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本編
第80話
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ステンレスバットに取り出しておいた牛肉を鍋に戻し、ローレルやトマトペーストを入れていよいよ煮込む段階に入る。タイマーをかけると、ふたりは一息ついた。
「本当に手際がいいですね……」
「そうかな。久しぶりだから要領悪い気が……」言いかけてから、「あ!米炊くの忘れた!」
叫んだタビトは大慌てでボウルを取り出し、米櫃を開ける。
急いで米を研ぎながらリビングの時計を見て、
「もうこんな時間か……20時くらいまでって言ったけど、食事の時間入れたらもっと遅くなっちゃうかも」
「大丈夫です」
「ごめんね。遅くなると電車じゃ危ないからタクシー呼ぶよ」
チカルが断ろうとするのを手のアクションで遮って、「俺が誘ったんだし、タクシー料金は出すから」
ここまでの扱いをされたことがないチカルはどうしたらいいのかわからない。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、彼は話題を戻す。
「ひとりでやってたらもっと時間かかってたよ。一緒に作ってくれてありがと」
「いえ……野菜を切ることしかできませんでしたし、たいしてお役に立てず……」
消え入りそうな声で言うと、前髪の下の薄いまぶたを伏せる。
炊飯器のスイッチを入れて振り向いたタビトは、タオルで手を拭いながら訊ねた。
「チカルさんは、家での食事ってどうしてるの?一緒に暮らしてる人が作っ……」
そこまで言って唇を真一文字に結び、彼はすぐに後悔した。しかし一度口から出た言葉はもう回収できない。
チカルの私生活には、蕎麦屋の前で見たあの男の影がある。聞きたいような聞きたくないような、複雑な気持ちだった。
「――外食か、デリバリー…あとは、お惣菜。レトルトとか冷凍食品も多いです」
チカルは彼から視線を外し、細い声で答える。
こういったものに頼るようになった背景には、シュンヤの言動があった。
“まずい”――彼から何度この言葉を聞いたことだろう。自分で食べてみるとそれほど酷い味にも思えないのだが――シュンヤの性格を熟知している彼女は、傷つけようとして嘘を言っているのではないことがわかっていた。彼は正直で歯に衣着せぬ物言いをする男であるから、料理が口に合わないときは「まずい」とはっきり口にする。これは純粋な感想でありそこに悪意はない。それ故にやはり、まずいのは事実なのだ。
東京に来て初めて迎えたシュンヤの誕生日、手料理を振る舞ったが喜んでもらえなかったことを、チカルは思い出す。険しい顔をし途中で食事を切り上げたシュンヤに「もう作らなくていい」と言われ、心に大きなひびが入ってしまった。
それを修復するために努力を重ねたが、未だに「おいしい」という言葉は聞けていない。高級料亭での会食や一流のシェフがいるレストランで食事をすることが多くなり、すっかり肥えた彼の舌を満足させることは、もう無理なのかもしれない。
得も言われぬかなしみが押し寄せてくるのを感じながら、彼女は続けた。
「私、本当に料理を作るのが下手なんです……。毎度毎度まずいものを出すのはパートナーに申し訳ないから……――割高にはなりますけれど、出来合いのものにずいぶん助けられています」
「まずいって……相手にそう言われてるの?それとも自分で思ってるだけ?」
「――彼は正直なひとなので……。悪気はないんです」
明言こそしないが、作ることを諦めるくらいのことを言われているのだろうとタビトは思った。その男の無神経さを庇っているようなチカルを見てショックを受けると共に、とてつもない怒りが込み上げてくるのを感じる。奥歯をきつく噛んだままタビトが黙っていると、彼女はめずらしく自嘲気味に言った。
「自分で食べてみてもどこが悪いのかわからなくて……なにを食べてもおいしいと感じるから、きっと味覚が鈍いんです」
「そっか。……それなら、」彼女を傷つけた男に対する怒りを押し隠し、そうつぶやいたタビトはことさらに明るい声で続ける。「俺もチカルさんと同じで味覚が鈍い方かも。腐ってるもの以外はおいしく食べられるもん」
