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第四話
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わたしがミラー・ヴォルフとして三五七番目の世界に来て、数日が経った。
まだまだ不慣れなところも少なくないが、一応は母の仕事の手伝いや薪割り、買い出しなどをそつなくこなしている。居心地はとても良いものの、それに甘んじていてはいけないという気持ちもあった。
アスカ氏が、わたしを呼びつけたのはそんな時だった。
わたしは屋敷の二階にある<鏡堂>へ赴く。
大扉を開け、この世界に来る直前に見た夢の堂へと入った。
アスカ氏は堂の中央に佇んでいた。
わたしは一礼して、アスカ氏の前に座する。
「――これを、イワミどのの所まで届けてほしい。頼めるかな?」
「もちろんです。でもこれは……?」
「仕事に必要だったんで借りていたものさ。私に代わって返却をお願いしたい」
それは革製のアタッシェケースだった。母が護符の運搬に使うトランクとは趣が違う。ダイヤル式の錠がついていて、現代的かつ現実的――もとい二十二番目の世界的な形状である。
そういえば、イワミ氏も時空の守護者だと母が言っていた。
空流苑の、昼の間で見たイワミ邸を思い出す。
「わかりました」
わたしは答えた。
「ありがとう。イワミどのに伝えておくよ。それから、地図を持っていきなさい」
アスカ氏から地図を貰い、アタッシェケースを手に正門をくぐった。
地図は丁寧に詳細を書き込んであり、途中までは地図に従って歩けば何も問題はなかった。
そう、途中までは。
いったいどこで間違えたのか、わたしは見覚えのない森林地帯に立っていた。
いかん。迷った。
わたしは眉間にしわを寄せ、地図を片手に、来た道を戻ろうとする。賢帖の地図であれば、スマートフォンのマップみたいに現在地を示してくれるのだが、あいにくこれは普通の紙だ。
まだ昼前なのだが、森は薄暗く、心細さを煽り立てる。
とにかく見覚えのある場所に出れば――。
そう思った矢先、嫌な気配を木々の間に感じる。
この気配は――妖怪だ。
振り返るや否や、六本足の大トカゲが降りかかってきた。
思わず声を上げ、妖怪を避ける。
妖怪トカゲは地面に両前足を叩きつけ、こちらを睨む。ガビアルそっくりの細長い吻端が目についた。体長は七十センチほどだろう。手負いなのか、尻尾が中ほどから切れていた。
次の瞬間、ヤツは飛びついてくる。
わたしは蹴りで反撃し、逃げた。
だが怪トカゲは追いかけてきた。耳障りな鳴き声で威嚇してきて、是が非でもわたしを仕留めたいらしい。
背後で風切り音。
怪トカゲが跳んのだ。
わたしは横に跳んで、爪撃を躱す。
「そっちがその気なら……」
ケースを置き、魔滅刃の柄に手をかける。
また、敵の突進が来た。
わたしは魔滅刃を振り上げ、鞘で腹を打つ。
手応えはあったが、怪トカゲは木の幹に貼り付いて体勢を立て直した。
怪トカゲが牙を剥き、体躯に似つかわしくない速度で地面に降り立った。
わたしは先手を打つ。
魔滅刃を振りかぶり、頭を打った。
怪トカゲは顎を地面にぶつけおとなしくなる。
安堵の息を吐いた。が、それは早合点だった。
怪トカゲは後ろ足の力で身を反らし、尻尾でこちらを殴ってきた。
直撃を喰らったわたしは体勢を崩し、左腕を噛みつかれる。
鋭い痛みに、顔が歪む。
怒号を上げて魔滅刃を薙いだ。
怪トカゲは剥がれて地面に叩きつけられたものの、まだやる気だ。
わたしは抜刀の構えを取る。が、まだためらいがあった。
魔滅刃の斬撃であれば、おそらくヤツは一撃だろう。
しかし、それは殺しを意味する。
