よあけ

紙仲てとら

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本編

第122話

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 タビトが与えてくれる安心感に身をゆだね、チカルはしばし現実を忘れた。自分の境遇も、立場も、すべてを意識の外に追い出して、ただこの瞬間の心地よさだけを享受する。今の彼女にとって、タビトだけが心の拠り所であった。
 彼に勧められるがまま、粥やドリンクを選び取ると、席についてそっと両手を合わせる。
「いただきます」
 同じく手を合わせたタビトがサラダを食べ始めたのを見届け、プラスチックスプーンを手にレトルトの梅粥を開けた。それに気付いた彼が慌てて椅子から腰を浮かせる。
「あっ!待って!あたためるでしょ?お皿用意する」
「大丈夫です。このまま食べられますから」
 ええ……と困惑の声を漏らすタビトを前に、パウチの中にスプーンを突っ込んだ。
「豪快だね……」
「おいしいです」
 最初こそ目を丸くして見ていたタビトであったが、ぱくぱくと無心に口に運ぶ姿を見ているうちに表情が緩んでくる。
(ほんとかわいいな……)
 うっとりと眺めていると、気付いた彼女が視線だけをあげてタビトを見た。下唇の端に米粒のかけらがついている。
「なにか?」
「んーん。なんでもないよ」
 柔和な笑顔を浮かべ、テーブルに頬肘をつく。
 恋人であれば口元の米粒を取ってやりもするだろうが――そうしたときのチカルの反応がとても気になるが――ぐっとこらえる。あえて教えてやりもしなかったのは、いつもきちんとした身なりのチカルがわずかに見せた隙のようなものを、どうせならあとすこし見ていたいと思ったからだ。
 梅粥をぺろりと平らげてしまったチカルに、
「これも食べる?」
 果物が入っているゼリーを指差して訊ねた。ウエットティッシュで口元を拭いていたチカルが頷いたのを見て、蓋を剥がし、小さな透明スプーンと一緒に渡してやる。
 タビトは、チカルが食事しているところを見るのが大好きだ。ほとんど偏執狂的と言っていいくらいに。
 彼女はその清楚な見た目とは裏腹、ひとくちが大きく、非常においしそうに頬張る。パウチから直接食べようが、大口を開けようが、彼女の気品はまったく損なわれなかった。ちいさな唇からのぞく乳白色の歯や、しっとりと濡れた薄紅の舌は美しく官能的ですらある。
 ゼリーにスプーンを差し込むのをじっと見つめていると、チカルは不思議そうに彼を見つめ返した。そしてすぐその視線の意味に思い当たり、訊ねる。
「味見しますか?」
 突然問われ、タビトは我に返った。とっさのことに、熱い呼吸を飲みくだして声を詰まらせていると、
「桃、あげる」
 彼女は続けて言いながら、くし切りにされたそれを掬いあげる。だが、動揺しているタビトはなんとも答えない。
「きらい?」
「や……好きだけど、……」
 しどろもどろになりながら言う。チカルはくし切りにされた桃をスプーンにのせ、タビトの方に差し出した。
「え……あ、チカルさ……」
「ほら……はやく。落ちちゃう」
 急かされて唇を開くと、やわらかな桃を歯で甘噛みする。
 あまりにも唐突な展開に、タビトはめずらしく頬を染めている――その一方、桃を食む彼の口元を満足そうに見つめていたチカルは、穏やかな微笑を湛えたまま訊ねた。
「おいしい?」
 無言で何度も頷くタビトにますます笑みを深くして、
「量が多いから、できれば一緒に食べてくれると助かるのですけれど」
「……。食べる。半分こしよ」
「お皿に分けますね」
 言うが早いかチカルは立ち上がり、食器棚から手のひらほどの大きさのデザートボウルを出してくる。そして小さなスプーンでせっせとゼリーを掬い入れ始めた。
「わざわざ分けなくてもよかったのに」
 動きを止めたチカルを、ほんのりと上気した頬のタビトがじっと見つめる。彼の表情がどこか不満そうなのを見ると口角を優しく崩して、
「もっと食べさせてもらいたかった?」
 彼女にしてはめずらしく、からかうように言う。当然否定してくるものと想定しての言葉だったが、タビトは素直にこくりと頷いた。
「君はかわいいね……」冗談と取ったのかチカルは笑って、「こうして話をしていると、弟がまだ小さかった頃のことを思い出すわ」
 冷たく濁った水の中に押し込まれたかのような苦しさと絶望が、タビトの胸に迫る。それを隠して、彼は無理に笑顔を作りつつ言った。
「弟さんがいるんですね」
「ええ。君みたいに天真爛漫な子でね……」
 彼女はふふと笑って、残ったゼリーを食べ始めた。タビトが口をつけたスプーンだがまったく気にする様子もない。
「タビト君は、お兄様の他にご兄弟はいらっしゃるの?」
「弟がひとり……」
 すっかり口数少なくなった彼は、彼女が渡してくれた銀のスプーンでボウルの中をつつきながら短く答えた。
 そのときチカルのジーンズのポケットから微かな振動音がした。彼女はびくりと身を震わせてスプーンをテーブルに取り落とす。
 慌ててポケットから引き抜いたスマホを覗き込むと、強張った表情で電源を切った。真っ黒になった液晶画面を凝視したまま息を詰めている。
 画面に反射する自分と見つめ合うと、急に現実が押し迫ってきた。
 怯えながらここに隠れていても、シュンヤから逃げることは決してできない。彼の影はべったりと、この身に貼りついたままだ。
 足先から震えがのぼってくる。焦燥感に背中をなぞられ、彼女は立ち上がった。
 ――帰らなければ。
 腹の底から込み上げる恐怖と衝動に駆られ、自分の周りのゴミを搔き集めて空のビニールに入れる。
 なんと声をかけたらいいかわからずにいるタビトに視線を戻し、
「ごちそうさまでした。遅くまでお世話になって申し訳ありません……そろそろ、帰ります」
「え?!今日はもう泊まっていきなよ。危ないから」
 玄関に向かうチカルを追いかけて、タビトが駆け寄る。
「終電に間に合わないかもしれないしさ」
「駅前まで行けばタクシーがありますから」
 なんの問題もないと言った様子で淡々と言うチカルに、タビトは必死に食らいつく。
「そんな無理して帰らなくてもいいでしょ?」
「帰れない理由もないですし、おいとまいたします」
「だめ!泊まっていってよ」
「友達や恋人ならまだしも、私はただのサービススタッフですので……利用者様宅で一晩を明かすのはあまりに非常識ですから」
 物理的な距離はこんなにも近いのに、チカルの頑なな心を溶かすすべを持っていない。そのもどかしさに苦しみながらタビトは言う。
「俺たち友達じゃなかったの?俺はとっくにそうだと思ってたけど」
「訂正します。“男”友達ならまだしも、です。私は女ですので該当しません」
「ああもう……なんでそんなに頑固なの……」
「私を泊めたことがもし彼女に知れたらまずいのでは?いくら私が年寄りだとはいえ……」
「チカルさんは年寄りじゃないし、俺に彼女はいないから安心して」
「そもそも恋人でもない男性の家に一泊するなんてよくないことと思うのですが、これは古い考えでしょうか」
「別に古くないけどさ……。もちろん俺だって誰にでもこんなこと言うわけじゃないし……」
 彼は伏せていた視線をあげ、チカルを貫くように見つめる。
「こんなに必死に引き留めてるのは、チカルさんのことが心配だからだよ」
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