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夏休みの間
74.行きて、帰りし。
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白っぽい半透明の笠の中で、丸い蛍光灯がバチバチと音を立てている。丁度今、明かりが点いたばかりっぽい。
「ああ、やっと電気が来た」
遠くで母親のホッとした声がした。
龍は自分が六畳間の真ん中で大の字に寝ていることに気付いた。
濁った意識の彼方に見えるかすかな光に、彼は手をかざした。
短く切った爪、細い指、薄っぺらい甲の、幼い手が、彼の頭上にあった。
「帰って、来ちゃった」
龍はぼそっとつぶやいた。なんだかとても残念でならないという口ぶりだ。
あれほど怖いと思っていたのに、あれほど切なく感じていたのに、あれほど不安にだったのに、あの池の底が懐かしい。
日に焼けた掌を握りしめる。頼りない握り拳を、龍は自分の頭の上に落とした。
軽くてちっとも痛くなくて、その上冷たくて、ちょっと悲しい。
頭蓋骨から弾かれた握り拳は、畳の上にぼとりと落ちた。中指の付け根の出っ張った骨の下で、カサリと小さな音がした。
龍は大の字に寝転がったまま、そのかさかさするモノをまさぐって掴む。
持ち上げた手の中には、紙切れがあった。
一度水に濡れたあとで乾かした紙に特有の皺が寄っている。
文字がたくさん書かれている。
人の形をしている。
龍の全身の筋肉が一気に収縮した。
駄菓子屋のガチャガチャのハズレのカプセルに入っているブリキのおもちゃみたいに、龍の身体は飛跳ねていた。
跳ね起きたそのままの勢いで、床に散らばったそれと同じような紙切れを全部かき集めた。
ぎゅっと丸めて、全部まとめて半ズボンの尻ポケットに突っ込む。
そうして、切れる直前ぐらいまで発条を巻いたミニカーが発車する勢いで、龍は部屋を飛び出した。
倒れた障子を飛び越えて、ドリフトターンで廊下を曲がって、居間を突き抜け、玄関を兼ねる店の出入り口に向かう。
目の前に、父親がようやっと閉めた立て付けの悪い引き戸が立ちふさがっていた。
無理矢理に引き開けた。
戸板がレールから外れる音と、母親の悲鳴と、父親の怒鳴り声が、龍のずっと後ろのから聞こえる。
空の灰色はぐんぐん明るくなって行く。
雷鳴が遠ざかる。雨脚が弱まる。
髪の毛の中を通った雨粒と、毛穴から吹き出した汗が混じって、おでこを流れ、目玉に入り込んで染みた。
走りながら腕をこすりつけて拭いた。でもその腕自体から同じ水気が吹き出しているものだから、眼の痛みは逆に悪化する。
龍は目玉を大きく開いて天を仰いだ。
雨水が眼を洗ってくれた。灰色の雲が白く退色してゆくのが見えた。
「雨が、上がる」
龍は頭を下げた。足袋裸足の足下に、石ころと雑草の地面が見える。
辺りを見回すと、木も草も皆、川から逃れようと体をねじ曲げて立っていた。
泥の匂いが鼻を突く。
細い川の急な曲がり角。
猫の額ほどの広さの浅瀬。
その先で、まだ少ない水が、しかし轟々と激しい音を立てて流れている。
「流れてる」
龍の背筋がビリリっと震えた。
同時に、空気がビリリっと揺れた。
『それ、早う始末をつけぬか』
大きな声が龍を急かす。
光と音と振動が彼のすぐ側に落ちた。
彼は慌てて尻ポケットに手を突っ込んだ。中身をいっぺんに掴み出した。
汗と雨水でぐしょ濡れになった紙のかたまりを、龍は思い切り川面に投げつけた。
かたまりがほぐれて、水面に広がった。
白かったそれは、あっという間に川の水と同じ茶色に染まった。
何枚もの紙は散り散りに別れて少しだけ流れた。
でも、すぐに次々と波間に沈んで、そして見えなくなった。
龍は額の汗を拭った。びしょぬれの髪は相変わらず雫を滴らせているけれど、落ちてくる量はドンドン減っている。
頭の上の雲は白っぽい。
抱えていた水分が全部落ちてしまったのだろう。
雨は、止んだ。
川は龍の足下で流れ続ける。
茶色い水はゴミと土と石ころと、それと龍が投げ込んだお札を連れて下流に突き進む。
流れた先で大きな本流の河と合流し、さらに下って海に出るのだろう。
そして、
「戻ってくるんだ」
龍はもう一度天を仰いだ。
わずかに残ったた雲が、オレンジ色の光に裂かれ、紫がかった空が広がって行く。
龍はそのオレンジの光に手をかざした。
二つの違うモノが見えた。
長い爪、節くれ立った指、大きな甲の、逞しい手。
その内側に、短い爪、細い指、薄っぺらい甲の、幼い手。
二つの違うものが、一つの同じものに重なって見える。
龍のほっぺたがゆるんだ。
心が軽い。でも濡れた洋服と身体は、ずっしりと重かった。
龍はその場にぺたりと座り込んだ。
体育座りの格好で膝を抱え、膝小僧の間の谷間に額を押し当て、目を閉じた。
「ああ、やっと電気が来た」
遠くで母親のホッとした声がした。
龍は自分が六畳間の真ん中で大の字に寝ていることに気付いた。
濁った意識の彼方に見えるかすかな光に、彼は手をかざした。
短く切った爪、細い指、薄っぺらい甲の、幼い手が、彼の頭上にあった。
「帰って、来ちゃった」
龍はぼそっとつぶやいた。なんだかとても残念でならないという口ぶりだ。
あれほど怖いと思っていたのに、あれほど切なく感じていたのに、あれほど不安にだったのに、あの池の底が懐かしい。
日に焼けた掌を握りしめる。頼りない握り拳を、龍は自分の頭の上に落とした。
軽くてちっとも痛くなくて、その上冷たくて、ちょっと悲しい。
頭蓋骨から弾かれた握り拳は、畳の上にぼとりと落ちた。中指の付け根の出っ張った骨の下で、カサリと小さな音がした。
龍は大の字に寝転がったまま、そのかさかさするモノをまさぐって掴む。
持ち上げた手の中には、紙切れがあった。
一度水に濡れたあとで乾かした紙に特有の皺が寄っている。
文字がたくさん書かれている。
人の形をしている。
龍の全身の筋肉が一気に収縮した。
駄菓子屋のガチャガチャのハズレのカプセルに入っているブリキのおもちゃみたいに、龍の身体は飛跳ねていた。
跳ね起きたそのままの勢いで、床に散らばったそれと同じような紙切れを全部かき集めた。
ぎゅっと丸めて、全部まとめて半ズボンの尻ポケットに突っ込む。
そうして、切れる直前ぐらいまで発条を巻いたミニカーが発車する勢いで、龍は部屋を飛び出した。
倒れた障子を飛び越えて、ドリフトターンで廊下を曲がって、居間を突き抜け、玄関を兼ねる店の出入り口に向かう。
目の前に、父親がようやっと閉めた立て付けの悪い引き戸が立ちふさがっていた。
無理矢理に引き開けた。
戸板がレールから外れる音と、母親の悲鳴と、父親の怒鳴り声が、龍のずっと後ろのから聞こえる。
空の灰色はぐんぐん明るくなって行く。
雷鳴が遠ざかる。雨脚が弱まる。
髪の毛の中を通った雨粒と、毛穴から吹き出した汗が混じって、おでこを流れ、目玉に入り込んで染みた。
走りながら腕をこすりつけて拭いた。でもその腕自体から同じ水気が吹き出しているものだから、眼の痛みは逆に悪化する。
龍は目玉を大きく開いて天を仰いだ。
雨水が眼を洗ってくれた。灰色の雲が白く退色してゆくのが見えた。
「雨が、上がる」
龍は頭を下げた。足袋裸足の足下に、石ころと雑草の地面が見える。
辺りを見回すと、木も草も皆、川から逃れようと体をねじ曲げて立っていた。
泥の匂いが鼻を突く。
細い川の急な曲がり角。
猫の額ほどの広さの浅瀬。
その先で、まだ少ない水が、しかし轟々と激しい音を立てて流れている。
「流れてる」
龍の背筋がビリリっと震えた。
同時に、空気がビリリっと揺れた。
『それ、早う始末をつけぬか』
大きな声が龍を急かす。
光と音と振動が彼のすぐ側に落ちた。
彼は慌てて尻ポケットに手を突っ込んだ。中身をいっぺんに掴み出した。
汗と雨水でぐしょ濡れになった紙のかたまりを、龍は思い切り川面に投げつけた。
かたまりがほぐれて、水面に広がった。
白かったそれは、あっという間に川の水と同じ茶色に染まった。
何枚もの紙は散り散りに別れて少しだけ流れた。
でも、すぐに次々と波間に沈んで、そして見えなくなった。
龍は額の汗を拭った。びしょぬれの髪は相変わらず雫を滴らせているけれど、落ちてくる量はドンドン減っている。
頭の上の雲は白っぽい。
抱えていた水分が全部落ちてしまったのだろう。
雨は、止んだ。
川は龍の足下で流れ続ける。
茶色い水はゴミと土と石ころと、それと龍が投げ込んだお札を連れて下流に突き進む。
流れた先で大きな本流の河と合流し、さらに下って海に出るのだろう。
そして、
「戻ってくるんだ」
龍はもう一度天を仰いだ。
わずかに残ったた雲が、オレンジ色の光に裂かれ、紫がかった空が広がって行く。
龍はそのオレンジの光に手をかざした。
二つの違うモノが見えた。
長い爪、節くれ立った指、大きな甲の、逞しい手。
その内側に、短い爪、細い指、薄っぺらい甲の、幼い手。
二つの違うものが、一つの同じものに重なって見える。
龍のほっぺたがゆるんだ。
心が軽い。でも濡れた洋服と身体は、ずっしりと重かった。
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