嫌な汗が額を流れ、隙ができた。
怪トカゲは爪を振りかぶって飛び込んでくる。
わたしは胴を捻り、納刀したままの魔滅刃で怪トカゲを打ち払った。
ヤツは道の脇の岩にぶつかったが、それでもなお元気でいる。
「くそ、もう勘弁――」
最後まで言わないうちに、剣閃が走った。
華のような香りがして、怪トカゲはいつの間にか首を落としていた。
薄暗い森に、柔らかい人影が現れる。
人影は着地と同時に、手にした長尺刀を振って血を払った。
妖怪の血は瞬く間に蒸発、霧散して消えた。
人影がこちらに顔を向ける。
清らかな顔立ちの少女だった。深い青の衣を着ていて、尼削ぎの黒髪にも若干青みがかっているように見える。
彼女は言った。
「大丈夫ですか?」
わたしはハッとなって、答える。
「ありがとう……助かりました」
すると彼女は目を見開く。
「あなた、噛まれて――!」
「え? ああ、そういえば……」
わたしが左腕を持ち上げると、少女は袖をまくってきた。
が、傷口を見て彼女はきょとんとした顔になる。
噛まれた傷は、すでに流血量がだいぶ減っていた。塞がりかけとまではいかないが、痛みも引いている。
「……なんともありません?」
「なんとも、というのは……?」
「あの妖怪、牙に毒があるんです。噛まれたら傷口が腫れる上に高熱が出て、立ってられなくなるはずなのに……」
またミラー・ヴォルフの<設定>に助けられた。
わたしはそんなことを思いながら、言い訳を考える。
「とにかく、手当ては必要です」少女は言った。「ちょっと失礼」
彼女は刀を納め、半指の手袋を脱ぐ。そしてベルトに備わった雑嚢から布と薬の瓶を取り出した。
水筒の水で腕を洗い、傷薬を塗ってもらう。すこし沁みたが、薬の効いている証拠だ。
布で負傷箇所を押さえ、包帯が巻かれる。
慣れた手つきだった。
「これでよし……」
彼女は手を拭き、横の髪を耳にかけた。その時、わたしはにわかに驚く。
ピアスだ。
耳全体を、いくつものピアスで飾っている。
可憐な顔立ちからは想像もつかない刺激的な装身に、わたしは目が釘付けになった。
「どうしました?」と、少女。
「え、ああ……いや、なんでも……」
わたしははぐらかした。
「重ねてありがとう。わたしはミラー・ヴォルフ」
「メーイェンです」
少女はそう名乗って、微笑んだ。
わたしはイワミ氏に届けるケースを再び手に取りながら言う。
「恥ずかしながら、道に迷ったところを襲われて……」
「あ、そのカバン……もしかしてイワミさんの――」
「ご存知で?」
「はい。私、イワミさんの……従者と言いますか、そんな感じの間柄なんです」
メーイェンは道の先を指差した。
「案内します」
わたしはメーイェンと共に、改めてイワミ邸を目指す。なんで迷ったのか自分に問い詰めたくなるくらい、ぜんぜん違う道だった。
道中、わたしは彼女に問う。
「あのトカゲの妖怪、尻尾が切れていたのだけれど……」
「あ、ああ……あれ……私が仕留め損ねたやつでして……」
ばつの悪そうな調子だ。が、無理もない。わたしでなければ毒にやられて、倒れていたはずなのだから。
「すみませんでした、私が至らないばっかりに……」
「いえ、お気になさらず」わたしは言った。「わたしも、刀を抜くべきだったのに」
「なぜ抜かなかったんです? 刀に何か――」
メーイェンは魔滅刃に目をやり、首を傾げる。
「妖刀……? でもこれは……妖気……?」
「刀に問題があるわけではなくて……その……」
わたしは口ごもったが、正直に答えた。
「殺す覚悟ができていなくて……」
「ははあ……」
意外そうな、あるいは呆れたような声がメーイェンから出てくる。
「我ながら情けない話です」
