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6.家族

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一体どれほどそうしていたのか。 
アンナは真っ暗な部屋の中で泣き崩れていた私を発見すると、寝台へと運んでくれた。
ふかふかのベッドが気持ちいいはずなのに、今は何も感じない。

「カレン様、どうして暗い部屋のなかで座り込んでたりしたんですか? 見つけた時はびっくりしましたよ」

あやすように布団を引き上げて、上から肩を撫でるように滑らせる。涙の跡が見えているだろうに、それに触れないでくれるアンナの優しさが有り難かった。でも今の私にはお礼を言う力がなくて、虚ろに天井を見上げるだけ。
アンナがひとつ、息を吐いた。

「まだあの馬車の事故が尾を引いてるのかもしれませんね。大の男性だって怖い経験を、カレン様の年齢じゃ、もっとすっごく怖かったはずですもんね」

ゆっくりと布団を撫でる音。それが繰り返し耳に入り込んで、子守唄のように優しく感じた。アンナの年齢は実際の私より一つか二つしか違わないはずなのに、まるではるか年上のように包み込んでくれる。アンナの優しさがじんわり伝わってくる。

「おやすみなさい。今日はゆっくり休んでください」

心は悲しいはずなのに、泣きつかれたのか、私は安心するように目を閉じたのだった。


次の日、目が覚めた時も私の気分は晴れなかった。
ぼうっとして寝台の中で待っていると、アンナがやってきた。

「おはようございます、カレン様。いいお天気ですね」

朗らかな笑顔でカーテンを開けるアンナにおはようの挨拶も返さず、私は寝台に横たわっていた。
だって今の私に何ができる?
今、一番近くにいたい人は程遠く。
今、一番したいことはその人に慰めの言葉をかけることだけ。でも、その人はここにはいない。
それ以外のことは全て、この寝台に横たわっているのと同じくらい意味のない動作。
だから私は体を動かさかった。
そんな虚ろな私を見て、アンナがため息を吐いた。

「お食事をお持ちしますね。体を動かすのが辛いようですから。――待っててください」

足早に部屋から出ると、次に来たときには湯気を立ち昇らせたパンとスープをお盆に載せていた。

「食べたくない」

「駄目です。少しは食べないと」

私は布団を頭から被って拒絶した。布団を剥ぎ取ることも、食事を強要することも、使用人の立場からはできないのか、アンナが困ったように佇んだ雰囲気があった。しばらくすると部屋から出ていく足音がした。

そんなことが二日間続いていたら、異変が起きた。いつもはアンナしか来ない部屋に、新たな訪問者が現れた。

「カレン! 食事をとっていないと聞いたぞ!」

白皙の美貌を持った黒髪の男性が近寄ってくる。その後ろからも似た容姿のまだ十代後半と思われる少年が続く。

「……お、お父様、……それに――お兄様も」

カレンの記憶を蘇らせ、突如現れた訪問者の名前を呆然と紡ぐ。
年嵩の男性は三十代後半のスラッとした長身で、身にまとった衣服はシワひとつなく完璧な出で立ち。服だけでなく、漂わせる雰囲気からも、欠点などなさそうな男性だと感じた。少なくともカレンの記憶の中ではそうだった。けれど、今、目の前にいるのは、身なりは変わらなくても、その表情はいつもの冷然としたものとは程遠く、顔を歪めて眉を寄せている。

