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 徳然は目を見開いた。

「だってお前、今年十四になったばかりじゃないか!?」

「父が死んで以来ずっと、俺は、劉家の当主だ」

 叔郎は力強く言う。

「例え単家ぜんかでも、皇室に連なる名門の当主が、家督いえいで十三年にもなるのに、『子供』でいちゃ、まずいよ」

 単家とは「勢力のない家」の意だ。
 草鞋売りをしてようやく生計を立てている今の劉本家には、確かに勢いなどない。
 有り体に言えば貧乏なのである。

「……それに遊学に出る前に元服しておいた方が、区切りもいいだろう?」

 叔郎が胸を張った。
 徳然は、思わず吹き出した。
 又従弟の腕白振りは、親しくしている徳然の良く知るところである。
 その腕白自身の口から遊学などという言葉が出てくるとは、終ぞ思いの寄らぬ事だった。
 だから、つい正直に、彼は言ってしまった。

「へえ、お前にも学問をする気があったとはなぁ」

「笑う事はないだろう」

 叔郎は少々不機嫌な声をあげた。

「一族を集めて盛大な祝いの宴を開くのは無理だけど、せめて徳然兄にだけは祝福してほしいから、ご馳走を作ってくれ、と母者に頼んだのに」

 彼はぷいと後ろを向くと、ただ一人、わが家へ向かって歩き始めた。

「……いいさ。徳然兄、もう帰りなよ。遅くなると、あの恐い叔母さんが心配するだろうから」

 大きな、だが幼い背中が、すねた口を利く。
 徳然は慌てて彼の後を追いかけた。

「悪気はなかったんだ、許してくれよ。伯母さんの料理を、私にも食べさせてくれ!」

 泣きついても、叔郎はへそを曲げたまま振り向きもしない。
 そこで徳然は、彼の前に回り込んで、声を張り上げた。

「お前の学費も出してくれるよう父に頼んでやるから、機嫌を直してくれ!」

 それは唐突な提案だった。
 叔郎が大きく見開いた目を徳然の顔に向けると、彼はニッと笑って又従弟の両肩に手を置いた。

「涿郡の出でじゅがくしゃの廬《ろ》老師が、州都で私塾を開いておられるのを知っているだろう? その塾が門下生を募っていてね。私とお前と二人して、そこに入門しないか?」

 又従兄の提案は、単家の倅にとって願ってもない話だった。
 が、叔郎は困惑した。
 彼はあごを引いてうつ向き、己の大きな耳たぶを右の手指の先で摘んだ。……深く考え込むときに、叔郎の指先は、どういう訳か自然と耳元にゆくのだ。
 大きく息を吐いた。
 曾祖父の代に分かれた徳然の家は、叔郎の家とは全く家計を別にしている。縁などないと言われてもおかしくない間柄であった。
 実際、徳然の母は貧しい「本家」との付き合いを快く思っていない。当主・りゅうげんの意向がなければ、嗣子あとつぎの徳然が叔郎と交遊することもなかっただろう。

 だが。
 いかに元起が好人物でも、自分の子供ではない叔郎の、しかも何年続くかも判らない勉学の費用を、援助してくれるのだろうか。
 それに、いくら草鞋を売って糊口をしのがねばならぬ暮らしぶりだとは言っても、皇室に連なる家柄という誇りがある。いや、意地がある。己の学問のために「他人」から援助を受けることは心苦しい。

 答えることの出来ない又従弟の肩をぐいと掴むと、徳然は力強く説いた。

「母は反対するだろうが、父は出してくれる。父は、お前を高く買ってくれているからね。まるで口癖みたいに
『叔郎は並みの子ではない。一族の中で、あれが一番見込みがある』
 と言っているんだ。毎日、私の顔を見る度に、だ。……比べられる方はあまりうれしくないけれど」

 徳然の顔は笑みで満ちていた。うれしくないなどと言いながらも、まるで、自分が毎日褒められているようだった。

「本当に叔父御が俺の学費を出してくれると言うのなら、こんな嬉しい事はないよ。けれど……」

 それでもまだちゅうちょする叔郎の肩を、徳然は強く叩いた。

「自分に都合の良い『他人の親切』は、利用しなければ損なだけだ。ましてや、一族の親心だ。有り難く受けておけ」

 随分と迷った後、叔郎はようやく笑った。

「有り難う」

 それは、はにかみと寂しさと力強さが融合する、なんとも不思議な微笑だった。
 叔郎が時折浮かべるこの微かな笑みは、なぜか他人に安堵感を抱かせる。

『きっと、父もこの笑顔に憑かれたんだろう。なにしろ私が魅かれるくらいだから』

 徳然の口元も、自然とほころんでいた。

 小さな風に乗って、子供のきょうせいが聞こえた。
 あばらちゅうぼうから、宴の気配が漂って来る。
 徳然はそれを鼻孔の奥で感じ取ると、腹の虫を押さえつつ、改まった調子で叔郎に問いかけた。

「さて、宴を始める前に一つ聞きたい。元服するとなると、名を改め、あざなを付けねばならない。名付け親が必要なら、父に頼んでやるが?」

「申し訳ないけど、それは遠慮しておくよ」

 叔郎は首を横に振った。

「実は亡き父が、生まれたばっかりの赤ん坊のこの俺に、立派な名前を遺してくれていてね。……立派すぎて、本人が悩んじまうぐらいのを、さ。
 でも、その大層な名を名乗る決心が、このごろようやく付いたんだ。それに合うようなあざなは、もう自分で考えたし」

「へぇ、どんな名だい?」

 徳然が身を乗り出して訊く。
 叔郎は嬉しそうに笑った。

「名は。字は

「良い響きだ。で、どんな文字を書く?」

 今まで劉叔郎と呼ばれていた少年は、長い腕を伸ばすと、中空に三つの文字を書いた。

 げんとく

 その瞬間、突風が吹いた。

 少年の名を抱いた風は、そうようてんがいを揺らしながら、そうてんへと昇って行った。
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