「いえ、よくあることですよ。でも……」
彼女はわたしの顔を覗き込んだ。
「遠目からでも鋭い身のこなしでした。それにすごく洗練された剣気を感じる。だから覚悟が追いついてないのは珍しいなって」
おっしゃる通りだ、とわたしは思った。
そもそもミラー・ヴォルフとしての特性は、わたしの想像と母の愛に由来するものだ。生得の才能や修練の賜物ではない。
印象の良くない言葉で表すなら――ドーピングやチートのたぐいだろう。
「あ、もしかしてですけど、アスカさんのところから来られたんです?」
「え? ええ。このケースもアスカ氏の依頼で」
「なるほど、ということはミラーさんも異世界からの転生者というわけですね」
メーイェンは指を鳴らしながら言った。
そういえば彼女はイワミ氏の従者とのことだ。そのあたりの知識を持っていてもおかしくはない。
「先立った母がこの世界に転生していたので、そのよしみで……。技量と覚悟が不釣り合いなのはそれゆえかと」
「補正ですね。ナゾが解けました」
彼女は笑った。眩しい笑顔だった。
さらに歩いていると、メーイェンがふと訊いてきた。
「ミラーさん、鏡堂はご覧になりました?」
「ええ。お屋敷の外観に違わぬ、厳かな空間でした」
わたしは答え、それから問う。
「鏡堂が異世界をつなぐ場所なんですか?」
「そのうちのひとつ、ですね。でも鏡堂自体に時空往来の力は無くて、鍵になる鈴鏡があるんです」
「鍵……」
そういえば、夢の中ではアスカ氏が鈴鏡をわたしに向けていた。たぶんあれが鍵の鈴鏡だな。
そんなことを考えているうちに、わたしたちはコンクリート塀を視界の先にうつし、ほどなくして正門扉の前に来た。
頑丈そうな鉄扉だが、メーイェンは軽く開ける。
近くで見るイワミ邸は、軍事施設か何かのような、堅牢な雰囲気を醸していた。等間隔に並んだ正方形の窓には格子が嵌められ、屋根にはパラボラアンテナが設置してある。
庭は広く、アスファルトの道路が芝生を両断するように伸びていた。
噴水くらいありそうなものなのだが、あるのは長方形の飛び石がいくつか。それも均等に敷かれていて、殺風景という感想が続出しそうだ。ある意味では美しいのだが。
そんな庭の一角に、わたしは何やらモニュメントめいたものを見つけた。
しかしそれが何なのか訊く前に、イワミ邸内に入る。
静まり返った、清潔なエントランスが迎えてくれた。ここも飾り気に乏しく、観葉植物の一つも無い。待ち合い用の長椅子があるばかりだ。
すると、革靴の音が聞こえてきた。右手側の階段からだ。
現れたのは、眼鏡をかけた詰襟スーツの人物だった。体躯はすらりと細く、温厚な顔つきで性別を感じさせない。
「ご足労ありがとうございます。わたくしがイワミです」
「ミラー・ヴォルフです」
わたしはイワミ氏に頭を下げる。
イワミ氏も穏やかな所作でこうべを垂れた。
「どうぞこちらへ。お茶をお出しします」
それからイワミ氏はメーイェンに言った。
「メーイェンもお疲れさまです。ミラーさんとは途中でお会いに?」
「はい。私が逃した妖怪に襲われてしまって……」
「ああ……それは大変でしたね。噛まれはしませんでしたか?」
「そのことなんですが……」
わたしは応接室のソファーに腰掛け、メーイェンと共にそれまでの経緯を語った。
イワミ氏は「フム」と口の中で呟いて、腕を組んだ。
「やはり異世界から来た方は面白い人が多いですね。我々の試みは大成功かも……」
「……ありがとうございます」
わたしの言葉に、イワミ氏はすこし首を傾ける。
「わたしは……元いた世界ではほんとうに惨めな暮らしをしていました。才能も無く、努力は報われず、起こることは望まないことばかり……ですが、この世界は……なんというか――」
