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本編
第57話
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道場を閉めて、3人は凍える夜道を歩いた。
ナルカミはもうひとりの事務員であるマミヤも誘ったらしい。場所は道場の近くの小料理屋に決まり、彼は席を取っておくと言って先に向かったという。
店ののれんをくぐると、醤油と出汁の匂いに迎えられる。時刻は20時過ぎ、ほぼ満席だ。仕事帰りのサラリーマンが圧倒的に多い中、マミヤの赤い髪と蛍光色のパーカーが際立つ。
「あっ、ナルカミせんせー!こっちこっち!」
こちらに気づいた彼は、満面の笑みで手招きする。
マミヤは門下生であり、フルタイムで働く事務員でもある。生徒が帰ったあと、ナルカミに稽古をつけてもらうようになって一年。先日昇級試験があり二級を取得した。
もともとはキックボクシングの選手であり、大学生時代には全日本選手権でチャンピオンになるほどの実力の持ち主として存在を知らしめていたが、素行が悪く周りとのトラブルが絶えなかったため手の付けられない荒くれ者としても有名だった。2年の頃に空手部主将と小競り合いになって相手の鼻を折り、主将の取り巻き数人も負傷させるという事件を起こしている。
有能な選手であったため多少のトラブルには目を瞑っていた大学側もこの一件でついにしびれを切らし、マミヤをボクシング部から破門――先に喧嘩を仕掛けたのは主将の方で、しかも空手部5人に対しマミヤ1人という状況でもあったことから一部では同情の声も上がったが復帰は叶わなかった。
目標を失った彼は大学を中退。それから更に荒れた生活を送っていたが、ナルカミと出会ったことで人が変わったように大人しくなったという。
「待ってたんだけどみんな遅いんだもん、先に飲み始めちゃいましたよお」
靴を脱いで座敷に上がってきた3人を横目に見て、マミヤは鶏軟骨のからあげを口に放り込む。
「席に着くなり注文するおまえの姿が見えるようだよ」ナルカミは上着を脱ぎつつ言って、「とりあえずみんなビールでいいか?チカルさん、遠慮しないでなんでも好きなもの注文しな」
チカルは頷く。マミヤがメニュー表を取って彼女に手渡すと、隣に座ったコハラも一緒に覗き込む。
「つくね食べたいな。あとお刺身の盛り合わせと、たこわさ。チカルちゃんは?」
「茄子の揚げびたしと、牛すじと牛蒡の煮込み……」
「アジフライもうまそうだぞ。食うか?」
「好き!最高!」
「おまえじゃなくてチカルさんに聞いてんの」
ナルカミは笑い、マミヤを軽く小突く。
店員がビールを持ってやって来る。各々好き勝手に注文し、ジョッキを上げて乾杯した。
「誕生日おめでとう!」
チカルは照れたように笑って、冷えたビールを口に含む。
「何歳になったの?」
さらっと聞いてきたのはマミヤだ。
「39になりました」
焼き鳥の串を歯で噛んでぶらぶらさせながら、彼は目を丸くする。
「まだ30いくかいかないかくらいかと思ってたわ。ナルカミせんせーとあんま変わんないんすね」
「変わるだろ。俺47だぜ」
「そうなの?せんせーもけっこうオジサンじゃん」
串を揺らしながら言うと、ナルカミはそれを引き抜いて「行儀が悪いぞ」と咎める。まるで親と子だ。
「確かナルカミ先生とチカルちゃんは同じ村で育ったのよね。年齢が離れてるけど、お互いのことは知ってたの?」
「もちろん。チカルさんが初めて道場に来た日のことよく覚えてるよ」彼は目元に笑い皺を刻んでチカルを見つめ、「お父さんに抱っこで連れられてきて……降ろそうとしても首にしがみついて大泣きしてたな。覚えてるか?」
「――いいえ」
彼女は頬をわずかに染め、ジョッキに顔を埋めるようにしてビールを飲む。
大泣きしたという話は、当時その場にいた大人たちからさんざん聞かされたので知っていた。故郷に帰ると今でも話の種だ。