視線を上げたチカルにいたずらっぽく微笑む。
「なんでもおいしいと思えるなんて、ラッキーだね俺たち」
チカルは眼鏡の奥の双眸を見開き、タビトを見つめた。やがてかたく閉ざしていた唇をほどいて、
「――そうね……私もそう思うわ」
穏やかな声で短く口にした。薄い水の膜が張ったその瞳には細かい光が散り、揺らめいている。
「共通点があって嬉しいな」彼は白い歯をわずかにのぞかせて微笑む。「今日はおいしいもの食べていっぱい話して、楽しい時間を過ごそうね。チカルさん」
返すべき言葉を失ったまま、チカルはそっと頷いて、マスクの下で息を吸い込んだ。
喉が震える。笑みを返そうとしたが、込み上げてくる感情に胸が詰まってうまくできない。見上げた夜空にまたたいていた星屑が、突然わが身に向かって降り注いできたような錯覚を覚える。その光の雨ときたら――なんとまばゆく美しいことか。目がくらむようだ。
タイマーの音が鳴る。そのけたたましい音に彼は眉を下げて笑い、
「さ、あとちょっとでできるよ。おなかすいたよね」
カレールーを箱から取り出す。
その横でチカルはカトラリーや皿を用意しながら、また無意識に下唇を噛んでいる。
なんとも表現できないこの想いを、彼女はよく知っている。胸の奥が絞られる感覚に戸惑いながら、彼の横顔を仰ぎ見た。
これまでの彼の言動には驚かされてばかりだ。自分の知っているものからあまりにかけ離れている。世代の違いと言ったら簡単だが、それ以外のなにか、いわば魂の清らかさのようなものを、チカルは感じていた。
「食事するあいだ、なにか音楽をかけようか。好きなジャンルあります?」
彼は音楽を生業としていることをまるで忘れているかのようにさらりと言う。こういうとき仕事の話をしたり自身の曲を聞かせようとならないのがこの青年の奥ゆかしいところだ――チカルはマスクの下で静かに笑った。
「ウル・ラドの曲を聞かせてもらえませんか」
彼は鍋を掻き混ぜている手を止めて、顔を真っ赤にする。
「や……、でもチカルさん、興味ないでしょ?」
「あります」
「もー、嘘ばっかり……からかわないでよ」
タビトは耳まで赤くして叫ぶように言葉を継ぐ。
「ジャズにしましょ!ね?」
「なぜ?」
「俺が落ち着かないよ」
鍋掻き混ぜてて、と言い残した彼はそそくさとキッチンを出て行く。
しばらくしてリビングのスピーカーからジャズが低く流れてきた。
「聞きたかったのに……」
小走りで戻ってきたタビトに言うと、彼は顔を両手で覆っていやいやとするように左右に振る。からかわれているとまだ思っているらしい。
「チカルさんってけっこう意地悪なんだな……」
たじたじになりながら溜息をつくと、彼女から目を逸らして炊飯器の蓋を開ける。誤解されたまま会話を終わらせるのが嫌で、チカルは真摯なまなざしを向けて言った。
「本当に聞きたかったんです」
これは本心だった。
自分と真逆の価値観を持ち、想像しているのとは違う反応をするこの青年に興味がある。現に今も、丸の内の本屋で衝動的に買ってしまったあの雑誌は捨てられていない。
「そこまで言うなら来月リリースする新曲、買ってよね」
炊きたての米をよそいつつ、唇を尖らせぶっきらぼうに言う。
「来月……」彼女は白い湯気の立つ平皿を受け取り、「わかりました。買います」
「えっ」
タビトはぎょっとして、しゃもじを持ったまま体ごとチカルに振り向いた。
「あ、あのっ……冗談だよ!」
疑問符がチカルの頭の上に浮いているのが見えた気がして、タビトは捲し立てるように続けた。
「無理して買わないで!絶対!」
「無理などしておりません。私が興味を持つことが、そんなに意外ですか?」
「そういうことじゃ、……」
もごもご言いながら、冷蔵庫を開ける。『意外ですか?』以前同じことを、彼女に言った気がする。
パックサラダの封を切るのを見たチカルが食器棚から小ぶりのラウンドボウルを取った。ふたつ並べられたそれにサラダを盛り付けながらタビトは、神妙な顔で言葉を継いだ。
「意外とかじゃなくて……なんとなく、気恥ずかしいっていうか」