目を閉じ、言葉を探す。
「なんというか……わたしと噛み合うような感じがするんです」
「よかった」
イワミ氏は微笑む。
「異世界から転生、転移してきた方々は皆、そうおっしゃってくださるんです。ほんとうに嬉しいことです」
「そういえば、わたしや母の他にもこの世界に来た人がいるらしいと……」
「ええ。そのうちの一人はメーイェンの同僚です」
イワミ氏は顔を真横に向け、メーイェンを見た。
彼女は言う。
「私の本職、妖怪の討伐手なんです」
「最近はどういうわけか、妖怪がよく出るようになりまして……」
そうだ、とイワミ氏は指を鳴らした。
「ミラーさん、討伐手になってみてはどうです?」
「わたしがですか?」
「ええ。悪くないと思いますよ」
「けれど、わたしには殺しの覚悟がまだ……」
そう言うと、イワミ氏は肩を揺らして笑った。
「まだ……。そう、まだ。そこが重要なんですよ」
指先で眼鏡を押し上げ、続ける。
「誰だって経験の無いことに覚悟は固まらないものです。よし、すこし荒療治といきましょうか」
「荒療治って、いったい何を――」
わたしが身を乗り出すと、メーイェンは手袋を取り出し、装着した。
まさか――。
「私と手合わせといきましょう」
メーイェンは立ち上がりながら、口の端を吊り上げた。
イワミ氏も席を立つ。
「わたくしが審判を務めます。危ないと判断すれば止めに入るので、ご安心を」
「文字通りの真剣勝負。殺す気で来てくださいね。ミラーさん」
二人は笑ってこちらを見下ろしてくる。
すさまじい<圧>を感じて、逆にわたしは心が燃えてくるのを感じた。
「……わかりました」わたしも手袋を着ける。「受けて立ちます」
わたしがミラー・ヴォルフとして三五七番目の世界に来て、数日が経った。
まだまだ不慣れなところも少なくないが、一応は母の仕事の手伝いや薪割り、買い出しなどをそつなくこなしている。居心地はとても良いものの、それに甘んじていてはいけないという気持ちもあった。
アスカ氏が、わたしを呼びつけたのはそんな時だった。
わたしは屋敷の二階にある<鏡堂>へ赴く。
大扉を開け、この世界に来る直前に見た夢の堂へと入った。
アスカ氏は堂の中央に佇んでいた。
わたしは一礼して、アスカ氏の前に座する。
「――これを、イワミどのの所まで届けてほしい。頼めるかな?」
「もちろんです。でもこれは……?」
「仕事に必要だったんで借りていたものさ。私に代わって返却をお願いしたい」
それは革製のアタッシェケースだった。母が護符の運搬に使うトランクとは趣が違う。ダイヤル式の錠がついていて、現代的かつ現実的――もとい二十二番目の世界的な形状である。
そういえば、イワミ氏も時空の守護者だと母が言っていた。
空流苑の、昼の間で見たイワミ邸を思い出す。
「わかりました」
わたしは答えた。
「ありがとう。イワミどのに伝えておくよ。それから、地図を持っていきなさい」
アスカ氏から地図を貰い、アタッシェケースを手に正門をくぐった。
地図は丁寧に詳細を書き込んであり、途中までは地図に従って歩けば何も問題はなかった。
そう、途中までは。
いったいどこで間違えたのか、わたしは見覚えのない森林地帯に立っていた。
いかん。迷った。
わたしは眉間にしわを寄せ、地図を片手に、来た道を戻ろうとする。賢帖の地図であれば、スマートフォンのマップみたいに現在地を示してくれるのだが、あいにくこれは普通の紙だ。
まだ昼前なのだが、森は薄暗く、心細さを煽り立てる。
とにかく見覚えのある場所に出れば――。
そう思った矢先、嫌な気配を木々の間に感じる。
この気配は――妖怪だ。
振り返るや否や、六本足の大トカゲが降りかかってきた。