「一体どうしたんだ? アンナから聞いたぞ。ずっと寝込んでいるそうだな。どこか体が良くないのか」

馬車にぶつかって気絶した時でさえ、見舞いに来なかった父親がここにいることが信じられなくて、私は目を丸くした。
『カレン』の記憶の中では、父親はあまりに希薄だった。母親は幼心がつく頃には既に亡く、六つ上の兄は歳が離れすぎている上に聡明でどこかカレンを避ける風があった。
まだあどけなく甘えたい盛りのカレンにとって、意味不明な話をする二人は遠く離れた存在に思えたに違いない。
もう少し上の年齢だったら二人が仕事に話をしていることがわかっただろう。でもわかったとしても納得はできない。自分だけが家族として会話に入れない寂しさは。
憑依してからここ数日、『カレン』の記憶を思い返せば返すほど、彼女が悪女になった理由がわかった気がした。最も愛情が必要なときに家族は側にいなく、独りぼっちだった。孤独は彼女に重い傷を遺したのだろう。
それを埋めるように、婚約者であるイリアスからは愛情を求め、ドレスや宝飾の数々で自分を飾り立て慰めるようになってしまったのかもしれない。それでもきっと埋まらなかった彼女の傷は、平民出身のヒロインに向かっていった。

『どうして地位もお金もあるこのわたくしが幸せになれなくて、平民出身のお前ごときが幸せになれるの!!』

追いつめられた間際に叫んだ言葉。カレンはきっと一回も幸せを感じたことはなかったのかもしれない。だからこそ、身分が低くて、お金もないヒロインが攻略対象者と一緒に幸せそうに笑うのが許せなかったに違いない。
侯爵令嬢という地位があっても、どんなものを買えるお金があっても幸せになれないのに、自分より持っていないヒロインが幸せになっていく。その姿にだんだんと怒りが積み重なっていく。半分八つ当たりだけど、彼女のやるせない気持ちは理解できた。
私がそんなことを考えているなんて思いもよらないのだろう。カレンの父、カスパル侯爵は、寝台の側まで寄ってきて膝をついた。
私はびっくりした。素っ気ない父親の姿しか知らないのに、まるで心からカレンのことを労っている様子に、思わず自分の目を疑ってしまった。

「一体何があった」

私の手を握りながら、付いてきたアンナを振り返る。

「申し訳ありません。私にもはっきりと原因はわかりません。考えられるのは先日の馬車の事故の後遺症ではないかと」

恐る恐るといった体で、アンナが肩を竦めながら答える。

「馬車の事故だって? あれなら町一番の医者を呼び寄せて診てもらったはずだろう。医者に寄れば、頭を打っただけでほかに問題はないと言っていたが」

今の発言にびっくりしたのはこの私。
お父さん、事故のこと知ってたんですか?
それなら何故一回も見舞いに来ないの。それに町一番の医者って何。

「一体どうしたというんだ、カレン。もう一回、医者に診てもらうか?」

首を傾げて間近から造作の整った顔立ちが心配そうに覗きこむ姿にほだされて、私はげんきんにも今までの沈んだ感情も忘れて、呟いていた。

「どうして一回も見舞いに来てくれなかったの?」

「見舞い?」

「そう。だって事故から一回も見舞いに来てくれてないじゃない。心配だったら普通、見舞いに来てくれるものじゃないの」

「それは――」

目の前の男性が困ったように、眉を下げた。

「――カレン様。カレン様が知らないだけで、旦那様はいつもカレン様の部屋に訪れていましたよ」

アンナが後ろから口を開く。

「え? いつ?」

「いつも仕事が終わった真夜中に。ぐっすり眠っているカレン様の寝顔を見てから、旦那様は毎晩お休みになられておられました」

「――うそ」

私は呆然と呟く。

「本当はちゃんと顔を合わせたかったが、仕事が忙しくてな――。時間を作ってやれなくてすまない」

侯爵が顔を伏せる。

「だがこれもドロノア家、いや――カレン、お前のためだ。公爵家と婚約したからには、それ相応の力がなくてはならない。その辺の貴族には負けない力を持つ必要があったんだ。誰にも文句を言わせず、肩身の狭い思いをすることなく、お前には公爵家には嫁いでほしかったから」

