1 / 1
誰か説明してほしい
しおりを挟む
「イザベラ・クリスタル。お前との婚約を破棄する」
待ってくれそんなこと俺は何一つ聞いていない。
俺の名はセオ・サファイア。とある名家に仕えている子爵の男子だ。その仕えている相手というのがすぐそこにいるアレックス・アレキサンドライト。そして我が主と対面している美しい女性がイザベラ・クリスタル公爵令嬢だ。
二人は幼い頃より婚約者として共に歩んできた。お互いに切磋琢磨し高め合い、この二人が将来国を治めるのであれば将来安泰だと思えるほどだった。政略結婚のわりには二人の仲は悪くはなく、そこに恋愛感情があるかどうか俺にはわからなかったが良きパートナーになることは間違いない。
そう思い、俺も仕えてきたというのに。なぜ、よりにもよって、要人が集っているこの社交パーティー会場で我が主はそんなことを口走ったのか。
そもそも貴方は何かある度に俺に相談をしてきていたはずだ。だというのに、なぜ今回ばかり俺は何も聞かされてはいない。反対されるとわかっていたからか、それとも何か負い目を感じることがあったのか。
唖然としている俺を後目にアレックス様はイザベラ令嬢にあることないことをベラベラと喋り始めた。そもそも、最初から気になっていたのだが貴方の隣にいる女性は一体なんだ。社交パーティーだというのにそんな胸元を大きく開いたドレスを身にまとい、婚約者でもないというのにアレックス様との距離が異常に近い。
一体私の目の前で何が起こっているのだろうかと、一瞬フッと意識が遠ざかる。誰か夢だと言ってくれ。
イザベラ様のどこにそんな嫌う要素があっただろうか。彼女はまさに淑女の歩く教本。何から何まで完璧にこなす彼女の何が気に入らなかったのか。そもそも何から何まで完璧にこなすからこそ嫌になったのだろうか。
だがそれはアレックス様にも言える話だ。将来の王になるべく帝王学を始め剣術はその他諸々、何から何まで完璧にこなす人間がアレックス様であった。俺はそんなアレックス様に仕えることを誇りに思い、何があろうとも彼を支えよう。そう思っていたのに。
「アレックス様ぁ、わたし怖かったんですぅ」
だからその女は一体誰なんだ。よくも婚約者のいる相手にそこまで媚びへつらうことができるなと思うと同時に、その婚約者が目の前にいるのになんとも思わないのかと段々と腹が立ってくる。なぜあんなにも醜い立ち振舞をしている女を傍にいることを許したのか。
そんな二人の様子を見ていたイザベラ様が「ハッ」と鼻で笑い飛ばす。いや笑い飛ばしたくなるのもわかる。
「わたくしはそのようなことをした覚えなど一切、ございませんわ」
「だが目撃者がいる」
「どうせその目撃者というものの、そちらのお馬鹿なお嬢さん……ああ申し訳ございません。男爵家の令嬢だったかしら? まぁどうでもいいですわ、そこのお嬢さん。貴女が目撃者を買収しているところを見たという者がこちらにはいるのですけれど?」
流石はイザベラ様、すでに証拠は掴んでらっしゃったかと内心親指を立てる。実際少し立っていたかもしれない。
見事なまでのカウンターを喰らった男爵家の娘はわなわなと震えだし、あろうことかイザベラ様に人差し指を突きつけてきた。人に指を向けるなど、一体どういう教育を受けてきたのかと溜め息を吐き出す。
「そんなのあなたのデマでしょお?! わたしが可愛いからって嫉妬しないでくださます?!」
「お入りなさい」
「は、はい」
入るように促されたのは例の目撃者なのだろう。イザベラ様に証言を許された彼はマメな性格だったようで、あの男爵家の娘がいつ何時にどこで買収していたのかしっかり記憶していたようだ。そのすべてに心当たりがあるようで、さっきまで怒りで赤くしていた顔が今度は真っ青になる。
そもそもイザベラ様に真っ向勝負を挑もうなどと無謀な話なのだ。彼女は決して周囲に弱みを見せるような人間ではない。
「さて、次はどうなさるつもりですの? アレックス様」
「……」
「……いいですわ、婚約破棄は受け入れます。ですが貴方の所業、わたくしのお父様にしっかりと、ご報告させていただきますわ」
イザベラ様はサッとドレスを翻し、胸を張って颯爽とこの場を去っていく。いつでも強く美しい女性だ、と思いつつ視線をイザベラ様からアレックス様に戻す。結局、今日のことを一切知らされなかった俺は何もできることがなかった。
あの女は自分の状況がようやくわかったのかアレックス様に縋り付いていたが、アレックス様は女に視線を向けることもなくイザベラ様とはまた別の扉からこの会場から立ち去っていく。俺もハッと我に返り、急いでその背中を追いかけた。
「一体どういうことですか! なぜ俺に一言も相談なしにあんなこと……! 今からでもイザベラ様に謝罪をしに行きましょう!」
段々とひと気がなくなり、二人で個室に入った瞬間そう口にした。今まで良好な関係だったはずなのになぜ婚約破棄ということになったのか。そもそもあの女は一体なんだったのか、婚約破棄の理由があんなデタラメなことだなんて、いつものアレックス様から考えられないとあらゆることが頭の中をぐるぐると回る。
「計画通りだ」
「……は?」
ところがだ、そんな俺に対して小さくそう呟いたアレックス様にマヌケな声しか出てこなかった。アレックス様はジャケットを脱ぎソファにかけると、自身もソファに座り深く凭れ掛かりネクタイを緩めている。
「後は父上が私から王位継承権を剥奪し勘当してくれれば完璧だ。幸いにも弟も王位継承についてはとても意欲的だ、憂うことは何もない」
「な……何を言って……」
先程のパーティー会場での立ち振舞とは打って変わっていつものアレックス様の様子に、思わず困惑してしまう。
「安心しろ、イザベラは私の協力者だ。婚約破棄の条件として公然の場で私が恥をかき、彼女に同情票が集まるようにするとのことだった。ちなみにあの男爵令嬢のことは私も詳しくは知らん。勝手についてきた。イザベラが準備したようだがな」
「はい……?」
あれほど親密そうな様子だったというのに……と、そこまで考えてはて果たしてそこまでだったかと首を捻る。確かに女のほうがアレックス様にご熱心だったようだが、そういえばアレックス様のほうは一度も女のほうに視線を向けてはいなかった。
そしたらイザベラ様に対してのあの数々のデタラメは一体なんだったのか、と思ったがアレックス様の言葉が事実だったとしたら、そのことに関してもイザベラ様は協力していたことになる。
二回目の、フッと意識が遠のく感覚。だがアレックス様の前でそのような失態はできないと一瞬で意識を取り戻す。
「何も言わなくて悪かった。だが相談すればお前は止めると思ってな」
「あ、当たり前ですよ。なぜイザベラ様と婚約破棄することになるのか……だってお二人はいい関係を築いていたでしょう?」
「ああそうだな。『同志』という関係を築いていっていたよ」
「……ならば、なぜ」
政略結婚なのだからそこに男女の関係を築くのは難しい話だったのかもしれないが、それでも決して悪い関係ではなかったはず。アレックス様もそしてイザベラ様も、お互いに気を許している様子だったというのに。
「簡単な話だ、私が王という器に向いていなかった。それだけだ」
「そのようなことはありません。貴方は誰よりもその器に相応しかった。確かに弟君も素晴らしい御仁であることには間違いありませんが……」
「大勢の民よりも一人の人間を選ぶ人間だぞ」
苦笑交じりの声に思わず動きがピタリと止まる。いや、それよりもとんでもない言葉を聞いてしまったような。
「ところでセオ」
「は、はい」
「私が何も持たないただの男になったとしても、お前は私についてくるだろう? お前は私のことを好いているからな。違うか?」
「なっ……」
――ち……違わないですけど?!
