2 / 5
赤い石
しおりを挟む
「……時は過ぎ、主君を諌める家臣を失った殿様は、いつしか乱行を重ねるに到り、ついには主上から罰せられて、蟄居謹慎、悶絶憤死。
空いてしまったツォイク大公の座は、それまで十戸の村すら領していなかった、冷や飯食いのあの殿下に回ってきた。
……といった具合に、ルイ・ワンの予言は皮肉なことにぴたりと当たってしまった……って訳ですよ」
寂れた町の怪しげな骨董屋の胡散臭い女店主が、満面に笑みをみなぎらせた。……シワの中に埋もれた瞳だけは、まるで笑っていなかったけれども。
しかし、いくら商人が熱心になっても、客である二人の剣士達は、まるで話を聞いていない。店主の語る民間伝承には興味が無いのだろう。
大柄な一人は、百年前の安楽椅子……と、銘打たれた売り物……にどっぷりと座って、天井で鬼ごっこに興じる蜘蛛の子を眺めながら、節くれ立った指で頭を掻いている。
名はブライト・ソードマンという。骨太の大柄だが、背が高いのですらりとした細身に見える。
猛禽のような熱い眼光と、浮浪者じみただらしない無精ひげ、という見事なコントラストが、彼の実年齢を隠蔽していた。
それでも、どちらかというと二枚目の部類ではあるだろう。
ひねくれた所見で勘ぐれば、育んだ知性を酔狂にも放棄した……といった風体にも見えないことはない。
小柄なもう一人は、目の前に出された薄汚く黒ずんだ宝石箱に施された、壁に張り付いた蔦の根っこのような飾りを目で追いながら、その中身……貴婦人の握り拳ぐらいの大きさの、真紅の宝珠……を、細い指先でつついている。
エル=クレール・ノアールと名乗るハイティーンは、小柄で華奢な体つきをしていた。
大人びた翡翠色の瞳と、童子のような柔らかな頬が、ブライトとは別の意味で年齢を判らなくさせていた。
彼との最大の違いは、悩む必要性のまるでない美しさだ。
素直な視点でうがてば、やんごとなきご身分を致し方なく放棄したのでは……と思わせる風姿をしている。
「で、ですね……」
客が話を聞いていようがいまいが、どうやら女将の方には関係ないと見える。
「殿下はお国入りするとすぐに、ルイ・ワンが転じた宝珠を探させまして……政変のどさくさで行き方知れずになってましてね……どうにか見つけて、公都の大聖堂に納めた。今でもそれは祀られている……ンですが」
にたり、と笑う。
「それは、偽物、なんですよ」
「ほぉ」
刺々しい嘆息は、ブライトの口から発せられた。
「酒ですか、博打ですか、それとも商売女ですかね? 坊さんがお寺の至宝に手ぇ付けた理由は」
「いやいや、最初から、偽物だったンですよ。殿下が探し当てたそれが、そもそも偽物だったンです」
「へぇ」
乾いた感嘆は、エル=クレールのものだった。
途端、古物売りのシワの中の瞳に、商魂が燃え上がった。
女将はエルが執心する宝石箱を取り上げ、繻子の切れ端で中の紅色の珠を摘み出す。
そうして、それをエルのほっそりと通った鼻先へ、至極大仰に掲げ上げた。
「本物は、あたしのご先祖が拾ったンです。以来、代々伝わって、こうして店先を飾り続けてるンですよ」
「いくら、です?」
クレールは、空になった宝石箱を持ち上げて、にっこりと笑った。
古道具屋は顔全体をシワの中に埋没させて、上気した声を出した。
「若旦那、それだけは勘弁してくださいよ。ええ、売れません。家宝ですから」
「そう。残念ですね」
クレールは眉をしかめた。小さく首をすくめるとプラチナ色の前髪が揺れ、同じ色の柳眉を覆った。
骨董漁りには駆け引きがいるのだ。
どうしても欲しい物でも、わざと要らないそぶりをしてみせるのが、コツらしい。
仕草は諦め。
声音は切望。
女将はここぞとばかりに、声を裏返らせた。