「お父様……」

「このドロノア家を押しのけて、別の令嬢が名乗りあげる隙など作らせないから、お前はただ安心して待っていなさい」

「なんで、そこまで――」

呆然と呟けば、侯爵が破顔した。

「決まってるじゃないか。お前を愛しているからだよ」

嘘偽りない真っ直ぐなその笑みが私の胸を貫いた。

「お前はリアの忘れ形見。お前には母がいないから、リアの分まで幸せにしてやらなくてはな。でなきゃ、リアに怒られてしまう」

はははと笑う父とは反対に、私の頬から涙が流れた。この涙は私の? それともカレンのだろうか。
突然、泣き出した私に侯爵が慌てる。

「どうした? どこか痛むのか」

「いえ、嬉しくて――。お父さんってこういうものなんだって初めて知って――」

侯爵が私の言葉に首を傾げる。
私は誤魔化すために、父親の背の向こうに目を向ける。

「お兄様も、心配してきてれたの?」

「当たり前じゃないか」

侯爵よりは幼い顔立ちの少年が慌てたように言う。
カレンの記憶に寄れば、兄とはほとんど喋ったことがない。

「お兄様とも会うのも久しぶりです。それとも、毎晩会いに来てくれてたりしてたの?」

兄、ジェイクがばつが悪そうに顔を背ける。

「いや、行ったことはない」

「それは私が嫌いだから?」

「わたしがお前を?!」

兄の肩がびっくりしたように跳ねた。

「だって、会ってもほとんど話しかけてくれないじゃない」

カレンの記憶を掘り返して、言葉を紡ぐ。

「それは、だって、その」

兄が逡巡したように口を開け閉めする。

「その、なんですか」

「お前に申し訳ないと思ったんだ!」

「申し訳ない?」

私は首を捻る。

「そうだ。母上が亡くなってからは、母の面影があるお前を見るのが辛かった。でも、それを過ぎれば、母の愛情を独り占めしていた時期をはっきりと覚えている私に対し、お前はなにも覚えていないじゃないか。それを思うと、お前に申し訳なくて。それなのに、初めお前を避けていた自分が一層情けなくて」

ジェイクが拳を握る。

「だから公爵家の婚約者になりたいと言ったお前に、わたしも父と同じようになにかしてやりたくて。だから一心に父上に仕事を教わったんだ」

ジェイクが悲しそうに顔を歪めて吐露する。
蓋を開けてみれば、なんてことはない。
『カレン・ドロノア』はちゃんと愛されていた。
私がカレンに憑依しなければ、馬車の事故が起こってもカレンは日常に戻るだけ。そうして、この家族はずっとすれ違ったままいってしまったに違いない。
そして、ゲームの悪女『カレン・ドロノア』の出来上がり。
知らずに私はふふと声を漏らして、笑っていた。

「なんだ、嫌われていたわけではなかったんだ」

「まさか。お前はわたしの大事な妹だ」

兄が頬を赤くして、目を背ける。
見れば、侯爵も目元を和らげ、私を見て微笑んでいる。
――この人たちが私の家族なんだ。
突如、その言葉が私の中に根をおろし、違和感なく受け入れられた気がした。
今まで一緒に暮らしていなくても関係ない。お互い大切に思って、ひとつ屋根の下に暮らしていれば、きっと家族になれる。そういうふうに家族になっていけばいい。
力の入らなかった体に、気力が入り込んでくる気がした。私は布団の中で拳を握りしめた。
この人たちがカレンを大切に思ってくれているなら、私もその気持ちを返したい。
きっと『カレン』も同じように思ってくれるよね。
お母さんをよろしくね、カレン。
私は心の中で向こうの世界にいるカレンに呼びかける。
『花蓮』には愛情いっぱいに育てられた記憶があるから、それが今まで報われなかったカレンの力になるはず。
人間、因果応報。
自分がすることが巡り巡って、いつか自分に返ってくる。
だから私はこの目の前にいる二人を大切にしよう。きっとカレンもお母さんを大切にしてくれるはず。

「お父様、お兄様、心配かけてごめんなさい。――それから、ありがとう」

わたしは侯爵とジェイク、否――お父様とお兄様に向かって、心からの笑顔を浮かべたのだった。

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