ええそうですアレックス様が仰るとおりそれっぽい言葉を並べていましたがずっと貴方のことをお慕いしておりましたが?!
しかしアレックス様とイザベラ様が結婚する事実はどうやっても変えられないもので。しかも俺もアレックス様も同性、身分の差もありお世継ぎ問題も発生する。だから、気持ちを伝えることはなくとも一生この身を捧げてでもアレックス様のお傍でお支えしよう、そう思っていたのに。
まさかアレックス様自分の気持ちが知られていたとは。結構上手く隠していたと思っていたのだが、いや、流石はアレックス様と言うべきか。素晴らしい慧眼の持ち主だ。
と現実逃避をしている場合ではない。これはかなり恥ずかしい、というよりもアレックス様に幻滅されたかもしれない。事あるごとに「優秀な右腕だ」とその手腕を認められお傍に置いてもらっていたというのに。思わず逸しそうになる視線だったが、アレックス様の「セオ」という声に抗うことができず渋々視線を戻す。
「お前は私と一緒に国外へ逃亡してくれるか?」
「も、もちろんです。アレックス様が許してくださるのであればこのセオ、どこまでもお供します……で、ですが」
よかった幻滅はされなかったかとホッと息をついたものの、それでもまだ懸念は残っている――大勢の民よりも一人の人間を選ぶ、という言葉だ。
「俺はどこへでもお供しますが……しかし、時として邪魔になるのでは……?」
「なぜだ」
「なぜって……」
そんな真顔で間髪入れずに言葉が返ってくることは思いもしなかったと思いつつ、これから放つ言葉は自分のメンタルにも多少……いやかなり? の棘を刺す羽目になるため中々に言い出しづらい。が、確認しないわけにはいかない。
「その……国外に行くとなれば、アレックス様が仰っていた方と会われるんですよね……?」
俺の言葉に一瞬怪訝そうな表情をしていたアレックス様だが、何か思い至った表情を見せたかと思えばすぐに苦笑してみせた。何か困らせるようなことを口にした覚えはないが、苦笑したままアレックス様はクツクツと喉を鳴らす。
「セオ。お前は賢い男だが、たまに抜けているところがあるな」
「……え?! な、何か粗々をしましたでしょうか……?」
「いやいやそういうことではない。献身的でだからこそ拗らせているのだなと思っただけだ」
「は、はぁ……?」
いまいちピンとこず困惑したまま首を傾げる。不意に手招きをされそのままの感情のままアレックス様との距離を縮める。話すだけならば申し分ない距離で留まったが、更に近付けと手招きされた。
まるで内緒話をするかのように口に手を添えられたものだから、無意識に身を屈めて耳を傾けようとした。だがアレックス様の手は伸ばされするりと俺の顔に添えられる。今までアレックス様に何かと悪戯をされたことはあったが、今回はなんだか距離が近いというか悪戯の種類が違うような気がして思わず喉の奥で小さく悲鳴が上がった。
いやびっくりしたのは確かだが、如何せんアレックス様は顔がいい。その顔が間近にあって俺のほうをジッと見ているのだから悲鳴を上げてしまっても仕方がない。
「会いに行く必要などない。すでに目の前にいる」
一瞬の沈黙。思考停止。言葉が脳まで伝達するのに時間がかかり、未だに理解できない。
ようやく飲み込むことができた時には、俺の顔はすっかり茹で上がり喉からはか細く情けない声がもれた。
「え、あっ、えっ」
「ちなみにイザベラには出会って早々に知られた」
「……はいっ?! そ、それだとイザベラ様はすべてわかった上で協力していたと……?!」
「そうなる」
二人ともとんだ役者だと唖然とする。ならば何か? アレックス様は俺の気持ちに気付いており、尚且つイザベラ様はそんなアレックス様の気持ちを知っていた。その上での今日のあの騒動だったということか。アレックス様もイザベラ様も人が悪い。そんな、あんな場でわざわざあんな騒動を起こす必要はあったのだろうか。
あったのだろうな、アレックス様の立場上。他に慕っている相手がいるから、しかも同性で、だからといってそれで普通にイザベラ様との婚約を破棄できるわけがない。
「私の想いを受け入れてくれたか? セオ」
「ア、アレックス様……」
「もう王子ではなくなる。アレックスと、そう呼んでくれ」
「そ、それは……」
徐々にアレックス様の顔が近付いてくる。どうすればいいのかわからずただ口ごもり、咄嗟に目をギュッと瞑った時だった。
鍵がかけられていたはずのドアがバンッと音を立てて開かれる。思わず身体が跳ね咄嗟に身体を起こした俺の近くで、小さく「チッ」と舌打ちするかのような音が聞こえた。
「そういうことはご自宅でやってくださる? とは言っても貴方の帰る場所はもう城ではございませんが」
「イザベラ……」
「貴方も厄介な男に捕まってしまったものですね、セオ。お気の毒に」
「イザベラ様……帰られたのでは?」
「色々と後始末をしていましたの。まったく、上手くいったからと言って浮かれるのは早いのではございません? 一体どれほどわたくしが協力したのか忘れたとは言わせませんわよ」
「感謝しているよ、イザベラ」
