令嬢と筋肉

聖 みいけ

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令嬢と筋肉

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貴族の子女が集う学び舎のエントランス。
私はその大階段の下で、三人を見上げていた。

そこにいるのはこの国の王子二人。

本人の優しい人柄を表したような淡い金髪に、同じく淡い水色の瞳を持つ、大変優雅で美しい佇まいの青年はエルム殿下だ。「まるで物語から出てきたようだ」というのが彼に憧れる令嬢たちの間の決まり文句である。
一方、胸の前で腕を組んでいるのはシダー殿下だ。エルム殿下と同じく金髪に青い瞳ではあるが、こちらの色は夏の生き生きとした黄金色の麦畑と青い空を思わせる。鍛え上げられた体躯に精悍な顔つきをしており、その立ち姿は雄々しくまるで騎士のようだ。

二人は国王陛下の孫であり、同い年の従兄弟同士だ。
第一王子の息子であるのがエルム殿下であり、その弟君である第二王子の息子であるのがシダー殿下だ。
まだ立太子はされていないので、二人の間は対等であり、政治的な派閥も表立っては存在しない。

現状、もっぱら令嬢の間でのみ「どちらが好みか」という可愛らしい派閥争いが起きるだけだ。

そんな二人の王子の間に、守られるようにして立っている少女。栗色の艶やかな髪を不安げに撫で、アメジストの色をした大きな瞳を瞬かせるその姿に庇護欲を刺激されたのか、エルム殿下が彼女の肩をそっと抱き寄せる。

彼女はナルシサス伯爵家のレイラ嬢である。
ナルシサス家は伯爵位ではあるが、先代が領地経営に著しく失敗し、経済的に厳しい状況にあるというのは貴族の間では暗黙の了解である。彼女の家ではこの学園に来るにも相当無理をしているだろう。

しかし、その苦境を感じさせない快活さと気丈さ、そして持ち前の清楚で愛らしい容姿によって、男女共に人気のある女生徒である。

王子たちも例に漏れず、レイラと共に仲睦まじく過ごしているというのは周知の事実だった。
どちらが先に婚約を申し込むのか、はたまたレイラ嬢が選ぶのはどちらの王子か……なんて、甚だ下世話な賭けが秘密裡に催されているという噂もある。

そんな人気者の彼女が今しがた行った告発によると、どうやら私はとんでもない性悪女だったらしい。

曰く、彼女をお茶会に誘い、虫を入れた高級茶を振る舞った。
曰く、人気のない別棟の図書室のゴミ箱に捨てた教科書一式を日が暮れるまで探させた。
曰く、真冬の雪がちらつく日、彼女を学園の中庭にある池に突き落とした。

他にも、顔を見る度に罵詈雑言を浴びせかけただの、他の令嬢たちに指示して彼女が孤立するように仕向けただの。
度を越した嫌がらせは、一年生の頃から二年の春である今の今まで毎日のように続いたという。

なんとまあ、執念深く卑劣な女がいたものだ。

「……以上です、エルムさま……」

悲哀の塊のような姿で震えていたレイラが言葉を締めくくると、じっと彼女を見つめていたエルム殿下が一つ頷いた。そして、人前に立つことに慣れた様子で自然に背筋をすっと伸ばし、慈悲深く微笑んだ。

「……さて、メルフィオラ嬢。何か、言うことがあるだろう?」

私はふた束の三つ編みにまとめた髪を肩の後ろに放り、ぐっと胸を張ると、階段の上にいる三人をしっかりと見た。

「そうでしょうか。レイラさんがおっしゃったこと、どれひとつ身に覚えがございませんわ、エルム殿下」

事実として冤罪なのだから、当然である。

第一、このメルフィオラ・ルタール、ルタール侯爵家の名に懸けて、そんなしょうもない嫌がらせなんてしない。やるなら正々堂々、家ごと踏みつぶす。あんな弱小伯爵家、ひと捻りよ。造作もないわ。

……という悪役じみた冗談は置いといて。

そもそも私はレイラと話したことすらない。彼女に接点もないのに、嫌がらせをする理由などあろうはずがない。あったところで、ちまちまと陰湿に嫌がらせをしていられるほど侯爵家令嬢は暇ではない。

万が一、そんなトラブルがあったとしても、普通はまず事前に個人対個人で嫌がらせを止めるように言うものなのではないだろうか。その段階をすっとばし、わざわざこんな風に衆目の前で晒し上げるような真似をするとは。

