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2章

18 またしてもブラ

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 温泉地のガイドブックなら、やっぱり自分も温泉を体験しないと十分な記事を書けないよね。
 ーー昨日から胸に残るしこりは気付かぬ振りをして、仕事と向き合う。こういう時、打ち込めるものがあるのはありがたい。

 温泉は複数施設があり、男性用女性用分かれている。
 今は私が一番大きい温泉の女性用施設を取材している間に、アレクは別の取材に行っている。私が『男湯もここを確認してほしい』とチェックポイントを作成してから、今度は逆をするのだ。
 個室タイプ以外は水着が必要で、スパの温水プールのようだ。お湯の温度は日本人的にはぬるく感じる。欧米の温泉ってこの位の温度に調整してることが多いよね。源泉は何度位だろう。
 プールを出た女性達が休むための、椅子と小さなテーブルがいくつもあるラウンジを歩いていて、視界の端を赤い色が掠める。

 ……え?!
 思わず振り返り二度見すると、やはり間違いない。うちのガイドブックだ。第2弾の、きちんと本になった方。表紙に赤い花がある。
 傍らには40代位のふくよかな女性が椅子に座っている。富裕層のようだ。あの人が買ってくれたのか、と拝みたい気分になる。

 しかし。よく見るとなんだか具合が悪そうだ。使用人らしき女性が心配そうに付き添っている。
 人が付いているなら素人の私ができることはないだろう。……と思うが、風呂と温泉に一家言ある日本人ゆえ、何かできることがあるかもしれない。
「あの。お体の具合が悪いのですか」
「お医者様ですか」
 使用人の方にすがるような目を向けられる。ごめん。
「申し訳ありません。医者ではないのですが、どうされましたか」
 使用人が奥様に許可を求めるように視線を向けると、苦しそうな奥様が頷いた。
「奥様は呼吸器がお弱いため湯治にこちらへ来たのですが、湯に入っている途中で苦しまれて……」

 呼吸器疾患に湯治という話は聞く。温泉成分に効能がある場合もあるが、水圧で肺を押されるので呼吸活動が活発になるとか。
 呼吸器の病気については素人の私は何も言えない……あれ?
「お顔の色が赤いようですが、発作の時はいつも?」
「いえ、いつもは青ざめてしまわれます」
「今、お手は冷たいですか熱いですか」
「熱いです」
 呼吸器の問題ではなくこれは多分……熱中症だ。
 ラウンジのウェイターに頼み、薄めたレモネードと塩を持ってきてもらう。塩を少し入れ、少し手にたらし味見してから差し出す。
「これを飲んで頂けますか」
 使用人の方が困惑する。毒とまでは思わないにしても、私は通りすがりの得体の知れない人間だもんなぁ。
 いっそそれを利用しよう、と自分のアジア顔を指差す。 

「私は見ての通り異国の出身です。温泉の多い国でした。温泉に入ると、汗が出て体の水分や塩分が減ったり、体に熱が溜まり過ぎて具合が悪くなることがあると知られていて、対策にこうした飲み物を飲んでいました。
 水と、少しの塩と砂糖とレモン。害はありませんので試してみて下さい」
 つまりはスポーツドリンクだ。元がレモネードだから最適の分量じゃないけど塩はこの位の味でいい筈。
 使用人は思い詰めた顔をして、自分がスプーンで一口飲んで確認してから、奥様にゆっくり飲ませた。
「それから、濡らしたタオルで体の熱を冷やしてさしあげて下さい。首や脇の下や腿の付け根が効果的です」
 スポーツドリンクのお代わりを作ったり、タオルの交換を手伝ううちに奥様は苦しげな様子が収まり、顔色も赤みが引いた。
「ありがとう。楽になったわ。後でお礼を持たせるわ。お名前を教えて?」
「いえ、とんでもない。お役に立ててよかったです」
「そうはいかないわ」
「いえ。……あ、実は私、奥様がお持ちのその本を発行した店の者なんです。だからお読みくださったお礼と思って頂けましたら。では」
 テーブルの上のガイドブックを指し、これでお相子です、とそそくさと去ろうとした背中に声をかけられた。
「ひょっとして貴女、ハナさん?!」

 ……は?