上気した頬に手の甲を当てて冷やしながら、横目でチカルを見遣る。興味を持ってくれたということは嬉しいがしかしそれは――ファンに対して甘い言葉を口にし、恋人のように接する姿を見られてしまうかもしれないということでもある。彼はそれに酷く抵抗を感じていた。
黙ってしまったタビトを前に、チカルの胸に罪悪感が芽生える。自分の発言が、まさか彼をここまで動揺させてしまうとは思っていなかったのだった。
「困らせてごめんなさい。若い方のコンテンツに、私のような年齢の女は相応しくないのはわかっているけれど……でも、……」
ずっと思っていたことだが――言葉にしたとたん惨めになり、彼女は視線を上げられなくなってしまう。
「君の歌声を聴いてみたかったの……」
タビトは絶句した。
伏せられた彼女の長いまつげが濡れている気がして、思わず一歩踏み出す。指先でそっと肩口に触れると、チカルはゆっくり顔を上げた。彼女は泣いてこそいなかったが、そのまなざしは憂いに満ちていた。
「ちょっと待ってて」
彼は再びキッチンを抜け出し、なにを思ったか自室へ駆けていく。
「これあげる」戻ってきた彼はウル・ラドのCDを複数枚差し出し、「――あんな言い方してごめんね。気恥ずかしかっただけで、聴きたいと思ってくれたこと自体はすっごく嬉しかったんだよ」
あまりに真剣な顔で瞳の奥を覗き込まれ、胸を衝かれたチカルは声も出ない。
「親戚とか友達とか……知り合いに配る用にたくさん用意したやつだから。受け取って」
そう一息に言った。チカルはためらいながらも、差し出されたそれに指を伸ばす。
――なぜ興味を持ってくれたのか、それを聞く勇気はタビトにはない。
ふたりの距離は着実に近づいているのに、どうしようもなく不安だった。上目遣いでそっと見つめると、視線を受けた彼女は眉を下げ、目を細める。
「今日は……なんだかお互い、調子が狂いますね」
低く優しい声が、せつなく鼓膜を打つ。
「そうだね。笑っちゃうくらい……」
多少ぎこちないところはあるが、彼らはそれを居心地悪く感じているわけではなかった。ただ、薄いガラス越しに互いの体温を確かめ合おうとしているようなもどかしさがある。
「――おしゃべりはこの辺にして、冷めないうちに食べましょうか」
静寂のなかに響いたチカルの言葉に、微笑みを返したタビトはこくりと頷く。
「本当に手際がいいですね……」
「そうかな。久しぶりだから要領悪い気が……」言いかけてから、「あ!米炊くの忘れた!」
叫んだタビトは大慌てでボウルを取り出し、米櫃を開ける。
急いで米を研ぎながらリビングの時計を見て、
「もうこんな時間か……20時くらいまでって言ったけど、食事の時間入れたらもっと遅くなっちゃうかも」
「大丈夫です」
「ごめんね。遅くなると電車じゃ危ないからタクシー呼ぶよ」
チカルが断ろうとするのを手のアクションで遮って、「俺が誘ったんだし、タクシー料金は出すから」
ここまでの扱いをされたことがないチカルはどうしたらいいのかわからない。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、彼は話題を戻す。
「ひとりでやってたらもっと時間かかってたよ。一緒に作ってくれてありがと」
「いえ……野菜を切ることしかできませんでしたし、たいしてお役に立てず……」
消え入りそうな声で言うと、前髪の下の薄いまぶたを伏せる。
炊飯器のスイッチを入れて振り向いたタビトは、タオルで手を拭いながら訊ねた。
「チカルさんは、家での食事ってどうしてるの?一緒に暮らしてる人が作っ……」
そこまで言って唇を真一文字に結び、彼はすぐに後悔した。しかし一度口から出た言葉はもう回収できない。
チカルの私生活には、蕎麦屋の前で見たあの男の影がある。聞きたいような聞きたくないような、複雑な気持ちだった。
「――外食か、デリバリー…あとは、お惣菜。レトルトとか冷凍食品も多いです」
チカルは彼から視線を外し、細い声で答える。
こういったものに頼るようになった背景には、シュンヤの言動があった。