思わず声を上げ、妖怪を避ける。
妖怪トカゲは地面に両前足を叩きつけ、こちらを睨む。ガビアルそっくりの細長い吻端が目についた。体長は七十センチほどだろう。手負いなのか、尻尾が中ほどから切れていた。
次の瞬間、ヤツは飛びついてくる。
わたしは蹴りで反撃し、逃げた。
だが怪トカゲは追いかけてきた。耳障りな鳴き声で威嚇してきて、是が非でもわたしを仕留めたいらしい。
背後で風切り音。
怪トカゲが跳んのだ。
わたしは横に跳んで、爪撃を躱す。
「そっちがその気なら……」
ケースを置き、魔滅刃の柄に手をかける。
また、敵の突進が来た。
わたしは魔滅刃を振り上げ、鞘で腹を打つ。
手応えはあったが、怪トカゲは木の幹に貼り付いて体勢を立て直した。
怪トカゲが牙を剥き、体躯に似つかわしくない速度で地面に降り立った。
わたしは先手を打つ。
魔滅刃を振りかぶり、頭を打った。
怪トカゲは顎を地面にぶつけおとなしくなる。
安堵の息を吐いた。が、それは早合点だった。
怪トカゲは後ろ足の力で身を反らし、尻尾でこちらを殴ってきた。
直撃を喰らったわたしは体勢を崩し、左腕を噛みつかれる。
鋭い痛みに、顔が歪む。
怒号を上げて魔滅刃を薙いだ。
怪トカゲは剥がれて地面に叩きつけられたものの、まだやる気だ。
わたしは抜刀の構えを取る。が、まだためらいがあった。
魔滅刃の斬撃であれば、おそらくヤツは一撃だろう。
しかし、それは殺しを意味する。
嫌な汗が額を流れ、隙ができた。
怪トカゲは爪を振りかぶって飛び込んでくる。
わたしは胴を捻り、納刀したままの魔滅刃で怪トカゲを打ち払った。
ヤツは道の脇の岩にぶつかったが、それでもなお元気でいる。
「くそ、もう勘弁――」
最後まで言わないうちに、剣閃が走った。
華のような香りがして、怪トカゲはいつの間にか首を落としていた。
薄暗い森に、柔らかい人影が現れる。
人影は着地と同時に、手にした長尺刀を振って血を払った。
妖怪の血は瞬く間に蒸発、霧散して消えた。
人影がこちらに顔を向ける。
清らかな顔立ちの少女だった。深い青の衣を着ていて、尼削ぎの黒髪にも若干青みがかっているように見える。
彼女は言った。
「大丈夫ですか?」
わたしはハッとなって、答える。
「ありがとう……助かりました」
すると彼女は目を見開く。
「あなた、噛まれて――!」
「え? ああ、そういえば……」
わたしが左腕を持ち上げると、少女は袖をまくってきた。
が、傷口を見て彼女はきょとんとした顔になる。
噛まれた傷は、すでに流血量がだいぶ減っていた。塞がりかけとまではいかないが、痛みも引いている。
「……なんともありません?」
「なんとも、というのは……?」
「あの妖怪、牙に毒があるんです。噛まれたら傷口が腫れる上に高熱が出て、立ってられなくなるはずなのに……」
またミラー・ヴォルフの<設定>に助けられた。
わたしはそんなことを思いながら、言い訳を考える。
「とにかく、手当ては必要です」少女は言った。「ちょっと失礼」
彼女は刀を納め、半指の手袋を脱ぐ。そしてベルトに備わった雑嚢から布と薬の瓶を取り出した。
水筒の水で腕を洗い、傷薬を塗ってもらう。すこし沁みたが、薬の効いている証拠だ。
布で負傷箇所を押さえ、包帯が巻かれる。
慣れた手つきだった。
「これでよし……」
彼女は手を拭き、横の髪を耳にかけた。その時、わたしはにわかに驚く。
ピアスだ。
耳全体を、いくつものピアスで飾っている。
可憐な顔立ちからは想像もつかない刺激的な装身に、わたしは目が釘付けになった。
「どうしました?」と、少女。
「え、ああ……いや、なんでも……」
わたしははぐらかした。
「重ねてありがとう。わたしはミラー・ヴォルフ」
