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エインズワース辺境伯

消せない記憶

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翌朝、ラウルは朝陽が昇りきる前に目を覚ました。たった数刻しか眠っていないはずだが、これまで毎晩のように襲い掛かってきていた悪夢を見ることもなく、心地よい疲労感と多幸感の中で眠れたのは数十年ぶりだった。

それをもたらしてくれたかけがえのない存在が、生まれたままの姿で自分の腕の中にいることを確かめるようにそっとフローラの頬を撫でた。



誰かを愛する日が来るとは思いもしなかった



ラウルは自虐的に笑うと、フローラの額に口づけた。フローラが身じろぎして、深く息を吐いた。

その体を引き寄せて、ぴったりと自分の体に寄り添わせるとラウルは再びまぶたを閉じた。



「あの宝石、鑑定士が言ってたんですけど、なんかの餞別か、形見分けみたいな感じかもって言ってました。1個1個が小さいですしね。これは報告書には書きませんでしたけど」



ヴィクトルがいつかフローラが唯一持っていた宝石についてのことをラウルにだけ報告したときのことを思い出していた。

もし、フローラが嫁いだ先で酷い目に遭ったり、夫が死んだりして、その宝石だけを持たされて出てきたのだとしたら、その鑑定士の言葉は一致するだろうと思っていた。

そして、ラウルはそうであってほしいと思っていた。酷い過去なら思い出さなくていい。もし、夫がいても、故人であるならば、フローラを堂々と迎えることができると。

フローラも恐らく昨夜の出来事で気づいているだろう。処女の出血がなかったということは、婚姻をしていた可能性があることに。

ラウルは自分の考えが卑怯であることは重々わかっていた。それでも、もはやフローラを手放すことはできないし、この手で守り抜いてやりたいと思っている。

もし、フローラが同じように望んでくれるのなら、辺境伯の地位をかけてもそれを実現してやりたいと。



「…ラウル…?」



ラウルはフローラが目を覚ましたことに気づき、抱え込んでいた腕の力を緩めた。

そっとフローラがラウルの頬に手を添える。



「嫌な夢でも見られました?難しいお顔をされています」



「いや。なんでもない。それより、体はきつくないか?」



フローラは恥ずかしそうに視線をそらし、小さく頷いた。ラウルが体を引き寄せて額や頬に口づけていく。

そのまま首筋に唇が滑ってきたことにフローラは驚いて、ラウルの体をぐっと押した。



「な、なにを」



「まだ起きるには早い」



「で、でも、今日は城に帰りませんと」



「フローラはゆっくり馬車に乗って帰ってくればいい。馬であちこちするのは疲れただろう」



「そ、そういう問題では」



フローラの小さな抗議はあっという間にラウルに吞み込まれ、冷めたはずの熱が再び燃え上がるのを感じていた。







フローラが激しい情事の後に再び落ちるように眠りについたのを見届けると、ラウルは寝台から降りた。

壁にかけられていたガウンを羽織ると、静かに部屋を出た。

メレルが廊下の離れた場所で控えていたのを確認すると、手を挙げた。メレルは音もなくすぐさまラウルのもとに駆け寄り、湯の準備ができていることを伝えた。

ラウルは頷くと、フローラは目覚めるまで寝かしておくように伝え、帰りの馬車の手配を指示した。

湯を浴び、身支度を整えると、まだ部屋で寝ているフローラに口づけした。そっと部屋を出ると既に準備の整っていたドーシュにまたがり、邸宅を後にした。

早朝だったことと、一人で馬を走らせたことから、行きの半分ほどの行程で城まで戻ることができた。門兵が門を開け、中に入るとドーシュを任せて、城の中へとそのまま進んだ。

まっすぐに執務室に向かうと、既にジャンとヴィクトルは仕事を始めていた。



「おはようございます、閣下」

「おはようございます、閣下」



「ああ、昨日は何もなかったか」



「はい、つつがなく。そちらに決裁を頂く書類があります」



ラウルがマントや剣を外して、ヴィクトルに渡す。ジャンはお茶の準備を伝えるべく部屋を出て行った。

ラウルが執務机につくと、目の前にヴィクトルが立ったまま動かない。不審に思って顔を上げると、ヴィクトルがにやけた顔をしているのをラウルは冷たい目で睨みつけた。



「なんだ」



「俺に褒美をください」



「なんのだ」



「閣下が想いを遂げられるよう手を回した褒美です」



「っっ」



思わず机の上で手を握りしめたが、ヴィクトルは全てお見通しといった目でにこにこと笑顔を浮かべている。



「ちゃんと乗り心地のいい城の馬車を向かわせましたから、ご安心ください」



それだけ言うとヴィクトルは自分の席に戻った。ラウルはヴィクトルは勘がいいとは思っていたが、その能力を見誤っていたと自分の評価能力を見直すことにした。



昼を過ぎても、夕方に近い時刻になっても一向にフローラを乗せた馬車が戻る気配がなく、最初はヴィクトルも「閣下、無理させたんじゃないでしょうね」と軽口を叩いていたのに、だんだんとからかいの口調ではなく「…まさか、立てなくなるほど…?」と真剣に心配をし始めたせいで、ラウルもじっと座っていられなくなった。



