切り札の男

第一部 切り札の男

第一話 バッティングセンター

　なぜ、またここに来ているのか。久保雄大くぼゆうだいは自問自答した。彼がいるのは、住宅街にあるバッティングセンター。彼はマシンから放たれるボールを、ひたすらセンター方向に打ち返していた。

　久保雄大は高校一年生である。四月に入学してからというもの、毎日のようにバッティングセンターに通っていた。高校では野球をやめる。そのつもりで入学しているから、野球部には見学にも行かなかった。それなのに、ふと気づくとバットを振っている。どっちつかずの現状に、心が晴れないままだった。

「……もう終わりか」

　マシンからボールが出なくなったのを見て、久保は財布を取り出した。だが、彼の財布には小銭が残っていなかった。

「今日は帰るか」

　彼はバットを置き、リュックサックを背負った。店主に挨拶して出口から足を踏み出すと、店の中から彼を呼び止める声がした。

「ちょっと、待ってよー！！！」

　その声に、久保は思わず振り向いた。そこにいたのは、一人の女子高生だった。

「あんた、うちの一年生でしょー！！」

　久保は状況を理解できなかったが、彼女の制服を見て自分と同じ高校であることに気づいた。

「そうだけど、なに？」

「あんたさ、毎日毎日すごい打ってるでしょ！！」

「それがどうした？」

「野球部に入ってほしいの！！！」

　その言葉を聞き、久保は困惑した。

「嫌だよ。野球部には入らないって決めてるんだ」

「どうして？？」

　女子高生は大きい声をあげた。彼女はまっすぐ久保を見つめていた。

「どうしても何も、無理だからだよ。だいたい、お前は野球部の何なんだよ」

「私は硬式野球部のマネージャー。滝川たきがわまなっていうの」

「そうかよ。とにかく、野球部には入れない。悪かったな」

「じゃあ、なんで毎日バッティングセンターなんか来てるの？」

「……なんでなんだろうな」

　久保はそんな捨て台詞を残して、その場を去った。まなは久保を呼び止めたが、その声は届いていなかった。

　その翌日。いつものように久保はバッティングセンターにやってきた。打席に入って打ち始めると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ナイスバッティング！！」

