よあけ

紙仲てとら

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本編

第225話

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 大勢のファンが色めき立つなか落ち着いた様子で歩いてきたミツキは、アキラと両手を合わせなにやら笑顔で声を掛けている。周囲の目があるためか、彼もまたいつも通り物腰柔らかに言葉を返している。
 次はユウだ。彼の背後についているボディーガードが小さく一歩前に出たのがタビトの視界に入る。
 しかしミツキはこちらの警戒心を嘲笑うかのように、彼に対してもアキラと同じような態度で接する。「かっこよかったよ」聞こえてきたその言葉に耳を疑っているうちにヤヒロの番になり、なにかひとこと――動揺しているタビトの頭に会話内容は入ってこなかった――言うと、ついに目の前にやってきた。
 彼女はタビトを正面からしっかりと見つめただけで、なにも言わなかった。
 差し出された彼の手にすばやくタッチすると、満面の笑みを浮かべたまま目の前を通り過ぎる。そのまま出口へと歩いていき、振り返ることもなかった。
 あっけにとられたまま彼女の華奢な後ろ姿を見つめているタビトを、隣のヤヒロが肘で小突く。はっとして視線を戻すと、幼児を連れた女が不思議そうな顔で順番を待っていた。慌てて笑顔を浮かべ、両手を出す。もみじのような小さい手が、冷たくなった手のひらに触れる。
 ミツキに声を掛けられなかったのは自分だけだった。そのことがなにを意味しているのか、タビトには想像もつかない。ただ、不吉な予感がした。触れ合ったあの瞬間、彼女は笑っていると認識したが、本当に笑っていただろうか?
「おつかれ」
 楽屋に戻ると、ユミグサと一緒に衣装を片付けていたアコが声を掛けてくる。タビトは小さく言葉を返すと、椅子にぐったりと座り込んだ。彼の後から次々とメンバーやスタッフたちが戻ってきて、室内は一気に賑やかになる。
 アクセサリー類を外しているタビトのところにやって来たアコが、テーブルに寄りかかって彼のつむじを見下ろしつつ言う。
「サンから伝言。ヘアカラーチェンジするから時間あるときサロンに来いだってさ」
「わかった」
 ペットボトルの蓋を捩じ切りながら頷く。
 一呼吸おいて、アコは尋ねた。
「ミツキがいたんだって?」
 タビトはじっと前を見据えたまま答えない。彼女は溜息をつき、皮肉を込めて唇を曲げる。
「ムナカタさん、メンバーに死人が出るまであの子を野放しにしとくつもりなんかな」
「表向きは『なにもしてない』から出禁にできないんでしょ……。今日もちゃんとルール守って参加してたし」
「そうだけどさ」苦いものでも食べたように表情を歪め、「こんなのってないよ。そう思わん?」
 ふたりの間に落ちた重苦しい沈黙。それを切り裂くように、遠くからアキラの声がした。
「アコちゃん!サンは?」
「先に帰った」
 声の方にのけぞって答える。それを聞いたアキラが人や物のあいだを縫ってこちらにやって来た。
「悪いんだけどさ、これ返しといてくれない?俺が持ってると失くしちゃいそうだから」
 差し出された彼女の手のひらに、さらりと流れ落ちる銀の輝き。
「ネックレス?」
「サンの私物。シンプルな白Tに合うからって貸してくれた」
「あ、カーラ・Dの新作じゃん。今期のコレクションすっごい素敵だから奮発して買っちゃおっかなーって思ってるんだよね」
「俺もこないだチェックした!指輪のデザインめっちゃかっこよくない?」
 ふたりが夢中になってやりとりを始めたのを横目に、タビトは記憶の底にべとりと張り付いているミツキの姿を繰り返し思い出す。
 ハイタッチ会が終わってから……アキラもヤヒロもユウも、彼女のことについてなにも語ろうとしない。アコ以外の誰もがその話題を意識的に避けているように見える。今やそこには、恐怖という共通認識があるだけだ。