「ふん、軽い言葉ですのね」
こんなやり取りはいつものことだからなんとも思わなかったが、恐らく他の者が見たら卒倒するだろうなと思わず背筋を伸ばす。この場には俺とアレックス様、イザベラ様とその従者しかいないとはいえ、この場で一番地位が低いのは俺だからだ。
「馬車はすでに到着しているようですわ。御者を待たせることがないよう、早く行ったらどうなんですの?」
「そうしよう。行こうか、セオ」
「えっ、は、はい。それでは失礼します、イザベラ様」
「ええ。貴方の苦労が報われて何よりですわ、セオ」
俺の苦労なんて、お二人に比べれば。そう口にしようとしたけれど、イザベラ様は小さく首を傾げてまるで無邪気な幼女のような笑みを浮かべた。彼女が楽しい時によく浮かべる表情だ。いつもの厳かなイメージが一変するような表情だけれど、残念ながらそれを知っている者は数少ない。
改めてお礼を口にしようとしたけれど、それよりもアレックス様が俺の名を呼ぶほうが早かった。少し呆れ気味のイザベラ様に慌てて会釈し、すぐにアレックス様の背中を追いかける。未だパーティーの真っ最中だというのにひと気が少ないのは、恐らく会場内で先程の騒動について色んな憶測が飛び交い楽しんでいるからだろう。
「アレックス様、これからどうするので?」
「一旦荷物を取りに城に戻ろう。何、父上はすでにこのことを知っている」
「……えっ?!」
「何も準備もせずにあのようなことを起こすわけがないだろう? 後は準備している場所へ向かうだけだ」
「よ、用意周到ですね……本当に俺には何一つ相談することなく」
「献身的なセオは必ず私を止めるからな。流石にセオにまで邪魔をされたくはない」
とてつもない行動力だが、俺が断った時のことは考えてはいなかったのだろうか。いや……思わないかと小さく笑みをこぼす。伊達に長い時間を共にしてはいない。今回の件でアレックス様の考えを読むことができなかった俺に対し、アレックス様からしたら俺の考えなどお見通しなのだろう。
敵わないなぁ、と全面降伏し大人しくアレックス様の背中を追いかけると会場の外へ出た。確かに門のほうではアレキサンドライト家の馬車、というよりもアレックス様御用達の御者の姿が見えた。向こうも俺たちの姿が確認できたようで、恭しく頭を下げる。
アレックス様が振り返り、俺の手を伸ばしてくる。絶対に俺の身には起こり得ないことだとずっと思っていた。けれどそれが今俺の目の前で、実際に起きている。
この幸せを実感し感受していいのだろうか。まるでそんな俺の考えに応えるかのようにアレックス様が微笑む。ああ本当に、貴方はいつもそんな表情を俺に向けてくれていた。
「一体どういうことなの?! アレックス様ぁ!」
そんな空気を切り裂くように、金切り声が響き渡った。後ろを振り返ってみるとあの騒動でずっとアレックス様の傍にいた男爵家の娘が、髪を振り乱した状態でこちらを睨みつけている。
「どういうことなのアレックス様! わたしのこと、愛してるんですよねっ?!」
「一体なんのことだ。そもそもお前は誰だ」
「なっ……?! わたしのためにあの女に色々と言ってくれたじゃないですかぁっ!」
「あれはイザベラからもらった原稿をそのまま口にしただけだ。誰があんなにも明らかに嘘だとわかる支離滅裂な言葉を口にするか」
「は……はぁっ?!」
恐らく俺も何も教えてもらわなかったらあの女と同じ反応をしていると思う。つまりは無理矢理婚約破棄をするためにあの女を利用した、ということなのだから。何も知らず利用されたのは気の毒だが、しかし貴族の端くれならば利用される自分が愚かなのだとわかるようなものなのだが。
だが女は現実を見たくないようで、「嘘よ!」という言葉を繰り返して顔を真っ赤にし頭を左右に振った。
「だって……だって! 何度も何度も手紙のやり取りをしたじゃない! 手紙に、わたしのこと愛してるって書いてたじゃない!」
「お前に手紙を寄越した覚えなど一切ないが」
「そんなっ」
「そもそも、お前は私の好みではない。己が主役のパーティーではないというのに見るからに自己顕示欲の強いドレスに立ち振舞。私は控えめで献身的な人間を好んでいるのでな」
「なっ、なっ……!」
火に油を注ぎすぎではと思いつつも、本当にあの女はアレックス様の好みどころかその真逆だ。これでもまだ感情を抑え対応しているが、内心では結構な舌打ちを漏らしているはず。
女はプルプルと震えだし顔を俯ける。周囲に人間はいないとはいえ騒ぎを起こされると困るなと思っていたら、だ。次に顔を上げた女の顔はあの騒動でアレックス様に媚びっていた顔とは全く違う、怒りによって激しく歪んでいる醜い顔だった。
「ふっ……ざけんな! 贅沢しても有り余るお金が入ると思っていたのに‼ 一生遊んで暮らせると思っていたわたしの計画をどうしてくれんのよッ!」
酷い言葉の数々だが彼女も所詮その程度だったということだ。アレックス様を愛していたわけではなく、その地位が何よりも魅力だったのだろう。アレックス様自身の魅力に気付かないとはこの女の目は腐っているのか?