「まあ若旦那のような色男が、ギュネイ金貨を百枚も積もうっておっしゃるのなら、考えもします。ええ、事と次第によっては、どーんとおまけだって致しますよぉ」
頬が紅潮しているのは、どうやら商売がうまくいきそうな事への興奮からばかりではない様子だ。ニンマリと笑い、舌なめずりしながら、エルにすり寄ってゆく。
「はっ、吹っ掛けるなよ。一ギュネ金貨が一枚あれば、四半年は慎ましやかに暮らせるご時世だぜ!?」
大声を上げたのはブライトだった。彼は乱暴に立ち上がり、出口に向かう。弟子であり相棒である若者が、その後ろについてくると信じていた。
ところが、クレールは品物を諦めるどころか、腰袋の中をまさぐっているではないか。大男は慌てて取って返した。
「おまえさん、冗談はその綺麗なツラだけにしておけ。ンな石ッころにゃ一ギュネの価値だってあるものか。例えその万分の一、セギュネ銅貨一枚だって言われても、俺なら御免被るぜ。
第一、お前さんが百ギュネなんて現生を持ってるのか!?」
「持ってやしません。ギュネイの金貨は、ね」
クレールは微笑みながら、華麗な文様を彫り込まれた大振りな金貨……と、言うより小振りな金塊……を取り出した。
「二十年の昔に滅した前王朝、ハーン帝国の『大判』です」
女将の目に強欲な光が宿った。
同時に、ブライトの顔から血の気が引いた。
『莫迦野郎!』
その言葉を、だが、彼は飲み込んだ……エル=クレールが、自信に満ちたウインクを彼に投げかけたが為に。
「ギュネイ金貨は、混ぜ物が多い……聞いたところによると、その純度は八金に満たぬとか」
クレールの問いかけに、女将は生返事で応じた。
花びらのような柔らかなカーブを描く唇が吐き出すのは、美しい真実。蠱惑の言葉。
「『ハーン大判』は二十四金、つまり純粋な金です。それ故、かつての権勢家達は、これを額面の十倍以上で取り引きしていたのです。しかし現在では、鋳潰せばギュネイ金貨を十枚ほど造れる金地、でしかありません……表向きは、ね」
エル=クレール・ノアールの微笑みには、ぞっとするような艶があった。
さながら、命を得た大理石の彫刻か、白磁の人形か。何であるにせよ、人のモノとは思えない。
脂の抜けきった壮年の女将が、頬を紅に染め、エルと巨大な金貨とを見比べている。
エルは、良く通る澄んだ声をわざと低く抑え込んだ。
「ですが、好事家達はこれをただの金地だとは思っていません。……造詣深いマダムなら、当然、ご承知でしょうけれど……」
最後の一言が決定打になったようだ。
女将は、純金の固まりを奪うように受け取り、赤い宝珠と古い入れ物とを客に押し付けた。
「またのお越しを!」
晴れ晴れしくも粘っこい女の声を背に受けて、二人の剣士は店を出た。
黒い雲の間から赤い陽光が仄暗く揺れる、夕暮れ。
元より人口密度の高くないツォイクとはいえ、公都の目抜き通りであるというのに、人影がまるでない。
町中に、何かにおびえる逃亡者がそこかしこで物陰に潜んでいるような、重い空気が満ちていた。
湿った空気は街の中央、忠臣ルイ記念大聖堂を中心に渦巻いている。
古い時代の角張った装飾の中に、比較的新しい曲線を多用する装飾が介入する、豪華で半端な大理石の固まりは、幾星霜もの時の果てに、陰鬱の具象と化していた。
二人の剣士は、香と花と涙の匂いを発する門扉の前に立った。
「要りますか?」
まるでリンゴでも勧めるように、エル=クレールは赤い宝珠をブライトの眼前に差し出した。
彼は不機嫌丸出しでにらむ。
「はっ、そんな『高価』な物!」
「これはそんなに高い物ではありませんよ」
「なにぬかしやがるか、この箱入り世間知らずがっ」
箱入りでない叩き上げの中年が、一打と三つばかり年下の相棒を怒鳴りつけた。
「いいか? 『ハーン大判』の相場は五,六十ギュネだぜ。お前がいま持っているそいつは……どうやら紅玉髄《カーネリアン》のようだが、それでもせいぜい……」