「メーイェンです」
少女はそう名乗って、微笑んだ。
わたしはイワミ氏に届けるケースを再び手に取りながら言う。
「恥ずかしながら、道に迷ったところを襲われて……」
「あ、そのカバン……もしかしてイワミさんの――」
「ご存知で?」
「はい。私、イワミさんの……従者と言いますか、そんな感じの間柄なんです」
メーイェンは道の先を指差した。
「案内します」
わたしはメーイェンと共に、改めてイワミ邸を目指す。なんで迷ったのか自分に問い詰めたくなるくらい、ぜんぜん違う道だった。
道中、わたしは彼女に問う。
「あのトカゲの妖怪、尻尾が切れていたのだけれど……」
「あ、ああ……あれ……私が仕留め損ねたやつでして……」
ばつの悪そうな調子だ。が、無理もない。わたしでなければ毒にやられて、倒れていたはずなのだから。
「すみませんでした、私が至らないばっかりに……」
「いえ、お気になさらず」わたしは言った。「わたしも、刀を抜くべきだったのに」
「なぜ抜かなかったんです? 刀に何か――」
メーイェンは魔滅刃に目をやり、首を傾げる。
「妖刀……? でもこれは……妖気……?」
「刀に問題があるわけではなくて……その……」
わたしは口ごもったが、正直に答えた。
「殺す覚悟ができていなくて……」
「ははあ……」
意外そうな、あるいは呆れたような声がメーイェンから出てくる。
「我ながら情けない話です」
「いえ、よくあることですよ。でも……」
彼女はわたしの顔を覗き込んだ。
「遠目からでも鋭い身のこなしでした。それにすごく洗練された剣気を感じる。だから覚悟が追いついてないのは珍しいなって」
おっしゃる通りだ、とわたしは思った。
そもそもミラー・ヴォルフとしての特性は、わたしの想像と母の愛に由来するものだ。生得の才能や修練の賜物ではない。
印象の良くない言葉で表すなら――ドーピングやチートのたぐいだろう。
「あ、もしかしてですけど、アスカさんのところから来られたんです?」
「え? ええ。このケースもアスカ氏の依頼で」
「なるほど、ということはミラーさんも異世界からの転生者というわけですね」
メーイェンは指を鳴らしながら言った。
そういえば彼女はイワミ氏の従者とのことだ。そのあたりの知識を持っていてもおかしくはない。
「先立った母がこの世界に転生していたので、そのよしみで……。技量と覚悟が不釣り合いなのはそれゆえかと」
「補正ですね。ナゾが解けました」
彼女は笑った。眩しい笑顔だった。
さらに歩いていると、メーイェンがふと訊いてきた。
「ミラーさん、鏡堂はご覧になりました?」
「ええ。お屋敷の外観に違わぬ、厳かな空間でした」
わたしは答え、それから問う。
「鏡堂が異世界をつなぐ場所なんですか?」
「そのうちのひとつ、ですね。でも鏡堂自体に時空往来の力は無くて、鍵になる鈴鏡があるんです」
「鍵……」
そういえば、夢の中ではアスカ氏が鈴鏡をわたしに向けていた。たぶんあれが鍵の鈴鏡だな。
そんなことを考えているうちに、わたしたちはコンクリート塀を視界の先にうつし、ほどなくして正門扉の前に来た。
頑丈そうな鉄扉だが、メーイェンは軽く開ける。
近くで見るイワミ邸は、軍事施設か何かのような、堅牢な雰囲気を醸していた。等間隔に並んだ正方形の窓には格子が嵌められ、屋根にはパラボラアンテナが設置してある。
庭は広く、アスファルトの道路が芝生を両断するように伸びていた。
噴水くらいありそうなものなのだが、あるのは長方形の飛び石がいくつか。それも均等に敷かれていて、殺風景という感想が続出しそうだ。ある意味では美しいのだが。
そんな庭の一角に、わたしは何やらモニュメントめいたものを見つけた。