“まずい”――彼から何度この言葉を聞いたことだろう。自分で食べてみるとそれほど酷い味にも思えないのだが――シュンヤの性格を熟知している彼女は、傷つけようとして嘘を言っているのではないことがわかっていた。彼は正直で歯に衣着せぬ物言いをする男であるから、料理が口に合わないときは「まずい」とはっきり口にする。これは純粋な感想でありそこに悪意はない。それ故にやはり、まずいのは事実なのだ。
東京に来て初めて迎えたシュンヤの誕生日、手料理を振る舞ったが喜んでもらえなかったことを、チカルは思い出す。険しい顔をし途中で食事を切り上げたシュンヤに「もう作らなくていい」と言われ、心に大きなひびが入ってしまった。
それを修復するために努力を重ねたが、未だに「おいしい」という言葉は聞けていない。高級料亭での会食や一流のシェフがいるレストランで食事をすることが多くなり、すっかり肥えた彼の舌を満足させることは、もう無理なのかもしれない。
得も言われぬかなしみが押し寄せてくるのを感じながら、彼女は続けた。
「私、本当に料理を作るのが下手なんです……。毎度毎度まずいものを出すのはパートナーに申し訳ないから……――割高にはなりますけれど、出来合いのものにずいぶん助けられています」
「まずいって……相手にそう言われてるの?それとも自分で思ってるだけ?」
「――彼は正直なひとなので……。悪気はないんです」
明言こそしないが、作ることを諦めるくらいのことを言われているのだろうとタビトは思った。その男の無神経さを庇っているようなチカルを見てショックを受けると共に、とてつもない怒りが込み上げてくるのを感じる。奥歯をきつく噛んだままタビトが黙っていると、彼女はめずらしく自嘲気味に言った。
「自分で食べてみてもどこが悪いのかわからなくて……なにを食べてもおいしいと感じるから、きっと味覚が鈍いんです」
「そっか。……それなら、」彼女を傷つけた男に対する怒りを押し隠し、そうつぶやいたタビトはことさらに明るい声で続ける。「俺もチカルさんと同じで味覚が鈍い方かも。腐ってるもの以外はおいしく食べられるもん」
視線を上げたチカルにいたずらっぽく微笑む。
「なんでもおいしいと思えるなんて、ラッキーだね俺たち」
チカルは眼鏡の奥の双眸を見開き、タビトを見つめた。やがてかたく閉ざしていた唇をほどいて、
「――そうね……私もそう思うわ」
穏やかな声で短く口にした。薄い水の膜が張ったその瞳には細かい光が散り、揺らめいている。
「共通点があって嬉しいな」彼は白い歯をわずかにのぞかせて微笑む。「今日はおいしいもの食べていっぱい話して、楽しい時間を過ごそうね。チカルさん」
返すべき言葉を失ったまま、チカルはそっと頷いて、マスクの下で息を吸い込んだ。
喉が震える。笑みを返そうとしたが、込み上げてくる感情に胸が詰まってうまくできない。見上げた夜空にまたたいていた星屑が、突然わが身に向かって降り注いできたような錯覚を覚える。その光の雨ときたら――なんとまばゆく美しいことか。目がくらむようだ。
タイマーの音が鳴る。そのけたたましい音に彼は眉を下げて笑い、
「さ、あとちょっとでできるよ。おなかすいたよね」
カレールーを箱から取り出す。
その横でチカルはカトラリーや皿を用意しながら、また無意識に下唇を噛んでいる。
なんとも表現できないこの想いを、彼女はよく知っている。胸の奥が絞られる感覚に戸惑いながら、彼の横顔を仰ぎ見た。
これまでの彼の言動には驚かされてばかりだ。自分の知っているものからあまりにかけ離れている。世代の違いと言ったら簡単だが、それ以外のなにか、いわば魂の清らかさのようなものを、チカルは感じていた。
「食事するあいだ、なにか音楽をかけようか。好きなジャンルあります?」
彼は音楽を生業としていることをまるで忘れているかのようにさらりと言う。こういうとき仕事の話をしたり自身の曲を聞かせようとならないのがこの青年の奥ゆかしいところだ――チカルはマスクの下で静かに笑った。
「ウル・ラドの曲を聞かせてもらえませんか」
彼は鍋を掻き混ぜている手を止めて、顔を真っ赤にする。
「や……、でもチカルさん、興味ないでしょ?」
「あります」
「もー、嘘ばっかり……からかわないでよ」
タビトは耳まで赤くして叫ぶように言葉を継ぐ。
「ジャズにしましょ!ね?」
「なぜ?」
「俺が落ち着かないよ」