しかし、この下品な催しを眺めるために集まった他の生徒たちは、そうとは思わないらしい。

「お二方に睨まれてなお、しらを切るとは」
「なんて往生際の悪い」

そんな声がエントランスで私を遠巻きに囲む生徒たちから聞こえてきた。

レイラが両手で口元を覆い、憐れな者を見る清らかな乙女のような顔で私を見下ろしている。きっと、その手の下はにっこにこなんだろうなあ。
その隣で、彼女の肩を抱き寄せたままのエルム殿下が、優しい表情から一転、罪人を見る目つきで私を睨みつける。

エルム殿下からさらなる糾弾の声が跳び出るかと思われたその時。

黙って険しい顔で腕組みをしていたもう一人の王子、シダー殿下が片手をあげてそれを制した。

「――メル!! 俺もお前がこんなことを成し遂げられるとは、これっぽっちも思えん!!」

頭がくらくらする。声が大きすぎるんだよな。エントランス中にぐわんぐわんと響きまくっている。耳が爆発したかと思った。

数秒後、反響が収まった後も、口を利くものは誰もいなかった。せっかく理不尽な耳鳴りを乗り越えたというのにもったいない。

まあ、シダー殿下が私の味方をするとは思いもしなかったというところだろうか。今頃、私とシダー殿下以外の心は「は?」という感情で一致しているはずだ。

「いいか、皆の者!! 良く聞け!! メルは信じられんほどに貧弱だ! 人を池に突き落とすだけの筋力など、あるわけがない!!」

そう断ずる殿下に呆気にとられているのか、相変わらず異を唱える者はいない。
それとも、耳から頭がやられて言語機能に支障をきたしていたりするのだろうか。ちょっとした災害じゃないのか、それは。仮にも王子であるシダー殿下がこの大人数にそんな害を及ぼしたら、国を揺るがす一大事になってしまう。
至近距離にいたエルム殿下とレイラの耳が心配になってきた。爆発してたりしないかな。してたら全力でざまあみろと言ってやるのに。

そんな私の心配と期待を知ってか知らずか、シダー殿下は再び意見を述べられた。いや、叫ばれた。

「この小さくか細く筋力のないメルに対して、レイラは健康的でそれに見合った筋力を持っている!! 果たして、レイラを池に突き落とせるだけの筋力がメルにあると、本当に思うか!!」

ふわっとした筋力の話しかしてねえな。

確かに、シダー殿下が言うように私の体格は小さい。身長は他の令嬢より手のひら一つ分は低く、大抵の人に見おろされるのが常だ。

それに、手足も首も腰も、どこもかしこも少年のように細い。
細いというと世のご婦人方の羨望を集めそうなものだが、肉があるべきところにないというのは、その実ただただ不便で貧相なだけだ。硬い椅子に座れば骨が直に当たるようで痛いし、ひとたびどこかにぶつければ骨に直に響いて痛いし。

そして、私には「寄せて上げる」だけの肉もない。

つまり、体型がもろに出るドレスは美しく着られない。大抵服の下に詰め物をするはめになる。
胸元に二人分の詰め物をされたときのあの虚しさ……。誰が分かってくれるというのだろう。夜会で一人、偽りの胸元に視線を下ろしては、優しい婚約者の気づかないふりに切ない気持ちを噛みしめるのを、誰がわかってくれるのか。

唇を噛んでいると、少しだけ、聴衆がシダー殿下の意見に納得し始める気配を感じた。それでもシダー殿下の反論は止まらない。

「メルは猫を抱えるのにも精一杯なんだぞ! どうだメル! 明日より俺の朝の鍛錬に付き合わないか!」
「ご遠慮申し上げますわ、殿下」

にっこり微笑んできっぱりとお断りする。まったく、失礼なことだ。猫くらい抱えられる……多分。
そんなことよりも、一般人がシダー殿下の鍛錬に付き合ったりなんかしたら死んでしまうわ。そちらの方が問題だ。あと朝はギリギリまで寝ていたい。

私たちのやり取りを見たせいか、一番先に自我を取り戻したらしいレイラが口をはさむ。

「で、でも、わたしの教科書が図書室のゴミ箱に捨てられていたのは……っ」

そこで、思い出すのも辛そうにレイラは両手で顔を覆う。何も知らない人が見たら、彼女が本当に被害者であると信じてしまうだろう。
なんという演技力。舞台女優にでもなった方がお家のためなんじゃないか。

「ふむ。先ほど、犯行現場は人目の少ない第三図書室と言ったな? それは別棟の三階。本館二階にあるメルの教室から行くには、一度階段を降り、そして渡り廊下を通って別棟に行き、さらに二階分階段を上らねばならない。これで相違ないな?」
「え、ええ。そうですね……」

