが、ほほう、これは随分と多いな……」
老人はニヤリと笑った。ここに来て初めての笑みは、まるで獲物を見つけた野犬のようでもあり、ぞっと悪寒が山蕗の背中を駆け抜ける。
それでも山蕗は頭を振って恐怖を振り払った。仇討ちができるなら、と。どんなに恐ろしい悪鬼でも、見て見ぬ振りを決める人間よりよほど助けとなる、そう心に念じる。
「明け乃女郎はなぜ殺された」
「……理由が必要でありんすか」
「必要ないが、聞いておきたい。言いたくなければ結構」
「いえ、別に隠すことでもあらんせん」
ゆるりと再度頭を振った。
「ぬしさま、明け乃姉さんは近くに身請けが決まっておりんしたんよ。さるお武家の方でさ、姉さんにうんと惚れ込んでて、姉さんも──、でも、それを聞くなり真っ赤になったのが雛梅姉さんと川ノ邉様なんす」
「ほう」
「二人とももうお冠。川ノ邉様も姉さんを好いてらしたんす──ええ、だからあの晩も姉さんに迫って、末に袖にされたんやって聞きんした。……雛梅姉さん? 雛梅姉さんは単に嫉妬でありんしょう。なんせ、雛梅姉さんの客はどうもこうも冴えん野暮天ばかりなんすえ。姉さんばっかり間夫が来る、流行り物を贈られる、身請け話が出る……なんてさ、その度に梅みたいに真っ赤っか」
「雛梅は確かに事に絡んでおるのか。その罪が嫉妬だけでは、斬れぬ」
「ええ。騒ぎの前に二人が一緒におるのを、わっちは確かに見んした。そンで揃って遣手婆と会って、それからおかさんが明け乃姉さんを部屋に呼びんした。……わっちは呼ばれて、そこまでしか……」
「ふん、まあ、よい。共謀か」
老人は鼻を鳴らした。
「遣手婆まで手を貸したか」
「おかさんは、雛梅姉さんが大層お気に入りでありんすぇ。これまでだって随分贔屓ばかり!」
老人はひとつ頷いた。山蕗からするとまだ語りきってないと言うのにこの男、今ので満足したらしい。
男がさっさと座敷を去ろうとしたのを、慌てて山蕗はその袖を引き止めていた。こんな早くに帰られてはあまりに不自然だし、何よりも名を聞いてもいない。仇討ちを為してくれる人の名をどうしても知りたかった。
「な、ぬしさま、名を聞かせてくなんし」
「……」
「な、後生だよぅ」
「……蒔田だ。蒔田雨露亮」
「蒔田さま。わっちは山蕗でありんす」
知っている、と言いたげな視線を身に受けながら、山蕗は笑顔を浮かべた。指をついて、改めて頭を下げる。
「わっちはどの道、ここから出られんせん。蒔田さま、代わりにどうか明け乃姉さんの仇を討ってくんなまし」
「そのつもりだ」
「それと、もう少しでよござんす。わっちの話に付き合ってくなんし。こうも早よ帰られて、それであれやこれや疑われちゃあたまりゃせんもの。な? よござんしょう?」
「……まあ、よい。好きにしろ──」
それきり黙りこんだ蒔田相手に、山蕗はこんこんと明け乃姉さんの話を続けた。
空が明るくなる頃、ようやく蒔田は見世を後にした。
*
見世も落ち着いた頃、山蕗は夜遅くに遣手婆に呼ばれていた。朝から雨がざあざあと降り注ぐので、周りの音も花街の喧騒もすべて掻き消されるような日だった。
「おかさん、山蕗でありんす。なんでござりんしょう」
「おや、来なんしたか」
遣手婆はにこりと笑んだ。彼女も昔、この店で遊女を勤め上げてきただけあって、歳の割に若々しさを保った妖艶な女だった。いつまで経っても三十路辺りにしか見えないが、それなりに長く勤めているはずである。
山蕗は常から彼女が苦手だった。ゆったりと丁寧に言葉を運ぶのが、彼女の心を巧みに隠すようで居心地が悪くなるのだ。乱暴な物言いの楼主の方が、感情が読み易い分まだ良い。
にこにこと微笑みをたたえたまま遣手婆が首を傾げた。
「あんた、明け乃が恋しいんでありんしょう」
「……」
「山蕗。早よう答えなんし」
「……そりゃ、わっちの、姉さんですもの」
慎重に頷きながら、山蕗はしまったと内心で焦っていた。
──聞かれていた。
全てとは言わずとも、蒔田雨露亮と名乗る隠居との話を少なからず聞かれていたのだろう。それで山蕗を呼んだのだとすぐに悟る。悟ったところで、どうしようもないのだが。
「そやったね。あんたが新造になった時もよう二人で姉妹みたいになあ、喜んでおったわ」
遠い日に目を細めると、突然、ふっと遣手婆から笑みが消えた。
「そンなに恋しいなら、いっそ会わせてやろか」
「な────」
慌てて立ち上がろうとしたところで、かっと背後で襖が開き、山蕗は頭に鈍い衝撃を受けて畳に倒れ伏した。霞む視界に赤い振袖がちらりちらりと目の端で揺れ、誰かが己を縛り上げるのを感じる。
山蕗は叫ぼうとするが、すぐに噛まされた布が邪魔をして声にならなかった。襲ってきた人影が山蕗を転がして布にくるんだ。隙間から見えたのは。
(……雛梅姉さん!)