しかしそれが何なのか訊く前に、イワミ邸内に入る。
静まり返った、清潔なエントランスが迎えてくれた。ここも飾り気に乏しく、観葉植物の一つも無い。待ち合い用の長椅子があるばかりだ。
すると、革靴の音が聞こえてきた。右手側の階段からだ。
現れたのは、眼鏡をかけた詰襟スーツの人物だった。体躯はすらりと細く、温厚な顔つきで性別を感じさせない。
「ご足労ありがとうございます。わたくしがイワミです」
「ミラー・ヴォルフです」
わたしはイワミ氏に頭を下げる。
イワミ氏も穏やかな所作でこうべを垂れた。
「どうぞこちらへ。お茶をお出しします」
それからイワミ氏はメーイェンに言った。
「メーイェンもお疲れさまです。ミラーさんとは途中でお会いに?」
「はい。私が逃した妖怪に襲われてしまって……」
「ああ……それは大変でしたね。噛まれはしませんでしたか?」
「そのことなんですが……」
わたしは応接室のソファーに腰掛け、メーイェンと共にそれまでの経緯を語った。
イワミ氏は「フム」と口の中で呟いて、腕を組んだ。
「やはり異世界から来た方は面白い人が多いですね。我々の試みは大成功かも……」
「……ありがとうございます」
わたしの言葉に、イワミ氏はすこし首を傾ける。
「わたしは……元いた世界ではほんとうに惨めな暮らしをしていました。才能も無く、努力は報われず、起こることは望まないことばかり……ですが、この世界は……なんというか――」
目を閉じ、言葉を探す。
「なんというか……わたしと噛み合うような感じがするんです」
「よかった」
イワミ氏は微笑む。
「異世界から転生、転移してきた方々は皆、そうおっしゃってくださるんです。ほんとうに嬉しいことです」
「そういえば、わたしや母の他にもこの世界に来た人がいるらしいと……」
「ええ。そのうちの一人はメーイェンの同僚です」
イワミ氏は顔を真横に向け、メーイェンを見た。
彼女は言う。
「私の本職、妖怪の討伐手なんです」
「最近はどういうわけか、妖怪がよく出るようになりまして……」
そうだ、とイワミ氏は指を鳴らした。
「ミラーさん、討伐手になってみてはどうです?」
「わたしがですか?」
「ええ。悪くないと思いますよ」
「けれど、わたしには殺しの覚悟がまだ……」
そう言うと、イワミ氏は肩を揺らして笑った。
「まだ……。そう、まだ。そこが重要なんですよ」
指先で眼鏡を押し上げ、続ける。
「誰だって経験の無いことに覚悟は固まらないものです。よし、すこし荒療治といきましょうか」
「荒療治って、いったい何を――」
わたしが身を乗り出すと、メーイェンは手袋を取り出し、装着した。
まさか――。
「私と手合わせといきましょう」
メーイェンは立ち上がりながら、口の端を吊り上げた。
イワミ氏も席を立つ。
「わたくしが審判を務めます。危ないと判断すれば止めに入るので、ご安心を」
「文字通りの真剣勝負。殺す気で来てくださいね。ミラーさん」
二人は笑ってこちらを見下ろしてくる。
すさまじい<圧>を感じて、逆にわたしは心が燃えてくるのを感じた。
「……わかりました」わたしも手袋を着ける。「受けて立ちます」
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✳︎不定期更新です。
21/12/17 1巻発売!
22/05/25 2巻発売!
コミカライズ決定!
20/11/19 HOTランキング1位
ありがとうございます!
左遷されたオッサン、移動販売車と異世界転生でスローライフ!?~貧乏孤児院の救世主!
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