確認を肯定で返されたシダー殿下は、うんうん、と頷いた。

……かと思えば、両目をカッと見開いた。

「無理だ!!」

再び、エントランスにいる皆を酷い耳鳴りが襲った。そろそろエントランスのステンドグラスが割れるんじゃなかろうか。
確か、あれは推定二百年前に作られた国の文化財に指定されているものだ。割ったら怒られるじゃすまないからやめてほしい。

「メルは階段を一往復するのですら膝が笑うんだぞ!! 授業の合間の休憩時間中に第三図書室に向かうなど! とてもじゃないが間に合わん!! そして教科書! それも全教科!! 筋力のないメルにとっては大荷物だ! それを持った状態でなどますます不可能!!」

……なんというか、その……「!」つけないと喋れないのかな……。

そんな皮肉が脳裏をよぎるが、私は優しいので黙っておいた。
例え、親愛なるシダー殿下が私の貧弱な足腰の事情を次々に公表してくださりやがったとしてもだ。

私は優しい。優しいので。

拳を握りしめて苛立ちを堪えていると、シダー殿下がぴっと手で私を指し示す。

「見ろ! あのか細い手足を! 今にも倒れそうな立ち居振る舞いを! 生まれたての小鹿の方がまだ生き生きと歩くぞ!!」

周囲の人間の視線が私に集まった。正確には、私の貧相すぎる手足にだ。向けられる視線になんとなくざわざわとして、私は服の上から腕をさする。彼らは年頃の令嬢の手足に注目するのが不躾だとは思わないのだろうか。

「……俺の婚約者をじろじろと見るなぁっ!!!」

どうやら、婚約者がじろじろと見られていることにようやく気が付いたらしい殿下が、獅子のように吠えた。理不尽だ。見ろって言ったのは自分なのに。

「婚約者……」
「そういえば……」

さわさわと立木の葉がさざめくように、人の声が広がっていく。

そう。何を隠そう、私はシダー殿下の婚約者なのである。

老人のように白い髪を生真面目に三つ編みおさげに結った、小柄で地味で貧弱そうな女生徒が、学園に通うほぼ半数の令嬢の憧れを集める王子様の婚約者。

集まった皆は、理不尽を言われたことよりも、そちらの意外性に気を取られてしまったらしい。

しかし、レイラは違った。

「っ、では、お茶会にお招きいただいた際、お茶に虫が――」
「メルが茶会を開くかどうかについては後にするとして、メルは虫は苦手だ! 見ただけで卒倒するほどにな!!」

言い募ろうとするレイラの言葉を、シダー殿下がばっさりと切り捨てる。

「特に身体が細くて足がたくさんあるのが苦手だったな!! あとは石の裏にうじゃうじゃいる爪ほどの大きさの黒いやつらも!! 羽虫はあの薄い羽が不気味だと言っていたな! 何だ信じられんか? なんなら今すぐに何か取ってくるぞ?」

やめて。何故そう詳しく想像させるの。ああ、そうか、わざとか。わざとだな? この野郎。
そして取ってこようとしないでほしい。わんぱく男児じゃあるまいし。取って来いと言ったら本当に取って来そうだから困る。

おかげさまで一瞬意識が遠のいた私は、ふらつくのを足踏みで堪えてすっと挙手をする。

「……発言をお許しいただけますか、シダー殿下」
「なんだメル! 鍛錬する気になったか!?」

駄目だ、脳みそまで筋肉に脅かされている。なんでこの流れで私が「鍛錬します」と言うと思ったんだ。
私は、唯一鍛え上げた表情筋を全力で活用し、シダー殿下の質問は聞かなかったことにして素知らぬ顔で話を続けようとした。

――レイラのものすごい物言いたげな顔を見るまでは。

「……レイラさんが何かおっしゃりたいようですわ。殿下」
「っ、お言葉ですが、シダー!」

敵であるはずの私の助けを借りて、レイラがシダー殿下に負けじと声を張り上げた。婚約者である私を差し置いて、この公の場で敬称をつけずに呼びかけたのは今は見逃しておいてやろう。

