1 / 17
第一 疑惑
しおりを挟む
無知蒙昧の凡人が
聖なる知識に触れたらば
どんな裁きが下るやら
「化学者 タッチ ザ エクスプロージョン」
唐突に静寂を斬り裂いた、奇妙奇天烈ながらやかましい音楽で目が覚めた。頭が痛い。
私はまだ睡魔に足を掴まれたままだったが、無理にでも体を起こす必要があった。
「ノレル ア カペラ ラ ラ ラ」
常人では聴き取り得ない、実に奇妙な音楽は、私の手によってそこで止められることとなった。
自分でも妙なセンスをしているということは自覚しているが、電話が掛かってくる度にこれが流れるのは如何なるものだろうか。
「おっはよぉぉうござぁいまぁぁす!」
先程の曲を遥かに超えるやかましい声が、再び静寂を斬り裂いた。
「っす・・・」
寝起き、というよりつい数秒前まで眠っていたので、まともに挨拶を返すことすらままならず、やっとの思いで私はほぼ唸り声に近い挨拶を返した。
無理にでも起きなければならないのも当然である。電話を掛けてきたその人は、私が日頃お世話になっている先輩だからだ。
「あぇ、寝起きか。いつまで寝てんだよお前は。」
時計に目をやると、短針は三、長針は七を指していた。
「おかげさまで、今日は早起きっすよ・・・」
なんせ私は、所謂夜型人間だ。人々が行動する時間には眠り、人々が休む時間には行動する。
「もう三時半じゃねえかよ。何が早起きだ。」
常識人には、非常識人の常識が通用しない。理解もできないことだろう。
「で、なんすか急に。」
「あぁそう、クワガタ捕まえたんだよ。お前昆虫好きじゃん?要るよな?」
クワガタという単語一つで、私は、足を掴んだままの睡魔を蹴飛ばすことができた。
今は七月も半ばに差し掛かる頃だし、何せ、私は昆虫、特にカブトムシやクワガタムシをはじめとした甲虫がたまらなく好きなのだから。
「まじすか、要ります・・・けど、どこで捕まえたんすか?」
「捕まえたっつーか拾ったんだよ。仕事場の排水溝になんか黒いのが落ちてんの見えてさ。で、よく観たらクワガタだったんだよ。」
「あぁ、仕事場山ん中ですもんね・・・多分ドルクス属のなんかっすね。」
「ドルクー・・・?なんか知らんがとりま持ってくわ。入れもんないから今俺の腕に掴まってもらってんの。」
「えぇ・・・どういう状態っすかそれ・・・」
クワガタムシを腕に掴まらせたまま住宅街を移動する人間が、どこにいるというのだろうか。
先輩の発言から、私はそれがドルクス属、つまりオオクワガタ属の何かであることは把握していた。
人目によく留まるものといえば、概ねヒラタクワガタかコクワガタのどちらかであろう。
ましてや、この周辺にアカアシクワガタなど、それら以外が生息しているという情報は聞いたこともない。
しかし、気になる点があった。ヒラタクワガタも、コクワガタも、刺激すると大半の個体は擬死、つまり死んだフリをする。
それを腕に掴まらせたまま移動するとは・・・
それに、先輩の話ぶりとその周囲の雑音から、仕事帰りの車内であることは明確であった。
あの人はあの人の車を自分で運転して通勤している。
要は、腕にクワガタがくっついたまま、車を運転してこちらに向かって移動中ということだ。なんとシュールな絵面であろうか。
・・・ではなくて、本来擬死するであろうクワガタが、なぜそのような環境下で人の腕にずっと掴まっているのか。
たまたまそういう個体なのかもしれないが、既に私は、何か違和感を覚えていた。
「まーとりあえずあと二十分くらいで着くと思うからさー、起きといてね。」
「・・・うっす。」
再び静寂が訪れた。元自衛官であることも相まって、先輩はとにかく声が大きい。
・・・いずれにしても起きなければ。
私は寝室を後に、サッサと歯磨きと洗顔を済ませ、コーヒーを二杯用意した。
「おーーーーーっす」
玄関から、扉を開けなくてもわかるくらい、はっきりとした大きな声が聞こえた。到着したようだ。
「おす。とりあえず上がってくださいよ・・・マジで腕にクワガタくっついてるし・・・」
「おう」
確かに、そのクワガタは、先輩の筋肉質な腕をがっしりと抱えていた。
「お、コーヒー用意してくれてたん?相変わらず気が利くねぇ。」
「まあ、あらかじめ来ることがわかってますし・・・いつもと違って。」
いつも、先輩は突然うちにやってくる。私が所謂貧乏人でもあることに気を配ってか、時折冷凍の唐揚げやら、肉やら酒やら、様々な飲食物を提供してくれる。
・・・事前連絡もなく突然に。いつも。
せめてものお礼にと、私はいつも珈琲を淹れる。私にとって良き嗜好品であるだけでなく、私の淹れる珈琲は美味いと、知り合いの中では好評なのだ。
「で、これは何だ?ヒラタ?コクワ?」
「コクワっすね。しかも随分立派な。」
泥にまみれていたが、大型のコクワガタだった。しかし何かがおかしい。汚れているせいだろうか?