 イベント後に計画されていたスタッフを交えての打ち上げは、会場からだいぶ離れたところにある居酒屋の一室で行われた。アコとユミグサは参加したが、サンは来なかった。彼は大勢での飲みの席が嫌いなのだ。
「俺とユウは生ビール。ヤヒロはカシスオレンジね。タビトは?」
「烏龍茶でお願い」
 その言葉を聞きつけたイベントの総括ディレクターが、メニュー表から顔を上げて目を見開く。
「タビト君ってお酒ダメなの?」
 横に座ってそう言ってきた彼女に向かい、どこか申し訳なさそうに頷いた。すると途端につまらなそうな顔になり、
「なんだあ。てっきり強いと思ってた」
「普段からぜんぜんお酒飲まないって言ってたよね」別のスタッフが会話に割って入る。「体に合わないの?」
「いえ、そんなこともないんですけど……」
 曖昧に返し困ったように笑うタビトに渋面を向け、不満げにつぶやく。
「ならちょっと飲めばいいじゃん。この店、お酒の種類充実してるし気に入るのあると思うよ」
「その辺で勘弁してやってください」
 アキラが愛想笑いを浮かべて言い、彼女が持っているメニューを覗き込む。
「なに食べます?」
「タビト君が酔っぱらうとこ見たいなー」
 話題を逸らそうとしたが、まだしつこく食い下がってくる。内心苦々しく思いながらも、アキラは笑顔を絶やさずに答えた。
「まあまあ、タビトがなに飲もうがいいじゃないですか。俺がこいつの分まで付き合いますから」
 まだ不満そうだったが、彼女はようやく黙る。
 そのやりとりを向かいの席で聞いてたヤヒロはおもむろに膝を起こして立ち上がった。
「タビト、こっち来い」
 意図がわからなかったが、言われた通りヤヒロの席へ回り込む。
「おまえはここでメシ食ってろ」
 そう言って座るように促すと、自分はタビトがいた場所に移動した。
 どかりとあぐらを掻いて座ると、
「飲めるヤツが隣の方がいいですよね?」テーブルに頬肘をつき、驚いたように目を丸くしている彼女を覗き込むように見つめる。「今夜はとことん付き合いますよ」
「さすがヤヒロ君!ノリがいいね」
 周りのスタッフが盛りあがるなか、横にいたユウがタビトに耳打ちする。
「ヤヒロってそんなに飲めたっけ」
 酒の席で一番先に寝てしまうのはヤヒロだ。特別弱いというわけではないだろうが、それほど強いという印象もない。タビトの顔によぎる不安を見て取ったアキラが、向かいの席から身を乗り出し、小声で言った。
「なにかあれば俺がフォローするから。心配しないで」
「――ごめん……」
「あいつ、いつも寝不足だからすぐ寝ちゃうけど、俺と同じで酒は強い方なんだよ。とことん付き合うなんて言ってたし、居眠りし始めたら叩き起こしてやろっと」
 冗談なのか本気なのかわからないことを言ってタビトに笑いかける。彼は弱々しい笑みを返し、顔を俯かせた。
 年齢を重ねるにつれ、こうした席で周囲から酒をすすめられることが多くなった。飲めないのになぜ参加するのかという目で見られているような気がして、いたたまれなくなる瞬間もある。
 飲みたくないと思っても、コミュニケーションの一環として我慢して飲むのが当たり前なのだろうか。それが大人になるということなのだろうか――運ばれてきた酒をそれぞれが手にするのを見ながら、タビトは自問する。ここにはメンバー以外に15人ほどの大人たちが集まり、恐らく自分以外の人間は全員飲酒しているが、どれだけの人がこの席での酒を旨いと感じているのだろう。
 テーブルに並べられた料理はどれもタビトの好物であったが、言葉にできない冷えた感情が胸に満ちて苦しく、おいしくは感じられなかった。それでも淡々と食べ続けながら、早くも真っ赤な顔をしているスタッフたちが大声で笑っているのを聞いていた。隣に座っていたはずのユウはいつのまにかおらず、アキラとヤヒロは先ほどの総括ディレクターの女と、真剣な顔つきでなにやら話し込んでいる。
 彼はふとアコのことを思い出し、酒のにおいと熱気が充満している室内を見渡した。しかし彼女の姿はどこにもない。
 話があると言っていたが、なんだろう……急に気になったタビトは周囲を探るように見ながらそっと膝を起こし、個室を出る。
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