「私への嫌がらせは、メルフィオラさまご本人でなく、ご友人や取り巻きの方が――」

必死に声を出した甲斐もなく、レイラの意見はまたしてもシダー殿下に遮られた。

「そう、そこだ! レイラ、お前は先ほどメルに茶会に招かれたと言ったが、メルに茶会を開くだけの友人や取り巻きなどおらん!! 一人もだ!!」

……誰だ、今後ろで「それな」って言った奴。

私は群衆に視線を向け、キッと睨みつける。あ、今下を向いたのがいるな。貴様か。
許さないからな。確かに私には友人も取り巻きもいないけれど、絶対に許さないからな。

「そもそも孤立している人間が! 他人を動かして君を孤立させられるわけがない!!」

孤立していることは事実なだけに、シダー殿下の言葉が私の胸を抉る。増え始めた心からの哀れみの眼差しが逆につらい。もうお家に帰って寝ちゃいたい。

言いたいことを言ってすっきりした様子のシダー殿下が、また胸の前で腕を組んだ。

「そもそも、メルがレイラにそのような嫌がらせをする理由はなんだ!」

その言葉を聞いたレイラが、ぽっと赤くなる。

「そ、それは、その……私がシダー、さまと、特別親しくしているから、嫉妬なさって……」

やはり、レイラ嬢はシダー殿下とねんごろな仲だったのかと、皆がそわそわし出す。さっきから空気だったエルム殿下に至っては顔面蒼白だ。
レイラの頬を染めて恥じらう様子は殿方から見れば確かに可愛いのだろう。隣にいるエルム殿下はその恥じらいがライバルであるシダー殿下によるものだからか尚更悔しそうだ。

ただし、レイラと「特別親しい」当人は、きょとんとしていた。

「嫉妬? この俺がこんなにも想っているというのに、何故メルが君に嫉妬するんだ」
「えっ?」
「ん?」

レイラはその可愛らしい顔に戸惑いの表情をはっきりと浮かべた。
あえて言葉にするならば「確かに落としたと思った男が落ちてなかった、そんなはずは」といったところだろうか。

ただ、こんな公衆の面前で愛の告白を受けた私はそれどころじゃない。顔から火が出そうだ。なんてことをしてくれたんだ。周りはシダー殿下の衝撃的な発言に騒めく生徒たちに取り囲まれていて、隠れるところなんてどこにもないというのに。

「ほ、本当にそうでしょうか? メルフィオラさまのように、か弱いお方では、シダーさまの御趣味である遠乗りも狩りもお付き合いできないのに……」

その言葉に、どよめきがぱたりと止んだ。

レイラは言葉を濁しはしたが、暗に、お前はメルフィオラなど好きでも何でもない、つまりは嘘をついていると言っているようなものだ。

なんという不敬。まさか、王族であるシダー殿下が直々に口にした意思を、こうも堂々と否定するとは。
あまりにも自信過剰で愚かなその行為に、聴衆は彼女への疑いを強めたようだった。

レイラ、あれほど必死になって乗馬やら狩りを練習して、シダー殿下の気をひいたのにね。ひけてなかったね。可哀想に。
でもまあ、レイラが勘違いしてしまうのもわからなくはないけれど。

度々、レイラがシダー殿下の遠乗りや狩り、鍛錬についていこうとするところは私も目撃していた。今思えば、わざと私が見ている時間帯を狙って、レイラは殿下に声をかけていたようにも思える。別に、二人きりというわけでもなかったので私は口を出さなかった。

シダー殿下はいつも、彼女が参加することを快く許していた。

……それはそれは目映い、きらっきらの笑顔で。

シダー殿下は体格だけでなく、顔もすこぶる良い。その顔でとびきりの笑顔を向けられては、少なからず自分に好意を持っていると勘違いするのも無理はない。
だが、残念なことに、レイラは知らない。

シダー殿下は、私以外誰にでもそうだということを。

婚約者として、彼が誰彼構わず笑顔を振りまくことに思うところがないこともないが、いちいち妬いていてはキリがない。
特に鍛錬に付き合ってくれる者に対しては良い笑顔を見せるのだ、あの男は。
大抵の場合、その相手はやる気のある城の新兵たちだ。そのせいか騎士団や衛兵など戦闘職種からの殿下の人気はすさまじいのだけれど……

……妬けというのか? あの爽やかと筋肉の権化のような男たちに? 

馬鹿馬鹿しいにもほどがある。その中にシダー殿下に邪な思いを持っている者がいれば別だけど。婚約者として、しっかりと釘を刺させていただく。

シダー殿下の表情に、次第に自分の勘違いであった可能性を認識し始めたレイラは真っ白な顔で震え始めた。

そんな彼女をよそに、シダー殿下はレイラが言ったことが純粋に理解できないという表情で首を傾げた。

「確かに、メルとは一度も遠乗りなどしたことがない! だが、代わりに茶を楽しんだり、メルの好きな舞台を観に行ったりしているぞ! 別に、無理に俺の趣味に付き合う必要はない!!