泣いていたのは父に無理やり連れてこられたからだと多くの人が思い込んでいるが、それは事実ではない。幼馴染のシュンヤと同じことがしたいがために合気道の教室に通いたいと言い出したのはチカル本人であった。自分で望んでおいて、いざとなったら足が竦んでしまったというなんとも情けない話なのだ。
その場に居合わせた者たちから話を聞いただけで当時の事はまったく記憶にないが、感じたことのない緊張感に怖気づいてしまったのだろうと彼女は想像する。実際、指導員になってからそういう子どもを何人も見てきた。
幼い自分のことは情けなく恥に感じるが、他人の子に対しては共感しかない。その気持ちわかるよ、と何度も頷いてしまう。道場の醸し出す独特の空気感は、鍛錬する覚悟の決まり切っていない者を圧倒してしまうのだ。
「あんなに泣き虫だったチカルさんも今や銀湾会トップの座に一番近いと言われるまでになった。つい一昨日もヤスケ先生から恨み節の電話が来たよ。『チカルが後継ぎになってくれさえすれば』ってさ」
「本部の後継ぎ問題ってまだどうなるかわからないの?」
「ああ。ヤスケ先生の息子さんたちは3人とも継がないというし、孫のシュンヤは二段にもならないうちに辞めちまったからな。門下生の誰かを師範として招いて、道場の経営自体は身内にってことで親戚を当たってるらしいがどうなるか……」
「よくわかんねーけど、ナルカミせんせーが後継ぎになればいいじゃん」
「おまえなあ……そんなに簡単じゃないぞ。本部の一員、しかもトップとして陣頭指揮を執るっていうのは」
「もしかしたらチカルちゃんの気が変わってさあ、後を継ぎたいって言うかもよ。後輩が自分より偉くなるとか、悔しくねーの?」
「たとえチカルさんが自分を追い抜いていったとしても、そういう感情にはならないね」
「かっこつけちゃって」
嘲笑を口元に浮かべ、マミヤはテーブルのスマホを覗き込む。ソーシャルゲームの画面が賑やかに光っている。飲みの席でもゲームをやめない彼を苦々しい顔で見ていたが、やがてナルカミはチカルに視線を向けた。
「ところでシュンヤは元気か?」
ナルカミはもうひとりの事務員であるマミヤも誘ったらしい。場所は道場の近くの小料理屋に決まり、彼は席を取っておくと言って先に向かったという。
店ののれんをくぐると、醤油と出汁の匂いに迎えられる。時刻は20時過ぎ、ほぼ満席だ。仕事帰りのサラリーマンが圧倒的に多い中、マミヤの赤い髪と蛍光色のパーカーが際立つ。
「あっ、ナルカミせんせー!こっちこっち!」
こちらに気づいた彼は、満面の笑みで手招きする。
マミヤは門下生であり、フルタイムで働く事務員でもある。生徒が帰ったあと、ナルカミに稽古をつけてもらうようになって一年。先日昇級試験があり二級を取得した。
もともとはキックボクシングの選手であり、大学生時代には全日本選手権でチャンピオンになるほどの実力の持ち主として存在を知らしめていたが、素行が悪く周りとのトラブルが絶えなかったため手の付けられない荒くれ者としても有名だった。2年の頃に空手部主将と小競り合いになって相手の鼻を折り、主将の取り巻き数人も負傷させるという事件を起こしている。
有能な選手であったため多少のトラブルには目を瞑っていた大学側もこの一件でついにしびれを切らし、マミヤをボクシング部から破門――先に喧嘩を仕掛けたのは主将の方で、しかも空手部5人に対しマミヤ1人という状況でもあったことから一部では同情の声も上がったが復帰は叶わなかった。
目標を失った彼は大学を中退。それから更に荒れた生活を送っていたが、ナルカミと出会ったことで人が変わったように大人しくなったという。
「待ってたんだけどみんな遅いんだもん、先に飲み始めちゃいましたよお」
靴を脱いで座敷に上がってきた3人を横目に見て、マミヤは鶏軟骨のからあげを口に放り込む。
「席に着くなり注文するおまえの姿が見えるようだよ」ナルカミは上着を脱ぎつつ言って、「とりあえずみんなビールでいいか?チカルさん、遠慮しないでなんでも好きなもの注文しな」