「──!」
「ぬしがいかんのよ、山蕗。ぬしがあんな女のことも忘れんから、こぉなるんよ」
そんな声が降ってきて、視界が閉ざされた。
後は暗闇ばかりである。
雛梅と遣手婆は二人で布に巻いた山蕗を何処ぞへと運んでいた。暗い道、水を跳ねる音、戸を潜るような音、どさりと地面に転がされたのはそう長くない時を経た頃である。
辺りは暗くて、それに二人が人気のない場所を選んでいたのもあって、山蕗にはここが何処なのかもわからなかった。外には出られぬはずだから、場所は限られていようが──。
遣手婆と雛梅の声が降ってくる。
「雛梅、後はあたしがやりんしょう。ここは任せてお前は先にお帰りな」
「あい。きっと川ノ邉様、首を長うしてあちきらをお待ちしておりんすぇ」
「あら、今日の手筈は伝えておりますんに」
「ねぇ? ほんに、せっかちな方」
「さ、雛梅や、早よう戻って、無事済んだと伝えなんしな。そぉれ」
どん、と脇腹に強い衝撃が加わる。ぱたぱたと走り去る一人の足音。再度、どすんと胴を蹴られる。
呻き声を上げる間も無く、ごろごろと転がされて、落ちていくのは暗い暗いドブだった。
雨音に紛れて水飛沫が上がる。
縛られては身動きひとつできない。
すぐに息を詰めて、必死に堪えるが長くはもつまい。何も見えず、何も掴めず、足掻くことすら叶わず、
(ああ、ここまでか──)
諦めかけたその直後。
山蕗は勢いよく水から引き上げられた。喘ぐように息を繰り返す山蕗はやや乱暴にごろりと地に転がされて、すぐに腕と口元の縛りが解かれた。掠れた視界の端に映った影を見て、山蕗は安堵する。
(蒔田さま……)
山蕗はふっと意識を手放した。
慌てたのは、帰り路に足を踏みかけていた遣手婆である。
誰もいないはずの暗がりに一人、老人が立っているのに気がついたのだ。雨音に混じって聞こえた音に目を凝らせば、ドブに落としたはずの山蕗が地面に寝かされていた。
「た、誰じゃ」
老人は答えない。代わりに一歩二歩と跳ぶように駆けて、雨色の銀光を閃かせた。
どこか涼やかな高い音が鳴る。
それが何かと判ずる前に、遣手婆は呆然と己の身体に走る赤い傷跡に目を見張っていた。右肩からの袈裟斬り──悲鳴すら断ち切られ、力を失った身体がどぶに派手な音を立てて転がり落ちる。
「これで一人」
老人は血を払うと、すぐに足を廓の方へ向けた。暗い道を慎重に進む雛梅の後ろ姿をとらえたのはほどなくしてのことである。
雛梅は裏口に立ち尽くして、背後からひたひたと近づく影を見ていた。抜き身を手に、返り血で黒ずんだ影。引き攣った顔が恐怖の色で染まる。
「おんし、山蕗のとこの──」
今度も女が叫ぶ前に、すかさず老人が踏み込んでいた。
突きだ。
腹を貫く銀色を、雛梅は信じられぬ面持ちで眺めていた。痛みとその気持ち悪さに吐き気を覚える。
「ま、まちなんし、あちきを殺めてなんになる」
「……何にもならぬ」
老人はそのまま真一文字に引き抜いた。刀を手の内で持ち帰ると、すぐにとどめを刺す。
「これで二人」
雨に打たれたまま、雛梅がごろりと地に転がると、そのままドブへと落ちていった。
山蕗女郎を殺そうとしたドブで、女が二人浮いていた。男はさっと血を払うと、今度は外へ目を向けた。
*
長く降り注いだ雨は一度は止み、代わりに霧が深く立ち昇っている。
川ノ邉為衛門は先程捕まえたばかりの猪牙舟に、悠々と揺られていた。揚げ屋からの帰り道である。
待てども馴染みの遊女が現れず、けれど諸事情もあって居ないだなんだと騒ぐわけにも行かず、頃合いを見てそそくさと出てきたのだ。
(なに、大方後始末に手こずったのだろう)
少し前にうっかり手にかける羽目になった明け乃女郎──その事の顛末を知っていると周囲に吹き込む女がいたのだと、川ノ邉は聞かされていた。その後始末をつけるから、座敷で待っていてくださいなと言われ、随分と待たされたのだ。いざという時、助けになれるようにと随分と待ったのだが、相手はたかが女一人。そう気楽に待っていた。
しかし待てども来ない知らせに苛々として、それでも下手なことを言えば己の首を締めるような気がして男衆にも文句の一つも言えなかった。
(まァ、明日にでも話を聞きに出直すか)
幸い、川ノ邉には金があった。
どれほど経った頃だろうか。
つい、と水面に走る線が突然に途切れた。
舟が霧深い川の中央で止まる。川ノ邉もすぐに異変に気がついて、怒ったように船頭を見上げた。笠を被ったその男は、船頭というよりも何処ぞの武家の隠居という方が似合う風貌だった。
「おい、爺、どうした。まだ岸ではないぞ」
「頃合いかと思うてな」
「頃合い? なんの話じゃ」
老人は答えない。ただ真っ直ぐに川ノ邉を見据える眼光はやはり、只者のそれではない。しまった、と顔を顰めた。嵌められたのだ。
(しかし、こちらは商家の三男坊だ。わざわざおれの命を狙う輩など覚えがないぞ──!)