そう思っている間に女の手にはキラリと光る何かが見えた。そのままこちらに向かって突進してきて俺は迷うことなくアレックス様の前に躍り出る。向けられたナイフに怯むことなく、腹に突き立てられる前に手で払い除けまずナイフと落とさせる。次に暴れだそうとする女の腕を掴み、身体を地面の上に押し付けた。流石にここまですると門兵などが気付くため急いで駆けてきているのが見える。
「アレックス様に指一本触れさせてたまるものか」
アレックス様はその身分故に今まで幾度となくその身を狙われ続けていた。それに対し何の対処もしないわけがない。アレックス様が誘拐されないよう誰にも傷付けれられないよう、細身で運動が苦手だった身体を必死に鍛え上げ技を磨いてきた。
未だに喚いている女は門兵たちが拘束し、手についている汚れをパンパンと軽く叩いて払った俺はアレックス様に怪我がなかったかどうかの確認のために振り返る。するとそこには満面の笑み。しかも「流石だ」というお褒めの言葉まで頂いてしまって幸福のあまりに胸がキュンッと痛くなる。
「お前に怪我はないか? セオ」
「も、もちろんです!」
「そうか。相変わらず相手を軽くいなすお前は格好良いな」
「めめめめ滅相もございません」
「だがこれからは私にもお前を守らせてほしい。身分など、関係なくなるのだからな」
手を取られ、身を屈めたアレックス様にキスを落とされる。そんな、ご令嬢にするようなことを俺なんかに、と思いつつもあまりの格好良さに「ひゃい」という情けない声しか出せなかった。
国から離れ小国の田舎へ辿り着いたのは早かった。本当に準備万端だったんだなとつくづく思ったのはそういう準備を目の当たりにしたのもそうだが、王が空席になった王位継承者の次の者の発表がすぐだったからだ。まさか王までも巻き込んでいたんじゃないのかと思ったが、王も聡明な方だから自分の息子の動きに気付いていたのかもしれない。しかし気付いていたのならば息子に諦めさせる方法も取れたはずなんだけどな、と思ったがそこは当人でないとわからないだろう。
「セオ、薪割り終わったぞ」
「ありがとうございます。アレックス様」
「セオ」
「あっ……あ、あ、あり、がとうっ、アレックス……!」
「うん」
にっこりと微笑まれた顔が眩しくて思わず心の中で「うわーっ」と叫びつつ目を細める。
この場にやってきて最初に言われたのが言葉遣いと呼び方を改めることだった。
「普通のアレックスとセオなのだから、今まで通りにするのはおかしいだろう?」
そう言われて何も言い返すことができず、頷きはしたもののそれが何よりも大変だった。だって一体何年彼の傍で仕えてきたと思っている。身に染み付いている習性は中々取ることができず、もう何度も指摘されている。
あれから俺も自分の家に戻ったが、すでに俺の荷物がまとめられていて唖然としたのを今でも覚えている。どうやら俺の家にもすでに話をつけていたらしく、俺がパーティー会場へお供している最中にさっさと荷物をまとめたそうだ。俺の意見すっごく無視しまくるじゃん、と思ったものの、俺が拗らせていることを知っていた両親の行動もまた早かったということだ。
家のことは気にするなお前の兄はお前よりもずっと賢いし強かに動く、何も心配はない! そう言われて背中を押された時の気持ちといったら。まぁ、清々しい見送りだったからよかったことにしよう。
そのおかげもあって今はこうしてアレックス様……もとい、アレックスと共に穏やかな日々を過ごしている。元よりなんでもできるアレックスは庶民の生活も苦には思っていないようで、寧ろどこか楽しんでいる傾向だ。しかも人当たりもよく尚且つ顔もとてもいいため、近所の人たちからは大人気だ。ただ地位は剥奪されたとはいえ元王子ということがバレないか少し心配なのだけれど。
ちなみに直接会ってはいないがイザベラ様と手紙のやり取りはしている。第一王子があんな騒動を……という言い方はあれだが、まぁ騒動を起こした割には国外追放もされたのと第二王子も強かに動いたためかそこまでの世論が乱れることもなく。そしてあらぬ疑いをかけられた――ように仕向けた――イザベラ様は、その頭角を表し更に一目置かれる存在になっているそうだ。今ではあちらこちらから婚約の声がかかるほど。
「わたくしの理想をわかって手紙を寄越してきているのかしらね?」
そうしたためられた手紙を読んだ時はつい苦笑してしまったものだ。だって彼女の理想は自分よりも優秀な人間。そして婚約者だった人は、誰よりも優秀で強く優しい人だったのだ。彼以上の人間を探すなんてとても難しそうだ。
そして例の男爵家の娘はというと、詳しいことは俺は知らされていない。ただ手紙には「わたくしを利用しようだなんて百年早いと思わなくて?」と書かれていただけだった。
「ところでセオ」
「はいなんでしょう!」
「……こほん」
「あっ、な、なんだろうか……?」
やっぱり敬語なしだなんて慣れないな、と思いつつこちらに視線を向けているアレックスに向き直る。
「随分とイザベラと仲良くしているようだな?」
「仲良くと言うか、向こうのことを色々と教えてもらっていると言いますか……」
「セオ?」
ああやっぱり慣れない。顔をギュッと歪ませつつ「慣れるまで時間をください」とか細い声で返すしかできなかった。
「わかった。時間がかかりそうだから気長に待ってあげよう。セオ、イザベラと仲良くするのも構わないが、その分私にもちゃんと構ってもらわないと。こう見えても私は嫉妬深いからな」
「そ、そうなんですか……?」
「ああ。今まで我慢してきた反動だな。ほら、この通り」
「うわっ?!」
さっきからにこやかに話をしながら徐々に距離を縮めてきているな~とか思っていたらだ、気付いたら目の前にいたアレックスに腰を引かれ抱き寄せられる。
「今まで健気だったセオに合わせていたが、これからは私の好きなようにさせてもらうとしよう」
「ひぇっ」
そんな格好良い顔で、一体どこでそんな技術を手に入れたのか。いやいや相手は元王子なのだからそんな技術を手に入れる状況なんていくらでもあったはず。しかし顔がいい。困ったことに顔がいい。内面すべて滲み出されている顔を直視するには俺の心臓はまだ少し貧弱だ。
「お、御手柔らかに、お願いします……っ」
「いいや、その言葉はもう受け入れない」
「そ、そんなっ?!」
「言っただろう?」
親にも知られているように、長年想い続けてきたせいで俺も中々拗らせている。だからアレックス様へ対する忠誠心とか憧れとか恋慕とか、色んなものがごちゃごちゃに混ざり合って、しかもこんな至近距離で俺と同じ感情を向けてくれているアレックス様が目の前にいて。
「私の好きにする、と」
その人が、俺の耳元に口を寄せて吐息混じりに言葉を発したとなると。
フッと意識が遠ざかるのがわかって、そして耳元では楽しげにクスクスと笑う声。腰は引き寄せられたまましっかりと俺の身体を抱きとめているままだった。
待ってくれそんなこと俺は何一つ聞いていない。
俺の名はセオ・サファイア。とある名家に仕えている子爵の男子だ。その仕えている相手というのがすぐそこにいるアレックス・アレキサンドライト。そして我が主と対面している美しい女性がイザベラ・クリスタル公爵令嬢だ。