「こいつえらく力強くてさぁー、よくずっと掴まってられたよなぁ。」
「力強く・・・?」
「あぇ?なんか変か?」
「コクワガタはそんなに脚の力は強くないはずなんすよね。」
「はぇー。」
先輩は、昆虫にさほど興味がないらしい。
実際、多少の知識があればすぐにわかるはずのコクワガタがコクワガタということすら直前までわからなかったのだから、ましてやそれぞれの種が持つ生態や性質など知っているわけがない。
「でもたまたまかもしれんやん?」
恐らく個体差のことを言っているのだろう。
「まあ、そうかもしれないっすけど・・・一応調べてみますね。」
「お前そういうの詳しいもんなー。」
「単に好きなだけっすよ。専門家じゃないですし。」
好きなものであるなら、ある程度の知識が付くのは当然だ。かと言って、深い知識があるのか問われると、そうでもない。
例えば、銃が好きな人がいるとして、その人にM4カービンを見せれば、大概の場合はすぐにそれがM4だとわかるだろうし、その使い方もわかるだろう。
しかし、M4であるとわかった人でも、それが西暦何年にアメリカ軍に採用されたもので、どのような作動方式をしていて、どのようなライフリングが刻まれているかなんて、余程オタクであるか専門家でない限りわかる人はそう居ない。
単純に生き物が好きなだけの私が、まさかそんな領域に片足を突っ込むことになるとは、この時全くもって予想していなかった。
聖なる知識に触れたらば
どんな裁きが下るやら
「化学者 タッチ ザ エクスプロージョン」
唐突に静寂を斬り裂いた、奇妙奇天烈ながらやかましい音楽で目が覚めた。頭が痛い。
私はまだ睡魔に足を掴まれたままだったが、無理にでも体を起こす必要があった。
「ノレル ア カペラ ラ ラ ラ」
常人では聴き取り得ない、実に奇妙な音楽は、私の手によってそこで止められることとなった。
自分でも妙なセンスをしているということは自覚しているが、電話が掛かってくる度にこれが流れるのは如何なるものだろうか。
「おっはよぉぉうござぁいまぁぁす!」
先程の曲を遥かに超えるやかましい声が、再び静寂を斬り裂いた。
「っす・・・」
寝起き、というよりつい数秒前まで眠っていたので、まともに挨拶を返すことすらままならず、やっとの思いで私はほぼ唸り声に近い挨拶を返した。
無理にでも起きなければならないのも当然である。電話を掛けてきたその人は、私が日頃お世話になっている先輩だからだ。
「あぇ、寝起きか。いつまで寝てんだよお前は。」
時計に目をやると、短針は三、長針は七を指していた。
「おかげさまで、今日は早起きっすよ・・・」
なんせ私は、所謂夜型人間だ。人々が行動する時間には眠り、人々が休む時間には行動する。
「もう三時半じゃねえかよ。何が早起きだ。」
常識人には、非常識人の常識が通用しない。理解もできないことだろう。
「で、なんすか急に。」
「あぁそう、クワガタ捕まえたんだよ。お前昆虫好きじゃん?要るよな?」
クワガタという単語一つで、私は、足を掴んだままの睡魔を蹴飛ばすことができた。
今は七月も半ばに差し掛かる頃だし、何せ、私は昆虫、特にカブトムシやクワガタムシをはじめとした甲虫がたまらなく好きなのだから。
「まじすか、要ります・・・けど、どこで捕まえたんすか?」
「捕まえたっつーか拾ったんだよ。仕事場の排水溝になんか黒いのが落ちてんの見えてさ。で、よく観たらクワガタだったんだよ。」
「あぁ、仕事場山ん中ですもんね・・・多分ドルクス属のなんかっすね。」
「ドルクー・・・?なんか知らんがとりま持ってくわ。入れもんないから今俺の腕に掴まってもらってんの。」
「えぇ・・・どういう状態っすかそれ・・・」
クワガタムシを腕に掴まらせたまま住宅街を移動する人間が、どこにいるというのだろうか。
先輩の発言から、私はそれがドルクス属、つまりオオクワガタ属の何かであることは把握していた。
人目によく留まるものといえば、概ねヒラタクワガタかコクワガタのどちらかであろう。
ましてや、この周辺にアカアシクワガタなど、それら以外が生息しているという情報は聞いたこともない。
