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第8話
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ガタンッ
「キャッ」
エリザベスが軽く悲鳴を上げ、彼女の着ていたジャケットとスカートが水で濡れる。アマーリエは揉め事を回避させようと、わざと不自然にならないようにグラスを倒して水を引っかけたのである。
「申し訳ございません!」
「ちょっとあなた!エリザベス様に何てことを!」
アマーリエや一緒にいた女生徒が濡れた部分にハンカチを当て、エリザベスの友人が水を零した彼女に非難の声を向ける。
テンセイシャを囲んでいた男子生徒はと言うと、婚約者である筈のバーナードでさえ他人事のような目で見ていて、大丈夫かと一言声をかける様子さえもなかった。
エリザベスはしばらく呆然と自分の状況を確認して、理解すると婚約者がどうしているのか見て、溜息を一つ吐いた。
「本当に申し訳ございません!洗濯しますので!」
「水だし問題無いわ。着替えれば済みますし」
文句を言う気が失せたのか、エリザベスは肩を落とすと友人達を伴ってカフェテリアを出ていく。アマーリエと女生徒はそれを固唾を飲んで見守り、彼女達の背中が見えなくなるとホーッと胸を撫で下ろした。
「モニカさんったら……寿命が縮まったわ……」
「ご、ごめんなさい……」
「エリザベス様が寛容な方で良かったわ……」
女生徒に注意され肩を縮こまらせる。あの方法しか思いつかなかったとはいえ、今のは少し危なかったかもしれない。
動機の激しさを感じながら横目で例のグループを見ると、彼等は先程のことなどすっかり忘れてテンセイシャとの会話に戻っていた。唯一テンセイシャだけは舌打ちでもしそうな程に不機嫌な空気を放っている。
『何でそこで邪魔が入るんだよ!?こんなの知らない!勝手なことすんじゃねぇよクソモブ!』
(ク……ッ!?)
モブがどういう意味なのか分からないが、明らかに下品で侮蔑的な単語に頭がカッとなる。
今までにこんな汚い言葉をかけられたことのないアマーリエの胸に、言い返せない悔しさと自分勝手なテンセイシャへの怒りが渦巻く。
しかしここで揉めてしまえば全てが水の泡だ。悶々とした気持ちを抱えたまま、行動には移さないよう自分を抑えていると、丁度午後の授業が差し迫った時間になっていた。
これ幸いとそそくさとカフェテリアから出る生徒が大半な一方で、例のグループは実に暢気そうにしていた。
「私達も出ましょ。あの人達と一緒に教室に帰りたくないし」
自分を誘ってくれた女生徒のうちの一人であるキャサリンが早く戻ろうとみんなを促す。これ以上あのグループを観察するのは無理だ。そう判断したアマーリエは素直に頷き、他の子達にも否やは無かった。
午後の授業でもアマーリエの腹にあるムカムカとした気持ちは中々消えてはくれなかった。いつもは腹が立っても時間が経てば消える筈なのに、今日に限ってはそれがない。
(大丈夫、時間がかかってるだけ。しばらく我慢していれば消える筈)
今まで怒りが込み上げたとしても時間が経てば治まっていた。その経験から痩せ我慢などではなく本気で大丈夫だと思っていたのである。
だから授業後、待ち合わせ場所に現れたヘスターにあっさりと「何かあった?」と聞かれた時はとても驚いたのだ。
「何でそんなことを聞くんですか?」
「だって何か抱えている顔してたから」
アマーリエはペタペタと自分の顔を触る。別に抱えているものは無いのに。そう顔に出ているアマーリエにヘスターはこれは無自覚だなと肩を竦めた。
「それで、何があったの?誰かにイジメられた?」
「いえ、そうではないんですけれど……」
