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観客席からの命令

マイヨール、決心する

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 あるいは、

『このマイヤー・マイヨールとしたことが、クレールの若様の美しさに魅入られてほうけているのか、ソードマンの旦那に睨まれて縮んだ肝っ玉が元に戻らないのか。全く、調子が狂っちまっていけない』

 あの安飯屋で一目見た瞬間から深く崇拝すうはいしている生きた芸術神アイドルに責任転嫁をしたくなるほど、マイヨールは弱り果てていた。
 主導権は完全に向こうが握っている。こちらは蛇に睨まれた蛙そのものに、身動き一つできない状況に追い込まれた。
 湿った白い小さな固まりが、彼の足下にぽとりと落ちた。脂汗で浮き上がり、崩れ流れたドーランだった。

『ままよ』

 ボロ布で額の汗をおさえ、マイヨールは頭を持ち上げた。口元に笑みが浮かんでいる。

相済あいすみません、閣下かっか只今ただいま踊り子どもに支度を直させ、すぐに幕を上げさせましょう。
 手前も顔を塗り直して参ります。ええ、稽古に熱を入れましたら汗で化粧メイクが崩れてしまいましたので。
 ですから、何卒なにとぞ、今しばらくお待ちいただけましょうか?」

 ついに開き直った。

 策をろうするのは止めだ。やるだけのことをやってみようじゃないか。
 全力の芝居だ。筋は先ほどやりかけた方で行こう。

 たしかに、つい先ほどもやっつけ仕事の無理な「改変」をした。それでも踊り子達は、少なくとも途中まではマイヨールの意図の通りに演技をしてくれた。それを観た「二人の観客クレールとブライト」は、芝居に文句を付けていない。
 いや、むしろあの芝居を楽しんでさえいた風もある。

『若様と旦那は物わかりの良いさばけた方だ。だから、頂いたのは糖蜜モラセスみたいな甘い評価だと思った方がいい。下駄ゲタかせてもらっているのと一緒だ。丸々信用しちゃぁならない』

 彼は若い貴人クレールのほそやかな顔立ちを思い起こしながら、痩せこけた月卿雲客高位高官をじっと見た。
 グラーヴ卿は真っ黒なマントで体全体を、黒い帽子の大きなつばで顔の上半分を、すっかり覆い隠している。
 マイヨールに見えるのは、冷たい微笑を浮かべる真っ赤な口元だけだ。

『この白塗りオバケが「芸術」を理解してくれるかどうかは、分の悪い大博奕おおばくちだが……その分「当たり目」が出れば、政府おかみのお墨付きというとんでもない配当が戻ってくる。
 どのみち退路はすっぱり断たれているんだ、大勝負に出てみようじゃないか』

 覚悟は決まった。
 マイヨールは笑みを満面に広げた。
 グラーヴ卿を見、フレイドマル座長を見、小さく会釈をして後に、楽団溜まりオーケストラピットに顔を向ける。

「さっきの調子で頼むよ、マエストロ」

 マイヨールの声は小さく、言葉は強かった。

 迷いのない眼差しには、白髪頭の指揮者が抱いていた不安を振り払うのに十分な力があった。
 指揮者はうなずきを返し、楽士達を配置につかせた。彼自身も指揮台上で背筋を伸ばす。
 彼らは普段は使うことのないぼろぼろに破けた楽譜を、おのおの譜面台に広げ、音符に神経を注いだ。

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