二人は幼い頃より婚約者として共に歩んできた。お互いに切磋琢磨し高め合い、この二人が将来国を治めるのであれば将来安泰だと思えるほどだった。政略結婚のわりには二人の仲は悪くはなく、そこに恋愛感情があるかどうか俺にはわからなかったが良きパートナーになることは間違いない。
そう思い、俺も仕えてきたというのに。なぜ、よりにもよって、要人が集っているこの社交パーティー会場で我が主はそんなことを口走ったのか。
そもそも貴方は何かある度に俺に相談をしてきていたはずだ。だというのに、なぜ今回ばかり俺は何も聞かされてはいない。反対されるとわかっていたからか、それとも何か負い目を感じることがあったのか。
唖然としている俺を後目にアレックス様はイザベラ令嬢にあることないことをベラベラと喋り始めた。そもそも、最初から気になっていたのだが貴方の隣にいる女性は一体なんだ。社交パーティーだというのにそんな胸元を大きく開いたドレスを身にまとい、婚約者でもないというのにアレックス様との距離が異常に近い。
一体私の目の前で何が起こっているのだろうかと、一瞬フッと意識が遠ざかる。誰か夢だと言ってくれ。
イザベラ様のどこにそんな嫌う要素があっただろうか。彼女はまさに淑女の歩く教本。何から何まで完璧にこなす彼女の何が気に入らなかったのか。そもそも何から何まで完璧にこなすからこそ嫌になったのだろうか。
だがそれはアレックス様にも言える話だ。将来の王になるべく帝王学を始め剣術はその他諸々、何から何まで完璧にこなす人間がアレックス様であった。俺はそんなアレックス様に仕えることを誇りに思い、何があろうとも彼を支えよう。そう思っていたのに。
「アレックス様ぁ、わたし怖かったんですぅ」
だからその女は一体誰なんだ。よくも婚約者のいる相手にそこまで媚びへつらうことができるなと思うと同時に、その婚約者が目の前にいるのになんとも思わないのかと段々と腹が立ってくる。なぜあんなにも醜い立ち振舞をしている女を傍にいることを許したのか。
そんな二人の様子を見ていたイザベラ様が「ハッ」と鼻で笑い飛ばす。いや笑い飛ばしたくなるのもわかる。
「わたくしはそのようなことをした覚えなど一切、ございませんわ」
「だが目撃者がいる」
「どうせその目撃者というものの、そちらのお馬鹿なお嬢さん……ああ申し訳ございません。男爵家の令嬢だったかしら? まぁどうでもいいですわ、そこのお嬢さん。貴女が目撃者を買収しているところを見たという者がこちらにはいるのですけれど?」
流石はイザベラ様、すでに証拠は掴んでらっしゃったかと内心親指を立てる。実際少し立っていたかもしれない。
見事なまでのカウンターを喰らった男爵家の娘はわなわなと震えだし、あろうことかイザベラ様に人差し指を突きつけてきた。人に指を向けるなど、一体どういう教育を受けてきたのかと溜め息を吐き出す。
「そんなのあなたのデマでしょお?! わたしが可愛いからって嫉妬しないでくださます?!」
「お入りなさい」
「は、はい」
入るように促されたのは例の目撃者なのだろう。イザベラ様に証言を許された彼はマメな性格だったようで、あの男爵家の娘がいつ何時にどこで買収していたのかしっかり記憶していたようだ。そのすべてに心当たりがあるようで、さっきまで怒りで赤くしていた顔が今度は真っ青になる。
そもそもイザベラ様に真っ向勝負を挑もうなどと無謀な話なのだ。彼女は決して周囲に弱みを見せるような人間ではない。
「さて、次はどうなさるつもりですの? アレックス様」
「……」
「……いいですわ、婚約破棄は受け入れます。ですが貴方の所業、わたくしのお父様にしっかりと、ご報告させていただきますわ」
イザベラ様はサッとドレスを翻し、胸を張って颯爽とこの場を去っていく。いつでも強く美しい女性だ、と思いつつ視線をイザベラ様からアレックス様に戻す。結局、今日のことを一切知らされなかった俺は何もできることがなかった。
あの女は自分の状況がようやくわかったのかアレックス様に縋り付いていたが、アレックス様は女に視線を向けることもなくイザベラ様とはまた別の扉からこの会場から立ち去っていく。俺もハッと我に返り、急いでその背中を追いかけた。
「一体どういうことですか! なぜ俺に一言も相談なしにあんなこと……! 今からでもイザベラ様に謝罪をしに行きましょう!」
段々とひと気がなくなり、二人で個室に入った瞬間そう口にした。今まで良好な関係だったはずなのになぜ婚約破棄ということになったのか。そもそもあの女は一体なんだったのか、婚約破棄の理由があんなデタラメなことだなんて、いつものアレックス様から考えられないとあらゆることが頭の中をぐるぐると回る。
「計画通りだ」
「……は?」
ところがだ、そんな俺に対して小さくそう呟いたアレックス様にマヌケな声しか出てこなかった。アレックス様はジャケットを脱ぎソファにかけると、自身もソファに座り深く凭れ掛かりネクタイを緩めている。
「後は父上が私から王位継承権を剥奪し勘当してくれれば完璧だ。幸いにも弟も王位継承についてはとても意欲的だ、憂うことは何もない」
「な……何を言って……」
先程のパーティー会場での立ち振舞とは打って変わっていつものアレックス様の様子に、思わず困惑してしまう。
「安心しろ、イザベラは私の協力者だ。婚約破棄の条件として公然の場で私が恥をかき、彼女に同情票が集まるようにするとのことだった。ちなみにあの男爵令嬢のことは私も詳しくは知らん。勝手についてきた。イザベラが準備したようだがな」
「はい……?」
あれほど親密そうな様子だったというのに……と、そこまで考えてはて果たしてそこまでだったかと首を捻る。確かに女のほうがアレックス様にご熱心だったようだが、そういえばアレックス様のほうは一度も女のほうに視線を向けてはいなかった。
そしたらイザベラ様に対してのあの数々のデタラメは一体なんだったのか、と思ったがアレックス様の言葉が事実だったとしたら、そのことに関してもイザベラ様は協力していたことになる。
二回目の、フッと意識が遠のく感覚。だがアレックス様の前でそのような失態はできないと一瞬で意識を取り戻す。
「何も言わなくて悪かった。だが相談すればお前は止めると思ってな」
「あ、当たり前ですよ。なぜイザベラ様と婚約破棄することになるのか……だってお二人はいい関係を築いていたでしょう?」
「ああそうだな。『同志』という関係を築いていっていたよ」
「……ならば、なぜ」
政略結婚なのだからそこに男女の関係を築くのは難しい話だったのかもしれないが、それでも決して悪い関係ではなかったはず。アレックス様もそしてイザベラ様も、お互いに気を許している様子だったというのに。
「簡単な話だ、私が王という器に向いていなかった。それだけだ」
「そのようなことはありません。貴方は誰よりもその器に相応しかった。確かに弟君も素晴らしい御仁であることには間違いありませんが……」
「大勢の民よりも一人の人間を選ぶ人間だぞ」
苦笑交じりの声に思わず動きがピタリと止まる。いや、それよりもとんでもない言葉を聞いてしまったような。
「ところでセオ」
「は、はい」
「私が何も持たないただの男になったとしても、お前は私についてくるだろう? お前は私のことを好いているからな。違うか?」
「なっ……」
――ち……違わないですけど?!