帰りの馬車の中でヘスターに問い詰められしいて言えばとあの時のことを話す。しかしもう終わった筈なのに、話しているうち段々とあの時の悔しさと怒りが再び鎌首をもたげて来て、事情を知っている彼女の前とあって次第に大粒の涙が零れてしまう。
泣くつもりなんて全然無かったのにこれじゃあまるで子どもみたいだ。ハンカチをポケットから出そうとしたが、ヘスターから差し出されて何も考えずに受け取った。そのくらい彼女の頭はぐちゃぐちゃになっていた。
「悪意ある言葉を言われてビックリしたよね。腹が立つよねぇ。言い返せないのってモヤモヤするよね」
ヘスターがあの時抱いていた自分の思いを代弁してくれて只管頷く。
自分がやったのは確かに余計なことだったかもしれない。この身体でいる時の自分はただの傍観者で、テンセイシャ達やエリザベス達に関わるのは極力避けた方が良かったのかもしれない。あの時だって彼等と彼女が揉めるのを黙って見ていた方が正しかったのかもしれない。
でも悪くない人が悪者扱いされるなんて、そんな理不尽なことは起きてほしくなかったのだ。たとえエゴだとしても。
その思いをあのテンセイシャはクソと踏み躙ったのだ。到底許せるものではなかった。
「耐えなきゃいけないのは辛いけど、身体を取り戻せた際には思いっきり言い返せる機会を作ってあげる。その時の為に言い返す言葉を考えておきなさい。気休めにはなるからさ」
背を摩りながらの言葉にアマーリエは「絶対、絶対ですよ」と何度も念押しする。気にしないようにしてもきっと自分はふとした時にあの汚い言葉を思い出してしまうだろう。元の身体に戻れたとしても、彼女に言い返して初めて自分の中でも終わらせられるのだ。
気が済むまで泣いてスッキリしたところでヘスターが「ところで向こうの邪魔して何か勘付かれるようなことはなかった?」と聞かれ、涙の跡をハンカチで拭いながら肯定する。
「はい。『こんなの知らない』って苛立ってる様子でしたけれど、こちらのことは気付かれていないと思います」
かなり憤慨していたが、あくまで良いところで偶然第三者の邪魔が入ったという感じはした。勿論これが何回も続けば怪しまれるだろうが今の時点では大丈夫な筈だ。
ヘスターは腕を組んで視線を宙に彷徨わせ、何かを考え込むような仕草をする。やはり余計なことをしたのだろうかと心配になったが杞憂だった。
「向こうの狙いが婚約破棄だとして……アマーリエがその邪魔をした。……もしかしてこれはエリザベス様に接触する良い機会かもしれない」
「え?」
「もしかしたらお手柄かもよ?」
ヘスターの頭ではどんな計算がされたのかさっぱり分からず、疑問符を飛ばすしかない彼女に「早速お父様に相談しなきゃ!」と腕をグイグイ引っ張る。
貴族令嬢にしては意外と力が強いヘスターに、アマーリエは成す術もなく屋敷の門を潜るのであった。
「お嬢様、お客様でございます」
「こんな時間に?」
そろそろ夕食時かという頃に侍女から訪問者を知らされ、エリザベスは眉を顰める。今日は誰かと会う予定も無いし、先触れだって聞いていない。ましてやこんな時間だ。いったいどんな非常識な人なんだと小言の一つでも言いたくなる。
「私は聞いていないし、先触れも無いのは追い返してちょうだい」
「それが……リンブルク家からでして……」
「リンブルク家?」
異質な家名に本当かと聞き返す。リンブルク家と言えば詳細は国王だけが知っているが、王の密命を受けて動く一族である。そんな人間が自分に何の用なのか緊張が走る。
「既に応接室に通して旦那様と奥様が対応しております。お嬢様にも関係があるお話だからと」
両親も出ているのなら自分に拒否権は無く、侍女に急がせて最低限身なりを整えると足早に応接室へと向かった。
「こんばんは。少々火急の件がございましてお邪魔させていただきました」