「高く見積もって五,六ギュネ……でしょうね」
クレールは、剣の師の役も兼ねるパートナーの言葉尻を、あっさりとさらって、微笑んだ。
それも、晴れやかに、にっこりと。
世間知らず故の失敗を諭してやろうと意気込んだ、その鼻っ柱を折られた形のブライトが眉をしかめる。
「……分かってるなら、なんでこんなモンに大枚叩いちまったンだ?」
「私は、こんなものを買うほど、莫迦じゃありません」
再度、にっこり。
「ほぇ?」
「大体、私が何時『この珠が欲しい』なんて言いました?」
三度、にっこり。
「そりゃ『欲しい』とは言っちゃいなかったが、値段を訊ねて……」
「私は、これの値を訊いたんですよ」
エルは古くさい宝石箱につもった埃を、愛おしそうに払った。
そうして、微笑みながら宣うに曰く、
「前王朝第七代セリメーヌ女帝は、『群青と銀色』の組み合わせが大層お好きで、ドレスも家具調度も、その色合いで御揃えになった。中でも、瑠璃《ラピスラズリ》に白金《プラチナ》を象嵌した品がお気に入りで、臣民への下賜の品も、同様の細工の小物箱が多かったといいます」
白い指が、宝石箱の底を指した。
二百年昔の女皇帝のイニシャルが、深海色の貴石に刻まれている。
ブライトは息を呑んだ。
「汚れはしても壊れてはいません。磨き上げてから解る人の前に出せば、五,六百ギュネの値が付くはずです」
更に、にっこり。
感心するやら呆れるやら。
「何と阿漕な」
ブライトがさっき呑み込んだ息を吐き出すと、エルは薔薇色の頬を膨らませた。
「暴利を貪るつもりはありません。差額は儲けではなく、名誉毀損の慰謝料です」
「慰謝……?」
「あのご婦人、私に向かって何と呼び掛けました?」
「さぁて、お前さんを怒らせるような事を、言ったっけか?」
クレールは唇を曲げた。
「『色男』と」
相棒の立腹顔をしげしげと見たブライトは、
「ソレがどうした? あの婆さんには、お前さんがむしゃぶりつきたくなるようないい男に見えたって事だろうよ。褒めて貰ったんだ。有難く思え」
エル=クレールは益々口を尖らせる。
「褒められた気分になどなりません。あなたには私が破廉恥な好色漢に見えますか?」
「好色漢だって!?」
ブライトは叫ぶように言うと、文字通り腹を抱えて下品なほど大げさに大笑した。
クレール本人は、己を生真面目な若者と信じている。
白金色の髪の絹のような艶やかさも、瞳が放つ翡翠玉の様にぬらぬらとした光も、唇の桜桃のような濡れた紅さも、頬の薔薇のような輝きも、見た者の男女を問わず、心を騒がせる美しさであることに、全く気付いていない。
その無頓着さというか無知加減が、可笑しくてならないし、また愛おしくてならない。
「そのように嗤うことですか?」
エル=クレール・ノアールは憤然として、右前合わせの上着に包まれた丸く豊かな胸を憤然と張り、前窓付きのズボンをはいた柔らかく細い腰に両拳を当てて仁王立ちした。
ブライト・ソードマンは、目尻に浮かんだ涙と、口角を濡らした涎を乱暴に拭いた。
「たまらんね。おまえさんのその身形がすでに猥褻物だ」
「物騒な世の中だから、男の服を着て男のように振る舞え、と忠告してくださったのは、あなたでしょう?」
エル=クレールはあくまでも己の肉体そのものに「原因」があるとは思い至らないらしい。
ブライトはニタリと笑った。
「ああ、そんな服を着てりゃぁ、誰だって……」
ブライトは素早く相棒の背後に回り込み、男物の上着の下に隠された、柔らかな双丘を鷲掴んだ。
「こーでもしなきゃ、男じゃないって判りゃしないからな」
空いてしまったツォイク大公の座は、それまで十戸の村すら領していなかった、冷や飯食いのあの殿下に回ってきた。
……といった具合に、ルイ・ワンの予言は皮肉なことにぴたりと当たってしまった……って訳ですよ」