チカルは頷く。マミヤがメニュー表を取って彼女に手渡すと、隣に座ったコハラも一緒に覗き込む。
「つくね食べたいな。あとお刺身の盛り合わせと、たこわさ。チカルちゃんは?」
「茄子の揚げびたしと、牛すじと牛蒡の煮込み……」
「アジフライもうまそうだぞ。食うか?」
「好き!最高!」
「おまえじゃなくてチカルさんに聞いてんの」
ナルカミは笑い、マミヤを軽く小突く。
店員がビールを持ってやって来る。各々好き勝手に注文し、ジョッキを上げて乾杯した。
「誕生日おめでとう!」
チカルは照れたように笑って、冷えたビールを口に含む。
「何歳になったの?」
さらっと聞いてきたのはマミヤだ。
「39になりました」
焼き鳥の串を歯で噛んでぶらぶらさせながら、彼は目を丸くする。
「まだ30いくかいかないかくらいかと思ってたわ。ナルカミせんせーとあんま変わんないんすね」
「変わるだろ。俺47だぜ」
「そうなの?せんせーもけっこうオジサンじゃん」
串を揺らしながら言うと、ナルカミはそれを引き抜いて「行儀が悪いぞ」と咎める。まるで親と子だ。
「確かナルカミ先生とチカルちゃんは同じ村で育ったのよね。年齢が離れてるけど、お互いのことは知ってたの?」
「もちろん。チカルさんが初めて道場に来た日のことよく覚えてるよ」彼は目元に笑い皺を刻んでチカルを見つめ、「お父さんに抱っこで連れられてきて……降ろそうとしても首にしがみついて大泣きしてたな。覚えてるか?」
「――いいえ」
彼女は頬をわずかに染め、ジョッキに顔を埋めるようにしてビールを飲む。
大泣きしたという話は、当時その場にいた大人たちからさんざん聞かされたので知っていた。故郷に帰ると今でも話の種だ。
泣いていたのは父に無理やり連れてこられたからだと多くの人が思い込んでいるが、それは事実ではない。幼馴染のシュンヤと同じことがしたいがために合気道の教室に通いたいと言い出したのはチカル本人であった。自分で望んでおいて、いざとなったら足が竦んでしまったというなんとも情けない話なのだ。
その場に居合わせた者たちから話を聞いただけで当時の事はまったく記憶にないが、感じたことのない緊張感に怖気づいてしまったのだろうと彼女は想像する。実際、指導員になってからそういう子どもを何人も見てきた。
幼い自分のことは情けなく恥に感じるが、他人の子に対しては共感しかない。その気持ちわかるよ、と何度も頷いてしまう。道場の醸し出す独特の空気感は、鍛錬する覚悟の決まり切っていない者を圧倒してしまうのだ。
「あんなに泣き虫だったチカルさんも今や銀湾会トップの座に一番近いと言われるまでになった。つい一昨日もヤスケ先生から恨み節の電話が来たよ。『チカルが後継ぎになってくれさえすれば』ってさ」
「本部の後継ぎ問題ってまだどうなるかわからないの?」
「ああ。ヤスケ先生の息子さんたちは3人とも継がないというし、孫のシュンヤは二段にもならないうちに辞めちまったからな。門下生の誰かを師範として招いて、道場の経営自体は身内にってことで親戚を当たってるらしいがどうなるか……」
「よくわかんねーけど、ナルカミせんせーが後継ぎになればいいじゃん」
「おまえなあ……そんなに簡単じゃないぞ。本部の一員、しかもトップとして陣頭指揮を執るっていうのは」
「もしかしたらチカルちゃんの気が変わってさあ、後を継ぎたいって言うかもよ。後輩が自分より偉くなるとか、悔しくねーの?」
「たとえチカルさんが自分を追い抜いていったとしても、そういう感情にはならないね」
「かっこつけちゃって」
嘲笑を口元に浮かべ、マミヤはテーブルのスマホを覗き込む。ソーシャルゲームの画面が賑やかに光っている。飲みの席でもゲームをやめない彼を苦々しい顔で見ていたが、やがてナルカミはチカルに視線を向けた。
「ところでシュンヤは元気か?」
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