生憎と舟の上、武器になるものも持っていない。身を固くした。
「ぬしが川ノ邉為衛門だな」
「な、何奴じゃ、名を名乗れ!」
「川ノ邉だな」
「お、おれを殺すとどうなるかわかっておるのか⁈」
「わからぬ」
「なんぞ恨みでもあるまいに──」
「ある」
「な──」
「明け乃女郎を知っておろう」
「あ、明け乃! し、知らぬ! あ、あれはあいつが、勝手に」
かちり、鯉口が鳴る。
川ノ邉は刀を見るなり、慌てて、いっそ川の中へと逃げようとした。間合いから離れて、水に潜れば逃げ切れるのではないか──。
その瞬間、老人の刃が夜闇を滑る。
刀の軌跡上にあった首が、骨ごと刎ねられていた。ぎゃあ、と叫んで、男の身体は舟から転がり落ちていく。ついで頭が後を追う。
信じられぬ、と言いたげな首が、目を見開いたまま川に沈んでいくのを、老人は一瞥する。
「誰だと問うたな。恨み屋、蒔田雨露亮だ」
*
はらりはらりと桜が舞う。
蒔田雨露亮が明け乃の仇を討った。そしてそれを願ったのは、他でもない山蕗だった。
(わっちが殺しなんした)
山蕗はそう思っていた。己の恨みが恨み屋を呼び、恨み屋に殺させたのだと、そう思っていた。
世間によると、雛梅と遣手婆は協力して足抜けしようとしたらしい。そこを馴染みの川ノ邉為衛門に見つかって、多少のいざこざの後に斬り合い掴み合いになって二人揃って斬り殺されたと──そういうことになっていた。今は目下、下手人である川ノ邉を皆は血眼になって探しているのだと言う。
山蕗はあの晩、気がつけば部屋に転がされていた。着物をきっちりとかけられてはいたものの、いかんせん濡れたままだったものだから、見事に翌日から熱を出した。そうして寝込んで、ようやく起き出したのが今朝のことである。
ことの顛末も、人伝に聞いた。
(恨みを扱う恨み屋か──)
ひとつ恨みを晴らせばまた次の恨みが生まれる。恨みとはそんなものだ。ならばあの翁も、それに託した人も、きっと随分な枷を嵌められているのだろうとぼんやりと考える。
雛梅女郎付きの新造や禿は事件の後、あの姉さんが足抜けなんぞするわけがないと、わんわんと泣いていた。なんやかんやで彼女を慕っていた遊女もすくなくはなかったようだ。遣手婆にしてもそうだ。そのうち、誰かがかつての山蕗と同じように恨みを募らせるのではないか──。
或いは川ノ邉の家の誰かが絡繰に気がついて、冤罪だと主張し、その仇を討たんと思ってもおかしくはない。巡り巡って蒔田とその依頼人である山蕗に気がつくのも、またあり得ない話でもないのだ──。
(……ふふ、明け乃姉さんの仇の、そのまた仇がわっちかぇ。ほんにおかしなこと……)
今回は助けてもらったが、次に蒔田雨露亮が現れたらどうなるか。他の誰かに希われて、山蕗を仇として狙いに来ないとも限らない。
山蕗はそわそわとまた、その老人が現れるのを待っていたのだが、春がきて、夏が来て、秋が来て、冬が来ても、ついぞ蒔田がその姿を見せることはなかった。
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