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本編
第117話
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翌朝、チカルは救急箱を手に自室のドレッサーの前に座った。一睡もできなかったせいか、顔色が悪い。
左耳を覆っていたガーゼを取ると、傷痕を鏡に映す。
手当する前に見たときは、大きく裂けたホールにピアスがかろうじてぶら下がっている状態だった。だが血まみれの耳を拭くためにそれを外そうとしたとき、とうとう完全に千切れて蛇の舌のようになってしまった。
斜め下に向かって5ミリほど裂けてしまっているピアスホールを鏡越しに眺めて、さてタビトになんと言おうかと考える。あんなに彼の優しさに甘えておいて、今回の経緯を説明しないのはあまりに失礼なことのように思えた。それでも正直に話すべきか否か、逡巡するばかりで答えが見つからず――小さく切った絆創膏を貼って、凄惨な状態になっている傷口を覆い隠す。
血液を洗い流し、きれいに磨いたピアスを手のひらに載せる。まぶしそうな顔をしたチカルはドレッサーの隅に置いてある小さなジュエリーボックスを引き寄せた。ベルベッドのトレイに丁寧に収めて、そっと蓋を閉じる。それから彼女は玄関に行き、シューズボックスの上に置き去りのままだったウル・ラドのCDを、自室にある本棚の目につきにくいところにしまった。
あれからシュンヤは何度か玄関を行き来したはずだが、CDの入った袋をいじられた形跡はなかった。もしアイドルのアルバムだと知られたら捨てられていただろう。彼は自分より若い男にハマるアイドルファンの中年女性を軽蔑しているし、パートナーが同類だとわかれば看過できないはずだ。透明の袋で中身は丸見えだったが、ポートレート写真ではないシンプルな装丁のジャケットだったことでそれと気づかれなかったのは幸いだった。
犯すだけ犯して家を出ていった彼は昨夜、深夜0時を回ったころに帰ってきた。後輩から急用の電話があり会ってきたのだと言っていたが、真実かどうかはわからない。仮に真実であったとして――それがいくら重要な用事であっても、股を大量の血で濡らし嘔吐物にまみれた女をそのまま放り出して出掛ける神経は、どうしても理解できなかった。
チカルは薄暗いリビングに入り、灯りをつける。こちらがベッドの上でまんじりともせず寝返りをうっているあいだにいつも通り出社したようで、食パンのカスのついた皿とコーヒーカップがダイニングテーブルに置かれたままになっていた。チカルもまたいつも通りそれらを片付け、掃除や洗濯をする。鎮痛剤を服用し、生理用ナプキンを入れたポーチをトートバッグに押し込むと、家を出た。
普段通りに生活をしていても、なにかおかしい。自分が自分でないような不思議な気持ちだった。生まれ変わったようだ、という表現もしっくりこない。
彼女は駅に着くなりトイレに向かい、個室には入らずただ手を洗った。やけに体が不潔に思えてしかたがなかった。熱いシャワーで汚れを落とし、髪を念入りに2回洗って、ボディスポンジで赤くなるまで肌をこすったというのに、それでもなお。
昨晩ソファの上で目覚めたときから、見るもの聞くもの嗅ぐもの触れるもの、すべての感覚がフィルターをかけたようにはっきりとしない。自分という存在のかたちを保つための重要ななにかを失くしてしまったように感じられた。
シュンヤとの圧倒的な力の差を思い起こすと、悔しさより先に絶望感が胸に満ちる。恐怖と痛みに屈して懇願し、蹂躙され、ぼろきれのように放置され――この苦痛と屈辱を与えてきたのは、この世でいちばん愛している人間であるという現実。どうしようもなくかなしくてやりきれない。
それでも生活は続く。いつも通り変わらぬ街並みを歩き、いつも通り多くの人とすれ違って、いつも通り電車に乗り、いつも通り仕事場に向かう。それでもひとつだけ違うのは、タビトが留守でありますようにと願っていることだ。
