よあけ

紙仲てとら

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本編

第201話

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 駅前の薬局で妊娠検査薬を買い、とりあえず新宿へ向かうことにした。
 電車に揺られ、黒い窓ガラスに映るマスク姿の自分を見るともなしに見つめながら、チカルは今後のことを思う。
 通帳の残高は約400万円。ほとんどは学生時代と高円寺のアパートに暮らしていたときに貯めたカネだ。シュンヤと中目黒のマンションに引っ越してからは、家賃の半分の15万円、それに加え光熱費、食費などを折半していたためほとんど貯めることができなかった。
 新生活に必要なものを一から揃えるとなると、かなり費用が掛かるだろう。今日からしばらくホテル暮らしとなるが、出費はなるべく抑えたいところだ。
 新宿駅に降り立ったチカルは、東口を出てすぐの場所にあるカプセルホテルに宿泊することにした。かなり年季が入った外観で設備も古そうだが、女性専用フロアがあるらしい。そのうえ日曜の今日は料金が一泊2000円台と知り、即決した。
 フロントでチェックインしたあと、荷物をロッカーに預けてまずはシャワーを浴びた。貸し出されている部屋着とスリッパを身につけると、ようやく人心地がつく。
 ロッカーからスマホとワイヤレスイヤホン、飲みかけのペットボトルだけを取り出し、カプセルユニットがずらりと並ぶフロアに入った。たくさんの人間がいるはずだが、物音ひとつせず静まり返っている。彼女は無意識に足音を忍ばせそろそろと歩く。
 カプセルの中は、狭いながらも清潔だった。鍵が掛からないのがすこし不安だったが、ロールスクリーンを下げてしまえば最低限のプライベートは保てる。狭い空間に寝そべって、ひとりきりであることをしみじみ感じていると、心細さがじわじわと胸を浸食してくる。
 明日からさっそく家探しだ。住民票など役所関係の手続きもある。浮き草のような生活をいつまでも続けたくはない……一刻も早く居を定め、これから人生の方向性を決めねば。
 今後にかんして彼女がいちばん気がかりに思うのは仕事のことである。もしも妊娠していた場合、今のままの給料では生活していけないだろう。サフェードの社長が正社員にならないかと持ち掛けてくれたが、賃金次第ではもっと安定して稼ぐことのできる職を探さねばならなくなる。
 あれこれ考えているうちに不安と焦燥が込み上げてきて、チカルの顔が憂苦に染まる。これまで常に誰かの庇護を受けてきた世間知らずの自分が、人生の荒波をたったひとりで乗り越えていくことが果たしてできるだろうか。家事代行の仕事を辞めたとして、タビトとの関係はどうなるだろうか……
 マナーモードにしていたスマホが光を放ち、チカルは我に返った。タビトからかと思ったが、ただのダイレクトメールだ。溜息を狭い空間に放って、ワイヤレスイヤホンを耳に押し込む。タビトの声を聞きながら、胎児のように背中を丸め、眠った。
 尿意を感じて目覚めると朝の6時半だった。ぼんやりと濁る頭のまま上体を起こすと、マスクをして顔の下半分を隠し、狭いカプセルから這い出る。
 昨晩は誰もいないのではないかと思うほど静かだったが、今朝はあちこちから人の気配がし、かすかな生活音が聞こえてくる。新たな一日が始まったことを実感しながら、彼女はロッカーを開け、紙袋に入った妊娠検査薬を取り出した。
 化粧室に入ると、手を洗っている白髪頭の女と鏡越しに目が合う。刻まれた皺の中に疲れが滲んでいる。
「おはようございます」
 小さく会釈しながら言い、彼女の返事を待たずに個室に入った。
 鍵を閉めたチカルは紙袋から妊娠検査薬の箱を取り出し、余裕のないしぐさで封を切る。説明書をじっくり読めるような心境ではない。彼女はスティック状の袋を引き千切るように開けた。おぼつかない手つきで下着ごとズボンを下ろし便座に座る。
 扉の向こうでは手を洗う水音がしばらく続いていた。やがて特徴のある足音と共に静寂が訪れると、この世にたったひとり残されてしまったかのように感じた。自分の心臓の鼓動だけが全身に響き、わきの下や額に嫌な汗が滲む。
 尿をかけたスティックを指先で慎重に持ったまま、チカルは固く目を閉じた。
 結果が出るのを待つあいだ、彼女の体はぶるぶると震えていた。人生が一変するかもしれないこの瞬間、タビトの顔が脳裏にちらつき、彼に対する数多の想いが嵐のように胸を去来した。すがりつけるものはない。孤独だけが彼女のそばにある。
 数分が経過し、彼女はついにまぶたを薄く開いた。それでも確認する勇気がなかなか出ず、ぎらぎらと光る瞳で目の前の薄汚れた扉を睨んでいたが、やがて、揺れ動く視線を手のなかのそれに落とす。
「ああ……」
 思わず声をこぼして、天を仰いだ。
 ――陰性。
 チカルは脱力し、紙袋の中にスティックを放り込むと手の中でぐしゃぐしゃに潰した。
 彼女は震えが残る足で床を踏みしめ立ち上がり、個室を出る。洗面台の横に備え付けてあるゴミ箱に紙袋を捨て、何度も念入りに手を洗った。
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