真田源三郎の休日

神光寺かをり

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返書

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 私は文を眺めながら、思わず肩を揺らして、しかし声に出すことはどうやら堪えて、笑っておりました。

 私の頭の奥には、初めて訪れた萬屋の座敷で、自分の家におられるかのようにくつろいで、文を書いている前田慶次郎殿の姿が浮かんでおりました。
 その傍で萬屋の主が、初めてあった大柄な侍を、十年前からの同居人のようにあしらっている姿も、です。
 慶次郎殿ならば初対面の相手でも気に入れば刎頸ふんけいの友のように接するに違いなく、萬屋のほうも初めての客であっても「これ」と見込んだ相手なら心を開くに相違ないのです。

 それから、野山に出て何もしないことを楽しんでおられるような慶次郎殿、欲しいものを見付けて子供のように夢中で眺めている慶次郎殿の姿も、まるで現のように想像できます。
 そして、巨大な黒い馬に打ち跨った慶次郎殿が、今にも庭先にひょっこりと現れる、その光景も、ありありと見える気がしました。

 私は今すぐに筆を取り、

『いつ何時でもお越し下さい。門は開け放ち、戸も鍵を開けてお待ちしております』

 と書きたい気分でした。
 その文が先方に届けば、おそらく慶次郎殿は本当に夜半の山道に馬を走らせて、この山城を訪れてくれることでしょう。
 私はその様子を想像し、楽しさのあまり身震いしました。
 その楽しさを押さえ込むのには大層苦労しました。

 そこへ垂氷つららが、

「御返書は? お望みでしたら、今日の内に先方へお届けいたしますよ。わたしは歩くのが得意ですから」

 自信ありげに微笑してみせたのです。途端に、私は泣きたい気分になりました。

「その日書いた文の返書がその日の内に届いたら、どうなると……お主は思う?」

 こう尋ねると、垂氷つららは瞬きをしながら小首を傾げました。
 自慢の健脚が己自身にとって当たり前に過ぎるので、その速さが尋常じんじょうではなく、ともすれば怪しまれるやも知れぬ代物しろものであることに、思い至らぬのでありましょう。

「最初の手紙を持って出た者も、返書を携えて戻ってきた者も、普通の者ではないと思われるぞ」

 私がそう言っても、まだ理解が出来ない様子でした。

「萬屋には普通でない者が出入りしているとか、その萬屋が真田贔屓ひいきだとか、萬屋の主人は店に出入りしているノノウや商人や百姓の格好をした者たちが『草』であることを承知しているだとか、承知しながらそれを滝川様に報告していないとか、そういうことが滝川様のご一門に知れても良いか?」

「そうなるとどうなりますか?」

「こうなる」

 私は自分の首に手刀てがたなを当てました。
 垂氷つららの顔が、僅かに強張こわばった様に見えました。私が口にしなかった、「処刑され、首を切り落とされるだろう」という言葉を覚りとった――そして首をねられるというそのことに対して、抱いている並々ならぬが、その身を縮こまらせ、震わせたのです。
 私は薄く笑い、言葉を続けました。

「なにしろ私たちは織田様の家臣になったばかりだ。良い家臣でなければならない。上役に隠し事をすることなどないような、ちゃんとした家来でないとな。
 でないと、私たちだけでなく、お前達ノノウも、それから萬屋も、萬屋に出入りしている者達も全部コレだ」

 私が再び手刀を首元に打ち付けて見せますと、垂氷つららはブルブルと首を横に振りました。

「それは困ります。若様はともかくも、千代女様の首が飛んでは、困ります」

 これを真面目な顔で言うのですから参ったものです。

「お前、私をあるじともやとぬしとも思うておらぬな」

 私は苦笑いするより他にありませんでした。


 結局、私が返書をしたためたのは翌日の昼過ぎで、それを垂氷つららではない、他の繋ぎ役のノノウに託して、萬屋へ届けさせました。
 そして萬屋の者がその又翌日に慶次郎殿の元へ届けてくれるように、と言づてました。
 ええ、たしかに一瞬、直接前田邸へ届ようとも考えもしました。間に何人もの人手を挟むのは、もどかしくてなりません。
 しかし、私の小さいきもがそれを押しとどめさせました。

 私が垂氷つららに言ったことは、全部私の本心です。
 武田家がノノウを庇護ひごし、彼女らが「信心」を理由に自由に諸国を巡ることが許されていることを利用して「草」として利用していたことを、織田様や滝川様、そしてその将である前田慶次郎殿が全く知らぬとは考えられません。

 ノノウの統帥そうすいたる千代女殿の婚家「甲賀望月氏」は、甲賀忍びの流れを引いています。
 そして滝川様ご一門は甲賀発祥だと云います。
 同じ源流を持つ者として、武田の庇護を失った千代女殿達の動向を探っていても、不思議でありますまい。
 彼女たちの「網」は有益なモノです。手に入れたいと思うのが当然でしょう。
 そうであれば――あるいはそうでなかったとしても――父がノノウ達のことを秘匿かくしていることが知れたなら、真田の家にどのような御仕置きがなされるか、考えただけでも小便ゆばりが漏れそうなほど強烈な震えが来ます。