寂れた町の怪しげな骨董屋の胡散臭い女店主が、満面に笑みをみなぎらせた。……シワの中に埋もれた瞳だけは、まるで笑っていなかったけれども。
しかし、いくら商人が熱心になっても、客である二人の剣士達は、まるで話を聞いていない。店主の語る民間伝承には興味が無いのだろう。
大柄な一人は、百年前の安楽椅子……と、銘打たれた売り物……にどっぷりと座って、天井で鬼ごっこに興じる蜘蛛の子を眺めながら、節くれ立った指で頭を掻いている。
名はブライト・ソードマンという。骨太の大柄だが、背が高いのですらりとした細身に見える。
猛禽のような熱い眼光と、浮浪者じみただらしない無精ひげ、という見事なコントラストが、彼の実年齢を隠蔽していた。
それでも、どちらかというと二枚目の部類ではあるだろう。
ひねくれた所見で勘ぐれば、育んだ知性を酔狂にも放棄した……といった風体にも見えないことはない。
小柄なもう一人は、目の前に出された薄汚く黒ずんだ宝石箱に施された、壁に張り付いた蔦の根っこのような飾りを目で追いながら、その中身……貴婦人の握り拳ぐらいの大きさの、真紅の宝珠……を、細い指先でつついている。
エル=クレール・ノアールと名乗るハイティーンは、小柄で華奢な体つきをしていた。
大人びた翡翠色の瞳と、童子のような柔らかな頬が、ブライトとは別の意味で年齢を判らなくさせていた。
彼との最大の違いは、悩む必要性のまるでない美しさだ。
素直な視点でうがてば、やんごとなきご身分を致し方なく放棄したのでは……と思わせる風姿をしている。
「で、ですね……」
客が話を聞いていようがいまいが、どうやら女将の方には関係ないと見える。
「殿下はお国入りするとすぐに、ルイ・ワンが転じた宝珠を探させまして……政変のどさくさで行き方知れずになってましてね……どうにか見つけて、公都の大聖堂に納めた。今でもそれは祀られている……ンですが」
にたり、と笑う。
「それは、偽物、なんですよ」
「ほぉ」
刺々しい嘆息は、ブライトの口から発せられた。
「酒ですか、博打ですか、それとも商売女ですかね? 坊さんがお寺の至宝に手ぇ付けた理由は」
「いやいや、最初から、偽物だったンですよ。殿下が探し当てたそれが、そもそも偽物だったンです」
「へぇ」
乾いた感嘆は、エル=クレールのものだった。
途端、古物売りのシワの中の瞳に、商魂が燃え上がった。
女将はエルが執心する宝石箱を取り上げ、繻子の切れ端で中の紅色の珠を摘み出す。
そうして、それをエルのほっそりと通った鼻先へ、至極大仰に掲げ上げた。
「本物は、あたしのご先祖が拾ったンです。以来、代々伝わって、こうして店先を飾り続けてるンですよ」
「いくら、です?」
クレールは、空になった宝石箱を持ち上げて、にっこりと笑った。
古道具屋は顔全体をシワの中に埋没させて、上気した声を出した。
「若旦那、それだけは勘弁してくださいよ。ええ、売れません。家宝ですから」
「そう。残念ですね」
クレールは眉をしかめた。小さく首をすくめるとプラチナ色の前髪が揺れ、同じ色の柳眉を覆った。
骨董漁りには駆け引きがいるのだ。
どうしても欲しい物でも、わざと要らないそぶりをしてみせるのが、コツらしい。
仕草は諦め。
声音は切望。
女将はここぞとばかりに、声を裏返らせた。
「まあ若旦那のような色男が、ギュネイ金貨を百枚も積もうっておっしゃるのなら、考えもします。ええ、事と次第によっては、どーんとおまけだって致しますよぉ」
頬が紅潮しているのは、どうやら商売がうまくいきそうな事への興奮からばかりではない様子だ。ニンマリと笑い、舌なめずりしながら、エルにすり寄ってゆく。
「はっ、吹っ掛けるなよ。一ギュネ金貨が一枚あれば、四半年は慎ましやかに暮らせるご時世だぜ!?」
