よあけ

紙仲てとら

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本編

第216話

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 チカルを助手席に乗せた車はエンジン音を響かせながら地上に出る。
 顔見知りなのか、駐車場の入口にいた守衛が帽子を軽く上げてアコに挨拶している。それに愛想よい笑顔を返した彼女は、大量の煙草の吸い殻で閉まり切っていない灰皿を無理矢理に押し込みつつ言う。
「煙たい車でごめんね」
「いえ……」
 蚊の鳴くような声で返すと、彼女は口を開けて豪快に笑い、
「そんな怯えないでよ、取って食ったりしないからさ」
 冗談めかして言う横顔を盗み見て、チカルは表情硬く問うた。
「――埜石様とお約束があったのでは?」
「ああ……そのことなら大丈夫、気にしないで。あのマンションに住んでるタレントと仕事の話をしに来て、そのついでにちょっと顔出してこうかなって思っただけだから」
 スピーカーからは、ラジオが小さく流れている。沈黙のなかでその音に耳を済ませながらチカルは、目の前に連なるテールランプを見るともなしに見つめた。
 降りしきる雨を切り裂きながら、品川区を出て大田区に入る。アコが住まいとしているアパートは、大通りを外れ迷路のような住宅街を行った一角に、どっしりと建っていた。独特の風合いがある漆喰の外壁には、ステンドグラスが嵌め込まれたアーチ窓が等間隔に配されている。エントランス前に青々と茂っている植木は同じ形に刈り込まれ、壁に沿って規則正しく立ち並んでいた。
「ひどい雨だね」
 エントランスの庇の下で傘を閉じながら、アコが空を見上げてぼやく。
 彼女が鞄から取り出した鍵にはたくさんのキーホルダーがついていた。それを手の中でじゃらじゃら鳴らしながら階段を昇る。2階が彼女の部屋だ。
 ドアを開けると、やわらかい香りが鼻先をくすぐった。ふたり立つのがやっとなくらいの狭い玄関は、ハイヒールやサンダルに半分以上占拠されている。
「どうぞー。上がって上がって」
 シューズボックスの上に鍵を投げ、靴を脱ぎ捨てながらアコが言う。チカルは後ろ手に扉を閉めつつ促されるまま靴を脱ぐと、白いフェイクファーの玄関マットにそっと足を乗せた。
 短い廊下の先は10畳ほどのリビングダイニングだ。手前に食卓、奥に二人掛けの赤いソファが置いてある。アイボリーのクロスが貼られた壁は、シンプルな額縁に入れられたポスターや写真、イルミネーションライトで賑やかに飾られていた。
「着替え用意するからちょっと待ってて。あ、その前にシャワー浴びた方がさっぱりするか」
「いえ、着替えを貸していただけるだけで……」
「風呂はそっち。タオルは棚のなかにあるやつ使って」
 チカルの言葉を無視して廊下の方を指差すと、ベッドルームに入っていってしまう。ひとり残されたチカルは途方に暮れたような顔をして立ち竦んでいたが、やがてのそのそとバスルームに向かった。
 久しぶりにじっくりと髪や体を洗った。ネットカフェではシャワーの利用時間は15分までという決まりがあり、いつも忙しなく済ませていたのだった。
 さっぱりしてバスルームを出ると、籠の上に着替えが用意されている。オーバーサイズのTシャツとトラックパンツ、そして、真新しいグレーのショーツ。ナプキンも夜用と昼用の2種類、袋ごと置いてあった。
 見れば、床に丸めておいた服がなくなっている。タオルが乗った棚の横にある洗濯機がごうごうと音を立てているので、もしやと中を覗き込むと、自分の服が水の中で回っていた。赤の他人の、それもよく知りもしない女の経血で汚れた服をためらいなく洗濯してくれるだなんて――チカルはありがたさと申し訳なさで苦しくなる。
「お、来た。早かったね」
 リビングに入ると、アコはキッチンの換気扇の下で煙草を吸っていた。