そこには本来の姿のリンブルク家の当主が、大の男には不釣り合いの見事な細工の人形と一緒に座っていた。
「キャッ」
エリザベスが軽く悲鳴を上げ、彼女の着ていたジャケットとスカートが水で濡れる。アマーリエは揉め事を回避させようと、わざと不自然にならないようにグラスを倒して水を引っかけたのである。
「申し訳ございません!」
「ちょっとあなた!エリザベス様に何てことを!」
アマーリエや一緒にいた女生徒が濡れた部分にハンカチを当て、エリザベスの友人が水を零した彼女に非難の声を向ける。
テンセイシャを囲んでいた男子生徒はと言うと、婚約者である筈のバーナードでさえ他人事のような目で見ていて、大丈夫かと一言声をかける様子さえもなかった。
エリザベスはしばらく呆然と自分の状況を確認して、理解すると婚約者がどうしているのか見て、溜息を一つ吐いた。
「本当に申し訳ございません!洗濯しますので!」
「水だし問題無いわ。着替えれば済みますし」
文句を言う気が失せたのか、エリザベスは肩を落とすと友人達を伴ってカフェテリアを出ていく。アマーリエと女生徒はそれを固唾を飲んで見守り、彼女達の背中が見えなくなるとホーッと胸を撫で下ろした。
「モニカさんったら……寿命が縮まったわ……」
「ご、ごめんなさい……」
「エリザベス様が寛容な方で良かったわ……」
女生徒に注意され肩を縮こまらせる。あの方法しか思いつかなかったとはいえ、今のは少し危なかったかもしれない。
動機の激しさを感じながら横目で例のグループを見ると、彼等は先程のことなどすっかり忘れてテンセイシャとの会話に戻っていた。唯一テンセイシャだけは舌打ちでもしそうな程に不機嫌な空気を放っている。
『何でそこで邪魔が入るんだよ!?こんなの知らない!勝手なことすんじゃねぇよクソモブ!』
(ク……ッ!?)
モブがどういう意味なのか分からないが、明らかに下品で侮蔑的な単語に頭がカッとなる。
今までにこんな汚い言葉をかけられたことのないアマーリエの胸に、言い返せない悔しさと自分勝手なテンセイシャへの怒りが渦巻く。
しかしここで揉めてしまえば全てが水の泡だ。悶々とした気持ちを抱えたまま、行動には移さないよう自分を抑えていると、丁度午後の授業が差し迫った時間になっていた。
これ幸いとそそくさとカフェテリアから出る生徒が大半な一方で、例のグループは実に暢気そうにしていた。
「私達も出ましょ。あの人達と一緒に教室に帰りたくないし」
自分を誘ってくれた女生徒のうちの一人であるキャサリンが早く戻ろうとみんなを促す。これ以上あのグループを観察するのは無理だ。そう判断したアマーリエは素直に頷き、他の子達にも否やは無かった。
午後の授業でもアマーリエの腹にあるムカムカとした気持ちは中々消えてはくれなかった。いつもは腹が立っても時間が経てば消える筈なのに、今日に限ってはそれがない。
(大丈夫、時間がかかってるだけ。しばらく我慢していれば消える筈)
今まで怒りが込み上げたとしても時間が経てば治まっていた。その経験から痩せ我慢などではなく本気で大丈夫だと思っていたのである。
だから授業後、待ち合わせ場所に現れたヘスターにあっさりと「何かあった?」と聞かれた時はとても驚いたのだ。
「何でそんなことを聞くんですか?」
「だって何か抱えている顔してたから」
アマーリエはペタペタと自分の顔を触る。別に抱えているものは無いのに。そう顔に出ているアマーリエにヘスターはこれは無自覚だなと肩を竦めた。
「それで、何があったの?誰かにイジメられた?」
「いえ、そうではないんですけれど……」
帰りの馬車の中でヘスターに問い詰められしいて言えばとあの時のことを話す。しかしもう終わった筈なのに、話しているうち段々とあの時の悔しさと怒りが再び鎌首をもたげて来て、事情を知っている彼女の前とあって次第に大粒の涙が零れてしまう。