　久保が思わず振り向くと、そこにはまながいた。思わず打席から離れ、まなに問いかける。

「お前、何しに来たんだよ」

「久保君の勧誘に来たの」

「俺の名前、なんで知ってるんだ」

「同級生なんだから当たり前でしょ！」

　そんな間にも、マシンから次々とボールが放たれていく。久保は打席に戻り、再び打ち始めた。

「久保君、左打ちなんだね」

「まあ、なんとなくだ」

　久保は問いかけに対して適当に返事しながら、ひたすら打ち続ける。

「ねえー、そんなに打てるのになんで入ってくれないのよ」

「別に、お前には関係ないことだ」

　久保は冷たくあしらった。しかし、心の中では葛藤を抱えていた。一度は諦めた野球の道。それに情けなくすがりつく現状に、彼自身も複雑な気持ちだったのだ。

「というか、なんで俺がここに来ていることを知ってたんだ？」

「知ってたも何も、ここは私の家だもん」

「え？」

「ここの名前、『滝川バッティングセンター』でしょ。知らなかったの？」

「……そういえば、そうだったかもな」

　二人の間に、沈黙が流れた。カキンカキンと、打球音だけが響いている。間もなく、ボールがマシンから出てこなくなった。

「今日は終わりだ。俺は帰る」

「え？　まだちょっとしか打ってないじゃない」

「後ろから野次を飛ばされたんじゃ、かなわん」

「そんなひどいこと言ってないじゃん！！」

　まなの声に耳を貸さず、久保はバットを置いた。帰り支度を始めると、まながペットボトルのお茶を持ってきた。

「これ、お父さんから。いつも来てくれるからサービスだって」

「……ありがとよ」

　そう言って、久保はお茶を受け取った。いつものくせで右手でふたを取ろうとしたが、慌てて持ち替えて左手で開けた。

　それを見たまなが、久保に問いかけた。

「久保君って、普段も左利きなの？」

「いや、右利きだ」

「ふーん、そうなんだ」

　久保はぐびぐびとお茶を飲み干し、ゴミ箱にペットボトルを捨てた。

「ご馳走様。じゃあ、俺は帰る」

「明日も来てね！！」

「来るかもしれんが、野球部には入らんぞ」

　そう言い残して、久保はバッティングセンターを出た。

　それから一週間の間、毎日のようにまなは久保を勧誘した。その度に断り続けていた久保だったが、少しずつ心境に変化が表れていた。

　シニアの頃は周りから疎まれてさえいたのに、今ではこんなに熱心に勧誘してくれる人がいる。その事実が、少しずつ久保の心を開いていった。

　そんなある日、またいつものように久保は打席に入っていた。相変わらず、まなは後ろからそれを見守っていた。

「ねえ、野球って楽しい？」

「どうしたんだよ、急に」

　久保はバットを振りながら、まなの問いかけに返事した。

「だってさ、久保君はいつもつまんなそうなんだもん。野球嫌いなのかなって」

「別に、そんなことはないけど」

「じゃあ、なんでそんなに暗いの？」

「……俺だって、もっと楽しく野球がしたい」

　野球が嫌いではないのに、暗い表情でバットを振り続ける。まなにとって、久保の振る舞いは理解しがたいものだった。

「じゃあさ、やっぱり野球部入りなよ！　うちの部、いい人ばっかりだし」

「なあ、どうしてそんなに俺を野球部に入れたいんだ？」

「え？」

「なんでそんなに熱心に誘ってくるんだよ。部員だって、足りないわけじゃないだろう？」

「……あのね、久保君」

「なんだ？」

「お兄ちゃんがプロ野球選手になるために、あなたの力が必要なの」

　その言葉を聞いて、久保は振り向いた。プロ野球選手という言葉に、思わず反応してしまったのだ。

「お前の兄貴がどうしたってんだよ」

「私のお兄ちゃんはね、プロ野球選手を目指してるの。それで野球部でピッチャーやってる」

「……それが、なんで俺が野球部に入ることに繋がるんだ」

「うちの野球部、正直そこまで強くないの」

「知ってるよ」

「だからね、あなたにうちの部に入ってほしいの。少しでも夏の大会で勝ち上がって、スカウトの人にお兄ちゃんを見てもらいたいの」

　もちろん、プロ野球に入るのは容易ではない。一度や二度スカウトに見られたくらいで、ドラフトで指名されるなんてことはあり得ないわけだ。

　久保はそのことを知っていた。彼自身も、一度はその舞台を目指していたのだから。そして、その夢は決して簡単ではないことも身をもって知っていた。

「プロ野球なんて、入れるわけないだろ」

「でも！！　私のお兄ちゃんなら出来るって、信じてるの！！」

　まなは必死の表情で、大きい声をあげた。まなにとって、兄の夢は自分の夢でもあった。それを実現することが、彼女自身の目標でもあったのだ。

「……そんなの、あり得ないだろ」

「え？」

「そんな簡単にプロになれるわけないだろ！！　弱小校のくせに！！」

　久保も思わず声を荒げた。久保にとっては、まなの発言は無謀に聞こえた。まなが夢を語ることが、かつての自分自身の目標を踏みにじったように思えたのだ。

　だが、まなにとっても兄を否定されるのは許せないことだった。彼女にとって、兄の球は絶対的存在だった。それを軽く見られることは、何より許しがたいことだったのである。

「……お兄ちゃんの球、見たことないくせに」

「なに？」

「そう思うなら、お兄ちゃんと勝負しなさいよ！！」

　まなも声を荒げた。二人とも互いをじっと見つめ、ただボールが放たれる音だけが響きわたる。

　まなの提案に対し、久保の心に闘志が宿っていた。プロ野球を目指そうなんていう、なんだか知らんが舐めた野郎。そいつを叩き潰して、この晴れない心をスカッとさせたい。そんな感情を抱いていた。

「いいよ、受けてやる。必ず打ってみせる」

「言ったわね、絶対よ！！」

　時刻はまだ五時。高校では野球部がまだ活動している時間だ。二人は互いに言い争いながら、高校へと向かった。