「わー、待ってください!2日連続は困ります!」



今にも馬房に急ごうとするラウルを必死に引き留めていると、執務室のドアがノックされた。

ジャンが開けると、一人の騎士が紙を持って立っていた。それをジャンが受け取り、ラウルに手渡した。

丸められた手の平よりも小さい紙にメレルの家の紋章が押してあった。



「伝書鳩飛ばしてきたんですね、メレルのじーさん」



「ヴィクトルさん、ほんとにその呼び方直しておかないと、うっかり本人の前で口が滑りますよ」



「いーって、もう何回も口滑らせてるから」



「だから、そういうのを直したほうがって話を」



ヴィクトルとジャンが言いあっていると、ラウルが突然執務室から駆け出していきそうになり、慌てて二人がドアの前に立ちふさがった。



「どうされたんですか、閣下!」



「フローラが倒れた!」



「へっ?」

「ええっ?」



「そこをどけ!」



二人を押しのけようとするラウルを、二人がかりで必死に押し留め「落ち着いてください」「手紙を見せてください」と文字通り押し問答をして、なんとかラウルを執務机まで戻すことに成功した。



ラウルから手渡された手紙に二人が目を通し、哀しげに視線を落とすと、両手を組んで椅子に座っているラウルを見た。



「…仕方ないじゃないですか。元気そうに見えても、まだあの事故から2か月ですよ。馬車に乗るのが怖くなるのも理解できます」



「そうですよ。大けがで済んだのが幸いなくらいで、御者は亡くなるほどの事故でしたから。フローラさんも覚えていないだけで、心はあの時の恐怖心を覚えているんでしょうね」



「そんなことはわかっている。気づきもせずに馬車で帰れなどと言った自分に腹を立てただけだ」



「それも仕方ないですよ。なんせ、閣下は女心なんて一切気にせず何十年も過ごしてきた方ですからね!そんな一朝一夕で習得されちゃ、日々腕に磨きをかけてる俺の努力が報われないですよ!」



「誰でも口説くのを努力と言うのはちがうと思いますよ、ヴィクトルさん」



「好きな女に一声もかけられない自分を棚に上げて説教すんな」



「もういい、ヴィクトル、俺のマントと剣を取れ」



「ジャン!!」



「わかってます!」



ラウルはヴィクトルとジャンが準備してくれるものと思っていたが、ヴィクトルはラウルのマントと剣をつかむとジャンに渡し、ジャンがそのまま執務室を飛び出して行った。

あっけにとられていると、ヴィクトルが執務机に未決裁の書類を積み上げた。



「今日は何がなんでもここにいていただきます!」



「しかし、フローラが」



「倒れたその日に連れ帰るとか正気ですか?閣下や俺達のような頑丈な肉体を持ってないことぐらい、昨日散々確かめたでしょう?!ゆっくり休ませてあげてください。明日、別の奴を迎えに行かせます」



「俺が行く」



「だめです」



「しかし、馬車に乗れない以上、誰かと馬に乗らなければならないだろう」



「閣下…なんですか、その年甲斐もない嫉妬心…」



ラウルが粘っても、ヴィクトルは頑として譲らなかった。仕事に関して決して甘い考えを持たない主君であることはわかっているが、恋に落ちた人間がどのように変化するかをヴィクトルはよく理解していた。



「仕事を自分のために放り投げたと知ったら、フローラさん、どう思いますかね…?」



「ぐっ…」



ラウルはただでさえ、領主としての自分の振る舞いに気にかけていたフローラのことを思い出し、渋々席に戻った。

ヴィクトルが机の前に立ち、小声で告げた。



「閣下、今から俺が提案することが一番閣下とフローラさんのためになると思いますが、この情報を提供することで、その者の今後に何も影響を与えないことを約束してください」



「よくわからんが、それが解決策となるなら、約束しよう」



「ロドリゴを迎えにやります」



「ロドリゴ?第三騎士団の弓がうまい奴だろう?それがどうして適任なんだ」



「ロドリゴは女を愛せません」



「…わかった。そして、そのことは口外しないし、今後にも何の支障もない。俺は誰が誰を好きになろうが、そんなことは構わん」



「知ってます。でも、一応確認しといただけです。じゃあ、フローラさんの迎えの件はそれで対応しますんで、閣下はどうぞお続けください」



ヴィクトルが敬礼をして執務室を下がると、交替でマントと剣を抱えたジャンが部屋に戻って来た。

そして、それらを元の場所戻すと自分の席についた。

全く気の合わなそうな補佐官二人の見事な連携ぶりにラウルはため息をついて、書類に手を伸ばした。

倒れたという情報しかわからないフローラのことが気になって仕方ないが、責務を全うするために、作業は補佐官二人を帰した後も深夜まで続いた。
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