鍋掻き混ぜてて、と言い残した彼はそそくさとキッチンを出て行く。
しばらくしてリビングのスピーカーからジャズが低く流れてきた。
「聞きたかったのに……」
小走りで戻ってきたタビトに言うと、彼は顔を両手で覆っていやいやとするように左右に振る。からかわれているとまだ思っているらしい。
「チカルさんってけっこう意地悪なんだな……」
たじたじになりながら溜息をつくと、彼女から目を逸らして炊飯器の蓋を開ける。誤解されたまま会話を終わらせるのが嫌で、チカルは真摯なまなざしを向けて言った。
「本当に聞きたかったんです」
これは本心だった。
自分と真逆の価値観を持ち、想像しているのとは違う反応をするこの青年に興味がある。現に今も、丸の内の本屋で衝動的に買ってしまったあの雑誌は捨てられていない。
「そこまで言うなら来月リリースする新曲、買ってよね」
炊きたての米をよそいつつ、唇を尖らせぶっきらぼうに言う。
「来月……」彼女は白い湯気の立つ平皿を受け取り、「わかりました。買います」
「えっ」
タビトはぎょっとして、しゃもじを持ったまま体ごとチカルに振り向いた。
「あ、あのっ……冗談だよ!」
疑問符がチカルの頭の上に浮いているのが見えた気がして、タビトは捲し立てるように続けた。
「無理して買わないで!絶対!」
「無理などしておりません。私が興味を持つことが、そんなに意外ですか?」
「そういうことじゃ、……」
もごもご言いながら、冷蔵庫を開ける。『意外ですか?』以前同じことを、彼女に言った気がする。
パックサラダの封を切るのを見たチカルが食器棚から小ぶりのラウンドボウルを取った。ふたつ並べられたそれにサラダを盛り付けながらタビトは、神妙な顔で言葉を継いだ。
「意外とかじゃなくて……なんとなく、気恥ずかしいっていうか」
上気した頬に手の甲を当てて冷やしながら、横目でチカルを見遣る。興味を持ってくれたということは嬉しいがしかしそれは――ファンに対して甘い言葉を口にし、恋人のように接する姿を見られてしまうかもしれないということでもある。彼はそれに酷く抵抗を感じていた。
黙ってしまったタビトを前に、チカルの胸に罪悪感が芽生える。自分の発言が、まさか彼をここまで動揺させてしまうとは思っていなかったのだった。
「困らせてごめんなさい。若い方のコンテンツに、私のような年齢の女は相応しくないのはわかっているけれど……でも、……」
ずっと思っていたことだが――言葉にしたとたん惨めになり、彼女は視線を上げられなくなってしまう。
「君の歌声を聴いてみたかったの……」
タビトは絶句した。
伏せられた彼女の長いまつげが濡れている気がして、思わず一歩踏み出す。指先でそっと肩口に触れると、チカルはゆっくり顔を上げた。彼女は泣いてこそいなかったが、そのまなざしは憂いに満ちていた。
「ちょっと待ってて」
彼は再びキッチンを抜け出し、なにを思ったか自室へ駆けていく。
「これあげる」戻ってきた彼はウル・ラドのCDを複数枚差し出し、「――あんな言い方してごめんね。気恥ずかしかっただけで、聴きたいと思ってくれたこと自体はすっごく嬉しかったんだよ」
あまりに真剣な顔で瞳の奥を覗き込まれ、胸を衝かれたチカルは声も出ない。
「親戚とか友達とか……知り合いに配る用にたくさん用意したやつだから。受け取って」
そう一息に言った。チカルはためらいながらも、差し出されたそれに指を伸ばす。
――なぜ興味を持ってくれたのか、それを聞く勇気はタビトにはない。
ふたりの距離は着実に近づいているのに、どうしようもなく不安だった。上目遣いでそっと見つめると、視線を受けた彼女は眉を下げ、目を細める。
「今日は……なんだかお互い、調子が狂いますね」
低く優しい声が、せつなく鼓膜を打つ。
「そうだね。笑っちゃうくらい……」
多少ぎこちないところはあるが、彼らはそれを居心地悪く感じているわけではなかった。ただ、薄いガラス越しに互いの体温を確かめ合おうとしているようなもどかしさがある。
「――おしゃべりはこの辺にして、冷めないうちに食べましょうか」
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