大声を上げたのはブライトだった。彼は乱暴に立ち上がり、出口に向かう。弟子であり相棒である若者が、その後ろについてくると信じていた。
ところが、クレールは品物を諦めるどころか、腰袋の中をまさぐっているではないか。大男は慌てて取って返した。
「おまえさん、冗談はその綺麗なツラだけにしておけ。ンな石ッころにゃ一ギュネの価値だってあるものか。例えその万分の一、セギュネ銅貨一枚だって言われても、俺なら御免被るぜ。
第一、お前さんが百ギュネなんて現生を持ってるのか!?」
「持ってやしません。ギュネイの金貨は、ね」
クレールは微笑みながら、華麗な文様を彫り込まれた大振りな金貨……と、言うより小振りな金塊……を取り出した。
「二十年の昔に滅した前王朝、ハーン帝国の『大判』です」
女将の目に強欲な光が宿った。
同時に、ブライトの顔から血の気が引いた。
『莫迦野郎!』
その言葉を、だが、彼は飲み込んだ……エル=クレールが、自信に満ちたウインクを彼に投げかけたが為に。
「ギュネイ金貨は、混ぜ物が多い……聞いたところによると、その純度は八金に満たぬとか」
クレールの問いかけに、女将は生返事で応じた。
花びらのような柔らかなカーブを描く唇が吐き出すのは、美しい真実。蠱惑の言葉。
「『ハーン大判』は二十四金、つまり純粋な金です。それ故、かつての権勢家達は、これを額面の十倍以上で取り引きしていたのです。しかし現在では、鋳潰せばギュネイ金貨を十枚ほど造れる金地、でしかありません……表向きは、ね」
エル=クレール・ノアールの微笑みには、ぞっとするような艶があった。
さながら、命を得た大理石の彫刻か、白磁の人形か。何であるにせよ、人のモノとは思えない。
脂の抜けきった壮年の女将が、頬を紅に染め、エルと巨大な金貨とを見比べている。
エルは、良く通る澄んだ声をわざと低く抑え込んだ。
「ですが、好事家達はこれをただの金地だとは思っていません。……造詣深いマダムなら、当然、ご承知でしょうけれど……」
最後の一言が決定打になったようだ。
女将は、純金の固まりを奪うように受け取り、赤い宝珠と古い入れ物とを客に押し付けた。
「またのお越しを!」
晴れ晴れしくも粘っこい女の声を背に受けて、二人の剣士は店を出た。
黒い雲の間から赤い陽光が仄暗く揺れる、夕暮れ。
元より人口密度の高くないツォイクとはいえ、公都の目抜き通りであるというのに、人影がまるでない。
町中に、何かにおびえる逃亡者がそこかしこで物陰に潜んでいるような、重い空気が満ちていた。
湿った空気は街の中央、忠臣ルイ記念大聖堂を中心に渦巻いている。
古い時代の角張った装飾の中に、比較的新しい曲線を多用する装飾が介入する、豪華で半端な大理石の固まりは、幾星霜もの時の果てに、陰鬱の具象と化していた。
二人の剣士は、香と花と涙の匂いを発する門扉の前に立った。
「要りますか?」
まるでリンゴでも勧めるように、エル=クレールは赤い宝珠をブライトの眼前に差し出した。
彼は不機嫌丸出しでにらむ。
「はっ、そんな『高価』な物!」
「これはそんなに高い物ではありませんよ」
「なにぬかしやがるか、この箱入り世間知らずがっ」
箱入りでない叩き上げの中年が、一打と三つばかり年下の相棒を怒鳴りつけた。
「いいか? 『ハーン大判』の相場は五,六十ギュネだぜ。お前がいま持っているそいつは……どうやら紅玉髄《カーネリアン》のようだが、それでもせいぜい……」
「高く見積もって五,六ギュネ……でしょうね」
クレールは、剣の師の役も兼ねるパートナーの言葉尻を、あっさりとさらって、微笑んだ。
それも、晴れやかに、にっこりと。
世間知らず故の失敗を諭してやろうと意気込んだ、その鼻っ柱を折られた形のブライトが眉をしかめる。
「……分かってるなら、なんでこんなモンに大枚叩いちまったンだ?」
