残365日のこおり。

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第7章

あいり、『 』しよう。

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「あいりっ! 」

 寝室のドアを開けた水川の目に映ったのは、あいりの首を締めるこおりの姿だった。ベットに腰掛けるように座った2人。苦しそうに顔を歪めるあいりに対して、こおりは水川に背を向けていて表情は読み取れない。

 一瞬、時が止まったかのようだった。

 こおりの腕の血管が浮き出ている。その先にはあいりがいて、彼女の腕はだらんと動かない。

 あいりは明らかにこおりのものと思われる服を着ていた。ベットはぐちゃぐちゃに乱れており、ベット脇に置かれたゴミ箱からはティッシュの山。箱に入りそびれたものは床に少し落ちている。

 寒空の下、長時間待っていた水川の身体は、全速力で走った後とはいえ芯は凍えていた。しかし、この部屋の生暖かい空気は不快でしかない。

 情報は5感を通して伝わってくるが、その意味を頭で理解するには時間が足りなかった。

 いや、時間が惜しかった。時が動き出す。

「このくそやろぉぉ! 」

 水川はあいりを苦しめるこおりに後ろから殴りかかろうとした。しかし、到底奇襲とも言えないその一撃はこおりには届かない。

 あいりが解放されたのが見えた。

 良かった。

 そう思った瞬間、水川の腹部に激痛が走る。衝撃に息ができない。

 こおりは振り向いて表情も変えずに、攻撃をかわして水川のみぞおちに自らの拳を当てたのだ。水川の勢いによって、その威力を増したカウンター。

 水川は床に崩れ落ちる。

 けほっごほっ、はぁ、はぁ……

 誰かが必死に息をする音が聞こえて水川は安堵した。自身も上手く息が出来ず、動けないが、その音だけが大きく耳に届く。

「終わりです、水川さん。あいりは今も昔もずっと俺のもの。渡さない」

 尖った氷のように突き刺さる声は水川の真上から聞こえる。細く開けた目にこおりの影が落ちてきた。

「やめてぇぇ」

 自分の家のものではない風呂上がりの匂いが水川を包む。

 何してんだよ。あいり。

 あいりは水川に覆い被さり、凶器を持ったこおりから守っていた。

「優くんだけは、優くんだけはやめて! 私ならいくらでも殺していいから! 」

「あいりは俺と一緒になるんだ。両想いなら一緒にいるのは当然だろ?
  あいり、邪魔者のこいつを殺して、2人で遠いところに逃亡しよう」

「いやっ!
 こんなことするそうちゃんなんて嫌い! 嫌いっ! 嫌いーっ! 」

 その言葉の後、部屋の中は不自然に静まりかえり、硬質なものが何処かに置かれる音がした。




「あいりちゃん、これで『あの日のやり直し』は終わり。
 俺達、完全にお別れしよう。
 俺の中にある狂気は見えただろ。どんな形であれ、もう一緒にはいられないんだ」

 自身を包んでいた温もりが離れ、必死に顔をあげた水川の目に映ったのは、愛しい人を見つめる1人の男の優しい顔だった。

 あいりの目は見開かれ、涙がこぼれ落ちている。口を動かすが音にはならない。

「水川さん、最高の誕生日をありがとうございました。
 もう電車はないしタクシー呼びますね。
 あいりは薬を盛ったので、あんまり歩けないかと」

 先程までの異常な気配とは裏腹な、明るく柔らかい声に哀愁が漂う。

「おまえ……」

「あっ、勿論、薬は気持ちよくなるだけで害がないやつですよ! 安心してくださいっ」

 綺麗にハンガーに掛けられたあいりの服を水川に渡し、こおりはスマホを取り出して、タクシーを呼び始めた。

 ベット脇のテーブルに置かれていたのは、刃渡りの長い艶光りする包丁。水川は思わずこおりから遠い位置にそれを動かしてしまう。

「15分位で着くそうです。あいり、早く着替えて」

 数分前の非日常を、ただの日常の延長かのように振る舞うこの男はやはり危険だ。

 こおりが寝室を出て行ったので、水川は放心しているあいりを何とか着替えさせる。
 あいりは脱け殻のようだった。声を掛けても、口を震わせるだけで言葉が出ない。


「あっ着替え終わりました? これ、あいりの荷物です」

 寝室を出て、ソファーに座って待っていたこおりは、水川に笑顔でトートバックと紙袋を渡してくる。

 水川は鞄だけ受け取り、紙袋はこおりの方に押し戻した。

「それ、あんたへの誕生日プレゼント。あと、杏梨さんへのお礼が入ってる。
 あいり、先に渡さなかったの? 」

 水川の隣に佇んだあいりは、水川から僅かに目を背け、一瞬の間を置いて何か言葉を発しようとする。

 しかし、声は出なかった。

「あれーあいりちゃん、声出なくなっちゃった? 
 大丈夫。水川さんはそんなことじゃ、あいりを見捨てたりしないよ」

 あいりの目から涙が溢れているのにこおりの口調は変わらない。

「てめぇっ、誰のせいで! 」

 掴みかかろうとする水川をこおりの声が制す。

「タクシー着ちゃいますよ。
 もう美味しい楽しいお誕生日会は終わったので帰ってください。ちゃんと合い鍵はあいりに返しました」

 これ以上長居する理由もなかった。

 水川はポケットから折り畳まれた封筒を出して、テーブルに置く。

「連絡した通り、前に預かった金は全部返す。もうあいりにはあんたは必要ない」

「タクシー代位は持ってって下さい。あと、これは? 」

 こおりがぷらんと目の前に出したのは、誕生日プレゼントの紙袋。

「何もいらない。
 なんで渡さなかったのかわかんないけど、それは俺達が選んだあんたへの贈り物だから返されても困る。
 行こう、あいり」

 ええー、っと不満気なこおり。
 こおりの方を何度も見るあいり。
 あいりの手を引く水川。

「こおりさん、元気でな」
「あいりを宜しく頼みます。優しい王子様」

 余韻もなく閉められる扉に、
 直ぐ様、掛けられた鍵。


 隣は静かで、空虚。
 水川の心は混沌。

 言ってやりたいことは山程あったが、こおりの痩せこけた顔を見たら『元気でな』以外言葉が出なかった。

 悩み苦しみ踠いた日々を過ごした男の顔だった。
 ほっておけなかったあいりのことは責めない。

 家に着いて、水川はあいりの身体を丁寧に洗った。あいりが首から鎖骨辺りに手を当てて何度も擦る。何かを探すように。

 首を絞められた跡なんて残っていない。
 白い肌が続いているだけ。

 良い匂いになったあいりを抱き締めて水川はベッドに横になった。彼女の頭にキスをする。

 泣き虫で脆くてそれでも愛しい大事な人。

「あいり、俺がずっと大切に守るから
 俺と結婚しよう」

 あいりの目は水川を映したが、その瞳に喜びの色は浮かばなかった。
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