泣くつもりなんて全然無かったのにこれじゃあまるで子どもみたいだ。ハンカチをポケットから出そうとしたが、ヘスターから差し出されて何も考えずに受け取った。そのくらい彼女の頭はぐちゃぐちゃになっていた。
「悪意ある言葉を言われてビックリしたよね。腹が立つよねぇ。言い返せないのってモヤモヤするよね」
ヘスターがあの時抱いていた自分の思いを代弁してくれて只管頷く。
自分がやったのは確かに余計なことだったかもしれない。この身体でいる時の自分はただの傍観者で、テンセイシャ達やエリザベス達に関わるのは極力避けた方が良かったのかもしれない。あの時だって彼等と彼女が揉めるのを黙って見ていた方が正しかったのかもしれない。
でも悪くない人が悪者扱いされるなんて、そんな理不尽なことは起きてほしくなかったのだ。たとえエゴだとしても。
その思いをあのテンセイシャはクソと踏み躙ったのだ。到底許せるものではなかった。
「耐えなきゃいけないのは辛いけど、身体を取り戻せた際には思いっきり言い返せる機会を作ってあげる。その時の為に言い返す言葉を考えておきなさい。気休めにはなるからさ」
背を摩りながらの言葉にアマーリエは「絶対、絶対ですよ」と何度も念押しする。気にしないようにしてもきっと自分はふとした時にあの汚い言葉を思い出してしまうだろう。元の身体に戻れたとしても、彼女に言い返して初めて自分の中でも終わらせられるのだ。
気が済むまで泣いてスッキリしたところでヘスターが「ところで向こうの邪魔して何か勘付かれるようなことはなかった?」と聞かれ、涙の跡をハンカチで拭いながら肯定する。
「はい。『こんなの知らない』って苛立ってる様子でしたけれど、こちらのことは気付かれていないと思います」
かなり憤慨していたが、あくまで良いところで偶然第三者の邪魔が入ったという感じはした。勿論これが何回も続けば怪しまれるだろうが今の時点では大丈夫な筈だ。
ヘスターは腕を組んで視線を宙に彷徨わせ、何かを考え込むような仕草をする。やはり余計なことをしたのだろうかと心配になったが杞憂だった。
「向こうの狙いが婚約破棄だとして……アマーリエがその邪魔をした。……もしかしてこれはエリザベス様に接触する良い機会かもしれない」
「え?」
「もしかしたらお手柄かもよ?」
ヘスターの頭ではどんな計算がされたのかさっぱり分からず、疑問符を飛ばすしかない彼女に「早速お父様に相談しなきゃ!」と腕をグイグイ引っ張る。
貴族令嬢にしては意外と力が強いヘスターに、アマーリエは成す術もなく屋敷の門を潜るのであった。
「お嬢様、お客様でございます」
「こんな時間に?」
そろそろ夕食時かという頃に侍女から訪問者を知らされ、エリザベスは眉を顰める。今日は誰かと会う予定も無いし、先触れだって聞いていない。ましてやこんな時間だ。いったいどんな非常識な人なんだと小言の一つでも言いたくなる。
「私は聞いていないし、先触れも無いのは追い返してちょうだい」
「それが……リンブルク家からでして……」
「リンブルク家?」
異質な家名に本当かと聞き返す。リンブルク家と言えば詳細は国王だけが知っているが、王の密命を受けて動く一族である。そんな人間が自分に何の用なのか緊張が走る。
「既に応接室に通して旦那様と奥様が対応しております。お嬢様にも関係があるお話だからと」
両親も出ているのなら自分に拒否権は無く、侍女に急がせて最低限身なりを整えると足早に応接室へと向かった。
「こんばんは。少々火急の件がございましてお邪魔させていただきました」
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