ええそうですアレックス様が仰るとおりそれっぽい言葉を並べていましたがずっと貴方のことをお慕いしておりましたが?!
しかしアレックス様とイザベラ様が結婚する事実はどうやっても変えられないもので。しかも俺もアレックス様も同性、身分の差もありお世継ぎ問題も発生する。だから、気持ちを伝えることはなくとも一生この身を捧げてでもアレックス様のお傍でお支えしよう、そう思っていたのに。
まさかアレックス様自分の気持ちが知られていたとは。結構上手く隠していたと思っていたのだが、いや、流石はアレックス様と言うべきか。素晴らしい慧眼の持ち主だ。
と現実逃避をしている場合ではない。これはかなり恥ずかしい、というよりもアレックス様に幻滅されたかもしれない。事あるごとに「優秀な右腕だ」とその手腕を認められお傍に置いてもらっていたというのに。思わず逸しそうになる視線だったが、アレックス様の「セオ」という声に抗うことができず渋々視線を戻す。
「お前は私と一緒に国外へ逃亡してくれるか?」
「も、もちろんです。アレックス様が許してくださるのであればこのセオ、どこまでもお供します……で、ですが」
よかった幻滅はされなかったかとホッと息をついたものの、それでもまだ懸念は残っている――大勢の民よりも一人の人間を選ぶ、という言葉だ。
「俺はどこへでもお供しますが……しかし、時として邪魔になるのでは……?」
「なぜだ」
「なぜって……」
そんな真顔で間髪入れずに言葉が返ってくることは思いもしなかったと思いつつ、これから放つ言葉は自分のメンタルにも多少……いやかなり? の棘を刺す羽目になるため中々に言い出しづらい。が、確認しないわけにはいかない。
「その……国外に行くとなれば、アレックス様が仰っていた方と会われるんですよね……?」
俺の言葉に一瞬怪訝そうな表情をしていたアレックス様だが、何か思い至った表情を見せたかと思えばすぐに苦笑してみせた。何か困らせるようなことを口にした覚えはないが、苦笑したままアレックス様はクツクツと喉を鳴らす。
「セオ。お前は賢い男だが、たまに抜けているところがあるな」
「……え?! な、何か粗々をしましたでしょうか……?」
「いやいやそういうことではない。献身的でだからこそ拗らせているのだなと思っただけだ」
「は、はぁ……?」
いまいちピンとこず困惑したまま首を傾げる。不意に手招きをされそのままの感情のままアレックス様との距離を縮める。話すだけならば申し分ない距離で留まったが、更に近付けと手招きされた。
まるで内緒話をするかのように口に手を添えられたものだから、無意識に身を屈めて耳を傾けようとした。だがアレックス様の手は伸ばされするりと俺の顔に添えられる。今までアレックス様に何かと悪戯をされたことはあったが、今回はなんだか距離が近いというか悪戯の種類が違うような気がして思わず喉の奥で小さく悲鳴が上がった。
いやびっくりしたのは確かだが、如何せんアレックス様は顔がいい。その顔が間近にあって俺のほうをジッと見ているのだから悲鳴を上げてしまっても仕方がない。
「会いに行く必要などない。すでに目の前にいる」
一瞬の沈黙。思考停止。言葉が脳まで伝達するのに時間がかかり、未だに理解できない。
ようやく飲み込むことができた時には、俺の顔はすっかり茹で上がり喉からはか細く情けない声がもれた。
「え、あっ、えっ」
「ちなみにイザベラには出会って早々に知られた」
「……はいっ?! そ、それだとイザベラ様はすべてわかった上で協力していたと……?!」
「そうなる」
二人ともとんだ役者だと唖然とする。ならば何か? アレックス様は俺の気持ちに気付いており、尚且つイザベラ様はそんなアレックス様の気持ちを知っていた。その上での今日のあの騒動だったということか。アレックス様もイザベラ様も人が悪い。そんな、あんな場でわざわざあんな騒動を起こす必要はあったのだろうか。
あったのだろうな、アレックス様の立場上。他に慕っている相手がいるから、しかも同性で、だからといってそれで普通にイザベラ様との婚約を破棄できるわけがない。
「私の想いを受け入れてくれたか? セオ」
「ア、アレックス様……」
「もう王子ではなくなる。アレックスと、そう呼んでくれ」
「そ、それは……」
徐々にアレックス様の顔が近付いてくる。どうすればいいのかわからずただ口ごもり、咄嗟に目をギュッと瞑った時だった。
鍵がかけられていたはずのドアがバンッと音を立てて開かれる。思わず身体が跳ね咄嗟に身体を起こした俺の近くで、小さく「チッ」と舌打ちするかのような音が聞こえた。
「そういうことはご自宅でやってくださる? とは言っても貴方の帰る場所はもう城ではございませんが」
「イザベラ……」
「貴方も厄介な男に捕まってしまったものですね、セオ。お気の毒に」
「イザベラ様……帰られたのでは?」
「色々と後始末をしていましたの。まったく、上手くいったからと言って浮かれるのは早いのではございません? 一体どれほどわたくしが協力したのか忘れたとは言わせませんわよ」
「感謝しているよ、イザベラ」
「ふん、軽い言葉ですのね」
こんなやり取りはいつものことだからなんとも思わなかったが、恐らく他の者が見たら卒倒するだろうなと思わず背筋を伸ばす。この場には俺とアレックス様、イザベラ様とその従者しかいないとはいえ、この場で一番地位が低いのは俺だからだ。
「馬車はすでに到着しているようですわ。御者を待たせることがないよう、早く行ったらどうなんですの?」
「そうしよう。行こうか、セオ」
「えっ、は、はい。それでは失礼します、イザベラ様」
「ええ。貴方の苦労が報われて何よりですわ、セオ」
俺の苦労なんて、お二人に比べれば。そう口にしようとしたけれど、イザベラ様は小さく首を傾げてまるで無邪気な幼女のような笑みを浮かべた。彼女が楽しい時によく浮かべる表情だ。いつもの厳かなイメージが一変するような表情だけれど、残念ながらそれを知っている者は数少ない。
改めてお礼を口にしようとしたけれど、それよりもアレックス様が俺の名を呼ぶほうが早かった。少し呆れ気味のイザベラ様に慌てて会釈し、すぐにアレックス様の背中を追いかける。未だパーティーの真っ最中だというのにひと気が少ないのは、恐らく会場内で先程の騒動について色んな憶測が飛び交い楽しんでいるからだろう。
「アレックス様、これからどうするので?」
「一旦荷物を取りに城に戻ろう。何、父上はすでにこのことを知っている」