頼まれていた買い物をスーパーと薬局で済ませ、チカルは彼の部屋の施錠を解いた。慣れた香りが冷たい頬や髪に触れ、鼻腔をやさしくくすぐる。
「こんにちはチカルさん」
開いたリビングドアの向こうから、無邪気な笑みを浮かべたタビトが顔を出す。目を細めたキツネのようなこの愛らしい笑顔を前にすると、こちらまで心がやわらかくなるから不思議だ。
「待ってたよ。外は寒かったでしょ。さ、はやく上がって」
朝早くから仕事のはずなのに、どうしてまだいるの?チカルは舌の先まで出かかった言葉を吞み込む。事務所の都合で予定が狂っていることは、ホズミから聞いて知っている。
――今日だけは、会いたくなかった。彼女はそう胸の裡で繰り返す。
目の奥が急激に熱くなって視界が水の膜で覆われ、意思とは関係なく喉が震えてしまう。涙がこぼれないように、彼女は必死の思いで笑みを返した。それからすぐに顔を背けて、先ほどまで鈍かった感覚が戻ってくるのを感じながら、靴を脱ぎ揃える。
廊下を歩いてきたタビトがチカルの手から袋を取り、
「いつもありがとう。重いものばかりですみません」
「平気です。力には自信があるので」
今の自分にとっては強烈な皮肉だ。この余計なひとことを口にしたせいで、ひどくすさんだ気持ちになる。落ちるところまで落ちたと思っていたが、まだ底は見えずどんどん落下していくようだ。こうして愚かな自虐を繰り返して、かなしみに酩酊し、前後不覚になっていなければ、シュンヤの腕に抱かれながら舌を嚙み切ってしまうような気がした。死が頭をよぎったことに慄く一方、この衝動に殺される日がくるかもしれないことに安堵している自分がいる。力で負けて組み敷かれ歪んだ愛を浴び続けるよりも絶命する瞬間の方がずっとマシなように思う。
マミヤに恫喝されたときは痛みを受け入れる覚悟があった。彼に限らず、他人が持つ狂暴な部分と対峙する準備はできている。だが、シュンヤだけはだめだ。愛する者からの暴力はとても耐えられない。体ではなく、心が流す血と涙を、彼女は恐れた。
左耳を覆っていたガーゼを取ると、傷痕を鏡に映す。
手当する前に見たときは、大きく裂けたホールにピアスがかろうじてぶら下がっている状態だった。だが血まみれの耳を拭くためにそれを外そうとしたとき、とうとう完全に千切れて蛇の舌のようになってしまった。
斜め下に向かって5ミリほど裂けてしまっているピアスホールを鏡越しに眺めて、さてタビトになんと言おうかと考える。あんなに彼の優しさに甘えておいて、今回の経緯を説明しないのはあまりに失礼なことのように思えた。それでも正直に話すべきか否か、逡巡するばかりで答えが見つからず――小さく切った絆創膏を貼って、凄惨な状態になっている傷口を覆い隠す。
血液を洗い流し、きれいに磨いたピアスを手のひらに載せる。まぶしそうな顔をしたチカルはドレッサーの隅に置いてある小さなジュエリーボックスを引き寄せた。ベルベッドのトレイに丁寧に収めて、そっと蓋を閉じる。それから彼女は玄関に行き、シューズボックスの上に置き去りのままだったウル・ラドのCDを、自室にある本棚の目につきにくいところにしまった。
あれからシュンヤは何度か玄関を行き来したはずだが、CDの入った袋をいじられた形跡はなかった。もしアイドルのアルバムだと知られたら捨てられていただろう。彼は自分より若い男にハマるアイドルファンの中年女性を軽蔑しているし、パートナーが同類だとわかれば看過できないはずだ。透明の袋で中身は丸見えだったが、ポートレート写真ではないシンプルな装丁のジャケットだったことでそれと気づかれなかったのは幸いだった。
犯すだけ犯して家を出ていった彼は昨夜、深夜0時を回ったころに帰ってきた。後輩から急用の電話があり会ってきたのだと言っていたが、真実かどうかはわからない。仮に真実であったとして――それがいくら重要な用事であっても、股を大量の血で濡らし嘔吐物にまみれた女をそのまま放り出して出掛ける神経は、どうしても理解できなかった。