……ああ、だが朝の散歩を欠かしたことはないな、メル?」

最後に言葉を向けられ、無礼でない程度に首肯する。

それを見ていたレイラがキッと睨みつけてくるが、よくもまあ、この勝算のない場でそんなことができるものだ。何とも頼もしい精神力である。

「なっ、何故、シダーさまがメルフィオラさまにそれほどまでお気を遣われるのです?!」

その言葉の端々に、焦りと驚愕、そして私を嘲るような響きがほんの少しだけ混じっていた。
なるほど。要は、このちんちくりんで地味な女が愛しのシダー殿下に特別扱いされているのが気に入らなかったわけか。
彼女の立場さえ違えば、あの嫌がらせの数々は私に対してのやりたいことリストだったのかも。

レイラが私に向ける感情に気が付いたかどうかはわからないが、何故、と問われたシダー殿下はふっと微笑んだ。

「俺が好き好んで婚約者に選んだのだから、当たり前だろう?」

群衆がまたしてもどよめく。口笛を吹いて途中で止められたような音も聞こえた。さっきの「それな」発言といい、どうやらアホのお調子者が紛れ込んでいるらしい。

レイラは相思相愛だと思っていたのが自分だけだとはっきりして、ショックで口もきけないようだ。

哀れ、公開失恋である。

……こうやって他人を茶化してでもいないと、婚約者殿のせいで先ほどよりも数段熱くなっている頬から気を逸らせない。相変わらず隠れることも逃げることもできず、私は苦肉の策で階段の上からそっぽを向いた。

「シダーさまからメル嬢に求婚したことがあるという噂は本当だったのか……」

そう。その通り。説明してくれてありがとう、群衆の中の誰かさん。何でそんなこと知っているんだ。

それは私とシダー殿下がまだ六つの時。

初めて父について上がった王宮。私はその庭園で好きに遊ぶことを許された。
とはいえ、家に篭っている方が機嫌が良い子供だった私は、庭遊びに興じることに乗り気ではなかった。それに、あの日着ていたピンクのドレスはとても気に入っていたので、ほんの少しであっても汚したくなかった。

今ならば、よく手入れされた花や、趣向を凝らした庭園を眺めたりして多少は楽しめるが、幼い子供にとってはどれほど花が美しかろうが庭園などさして心躍る物ではない。
かといって、そこは王宮の庭。来て早々帰ると言い出すのは無礼だというのも、幼いながらなんとなくわかっていた。

何をする当てもなく、ぶらぶらと歩いているうちに、私は全力で庭遊びに励むシダー殿下と出会ったのだ。

……そう、両手いっぱい、山盛りになるほどにダンゴムシを持っていたっけ。小さな両手の上で蠢く黒いつぶつぶ……これ以上思い出すのはやめておこう。今思えば、あの頃から虫が駄目になった気がする。

そんなシダー殿下が直々に庭園を案内してくれるというので、暇な私はダンゴムシたちを草むらに解放することを条件に、殿下の誘いに乗った。
年の近い子供の目線での面白いものを次々紹介されて、楽しかったといえば楽しかった。その頃は、互いの身分も気にせず、子供同士にだけわかる他愛のない話をしていれば良かったから。

だというのに。

殿下はその日、いきなり私に求婚してきたのだ。

「ぼくとけっこんしてください!」

言葉は舌足らずながら、子供にありがちなごっこ遊びなどでは決してなかった。齢六才にして、既に人生のすべてを賭けているような真剣そのものの表情だった。

可憐な野花で小さな花束をこしらえ、物語よろしく跪いて求婚する六才児は、はたから見ていた大人にはさぞや愛らしかったことだろう。まして、あの頃の殿下は紅顔の美少年だったわけだし。
今ではただひたすらに顔の良いゴリラだが。

ただ、私はその頃から可愛くない娘だったので「では、わたくしをケガひとつなく、まもれるくらいにつよくなってくださいませ」と返事を……ん? 待て、もしかして殿下の筋肉馬鹿は私のせいだった……?