◇◆◇◆◇◆

 温泉の付属するホテルの一室へ案内された。華やかだ。
 お風呂上がりに合流する筈だったアレクへ伝言を残し、奥様の部屋へ連れてこられた。
「私はイザベラ・ギブソン。貴女はハナ…さん?」
「ハナ・セヤです。ハナとお呼びください」
 Miss羽南と呼ばれてしまったが、Missの後は本来は姓がつく。多分異国の姓名が分からなかったのだろう。
「ハナ。貴女はお針子のレベッカに、体を締め付けない小さな胸だけのコルセットや、体に良い呼吸法を教えて下さったと聞いているわ。レイクサイドの街では珍しい東方の風貌の女性だと。そして最近、旅行ガイドブックを作ったというので買わせて頂いたわ」
 やっぱりかーー!そしてレベッカ、何をどこまで話したんだーー!
 ……いや、自分一人の手柄にせず、情報源を示した誠実な配慮だったのだろう、と思い直す。
 レベッカは、呼吸器が弱い奥様の要望で古着屋リサと共にブラの作成に取り組んだと言っていた。つまりこの奥様か!
 話の感じだと、裕福な中流階級位の人だったと思う。
 世間は狭い。いや、あの街から呼吸器の療養に行くなら、3駅しか離れていないこの温泉地に来るのはありそうなことか。
「今もレベッカの作った胸だけのコルセットを着けているの。とても息がしやすいわ」
 ギブソンさんは片手で胸の辺りを押さえて見せる。
 レベッカ、リサ、凄いよ。貴女達の作ったブラがこんなところまで縁を繋いだよ。

「この部屋にお招きしたのは他でもないわ。ハナ、折り入ってお願いがあるの」
「なんでしょうか」
 戦々恐々としながら身構える。
 ギブソンさんは私の手を握りしめて言った。
「『背筋の鍛え方』を教えて頂戴!」


「……はい、そのまま手を前に浮かせて背を反らせます。腰を痛めやすいポーズですので、無理せずに」
 ギブソンさんの広いベッドの上に二人うつ伏せに寝転んで背筋運動。
 背筋のトレーニングって寝転んだ姿勢のものが多いので仕方ない。
 部屋の端で使用人の方が諦観の目で見ているのは気にしないことにしよう。

 コルセットは背筋を使わず背中を真っ直ぐ保ってくれるので、コルセットを使わなくなると、弱った背筋で体を支えきれず疲れやすくなってしまうことがある。
 それで背筋を鍛える運動をいくつかレベッカに教えたのだが、レベッカもギブソンさんも初めてなので、伝言ゲームでは正しいフォームが今一つ伝わらなかったらしい。筋トレって正しいフォーム重要だよね。

「あー、確かにこれは効いている感じだわ。腹式呼吸ってものも、やっと勘を掴めた感じ」
 温泉の水圧や蒸気の中で腹式呼吸するのは、呼吸器の強化に良さそうだ。効くといいな。
「お役に立てたなら何よりです。明日明後日位は筋肉痛になるかもしれません。3日おき位で、無理なさらないでください」
「分かったわ。ねぇ、もしこの温泉のガイドブックを作るなら、えーと熱中症?とやらの紹介と対処法も是非載せてね」
 うーん。こちらの医学に多分ないんだけど、訴えられたりしないだろうか。異国でこう言われている、位になら書けるだろうか。

「それにしても、別の街で自分の街の人と会うなんてねぇ」
「私は最近あの街に引っ越したのですが、歴史といい自然といい、良い街ですね」
「ありがとう。長年住んでる者として嬉しいわ。でもねぇ。何年か前、カーライルさんが事業に失敗して引っ越してしまってから、あまり質のよくない資本が流れ込んできてるのよね。うちの家の事業とも衝突したりして、最近ちょっと頭が痛いの」
「カーライルさん?」
 どこかで聞いたことがある。
「この辺りの有力者だったのよ。ほら、街の東にカーライル物理学研究所ってあるの知らない?この間火事があった」

 !!カーライル物理学研究所。
 私をこの世界に運んだ研究所。そして私を元の世界へ帰す約束を未だ果たしていないため、交渉を続けている。
 喉がカラカラに干上がった。こんなところでその名前を聞くとは。
「あれも前はカーライルさんの出資で、いい科学者が集まって結構有名な研究所だったのよ。その後、名前はそのままだけど出資者が替わって、最近私達実業家の間ではあまり良くない噂も聞くようになって。一般ではまだそういった裏の話は広まってないけれどね。あぁ、残念だわ」

「良くない噂、ですか?」
 動揺を悟られないように、さりげなく聞く。
 私が異世界人とぶちまける訳にはいかないが、何か情報が得られるだろうか。
 私やアレクのような一般人は知り得なくても、何かを知っている層もあるようだ。

「うーん。その出資者というのが、限りなく黒に近い灰色の団体と繋がりがあるとか。研究員も一部の人はそういう繋がりがあるとか。……あんまり気分のいい話じゃないわね」
「その出資者の名前を聞いてもよろしいですか?」
「調べればすぐ分かることだしね。デイヴィス男爵。ディラン・デイヴィス氏よ」

 デイヴィス男爵。
 その人物は、私のことをーーそして火災やジョンの行方について、何か知っているのだろうか。
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