 ですから、出来るだけ「普通の文のやりとり」に近い速さで事を進めたかったのです。
 私は、友との手紙のやり取りを心の侭にすることが許せない程の小心者の己自身が、情けなくてなりませんでした。
 ため息を吐いている所へ、垂氷つらら興味津津きょうみしんしんといった顔つきで、

「それで、その『慶』様には、どのような文を送られたのですか?」

「なんだ、のぞきき見たのではないのか?」

 封印をしたわけではない、しかも私信でありましたが、垂氷のような「優秀な草」であれば、たとえ自分が携わったやり取りでなくても、主人……この「優秀な娘」が私のことをそう思っていてくれるかどうかは別として……と誰がしかが交わした文の内容を確認するのが当然なのではないか――と、私は考えていました。
 ですから垂氷つららが首を横に振ったことは意外でした。

「見なかったと言うことは、見る必要を感じなかったということだろう? それでいて、内容をお前に言う必要があるというなら、理由を申せ」

 垂氷つららは笑って、

「文を見なかったのは、火急かきゅうの用件ではなかったからです。急ぐことであるならば、わたしも文の内容を直ぐに知っているべきで御座いましょうが、そうでないなら後から聞いても間に合いましょう」

「では、もしアレを早馬ででも出していたなら、当然封を開けてじっくり見た、ということか」

「あい」

 頷いてみせる垂氷つららには、悪びれた様子など微塵みじんもありませんでした。しかしすぐに、ニコニコとしていた頬の肉を、きゅっと引き締めて見せ、

「で、でございますよ。よしんば、万一、もしかして、それこそ火急の用件で、件の『慶』さまの所へ、若様の筆跡おてを真似た贋の文を、わたしが書かなければならなくなったときに、それまでのやりとりが判っておりませんでしたら、辻褄の合わないことを書くやも知れません。
 ええ、つまり用心のためです。そう、用心のために教えて頂きます」

 真面目振った顔で言いました。
 一応は理に適っています。ですが私にはこの娘の目の奥に、仕事への責任感以外の光が見える気がしたものです。

「さて、先方に贋手紙を渡さねばならないような事が起きなければよいが。なにしろ私は友を作るのが下手だ。せっかく先方から友人扱いしてくれたその人との縁を失うのは嫌だな」

 私は贋手紙など出されては困ると遠回しに言ったつもりなのですが、私などが予想できないような返答が、想像していない斜め上の方角から返って来てしまいました。

「お任せ下さいませ。垂氷めは持てる力総てを注いで、迫真の贋手紙を書きまする。決して若様と『慶』様との仲が壊れるような事にはさせませぬ」

 垂氷つららは胸をドンと叩いて見せました。
 誠に勘働きの悪いことです。
 私ははこの時になってようやく、この娘には皮肉であるとか湾曲した物言いであるとかいうモノが通用しないらしいと気付きました。
 垂氷つららの顔色は艶々つやつやと、目は爛々らんらんと輝いております。早く自分の持てる力を発揮したい、と、総身に力をみなぎらせているようでありました。

『まあ、それだけ自分の「草」としての能力に自身があるのだ、と言うことにしておくか』

 私は苦笑しながら腹の奥でため息を吐きました。

「どうあっても、文の中身を知りたいか?」

「あい」

 垂氷つららの目玉がますます持って輝きました。

「お前の期待しておるようなことは書かなんだよ。ありきたりな文だ、ありきたりな……」

 私は短い文の内容を殆どそのまま言って聞かせました。


 過日の身に余る送別の茶会の御礼を、今日まで申し上げておりませんなんだ事を、どうかお許し願います。
 今私は切り立った山の上で、日がな一日書物に当たる退屈な日々を送っております。
 と申しましても、この山城の蔵の中には米と味噌と柴以外の物はそれほど多くは入っておりません。遠くない日に読む書物もなくなってしまうのではないかと案じておりました所へ、先の文を頂戴し、涙を流して喜んでおります。
 何れ近い日に件の馬にて山駆けをなさった暁には、この山家にて精一杯のおもてなしをする所存で御座います。


 聞き終わった垂氷つららの目は、針のように細く鋭くなっておりました。

「若様のお腹の黒いこと」

「そうかな」

「そうで御座いますよ。
『何もない』と言っておきながら、籠城ろうじょうするに十分な兵糧ひょうろうや、夜襲やしゅうや火攻めのために要り用なしばがたんと備えてあるとも言っている。
 そういったことは普通は秘密にしておきたいことなのに、それをことをポロリとこぼしたフリをして、相手を牽制けんせいなさっておられる」

 垂氷つららは細く閉じたまぶたの奥から、私に向けて心の臓をえぐるような尖った眼差しを送っていました。
 私は首を振り、笑いました。

「考えすぎだ。私はそこまで策をろうすることができるような小利口者ではない」

 この時の己の顔を、己自身の目で見ることは出来ませんでした。
 ただ、想像は容易に出来ます。

 恐らくは垂氷つららの言ったとおり、腹の黒い笑顔だったことでしょう。
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