チカルは薄暗いリビングに入り、灯りをつける。こちらがベッドの上でまんじりともせず寝返りをうっているあいだにいつも通り出社したようで、食パンのカスのついた皿とコーヒーカップがダイニングテーブルに置かれたままになっていた。チカルもまたいつも通りそれらを片付け、掃除や洗濯をする。鎮痛剤を服用し、生理用ナプキンを入れたポーチをトートバッグに押し込むと、家を出た。
普段通りに生活をしていても、なにかおかしい。自分が自分でないような不思議な気持ちだった。生まれ変わったようだ、という表現もしっくりこない。
彼女は駅に着くなりトイレに向かい、個室には入らずただ手を洗った。やけに体が不潔に思えてしかたがなかった。熱いシャワーで汚れを落とし、髪を念入りに2回洗って、ボディスポンジで赤くなるまで肌をこすったというのに、それでもなお。
昨晩ソファの上で目覚めたときから、見るもの聞くもの嗅ぐもの触れるもの、すべての感覚がフィルターをかけたようにはっきりとしない。自分という存在のかたちを保つための重要ななにかを失くしてしまったように感じられた。
シュンヤとの圧倒的な力の差を思い起こすと、悔しさより先に絶望感が胸に満ちる。恐怖と痛みに屈して懇願し、蹂躙され、ぼろきれのように放置され――この苦痛と屈辱を与えてきたのは、この世でいちばん愛している人間であるという現実。どうしようもなくかなしくてやりきれない。
それでも生活は続く。いつも通り変わらぬ街並みを歩き、いつも通り多くの人とすれ違って、いつも通り電車に乗り、いつも通り仕事場に向かう。それでもひとつだけ違うのは、タビトが留守でありますようにと願っていることだ。
頼まれていた買い物をスーパーと薬局で済ませ、チカルは彼の部屋の施錠を解いた。慣れた香りが冷たい頬や髪に触れ、鼻腔をやさしくくすぐる。
「こんにちはチカルさん」
開いたリビングドアの向こうから、無邪気な笑みを浮かべたタビトが顔を出す。目を細めたキツネのようなこの愛らしい笑顔を前にすると、こちらまで心がやわらかくなるから不思議だ。
「待ってたよ。外は寒かったでしょ。さ、はやく上がって」
朝早くから仕事のはずなのに、どうしてまだいるの?チカルは舌の先まで出かかった言葉を吞み込む。事務所の都合で予定が狂っていることは、ホズミから聞いて知っている。
――今日だけは、会いたくなかった。彼女はそう胸の裡で繰り返す。
目の奥が急激に熱くなって視界が水の膜で覆われ、意思とは関係なく喉が震えてしまう。涙がこぼれないように、彼女は必死の思いで笑みを返した。それからすぐに顔を背けて、先ほどまで鈍かった感覚が戻ってくるのを感じながら、靴を脱ぎ揃える。
廊下を歩いてきたタビトがチカルの手から袋を取り、
「いつもありがとう。重いものばかりですみません」
「平気です。力には自信があるので」
今の自分にとっては強烈な皮肉だ。この余計なひとことを口にしたせいで、ひどくすさんだ気持ちになる。落ちるところまで落ちたと思っていたが、まだ底は見えずどんどん落下していくようだ。こうして愚かな自虐を繰り返して、かなしみに酩酊し、前後不覚になっていなければ、シュンヤの腕に抱かれながら舌を嚙み切ってしまうような気がした。死が頭をよぎったことに慄く一方、この衝動に殺される日がくるかもしれないことに安堵している自分がいる。力で負けて組み敷かれ歪んだ愛を浴び続けるよりも絶命する瞬間の方がずっとマシなように思う。
マミヤに恫喝されたときは痛みを受け入れる覚悟があった。彼に限らず、他人が持つ狂暴な部分と対峙する準備はできている。だが、シュンヤだけはだめだ。愛する者からの暴力はとても耐えられない。体ではなく、心が流す血と涙を、彼女は恐れた。
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