「ショーツ買ってくんの忘れたー!って思ってさっきコンビニで適当に買ってきちゃったんだけど、サイズ平気だった?」
 数々の親切、そのひとつひとつに礼を述べたかったがうまく言葉にできず、ただただ深く頭をさげる。
「なにからなにまで、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」更に深々と頭を垂れ、「本当にありがとうございます」
「ちょっと!そんなにかしこまらないでよ」
「ショーツの代金、お支払いします。お幾らですか」
「いーのいーの。こういうことはお互い様」
 がははと豪快に笑ったアコは、灰皿に煙草の先を押し付けながら続けた。
「この雨のなか帰るのもしんどいでしょ?もう8時になるし今日はうちに泊っていきなよ。コンビニ行ったついでに飲み物と食べ物も買ってきたから」
 困惑に染まるチカルの表情を見て、すかさず言う。
「パートナーが仕事でいなくてさ。ひとりはさみしいし、帰らなきゃいけない理由が特にないなら頼むよ」
 眉尻をさげつつ微笑み頷いた彼女を見たアコは、ビニール袋から缶ビールを取り出し「呑める?」にんまりと笑う。
 激しい雨音にまじって、プルタブを引く小気味よい音が響く。
「かんぱーい!」
 アコの景気のよい掛け声を合図にこつんと缶ビールをぶつけ合って、冷えた苦味を舌にのせる。
 半分ほどを一気に呑んだアコが手の甲で口元を拭いつつ満足そうな息をつく。チカルもつられたようにごくりと大きくひとくち。
 缶ビールを味わうのは数年ぶりだ。それほど好きではなかったが、今日はとてもおいしく感じた。アルコールが心地よく体に染みわたり、ここ数日で蓄積した疲労や悲観的な思いが溶かされていく。ふいに泣きたくなったが、やはり涙は瞳にじっとりと張りついたままで、こぼれ落ちることはなかった。チカルはただ無心に缶を傾ける。呑み進めていくうちに強くなる浮遊感に身を任せ、曖昧な現実を揺蕩う。
「家事代行の仕事するようになって長いの?」
「今年で8年目になります」
「すごっ!ベテランじゃん」
 鶏皮唐揚げのパックを開け、チカルにも勧めながら言葉を継ぐ。
「ひとり暮らしのとき家事代行を頼んだことあるけど、ほんとありがたかったなあ。家じゅうピッカピカにしてくれるんだもん」
 目の前のローテーブルに並んでいるのはほとんど酒のつまみだ。ナッツ、スモークチーズ、焼き鳥、さきいか、チーズたら、サラミ、にんにく味のスナック。鮭とばまである。ソファを背もたれにして並んで座り、それらをあてに酒を呑む……こんな時間を過ごすのは大学生のとき以来だ。
 懐かしい気持ちに心がほぐれていくのを感じながら、チカルは会話を続ける。
「今は、パートナーの方と家事を分担されているのですか?」
「うん。同棲するってなったときに担当分けしてルールも決めた。ケンカになるの嫌だったし。でもあんま意味なかったな。未だにどっちがゴミ出しするかで揉めることあるもん。もう、朝からギャーギャー罵り合い」
 硬い表情を崩し、そっと笑ったチカルを横目に見たアコは、どこか安堵したような顔になる。
「家族にしても恋人にしても、誰かと一緒に暮らすって難しいよね。生活に対する考え方とか価値観の違いを感じるとさ、相手のことわかってるつもりでいたけど全然わかってなかったんだなーって思う」
 チカルは無言で頷き、缶に唇をつける。
 シュンヤとの生活もこの連続だった。それでも互いに妥協し合い、理解し合うことで生活がうまくまわっていくはずだと信じた。
 アコはパートナーとの相違を感じたとき、自分の気持ちとどう折り合いをつけるのだろう。相手に寄り添おうと自我を殺す瞬間があったとして、何を思うのだろう――尋ねようとして彼女の方に顔を向けたが、結局言葉が出ず見つめるばかりになった。視線を受け止め笑顔で返したアコは、咀嚼したものをビールで喉に流し込んで問う。
「チカルさんはひとり暮らししてんの?」
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