……うん、これは気が付かなかったことにしよう。

王族に嫁ぐにあたって、我が家の家格は申し分ない。ついでに父はシダー殿下の父君である第二王子殿下が信頼を置く、唯一無二の親友である。その娘ともなれば、シダー殿下の婚約者としてはこれ以上ない相手だ。

丁度、同じ場所に居合わせた第二王子殿下と私の父がシダー殿下の求婚を面白がっ――……真摯に受け止め、さくっと話を取りまとめた結果、私たちはあの日から十年と少しの時を経た今日まで婚約者のままでいる。

観衆のどよめきが落ち着いた辺りで、シダー殿下がレイラをしっかりと見据えた。

「――君の言うことがおかしいと思うのは、どうやら俺とメルだけではなくなったようだな?」

大きな声ではないというのに、その言葉はエントランスに良く通った。
ここまでくると、他の生徒たちがレイラを見る目は、先ほどとは打って変わって責めるような眼差しへと変わっていた。

シダー殿下はその様子に一つ頷く。

「……さて、レイラ嬢。何か、言うことがあるだろう?」

そして、人前に立つことに慣れた様子で、自然に背筋をすっと伸ばし、慈悲深く微笑んだ。

エルム殿下は自分への意趣返しだと気が付いたらしく、唇を噛んで目を伏せる。

当事者である私は「ああして笑ってみると、二人共顔立ちだけは意外と似てるんだなあ」なんて場違いなことを考えていたのだけれど、レイラの心境はそれどころではないだろう。

レイラがしていたことは、簡単に言えば王子に対しての横恋慕だ。
それだけならば王子に憧れる可愛らしい少女で済んだのに。あまつさえ、王子の婚約者に嫌がらせを受けていると嘘をつき、その上で王子と自分が恋仲だと思い込んでいたわけだ。
ついでに王子を唆し、こんな非常識な場を用意し、一人の女生徒を糾弾しようとした。

俗な言葉で言えば『やべぇ女』である。

そして、それが王家への反逆であるととられかねないのもまた事実。
集まった人々の自分への敵意や冷たい感情を肌で感じ取ったのか、レイラが演技ではなく小さくなった。

「そ、その……っ」

どうやら、自分の過ちを自覚するだけの常識はあるらしい。どうしてこんなことをしでかしたのやら。

不思議に思ったその時、エルム殿下がようやく口を開いた。

「……シダー。レイラはきっと、君に対して恋をしたあまり、取り乱していたのではないかな? ほら、恋は盲目という言葉もあるだろう?」

この状況でレイラを庇えるのは、いっそあっぱれだと思う。それも「自分は好きな人の想い人ではなかった」という自分の傷を抉ってまで。

「恋は盲目なのはあなたの方では?」とつい口を挟みたくなるのを堪え、私は静観するに留まった。

「なるほど。そういうものか」

口では理解したようなことを言いながらも、シダー殿下は納得できんとばかりに顎に手を添えた。

「だがなあ。未遂に終わったとはいえ、王族の婚約者にあらぬ罪をかぶせようとし、その名誉を著しく傷つけたのだから。このままなんの咎めもないというわけにもいかんだろう」

ごもっともである。あのまま「恋の病だったなら仕方がないね!」と流されたらどうしようかと思った。

シダー殿下の正論に負けたエルム殿下も渋々ながら頷いた。

「……まあ、そうだな」
「よーし、では裁判の手続きをしようじゃないか。案ずるな、恋の病であったことは考慮され、情状酌量はされるだろう。

俺としては国外追放、奴隷、終身刑が望ましいのだが……ああ! いっそ一族郎党斬首刑の方がわかりやすくていいかもしれんな!」

その言葉に、エントランス中が絶句し、静まり返った。

衣擦れの音すらしない静寂の中を、厳しすぎる刑罰をこともなげに並べ立てた男の声だけが響く。

「……どうした。恋は盲目なのだろう?」

少年のようにいたずらっぽい調子でそう宣い、優雅に微笑んだ男の目は決して笑ってなどいなかった。

「さて、どれにしようか。なにしろ俺は今、恋の病に侵されているから――……」

あの恐ろしいほどに真っ青な瞳が、レイラをねめつける。美しく整った顔が遠目でも明らかなほど青褪めていた。

このまま放っておけば、このまっすぐな男は間違いなく、さっき言った中から罰を選びかねない。誰しもがそう思ってしまうような圧がエントランス中に満ち満ちていた。

少し考えれば、ただ国王の孫であるというだけの彼に、そんな権限はないというのに。

しかし、怯え切って正常な判断ができないレイラは、そうとしか思えなかったのだろう。シダー殿下が身じろぐ度に、小さく「ひっ」と息をのみ、今にも失神する勢いだ。

そんな二人の間に入ったのは、やはりエルム殿下だった。

「っ、待て、シダー! レイラは必ずや自らの間違いを認め、メルフィオラ嬢に誠心誠意、謝罪をする。事実無根の噂も正そう。第三者に判断を仰ぎ、しかるべき罰も受けさせる! 私も少なからず協力する。だから……」