「……えっ?!」
「何も準備もせずにあのようなことを起こすわけがないだろう? 後は準備している場所へ向かうだけだ」
「よ、用意周到ですね……本当に俺には何一つ相談することなく」
「献身的なセオは必ず私を止めるからな。流石にセオにまで邪魔をされたくはない」
とてつもない行動力だが、俺が断った時のことは考えてはいなかったのだろうか。いや……思わないかと小さく笑みをこぼす。伊達に長い時間を共にしてはいない。今回の件でアレックス様の考えを読むことができなかった俺に対し、アレックス様からしたら俺の考えなどお見通しなのだろう。
敵わないなぁ、と全面降伏し大人しくアレックス様の背中を追いかけると会場の外へ出た。確かに門のほうではアレキサンドライト家の馬車、というよりもアレックス様御用達の御者の姿が見えた。向こうも俺たちの姿が確認できたようで、恭しく頭を下げる。
アレックス様が振り返り、俺の手を伸ばしてくる。絶対に俺の身には起こり得ないことだとずっと思っていた。けれどそれが今俺の目の前で、実際に起きている。
この幸せを実感し感受していいのだろうか。まるでそんな俺の考えに応えるかのようにアレックス様が微笑む。ああ本当に、貴方はいつもそんな表情を俺に向けてくれていた。
「一体どういうことなの?! アレックス様ぁ!」
そんな空気を切り裂くように、金切り声が響き渡った。後ろを振り返ってみるとあの騒動でずっとアレックス様の傍にいた男爵家の娘が、髪を振り乱した状態でこちらを睨みつけている。
「どういうことなのアレックス様! わたしのこと、愛してるんですよねっ?!」
「一体なんのことだ。そもそもお前は誰だ」
「なっ……?! わたしのためにあの女に色々と言ってくれたじゃないですかぁっ!」
「あれはイザベラからもらった原稿をそのまま口にしただけだ。誰があんなにも明らかに嘘だとわかる支離滅裂な言葉を口にするか」
「は……はぁっ?!」
恐らく俺も何も教えてもらわなかったらあの女と同じ反応をしていると思う。つまりは無理矢理婚約破棄をするためにあの女を利用した、ということなのだから。何も知らず利用されたのは気の毒だが、しかし貴族の端くれならば利用される自分が愚かなのだとわかるようなものなのだが。
だが女は現実を見たくないようで、「嘘よ!」という言葉を繰り返して顔を真っ赤にし頭を左右に振った。
「だって……だって! 何度も何度も手紙のやり取りをしたじゃない! 手紙に、わたしのこと愛してるって書いてたじゃない!」
「お前に手紙を寄越した覚えなど一切ないが」
「そんなっ」
「そもそも、お前は私の好みではない。己が主役のパーティーではないというのに見るからに自己顕示欲の強いドレスに立ち振舞。私は控えめで献身的な人間を好んでいるのでな」
「なっ、なっ……!」
火に油を注ぎすぎではと思いつつも、本当にあの女はアレックス様の好みどころかその真逆だ。これでもまだ感情を抑え対応しているが、内心では結構な舌打ちを漏らしているはず。
女はプルプルと震えだし顔を俯ける。周囲に人間はいないとはいえ騒ぎを起こされると困るなと思っていたら、だ。次に顔を上げた女の顔はあの騒動でアレックス様に媚びっていた顔とは全く違う、怒りによって激しく歪んでいる醜い顔だった。
「ふっ……ざけんな! 贅沢しても有り余るお金が入ると思っていたのに‼ 一生遊んで暮らせると思っていたわたしの計画をどうしてくれんのよッ!」
酷い言葉の数々だが彼女も所詮その程度だったということだ。アレックス様を愛していたわけではなく、その地位が何よりも魅力だったのだろう。アレックス様自身の魅力に気付かないとはこの女の目は腐っているのか?
そう思っている間に女の手にはキラリと光る何かが見えた。そのままこちらに向かって突進してきて俺は迷うことなくアレックス様の前に躍り出る。向けられたナイフに怯むことなく、腹に突き立てられる前に手で払い除けまずナイフと落とさせる。次に暴れだそうとする女の腕を掴み、身体を地面の上に押し付けた。流石にここまですると門兵などが気付くため急いで駆けてきているのが見える。
「アレックス様に指一本触れさせてたまるものか」
アレックス様はその身分故に今まで幾度となくその身を狙われ続けていた。それに対し何の対処もしないわけがない。アレックス様が誘拐されないよう誰にも傷付けれられないよう、細身で運動が苦手だった身体を必死に鍛え上げ技を磨いてきた。
未だに喚いている女は門兵たちが拘束し、手についている汚れをパンパンと軽く叩いて払った俺はアレックス様に怪我がなかったかどうかの確認のために振り返る。するとそこには満面の笑み。しかも「流石だ」というお褒めの言葉まで頂いてしまって幸福のあまりに胸がキュンッと痛くなる。
「お前に怪我はないか? セオ」
「も、もちろんです!」
「そうか。相変わらず相手を軽くいなすお前は格好良いな」
「めめめめ滅相もございません」
「だがこれからは私にもお前を守らせてほしい。身分など、関係なくなるのだからな」
手を取られ、身を屈めたアレックス様にキスを落とされる。そんな、ご令嬢にするようなことを俺なんかに、と思いつつもあまりの格好良さに「ひゃい」という情けない声しか出せなかった。
国から離れ小国の田舎へ辿り着いたのは早かった。本当に準備万端だったんだなとつくづく思ったのはそういう準備を目の当たりにしたのもそうだが、王が空席になった王位継承者の次の者の発表がすぐだったからだ。まさか王までも巻き込んでいたんじゃないのかと思ったが、王も聡明な方だから自分の息子の動きに気付いていたのかもしれない。しかし気付いていたのならば息子に諦めさせる方法も取れたはずなんだけどな、と思ったがそこは当人でないとわからないだろう。
「セオ、薪割り終わったぞ」
「ありがとうございます。アレックス様」
「セオ」
「あっ……あ、あ、あり、がとうっ、アレックス……!」
「うん」
にっこりと微笑まれた顔が眩しくて思わず心の中で「うわーっ」と叫びつつ目を細める。
この場にやってきて最初に言われたのが言葉遣いと呼び方を改めることだった。
「普通のアレックスとセオなのだから、今まで通りにするのはおかしいだろう?」
そう言われて何も言い返すことができず、頷きはしたもののそれが何よりも大変だった。だって一体何年彼の傍で仕えてきたと思っている。身に染み付いている習性は中々取ることができず、もう何度も指摘されている。
