よあけ

紙仲てとら

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本編

第135話

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「カヤコがそう言ったのか?」
「ああ。実家に相手の男を連れてきて、両親に打ち明けたらしい」
「婚約者とも体の関係があるなら誰の子かわかんねえじゃん」
「カヤコも婚約者も、婚前交渉はしていないと断言している」
「鵜呑みにすんなよそんなの……」
 あきれたと言わんばかりにシュンヤが溜息をつく。チカルは、からになった彼のコップにビールを注ぎながら、厳しい顔をしているタケルに尋ねた。
「カヤコちゃんはなんと?」
「……破談を望んでいるようだ。子どもの父親の方と結婚したいと」
「このタイミングで妊娠するなんて、神様はカヤコの味方みたいだね」
 取り皿によそったちらし寿司をそれぞれに配りながら、ツヤコが鼻を鳴らす。
「カヤコの気持ちそっちのけで結婚話を進めるべきじゃなかったんだよ。あたしは、あの子の幸せを一番に考えてやるべきだと思うけど」
「おまえは黙っていなさい」
 タケルがぴしゃりと言う。
「幸せ、ねえ……」
 ぼんやりと口にしたシュンヤはチカルを横目で見遣る。ふたりが視線を合わせたのを見たツヤコが、にやと笑って問うた。
「ところであんたたちはどうなの?」
「俺らのことはいいだろ。ほっといてくれ」
 帰省すると必ずこの話になる……シュンヤは肩を竦めた。
「あたしたちは別に――あれよ……“授かり婚”っていうの?それでもいいのよ。孫の顔が見られれば」
「ったく……簡単に言うんじゃねえよ……」
「おまえがいつまでも結婚しないのは、跡目を継ぐか否か決断できずに目を背けているからだろう」
「……」
「先祖代々受け継いできた山林と土地の管理や相続の問題――面倒なことを避けたい気持ちは理解できる。だがいつまでチカルちゃんを待たせる気だ。結婚するのかしないのか、いつか故郷に戻って来るのか東京で死ぬまで暮らすのか……いい加減はっきりせんか。自分の年齢を自覚しているなら真面目に考えろ、シュンヤ」
 父親の方を見ようとせず、彼はちらし寿司を口の中に掻き込む。それを睨んでいたタケルは視線をチカルに移して、静かな声音で言った。
「チカルちゃん。弟のリョウくんが家督を継がないというなら、シュンヤを婿にもらってやってくれないか」
 その言葉に驚き、口のなかの米粒を吹き出しそうになりながらシュンヤが顔を上げる。
「いきなりなに言ってんだよ親父!」
「おまえが那南城家に婿入りすれば、本家の跡継ぎ問題に決着がつく。この家は俺の代で終わり……家も土地も売却して、財産は皆で均等に分ければいい」
 ヤケになっている様子はない。本気で言っているのだ。シュンヤをまっすぐに見つめるタケルの無感情な横顔を前に、チカルはなぜかぞっとした。
「家制度はとっくに廃止されているのに、家長としての責任や重圧を背負うなんて馬鹿馬鹿しい……おまえはそう考えているんじゃないのか?ならば俺たちで、代々続いてきたこの慣習に終止符を打つとしようじゃないか」
 シュンヤは両目をこぼれんばかりに見開いたまま絶句している。そんな息子の様子をどこか楽しそうに眺めて、ツヤコが言う。
「お母さんも売却に賛成だよ。お父さんとこの村を出て、海の近くで暮らしたいと思ってるんだ。ここよりもずっとあたたかい場所……沖縄あたりがいいかねえ。きれいな水平線を眺めながら余生をのんびりと暮らすなんて、素敵だろ?」
 美しくきらめく海を脳裏に思い描きながら、ツヤコはビールを豪快に呷る。
「我が一族は戦後まもなくから衰退の一途を辿っている。今では山も農地も負の遺産になって、親族の誰もこの家を継ごうとせん。おまえの孫の代くらいまで楽に暮らしていけるだけの財は蓄えてあるが……なにしろ土地は持っているだけでカネが掛かる。持て余すくらいなら売った方がいいだろうと、常々考えてはいたんだ。爺さんは首を縦に振ろうとしなかったがな」
「俺も反対だ。先祖代々の土地をそんな簡単に売るもんじゃねえだろ」
「誰も継がないならば処分するほかあるまい」
 シュンヤは黙りこくっていたが、突然立ち上がり部屋を出て行ってしまった。そのあとを追おうと膝を起こしたチカルを、タケルが制す。
「放っておきなさい」
 シュンヤが離席してからの会話は、互いの近況や村で起こった出来事といった当たり障りのないものだった。そうして2時間ほど談笑したが、とうとうシュンヤは戻ってこないまま、食事会はお開きとなる。
 夕食の片付けを、チカルも手伝った。昭和の終わりにリフォームしたキッチンは古めかしくも清潔に保たれ、物も少なく整然としている。
「久しぶりに来てくれたのに、あんな空気になっちゃって……ごめんね」
 寒々しい蛍光灯の下で皿を洗いつつ、ツヤコが言う。
「私の方こそ……」チカルはかぶりを振って、「ごめんなさい。いつまでもぐずぐずしているせいで」
「シュンヤからプロポーズは?」
「――いいえ。されていません」
「そう……」考え込むような顔になり、「チカルちゃんは、シュンヤと結婚するつもりなんだよね?」
 皿を拭いていたチカルの手がとまる。
 その動揺は、ツヤコに伝わっていた。彼女は水道の蛇口を閉めて、濡れた手のままシンクの淵に両手をついた。ややあって、再び唇を開く。
「迷ってる?」
 ツヤコはチカルの方に顔を向けることはない。皿や箸が沈む桶のなかをじっと見つめている。
「ま、そりゃそうか……」
 沈黙を続けるチカルに弱々しい微笑みを向け、それからまた水の中に視線を落とした。
「旦那には話してないんだけどさ。このあいだ、いかにも都会のお嬢さんって感じの若い女の子が菓子折り持ってうちに来てね。シュンヤと真剣に交際してるって言い出したから、結婚前提のお付き合いをしてる幼馴染がいることを話したら……血相変えて出ていったよ」
 シュンヤが実家の住所をしゃべったとは思えない。またずいぶん危険な女と関係を持ったものだ――チカルは密かに溜息をつき、
「美しい子だったでしょう?」
 そうつぶやいて、拭き終わった皿を食器棚にしまう。半分閉まったガラス戸に映る自分の顔を見つめながら、彼女は続けた。
「なぜシュンヤくんが私と一緒にいるのか不思議でなりません」
「チカルちゃん……」
「情、というものでしょうか」
「違うよ。シュンヤはチカルちゃんのことが大好きなんだよ。あなたじゃなきゃだめ……よそでいくら遊んできたって、帰ってくるのはチカルちゃんのところって決めてるんだから」
 そんなにまっすぐな愛情を、彼が私に対して持ってくれているわけがないと、体の中心に氷が埋め込まれているような気持ちで思う。チカルが冷めた思いに満たされているとは気付かず、ツヤコは更に言う。
「チカルちゃんは本命の地位にどっかり座っていればいいの。手綱は握ってるんだから、おいたが過ぎたらグイと引っ張ってやりな」
「手綱ですか……」
 ふと笑って、チカルはツヤコを見る。
 手綱を握られているのは私の方――そう言おうとしてやめた。彼女はひどく疲れていた。
「男ってのはたいがい、身勝手で独善的でどうしようもないものだよ。女は広い心で許してやらないとね」
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