「私は、こんなものを買うほど、莫迦じゃありません」
再度、にっこり。
「ほぇ?」
「大体、私が何時『この珠が欲しい』なんて言いました?」
三度、にっこり。
「そりゃ『欲しい』とは言っちゃいなかったが、値段を訊ねて……」
「私は、これの値を訊いたんですよ」
エルは古くさい宝石箱につもった埃を、愛おしそうに払った。
そうして、微笑みながら宣うに曰く、
「前王朝第七代セリメーヌ女帝は、『群青と銀色』の組み合わせが大層お好きで、ドレスも家具調度も、その色合いで御揃えになった。中でも、瑠璃《ラピスラズリ》に白金《プラチナ》を象嵌した品がお気に入りで、臣民への下賜の品も、同様の細工の小物箱が多かったといいます」
白い指が、宝石箱の底を指した。
二百年昔の女皇帝のイニシャルが、深海色の貴石に刻まれている。
ブライトは息を呑んだ。
「汚れはしても壊れてはいません。磨き上げてから解る人の前に出せば、五,六百ギュネの値が付くはずです」
更に、にっこり。
感心するやら呆れるやら。
「何と阿漕な」
ブライトがさっき呑み込んだ息を吐き出すと、エルは薔薇色の頬を膨らませた。
「暴利を貪るつもりはありません。差額は儲けではなく、名誉毀損の慰謝料です」
「慰謝……?」
「あのご婦人、私に向かって何と呼び掛けました?」
「さぁて、お前さんを怒らせるような事を、言ったっけか?」
クレールは唇を曲げた。
「『色男』と」
相棒の立腹顔をしげしげと見たブライトは、
「ソレがどうした? あの婆さんには、お前さんがむしゃぶりつきたくなるようないい男に見えたって事だろうよ。褒めて貰ったんだ。有難く思え」
エル=クレールは益々口を尖らせる。
「褒められた気分になどなりません。あなたには私が破廉恥な好色漢に見えますか?」
「好色漢だって!?」
ブライトは叫ぶように言うと、文字通り腹を抱えて下品なほど大げさに大笑した。
クレール本人は、己を生真面目な若者と信じている。
白金色の髪の絹のような艶やかさも、瞳が放つ翡翠玉の様にぬらぬらとした光も、唇の桜桃のような濡れた紅さも、頬の薔薇のような輝きも、見た者の男女を問わず、心を騒がせる美しさであることに、全く気付いていない。
その無頓着さというか無知加減が、可笑しくてならないし、また愛おしくてならない。
「そのように嗤うことですか?」
エル=クレール・ノアールは憤然として、右前合わせの上着に包まれた丸く豊かな胸を憤然と張り、前窓付きのズボンをはいた柔らかく細い腰に両拳を当てて仁王立ちした。
ブライト・ソードマンは、目尻に浮かんだ涙と、口角を濡らした涎を乱暴に拭いた。
「たまらんね。おまえさんのその身形がすでに猥褻物だ」
「物騒な世の中だから、男の服を着て男のように振る舞え、と忠告してくださったのは、あなたでしょう?」
エル=クレールはあくまでも己の肉体そのものに「原因」があるとは思い至らないらしい。
ブライトはニタリと笑った。
「ああ、そんな服を着てりゃぁ、誰だって……」
ブライトは素早く相棒の背後に回り込み、男物の上着の下に隠された、柔らかな双丘を鷲掴んだ。
「こーでもしなきゃ、男じゃないって判りゃしないからな」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
私は聖女ではないですか。じゃあ勝手にするので放っといてください。
アーエル
ファンタジー
旧題:私は『聖女ではない』ですか。そうですか。帰ることも出来ませんか。じゃあ『勝手にする』ので放っといて下さい。
【 聖女?そんなもん知るか。報復?復讐?しますよ。当たり前でしょう?当然の権利です! 】
地震を知らせるアラームがなると同時に知らない世界の床に座り込んでいた。
同じ状況の少女と共に。
そして現れた『オレ様』な青年が、この国の第二王子!?