あれから俺も自分の家に戻ったが、すでに俺の荷物がまとめられていて唖然としたのを今でも覚えている。どうやら俺の家にもすでに話をつけていたらしく、俺がパーティー会場へお供している最中にさっさと荷物をまとめたそうだ。俺の意見すっごく無視しまくるじゃん、と思ったものの、俺が拗らせていることを知っていた両親の行動もまた早かったということだ。
家のことは気にするなお前の兄はお前よりもずっと賢いし強かに動く、何も心配はない! そう言われて背中を押された時の気持ちといったら。まぁ、清々しい見送りだったからよかったことにしよう。
そのおかげもあって今はこうしてアレックス様……もとい、アレックスと共に穏やかな日々を過ごしている。元よりなんでもできるアレックスは庶民の生活も苦には思っていないようで、寧ろどこか楽しんでいる傾向だ。しかも人当たりもよく尚且つ顔もとてもいいため、近所の人たちからは大人気だ。ただ地位は剥奪されたとはいえ元王子ということがバレないか少し心配なのだけれど。
ちなみに直接会ってはいないがイザベラ様と手紙のやり取りはしている。第一王子があんな騒動を……という言い方はあれだが、まぁ騒動を起こした割には国外追放もされたのと第二王子も強かに動いたためかそこまでの世論が乱れることもなく。そしてあらぬ疑いをかけられた――ように仕向けた――イザベラ様は、その頭角を表し更に一目置かれる存在になっているそうだ。今ではあちらこちらから婚約の声がかかるほど。
「わたくしの理想をわかって手紙を寄越してきているのかしらね?」
そうしたためられた手紙を読んだ時はつい苦笑してしまったものだ。だって彼女の理想は自分よりも優秀な人間。そして婚約者だった人は、誰よりも優秀で強く優しい人だったのだ。彼以上の人間を探すなんてとても難しそうだ。
そして例の男爵家の娘はというと、詳しいことは俺は知らされていない。ただ手紙には「わたくしを利用しようだなんて百年早いと思わなくて?」と書かれていただけだった。
「ところでセオ」
「はいなんでしょう!」
「……こほん」
「あっ、な、なんだろうか……?」
やっぱり敬語なしだなんて慣れないな、と思いつつこちらに視線を向けているアレックスに向き直る。
「随分とイザベラと仲良くしているようだな?」
「仲良くと言うか、向こうのことを色々と教えてもらっていると言いますか……」
「セオ?」
ああやっぱり慣れない。顔をギュッと歪ませつつ「慣れるまで時間をください」とか細い声で返すしかできなかった。
「わかった。時間がかかりそうだから気長に待ってあげよう。セオ、イザベラと仲良くするのも構わないが、その分私にもちゃんと構ってもらわないと。こう見えても私は嫉妬深いからな」
「そ、そうなんですか……?」
「ああ。今まで我慢してきた反動だな。ほら、この通り」
「うわっ?!」
さっきからにこやかに話をしながら徐々に距離を縮めてきているな~とか思っていたらだ、気付いたら目の前にいたアレックスに腰を引かれ抱き寄せられる。
「今まで健気だったセオに合わせていたが、これからは私の好きなようにさせてもらうとしよう」
「ひぇっ」
そんな格好良い顔で、一体どこでそんな技術を手に入れたのか。いやいや相手は元王子なのだからそんな技術を手に入れる状況なんていくらでもあったはず。しかし顔がいい。困ったことに顔がいい。内面すべて滲み出されている顔を直視するには俺の心臓はまだ少し貧弱だ。
「お、御手柔らかに、お願いします……っ」
「いいや、その言葉はもう受け入れない」
「そ、そんなっ?!」
「言っただろう?」
親にも知られているように、長年想い続けてきたせいで俺も中々拗らせている。だからアレックス様へ対する忠誠心とか憧れとか恋慕とか、色んなものがごちゃごちゃに混ざり合って、しかもこんな至近距離で俺と同じ感情を向けてくれているアレックス様が目の前にいて。
「私の好きにする、と」
その人が、俺の耳元に口を寄せて吐息混じりに言葉を発したとなると。
フッと意識が遠ざかるのがわかって、そして耳元では楽しげにクスクスと笑う声。腰は引き寄せられたまましっかりと俺の身体を抱きとめているままだった。
854
お気に入りに追加
180
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説

愛する人
斯波良久@出来損ないΩの猫獣人発売中
BL
「ああ、もう限界だ......なんでこんなことに!!」
応接室の隙間から、頭を抱える夫、ルドルフの姿が見えた。リオンの帰りが遅いことを知っていたから気が緩み、屋敷で愚痴を溢してしまったのだろう。
三年前、ルドルフの家からの申し出により、リオンは彼と政略的な婚姻関係を結んだ。けれどルドルフには愛する男性がいたのだ。
『限界』という言葉に悩んだリオンはやがてひとつの決断をする。


僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。



王子のこと大好きでした。僕が居なくてもこの国の平和、守ってくださいますよね?
人生1919回血迷った人
BL
Ωにしか見えない一途なαが婚約破棄され失恋する話。聖女となり、国を豊かにする為に一人苦しみと戦ってきた彼は性格の悪さを理由に婚約破棄を言い渡される。しかしそれは歴代最年少で聖女になった弊害で仕方のないことだった。
・五話完結予定です。
※オメガバースでαが受けっぽいです。


転生したけどやり直す前に終わった【加筆版】
リトルグラス
BL
人生を無気力に無意味に生きた、負け組男がナーロッパ的世界観に転生した。
転生モノ小説を読みながら「俺だってやり直せるなら、今度こそ頑張るのにな」と、思いながら最期を迎えた前世を思い出し「今度は人生を成功させる」と転生した男、アイザックは子供時代から努力を重ねた。
しかし、アイザックは成人の直前で家族を処刑され、平民落ちにされ、すべてを失った状態で追放された。
ろくなチートもなく、あるのは子供時代の努力の結果だけ。ともに追放された子ども達を抱えてアイザックは南の港町を目指す──
***
第11回BL小説大賞にエントリーするために修正と加筆を加え、作者のつぶやきは削除しました。(23'10'20)
**
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
幸せな気分になれました(*˘︶˘*).。.:*♡
よかったです!こちらこそ読んでくださりありがとうございました!