命ばかりは。

シダー殿下からレイラへの恋慕はただの勘違いだったが、こっちは本物だったらしい。レイラをその背に庇い、シダー殿下に対峙したエルム殿下に、私は確かな愛を見た。

ただ、腕力では間違いなく勝ち目はなさそうだ。

仕方がない、助け舟を出そうじゃないか。私は階段を上り、三人の前に立った。

――……やばい。一時間は立ちっぱなしだった上、階段なんてのぼったから膝が笑っている。制服のスカートが丈の長い物で良かった。

「メル、大丈夫か」
「問題ありませんわ……どうか、エルム殿下の言う通りに。レイラさんからきちんと間違いを正していただけさえすれば、私はそれで構いません」

婚約者の名誉を傷つけた咎で、犯人だけでなく肉親から親族にいたるまで全員の首をはねると言い出すのは、明らかにやりすぎだ。乱心したのではと思われかねない。私は狂人に嫁ぐ気はない。

万が一にでも実行されてしまったりなんかしたら、私の寝覚めが悪くなるのは必至だ。夜な夜な、枕元に日替わりでナルシサス家の人達に立たれている気がして、寝るに寝られなくなってしまう。

「どうかレイラさんをお許しください、シダー殿下。このメルフィオラ、あのように可愛らしい勘違いで傷つくほどやわではございません」

鎮まり給え、荒ぶる顔の良いゴリラよ。私の安眠がかかっている。

なんとか許しを請うが、それでも、目の前のシダー殿下は不満げに口を結んだままだ。

このままでは本当に命で償うことになると思い込んで、ほとんど泣いているレイラにつられて私も焦る。集まっている生徒たちも固唾をのんで成り行きを見守っている。

……この手だけは使いたくなかったが。かくなる上は『最終手段』を用いるほかない。

私はシダー殿下の制服の袖を指先で掴み、高いところにある顔を見上げた。どうだ、上目遣いだぞ。小首を傾げることも忘れない。日々鍛え上げた私の表情筋は、完璧に愛らしい拗ねた顔を形作っているだろう。

ちょっと揺らいでいるのか、シダー殿下の眉と口元がぴくりと動く。

よし、いける。このまま押し切ってみせる。

私は深呼吸をすると、今度は両手でシダー殿下の太い腕を握った。

「……シーさまは、メルの願いを叶えてはくださらないのですか?」
「わかった! メルがそう言うのなら! あとのことは頼んだぞ、エルム!」

わかっちゃいたが、この野郎という気持ちを禁じえない。

私の『最終手段』おねだりを受けた殿下は、あっさりと意見を翻してくださった。

私は自分の言動のために発生した鳥肌を撫でさすりながら、シダー殿下をこっそり見上げる。
……うわあ、引くほどご機嫌だ……。

要するに、わざと怒ったふりをしていたのだ。私に『最終手段』を使わせたいがために。それが王子のすることか。この国の未来、大丈夫か。

なんて馬鹿馬鹿しい茶番だろう。可哀想に、レイラは未だに何が起きたのかわかっていないらしい。まあ、どうでもいいけど。

私は彼女から視線を外し、階段の踊り場の先にある扉に狙いをつける。あそこから逃げ……脱出するのが一番合理的だ。

よもや乱心かと思えるほどの狂気を見せた従兄弟の本当の思惑を察したのか、エルム殿下はすっかり疲れた様子で苦笑いだ。この短時間でいくつか老けたようにすら見える。

「……シダー、お前がメルフィオラをそこまで想っているとは知らなかった。いったいどこが好きなんだい?」

すっかり力が抜けた様子で、エルム殿下はゴシップ誌の記者のような質問を投げかける。それはもう、気安い関係の幼馴染のやり取りだった。

問われた殿下は、男らしく整った顔に、爽やか極まりない笑みを浮かべて堂々と胸を張る。

「無論……顔だ!!!」

潔すぎる返事がエントランス内にこだまする。

その場が再び静まり返る前に、私はエントランスを早急に立ち去ることに決めた。

後を追われている気配を感じながら、わざとカツカツと音を立てて廊下を歩く。行儀作法の教師が見たら、目を三角にして怒ることだろう。

「メル。そんなに急いでどうした。具合でも悪いのか」

必死の早歩きに余裕の歩みでついてくるシダー殿下を不機嫌に一瞥し、私はまた前を向いた。

「……どうせ私は顔だけの女ですもの」
「そこを気に病んだか」

何が可笑しいのか彼は、くく、と喉の奥で笑った。

「顔は誰が見ても一目で良いとわかるお前の長所だ。悔しいことに、俺の腹にでも閉じ込めておく以外に隠しようがない。しかし、目に見えないお前の良さは、俺だけが知っていればいい」
「さようで……っ、く」