怯える少女と睨みつける私。
オレ様王子は少女を『聖女』として選び、私の存在を拒否して城から追い出した。
だったら『勝手にする』から放っておいて!
同時公開
☆カクヨム さん
✻アルファポリスさんにて書籍化されました🎉
タイトルは【 私は聖女ではないですか。じゃあ勝手にするので放っといてください 】です。
そして番外編もはじめました。
相変わらず不定期です。
皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます🙇💕
これからもよろしくお願いします。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
(完結)お姉様を選んだことを今更後悔しても遅いです!
青空一夏
恋愛
私はブロッサム・ビアス。ビアス候爵家の次女で、私の婚約者はフロイド・ターナー伯爵令息だった。結婚式を一ヶ月後に控え、私は仕上がってきたドレスをお父様達に見せていた。
すると、お母様達は思いがけない言葉を口にする。
「まぁ、素敵! そのドレスはお腹周りをカバーできて良いわね。コーデリアにぴったりよ」
「まだ、コーデリアのお腹は目立たないが、それなら大丈夫だろう」
なぜ、お姉様の名前がでてくるの?
なんと、お姉様は私の婚約者の子供を妊娠していると言い出して、フロイドは私に婚約破棄をつきつけたのだった。
※タグの追加や変更あるかもしれません。
※因果応報的ざまぁのはず。
※作者独自の世界のゆるふわ設定。
※過去作のリメイク版です。過去作品は非公開にしました。
※表紙は作者作成AIイラスト。ブロッサムのイメージイラストです。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
クレール 光の伝説:いにしえの【世界】
神光寺かをり
ファンタジー
※超簡略粗筋※
「転生しない、転移しない、悪夢見る、幻覚見る、ぶった切る、刺される、えぐられる、潰される、腕折れる、自刎する、自傷する、ヒロインが男装、主人公強い」
そんな感じの異世界ファンタジー小説。
【完結しました】
ドサ回り一座と地方巡察勅使との諍いに巻き込まれた男装剣士エル・クレールと中年剣士ブライトは彼らに、各々「武者修行中の貴族の若君とその家臣」であると思いこませ、場を取り繕う。
一座の戯作者マイヤーは「美形の若侍」であるクレールを妙に気に入ったらしく、芝居小屋に招いた。
この一座の芝居「戦乙女クラリス」の「原作」が皇弟フレキの手による資料であると言うマイヤーにクレールとブライトは不信感を抱く。
一方「勅使」の宿舎では怪しい儀式が執り行われていた。
※この作品は作者個人サイト、小説家になろう、ノベルアップ+でも公開しています。
【完結】転生少女は異世界でお店を始めたい
梅丸
ファンタジー
せっかく40代目前にして夢だった喫茶店オープンに漕ぎ着けたと言うのに事故に遭い呆気なく命を落としてしまった私。女神様が管理する異世界に転生させてもらい夢を実現するために奮闘するのだが、この世界には無いものが多すぎる! 創造魔法と言う女神様から授かった恩寵と前世の料理レシピを駆使して色々作りながら頑張る私だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる