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第四話

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 わたしがミラー・ヴォルフとして三五七番目の世界に来て、数日が経った。
 まだまだ不慣れなところも少なくないが、一応は母の仕事の手伝いや薪割り、買い出しなどをそつなくこなしている。居心地はとても良いものの、それに甘んじていてはいけないという気持ちもあった。
 アスカ氏が、わたしを呼びつけたのはそんな時だった。
 わたしは屋敷の二階にある<鏡堂きょうどう>へ赴く。
 大扉を開け、この世界に来る直前に見た夢の堂へと入った。
 アスカ氏は堂の中央に佇んでいた。
 わたしは一礼して、アスカ氏の前に座する。

「――これを、イワミどのの所まで届けてほしい。頼めるかな?」
「もちろんです。でもこれは……?」
「仕事に必要だったんで借りていたものさ。私に代わって返却をお願いしたい」

 それは革製のアタッシェケースだった。母が護符の運搬に使うトランクとは趣が違う。ダイヤル式の錠がついていて、現代的かつ現実的――もとい二十二番目の世界的な形状である。
 そういえば、イワミ氏も時空の守護者だと母が言っていた。
 空流苑の、昼の間で見たイワミ邸を思い出す。

「わかりました」

 わたしは答えた。

「ありがとう。イワミどのに伝えておくよ。それから、地図を持っていきなさい」

 アスカ氏から地図を貰い、アタッシェケースを手に正門をくぐった。
 地図は丁寧に詳細を書き込んであり、途中までは地図に従って歩けば何も問題はなかった。
 そう、途中までは。
 いったいどこで間違えたのか、わたしは見覚えのない森林地帯に立っていた。

 いかん。迷った。

 わたしは眉間にしわを寄せ、地図を片手に、来た道を戻ろうとする。賢帖の地図であれば、スマートフォンのマップみたいに現在地を示してくれるのだが、あいにくこれは普通の紙だ。
 まだ昼前なのだが、森は薄暗く、心細さを煽り立てる。

 とにかく見覚えのある場所に出れば――。

 そう思った矢先、嫌な気配を木々の間に感じる。
 この気配は――妖怪だ。
 振り返るや否や、六本足の大トカゲが降りかかってきた。
 思わず声を上げ、妖怪を避ける。
 妖怪トカゲは地面に両前足を叩きつけ、こちらを睨む。ガビアルそっくりの細長い吻端が目についた。体長は七十センチほどだろう。手負いなのか、尻尾が中ほどから切れていた。
 次の瞬間、ヤツは飛びついてくる。
 わたしは蹴りで反撃し、逃げた。
 だが怪トカゲは追いかけてきた。耳障りな鳴き声で威嚇してきて、是が非でもわたしを仕留めたいらしい。
 背後で風切り音。
 怪トカゲが跳んのだ。
 わたしは横に跳んで、爪撃を躱す。

「そっちがその気なら……」

 ケースを置き、魔滅刃の柄に手をかける。
 また、敵の突進が来た。
 わたしは魔滅刃を振り上げ、鞘で腹を打つ。
 手応えはあったが、怪トカゲは木の幹に貼り付いて体勢を立て直した。
 怪トカゲが牙を剥き、体躯に似つかわしくない速度で地面に降り立った。
 わたしは先手を打つ。
 魔滅刃を振りかぶり、頭を打った。
 怪トカゲは顎を地面にぶつけおとなしくなる。
 安堵の息を吐いた。が、それは早合点だった。
 怪トカゲは後ろ足の力で身を反らし、尻尾でこちらを殴ってきた。
 直撃を喰らったわたしは体勢を崩し、左腕を噛みつかれる。
 鋭い痛みに、顔が歪む。
 怒号を上げて魔滅刃を薙いだ。
 怪トカゲは剥がれて地面に叩きつけられたものの、まだやる気だ。
 わたしは抜刀の構えを取る。が、まだためらいがあった。
 魔滅刃の斬撃であれば、おそらくヤツは一撃だろう。
 しかし、それは殺しを意味する。
 嫌な汗が額を流れ、隙ができた。
 怪トカゲは爪を振りかぶって飛び込んでくる。
 わたしは胴を捻り、納刀したままの魔滅刃で怪トカゲを打ち払った。
 ヤツは道の脇の岩にぶつかったが、それでもなお元気でいる。

「くそ、もう勘弁――」

 最後まで言わないうちに、剣閃が走った。
 華のような香りがして、怪トカゲはいつの間にか首を落としていた。
 薄暗い森に、柔らかい人影が現れる。
 人影は着地と同時に、手にした長尺刀を振って血を払った。
 妖怪の血は瞬く間に蒸発、霧散して消えた。
 人影がこちらに顔を向ける。
 清らかな顔立ちの少女だった。深い青の衣を着ていて、尼削ぎの黒髪にも若干青みがかっているように見える。
 彼女は言った。

「大丈夫ですか?」

 わたしはハッとなって、答える。

「ありがとう……助かりました」

 すると彼女は目を見開く。

「あなた、噛まれて――!」
「え? ああ、そういえば……」

 わたしが左腕を持ち上げると、少女は袖をまくってきた。
 が、傷口を見て彼女はきょとんとした顔になる。
 噛まれた傷は、すでに流血量がだいぶ減っていた。塞がりかけとまではいかないが、痛みも引いている。

「……なんともありません?」
「なんとも、というのは……?」
「あの妖怪、牙に毒があるんです。噛まれたら傷口が腫れる上に高熱が出て、立ってられなくなるはずなのに……」

 またミラー・ヴォルフの<設定>に助けられた。
 わたしはそんなことを思いながら、言い訳を考える。

「とにかく、手当ては必要です」少女は言った。「ちょっと失礼」

 彼女は刀を納め、半指の手袋を脱ぐ。そしてベルトに備わった雑嚢から布と薬の瓶を取り出した。
 水筒の水で腕を洗い、傷薬を塗ってもらう。すこし沁みたが、薬の効いている証拠だ。
 布で負傷箇所を押さえ、包帯が巻かれる。
 慣れた手つきだった。

「これでよし……」

 彼女は手を拭き、横の髪を耳にかけた。その時、わたしはにわかに驚く。
 ピアスだ。
 耳全体を、いくつものピアスで飾っている。
 可憐な顔立ちからは想像もつかない刺激的な装身に、わたしは目が釘付けになった。

「どうしました?」と、少女。
「え、ああ……いや、なんでも……」

 わたしははぐらかした。

「重ねてありがとう。わたしはミラー・ヴォルフ」
「メーイェンです」

 少女はそう名乗って、微笑んだ。
 わたしはイワミ氏に届けるケースを再び手に取りながら言う。

「恥ずかしながら、道に迷ったところを襲われて……」
「あ、そのカバン……もしかしてイワミさんの――」
「ご存知で?」
「はい。私、イワミさんの……従者と言いますか、そんな感じの間柄なんです」

 メーイェンは道の先を指差した。

「案内します」


 わたしはメーイェンと共に、改めてイワミ邸を目指す。なんで迷ったのか自分に問い詰めたくなるくらい、ぜんぜん違う道だった。
 道中、わたしは彼女に問う。

「あのトカゲの妖怪、尻尾が切れていたのだけれど……」
「あ、ああ……あれ……私が仕留め損ねたやつでして……」

 ばつの悪そうな調子だ。が、無理もない。わたしでなければ毒にやられて、倒れていたはずなのだから。

「すみませんでした、私が至らないばっかりに……」
「いえ、お気になさらず」わたしは言った。「わたしも、刀を抜くべきだったのに」
「なぜ抜かなかったんです? 刀に何か――」

 メーイェンは魔滅刃に目をやり、首を傾げる。

「妖刀……? でもこれは……妖気……?」
「刀に問題があるわけではなくて……その……」

 わたしは口ごもったが、正直に答えた。

「殺す覚悟ができていなくて……」
「ははあ……」

 意外そうな、あるいは呆れたような声がメーイェンから出てくる。

「我ながら情けない話です」
「いえ、よくあることですよ。でも……」

 彼女はわたしの顔を覗き込んだ。

「遠目からでも鋭い身のこなしでした。それにすごく洗練された剣気を感じる。だから覚悟が追いついてないのは珍しいなって」

 おっしゃる通りだ、とわたしは思った。
 そもそもミラー・ヴォルフとしての特性は、わたしの想像と母の愛に由来するものだ。生得の才能や修練の賜物ではない。
 印象の良くない言葉で表すなら――ドーピングやチートのたぐいだろう。

「あ、もしかしてですけど、アスカさんのところから来られたんです?」
「え? ええ。このケースもアスカ氏の依頼で」
「なるほど、ということはミラーさんも異世界からの転生者というわけですね」

 メーイェンは指を鳴らしながら言った。
 そういえば彼女はイワミ氏の従者とのことだ。そのあたりの知識を持っていてもおかしくはない。

「先立った母がこの世界に転生していたので、そのよしみで……。技量と覚悟が不釣り合いなのはそれゆえかと」
「補正ですね。ナゾが解けました」

 彼女は笑った。眩しい笑顔だった。
 さらに歩いていると、メーイェンがふと訊いてきた。

「ミラーさん、鏡堂はご覧になりました?」
「ええ。お屋敷の外観に違わぬ、厳かな空間でした」

 わたしは答え、それから問う。

「鏡堂が異世界をつなぐ場所なんですか?」
「そのうちのひとつ、ですね。でも鏡堂自体に時空往来の力は無くて、鍵になる鈴鏡があるんです」
「鍵……」

 そういえば、夢の中ではアスカ氏が鈴鏡をわたしに向けていた。たぶんあれが鍵の鈴鏡だな。
 そんなことを考えているうちに、わたしたちはコンクリート塀を視界の先にうつし、ほどなくして正門扉の前に来た。
 頑丈そうな鉄扉だが、メーイェンは軽く開ける。
 近くで見るイワミ邸は、軍事施設か何かのような、堅牢な雰囲気を醸していた。等間隔に並んだ正方形の窓には格子が嵌められ、屋根にはパラボラアンテナが設置してある。
 庭は広く、アスファルトの道路が芝生を両断するように伸びていた。
 噴水くらいありそうなものなのだが、あるのは長方形の飛び石がいくつか。それも均等に敷かれていて、殺風景という感想が続出しそうだ。ある意味では美しいのだが。
 そんな庭の一角に、わたしは何やらモニュメントめいたものを見つけた。
 しかしそれが何なのか訊く前に、イワミ邸内に入る。
 静まり返った、清潔なエントランスが迎えてくれた。ここも飾り気に乏しく、観葉植物の一つも無い。待ち合い用の長椅子があるばかりだ。
 すると、革靴の音が聞こえてきた。右手側の階段からだ。
 現れたのは、眼鏡をかけた詰襟スーツの人物だった。体躯はすらりと細く、温厚な顔つきで性別を感じさせない。

「ご足労ありがとうございます。わたくしがイワミです」
「ミラー・ヴォルフです」

 わたしはイワミ氏に頭を下げる。
 イワミ氏も穏やかな所作でこうべを垂れた。

「どうぞこちらへ。お茶をお出しします」

 それからイワミ氏はメーイェンに言った。

「メーイェンもお疲れさまです。ミラーさんとは途中でお会いに?」
「はい。私が逃した妖怪に襲われてしまって……」
「ああ……それは大変でしたね。噛まれはしませんでしたか?」
「そのことなんですが……」

 わたしは応接室のソファーに腰掛け、メーイェンと共にそれまでの経緯を語った。
 イワミ氏は「フム」と口の中で呟いて、腕を組んだ。

「やはり異世界から来た方は面白い人が多いですね。我々の試みは大成功かも……」
「……ありがとうございます」

 わたしの言葉に、イワミ氏はすこし首を傾ける。

「わたしは……元いた世界ではほんとうに惨めな暮らしをしていました。才能も無く、努力は報われず、起こることは望まないことばかり……ですが、この世界は……なんというか――」

 目を閉じ、言葉を探す。

「なんというか……わたしと噛み合うような感じがするんです」
「よかった」

 イワミ氏は微笑む。

「異世界から転生、転移してきた方々は皆、そうおっしゃってくださるんです。ほんとうに嬉しいことです」
「そういえば、わたしや母の他にもこの世界に来た人がいるらしいと……」
「ええ。そのうちの一人はメーイェンの同僚です」

 イワミ氏は顔を真横に向け、メーイェンを見た。
 彼女は言う。

「私の本職、妖怪の討伐手なんです」
「最近はどういうわけか、妖怪がよく出るようになりまして……」

 そうだ、とイワミ氏は指を鳴らした。

「ミラーさん、討伐手になってみてはどうです?」
「わたしがですか?」
「ええ。悪くないと思いますよ」
「けれど、わたしには殺しの覚悟がまだ……」

 そう言うと、イワミ氏は肩を揺らして笑った。

「まだ……。そう、まだ。そこが重要なんですよ」

 指先で眼鏡を押し上げ、続ける。

「誰だって経験の無いことに覚悟は固まらないものです。よし、すこし荒療治といきましょうか」
「荒療治って、いったい何を――」

 わたしが身を乗り出すと、メーイェンは手袋を取り出し、装着した。

 まさか――。

「私と手合わせといきましょう」

 メーイェンは立ち上がりながら、口の端を吊り上げた。
 イワミ氏も席を立つ。

「わたくしが審判を務めます。危ないと判断すれば止めに入るので、ご安心を」
「文字通りの真剣勝負。殺す気で来てくださいね。ミラーさん」

 二人は笑ってこちらを見下ろしてくる。
 すさまじい<圧>を感じて、逆にわたしは心が燃えてくるのを感じた。

「……わかりました」わたしも手袋を着ける。「受けて立ちます」
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