ドクンと大袈裟なほどに動悸がした。

別に、殿下の台詞にときめいたわけじゃない。貧弱なくせに分不相応な速度で歩いたせいだ。
不愉快な鼓動に襲われ、私はその場で立ち止まり、しゃがみこむ。いつの間にやら呼吸まで乱れていて、酸素不足に目の前がちかちかする。

目を瞑っていると、大きな手が背中に触れた。いつだって温かい殿下の手だ。私のいつでも冷え切った手とは大違い。筋肉か。筋肉のせいなのか。

その温かな手に引き寄せられ、厚い胸板に凭れかかる。私よりも豊かな胸元を羨ましく思うより先に、うっかり安堵してしまった私は、ふっと身体の力を抜いた。
そのままゆっくりと背中をさすられているうちに、私の呼吸も動悸も落ち着きを取り戻していく。

ようやくほっと息をついた瞬間、ふわりと身体が浮き上がった。

いつもよりも高くなった視点に殿下に抱き上げられていることを悟る……

……ここはお姫様抱っこがお決まりだと思うのだけれど。何故私は殿下の左腕に腰かけているのかしら。まるで小さな子供みたいに。体格差も丁度よくて、しっくり収まってしまっているのが切ない。

「……あまり、無理をしてくれるな。メル」

まるで猫か子供のように私を軽く抱き上げた殿下が、私の頬にそっと口づける。あの日婚約者になってからというもの、頬にキスなど挨拶と同じだ。なんなら会う度にされている。この程度ではもう驚いたりはしない。

それよりも、シダー殿下に私の無理を勘付かれていた事の方が恥ずかしかった。

これまでも、王子の婚約者であるが故のやっかみなどいくらでもあった。いつもならまるっと無視するところだ。まして、あんな茶番にのったりなんかしない。

ただ、今回は場に婚約者本人が出てきたから、少しばかり面白くなかっただけで。

シダー殿下がレイラに付き従っているような姿を見て、衝動的に呼び出しに応じてしまったから、正直あの時の私はノープランだった。挙句、無理して立ちっぱなしを貫いたせいで具合も悪くなってしまったし。

結局、私はほとんど何もしていない。私の良くない噂を消し、逆にレイラの罪を公の場に引きずり出したのはシダー殿下の方だった。さらりと私への振る舞いに対しての意趣返しまで済ませて。レイラはきっと肝が冷え切ったことだろう。

……ついでに私には『最終手段』まで使わせて。あれは滅多に見せないからこそ、効果があるというのに。

なんだ。全部この男の思い通りじゃないか。ますます面白くない。

むくれていると、王子にしては無骨な指が私の頬に触れた。

「王子もその婚約者も代わりはいる。だが、俺にとって愛しいと思えるのは、メル、お前しかいない。覚えておいてくれ」

誰にでも向ける眩しいばかりの笑顔ではなく、とろけるように甘ったるい極上の微笑み。

せっかく落ち着いていた心臓が、せわしない小鳥のようにトコトコと騒ぎ出す。

――この人が私を想う気持ちを忘れたことなど一度もないというのに。わざわざ弱っているところを狙って、改めて私の記憶に刻もうとするそのやり方が気にくわない。

私は目の前の婚約者の頭にしっかりと抱き着いた。淑女としては、はしたない。けれど、こうしてくっついていた方が運搬が楽になることを知っている。運んでいただくのだから、多少なりとも協力的である方がいいだろう。

そして、この距離に少し困ればいいんだ。

けれど、身体の下で吐息だけで笑ったのを感じて、その余裕さに余計に悔しくなった。

「……教室……は、もういいです。すこし……ほんのすこし、疲れました。休養したいので医務室に運んでくださいませんか」
「喜んで」

私を抱えたまま、シダー殿下は歩き出す。

身体を支える丁寧な手つきや、時折向けられる青の眼差しには「愛おしい」が溢れていて。

「……できれば、別棟の第二医務室にしてください」
「仰せのままに」

シダー殿下にとって、ここから一番遠い第二医務室に私を抱えたまま向かうことなんて、嫌がらせにもならないだろうけど。

ほどなくして聞こえてきたのは低い呻き声、もとい、ものすごく下手な殿下の鼻歌だ。

「……シダーさま? ご負担ならば私――」
「なに、お前といられる時間が増えるのが嬉しいだけだ」

ああもう。これだから。
私はこの人の手を離せないのだ。
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