しかし、気になる点があった。ヒラタクワガタも、コクワガタも、刺激すると大半の個体は擬死、つまり死んだフリをする。
それを腕に掴まらせたまま移動するとは・・・
それに、先輩の話ぶりとその周囲の雑音から、仕事帰りの車内であることは明確であった。
あの人はあの人の車を自分で運転して通勤している。
要は、腕にクワガタがくっついたまま、車を運転してこちらに向かって移動中ということだ。なんとシュールな絵面であろうか。
・・・ではなくて、本来擬死するであろうクワガタが、なぜそのような環境下で人の腕にずっと掴まっているのか。
たまたまそういう個体なのかもしれないが、既に私は、何か違和感を覚えていた。
「まーとりあえずあと二十分くらいで着くと思うからさー、起きといてね。」
「・・・うっす。」
再び静寂が訪れた。元自衛官であることも相まって、先輩はとにかく声が大きい。
・・・いずれにしても起きなければ。
私は寝室を後に、サッサと歯磨きと洗顔を済ませ、コーヒーを二杯用意した。
「おーーーーーっす」
玄関から、扉を開けなくてもわかるくらい、はっきりとした大きな声が聞こえた。到着したようだ。
「おす。とりあえず上がってくださいよ・・・マジで腕にクワガタくっついてるし・・・」
「おう」
確かに、そのクワガタは、先輩の筋肉質な腕をがっしりと抱えていた。
「お、コーヒー用意してくれてたん?相変わらず気が利くねぇ。」
「まあ、あらかじめ来ることがわかってますし・・・いつもと違って。」
いつも、先輩は突然うちにやってくる。私が所謂貧乏人でもあることに気を配ってか、時折冷凍の唐揚げやら、肉やら酒やら、様々な飲食物を提供してくれる。
・・・事前連絡もなく突然に。いつも。
せめてものお礼にと、私はいつも珈琲を淹れる。私にとって良き嗜好品であるだけでなく、私の淹れる珈琲は美味いと、知り合いの中では好評なのだ。
「で、これは何だ?ヒラタ?コクワ?」
「コクワっすね。しかも随分立派な。」
泥にまみれていたが、大型のコクワガタだった。しかし何かがおかしい。汚れているせいだろうか?
「こいつえらく力強くてさぁー、よくずっと掴まってられたよなぁ。」
「力強く・・・?」
「あぇ?なんか変か?」
「コクワガタはそんなに脚の力は強くないはずなんすよね。」
「はぇー。」
先輩は、昆虫にさほど興味がないらしい。
実際、多少の知識があればすぐにわかるはずのコクワガタがコクワガタということすら直前までわからなかったのだから、ましてやそれぞれの種が持つ生態や性質など知っているわけがない。
「でもたまたまかもしれんやん?」
恐らく個体差のことを言っているのだろう。
「まあ、そうかもしれないっすけど・・・一応調べてみますね。」
「お前そういうの詳しいもんなー。」
「単に好きなだけっすよ。専門家じゃないですし。」
好きなものであるなら、ある程度の知識が付くのは当然だ。かと言って、深い知識があるのか問われると、そうでもない。
例えば、銃が好きな人がいるとして、その人にM4カービンを見せれば、大概の場合はすぐにそれがM4だとわかるだろうし、その使い方もわかるだろう。
しかし、M4であるとわかった人でも、それが西暦何年にアメリカ軍に採用されたもので、どのような作動方式をしていて、どのようなライフリングが刻まれているかなんて、余程オタクであるか専門家でない限りわかる人はそう居ない。
単純に生き物が好きなだけの私が、まさかそんな領域に片足を突っ込むことになるとは、この時全くもって予想していなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
迷探偵ごっこ。
大黒鷲
ミステリー
これは、中学生同士のまだ子供っぽさが残ってるからこそ出来る名探偵ごっこである。
日常のくだらないことをプロのように推理し、犯人を暴く。
「「とても緩い作品である」」
だが...
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる