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本編
第53話
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午前4時。いつもは静かな時間帯だが、今朝はキッチンが騒がしい。いろいろな音と匂いに溢れている。
髪を無造作に束ねたチカルはデニム生地のエプロンを身に着け、オムレツ作りに苦戦していた。こうして朝キッチンに立って料理するのは本当に久しぶりだ。基本的に朝食は各々のタイミングで食べるためシュンヤの食事を用意することはほとんどなく、チカル自身はいつもトーストとヨーグルトのみで済ませている。オムレツなど作ろうとも思わない。
ではなぜこんなに朝早くから慣れないことをしているのか――
シュンヤは今日から研修のため大阪に出張することになっており、5時には家を出なければならない。外で朝食を食べるのかと問えば家で食べてから行くというので、まだ夜も明けきらない早朝にキッチンに立つのは大変だろうと、先日の誕生日プレゼントのお礼も兼ねて食事を用意することにしたのである。
リクエストを聞けば、トーストとオムレツ、スープ、サラダとフルーツを用意して欲しいという。卵焼きは作ったことがあるが、オムレツは初めてだ。
スマホでうまくできるコツを検索し、その通りにやったのだが――彼女は火を止め、フライパンの中のそれを見つめて肩を落とす。
事前に何度も練習しておいたため準備はスムーズであったし焦がしたりもしなかった。だがしかし……見た目が悪すぎる。これではきっとがっかりされるだろうと思いつつ、時計を見た。もう作り直している時間はなさそうだ。
身支度を終えたシュンヤが新聞を片手にリビングに入ってきた。
「うまそうな匂いだな」
オムレツを皿に移したチカルの横に立った彼は、ボウルの中で瑞々しく光っている苺を一粒ひょいと取り大きな口に放り込んだ。そして、できたての卵料理を見るなり笑みを含んだ声で言う。
「これオムレツ?スクランブルエッグじゃん」
言われると思った……チカルは胸の裡でつぶやく。自分の不器用さにがっかりしながら、トースターに食パンを入れる。
シュンヤはダイニングチェアに座り煙草の先に火を灯すと、新聞を広げた。
「メシ作るの苦手なのに、どういう風の吹き回しだよ」
「たまにはね」
オムレツの横に野菜を盛り付けながら短く答える。苺と、焼きあがったトーストも載せてシュンヤの元に運んだ。
「フォーク。あとバター」
新聞を折り畳んでテーブルに置いた彼に言われ、慌ててフォークを手渡す。バターを冷蔵庫から取り出しつつ、
「飲み物は牛乳?コーヒー?」
「オレンジジュース」
「ごめん。用意してない」
「なんだ。じゃあコーヒー」
バターとナイフをテーブルに用意し、グラスポットからコーヒーを注ぐ。てっきりブラックで飲むものと思い――カフェではいつもそうなのだ――そのままカップを差し出すと、砂糖をくれと言われた。聞けば、朝一番のコーヒーにはいつも砂糖を入れるのだという。15年以上も一緒に暮らしているのに知らなかった……それにわずかながら衝撃を受ける。
チカルは食卓には座らず、カウンターキッチンでコーヒーを飲みながらこっそりとシュンヤを窺う。
野菜をつついていたフォークの先がついにオムレツに向けられると、彼女の表情に緊張がはしった。やわらかさはおそらく合格、あとは味――頬張った彼がなにを言うかと見守っていたが、表情一つ変えない。新聞を読みながら、うまいともまずいとも言わずに黙々と口に運んでいる。
文句があればすぐに口に出す男だ。何も言わないということは、おいしいと思ってくれているのだろうか……チカルは最後の一口を食べる姿に視線を注ぎつつ苦いコーヒーを飲み干す。
「ごちそうさま」
席を立ったシュンヤに、オムレツの感想を聞こうか迷って結局やめた。きれいに平らげられたプレートだけで今日の計画は大成功だ。
奇妙な充実感に満たされながら食器をシンクに下げる。彼女はようやく自分の分の食パンをトースターに入れ、ヨーグルトの蓋を開けた。
洗面所から慌ただしく戻ってきたシュンヤは、壁の時計を見ながらジャケットを羽織る。
「そろそろ行くよ」
立ったままヨーグルトを食べているチカルに声を掛けつつ、鞄を持って廊下に出た。それを追いかけていくと、目の前の彼がいきなり振り向く。驚いて立ち止まったが衝突は免れず、彼の分厚い胸元に鼻先がぶつかった。
「どうしたの?」
鼻を押さえて訝しむチカルを黙ったまま覗き込み、彼は燦然と笑う。そして次の瞬間、目の前に紙袋を差し出してきた。眼鏡の奥の目を丸くしまじまじとそれを見ると、ブランドに疎い彼女でも知っているロゴマークが入っている。
驚いているチカルを満足そうに見て、
「誕生日おめでとう」
「え……プレゼントならもう」
受け取りつつ戸惑いの顔を向けると、シュンヤは唇を曲げて首を左右に振る。
「このあいだ出掛けたときに買ったあれじゃなくて、こっちが誕生日プレゼントってことにして。恋人への贈り物があんな安い服だなんて俺の面目丸潰れだし」
伸ばされた大きな手が、うまく言葉にできない気持ちで立ち竦むチカルの頬を包み込む。よく知った温かい手だ。
「誕生日なのに一緒にいられなくてごめんな」
シュンヤはチカルを見つめ、彼女の桃のような頬を親指でそっと撫でる。名残惜しそうに踵を返して革靴を履くと「いってきます」と明るい笑顔と共に言い、扉の向こうに消えた。
残されたチカルは、ただただ唖然とする。食パンが焼き上がった音で我に返り視線を手元に落とすと、リボンのついた紙袋からゆっくりと中身を取り出した。
香水だ。
悪い夢でも見ているような気持ちになる。彼女は青白い顔で視線を落としたまま、しばらくその場から動けずにいた。
一方そのころ、タビトは洗面脱衣室の灯りの下で盛大な溜息をついていた。深い眠りに潜り込んでいたところを、ナイトテーブルに置いたスマホの激しい振動音に叩き起こされたのだ。最悪な目覚めである。
受話口から耳に滑り込んできた声の主はアコだった。開口一番、彼女は「ランがチームから外れる」と言った。アシスタントであったハスタニがランの後釜に座り、ミツキが新たなメンバーとして加入するという。
怒りや困惑というよりも呆然とした気持ちでそれを聞きながら、タビトはミツキの姿を脳裏に浮かべた。
群衆のなかにいてもすぐにわかる、際立った容姿と不敵な笑み。彼女の自己主張の激しさにある種の狂気を感じながらも、特に警戒もせずに談笑していた自分の能天気さに今さらながらあきれてしまう。
アコはいつもの調子で淡々と話した。それがかえって痛ましく、タビトの胸を苦しくさせた。ときおり洟をすする音がし、涙の気配が伝わってきたが、彼はあえて慰めの言葉をかけず気づかぬふりをした。声でいつもどおりを装うその態度のなかに、今日撮影現場で顔を合わせる予定があるにもかかわらず電話をかけてきた理由が透けて見え、いかにもアコらしいと彼は思う。
通話を切ったあとも、不快な衝撃は消えなかった。彼は険しい顔で歯を磨きながら、先ほどの電話の内容を何度も頭のなかで反芻する。こんなにも理不尽な状況になっているのに、なにも打つ手がないだなんて。
アコがひとりで流した涙を思うと、遣る瀬無い気持ちが込み上げる。自分たちはあまりにも無力だ。
髪を無造作に束ねたチカルはデニム生地のエプロンを身に着け、オムレツ作りに苦戦していた。こうして朝キッチンに立って料理するのは本当に久しぶりだ。基本的に朝食は各々のタイミングで食べるためシュンヤの食事を用意することはほとんどなく、チカル自身はいつもトーストとヨーグルトのみで済ませている。オムレツなど作ろうとも思わない。
ではなぜこんなに朝早くから慣れないことをしているのか――
シュンヤは今日から研修のため大阪に出張することになっており、5時には家を出なければならない。外で朝食を食べるのかと問えば家で食べてから行くというので、まだ夜も明けきらない早朝にキッチンに立つのは大変だろうと、先日の誕生日プレゼントのお礼も兼ねて食事を用意することにしたのである。
リクエストを聞けば、トーストとオムレツ、スープ、サラダとフルーツを用意して欲しいという。卵焼きは作ったことがあるが、オムレツは初めてだ。
スマホでうまくできるコツを検索し、その通りにやったのだが――彼女は火を止め、フライパンの中のそれを見つめて肩を落とす。
事前に何度も練習しておいたため準備はスムーズであったし焦がしたりもしなかった。だがしかし……見た目が悪すぎる。これではきっとがっかりされるだろうと思いつつ、時計を見た。もう作り直している時間はなさそうだ。
身支度を終えたシュンヤが新聞を片手にリビングに入ってきた。
「うまそうな匂いだな」
オムレツを皿に移したチカルの横に立った彼は、ボウルの中で瑞々しく光っている苺を一粒ひょいと取り大きな口に放り込んだ。そして、できたての卵料理を見るなり笑みを含んだ声で言う。
「これオムレツ?スクランブルエッグじゃん」
言われると思った……チカルは胸の裡でつぶやく。自分の不器用さにがっかりしながら、トースターに食パンを入れる。
シュンヤはダイニングチェアに座り煙草の先に火を灯すと、新聞を広げた。
「メシ作るの苦手なのに、どういう風の吹き回しだよ」
「たまにはね」
オムレツの横に野菜を盛り付けながら短く答える。苺と、焼きあがったトーストも載せてシュンヤの元に運んだ。
「フォーク。あとバター」
新聞を折り畳んでテーブルに置いた彼に言われ、慌ててフォークを手渡す。バターを冷蔵庫から取り出しつつ、
「飲み物は牛乳?コーヒー?」
「オレンジジュース」
「ごめん。用意してない」
「なんだ。じゃあコーヒー」
バターとナイフをテーブルに用意し、グラスポットからコーヒーを注ぐ。てっきりブラックで飲むものと思い――カフェではいつもそうなのだ――そのままカップを差し出すと、砂糖をくれと言われた。聞けば、朝一番のコーヒーにはいつも砂糖を入れるのだという。15年以上も一緒に暮らしているのに知らなかった……それにわずかながら衝撃を受ける。
チカルは食卓には座らず、カウンターキッチンでコーヒーを飲みながらこっそりとシュンヤを窺う。
野菜をつついていたフォークの先がついにオムレツに向けられると、彼女の表情に緊張がはしった。やわらかさはおそらく合格、あとは味――頬張った彼がなにを言うかと見守っていたが、表情一つ変えない。新聞を読みながら、うまいともまずいとも言わずに黙々と口に運んでいる。
文句があればすぐに口に出す男だ。何も言わないということは、おいしいと思ってくれているのだろうか……チカルは最後の一口を食べる姿に視線を注ぎつつ苦いコーヒーを飲み干す。
「ごちそうさま」
席を立ったシュンヤに、オムレツの感想を聞こうか迷って結局やめた。きれいに平らげられたプレートだけで今日の計画は大成功だ。
奇妙な充実感に満たされながら食器をシンクに下げる。彼女はようやく自分の分の食パンをトースターに入れ、ヨーグルトの蓋を開けた。
洗面所から慌ただしく戻ってきたシュンヤは、壁の時計を見ながらジャケットを羽織る。
「そろそろ行くよ」
立ったままヨーグルトを食べているチカルに声を掛けつつ、鞄を持って廊下に出た。それを追いかけていくと、目の前の彼がいきなり振り向く。驚いて立ち止まったが衝突は免れず、彼の分厚い胸元に鼻先がぶつかった。
「どうしたの?」
鼻を押さえて訝しむチカルを黙ったまま覗き込み、彼は燦然と笑う。そして次の瞬間、目の前に紙袋を差し出してきた。眼鏡の奥の目を丸くしまじまじとそれを見ると、ブランドに疎い彼女でも知っているロゴマークが入っている。
驚いているチカルを満足そうに見て、
「誕生日おめでとう」
「え……プレゼントならもう」
受け取りつつ戸惑いの顔を向けると、シュンヤは唇を曲げて首を左右に振る。
「このあいだ出掛けたときに買ったあれじゃなくて、こっちが誕生日プレゼントってことにして。恋人への贈り物があんな安い服だなんて俺の面目丸潰れだし」
伸ばされた大きな手が、うまく言葉にできない気持ちで立ち竦むチカルの頬を包み込む。よく知った温かい手だ。
「誕生日なのに一緒にいられなくてごめんな」
シュンヤはチカルを見つめ、彼女の桃のような頬を親指でそっと撫でる。名残惜しそうに踵を返して革靴を履くと「いってきます」と明るい笑顔と共に言い、扉の向こうに消えた。
残されたチカルは、ただただ唖然とする。食パンが焼き上がった音で我に返り視線を手元に落とすと、リボンのついた紙袋からゆっくりと中身を取り出した。
香水だ。
悪い夢でも見ているような気持ちになる。彼女は青白い顔で視線を落としたまま、しばらくその場から動けずにいた。
一方そのころ、タビトは洗面脱衣室の灯りの下で盛大な溜息をついていた。深い眠りに潜り込んでいたところを、ナイトテーブルに置いたスマホの激しい振動音に叩き起こされたのだ。最悪な目覚めである。
受話口から耳に滑り込んできた声の主はアコだった。開口一番、彼女は「ランがチームから外れる」と言った。アシスタントであったハスタニがランの後釜に座り、ミツキが新たなメンバーとして加入するという。
怒りや困惑というよりも呆然とした気持ちでそれを聞きながら、タビトはミツキの姿を脳裏に浮かべた。
群衆のなかにいてもすぐにわかる、際立った容姿と不敵な笑み。彼女の自己主張の激しさにある種の狂気を感じながらも、特に警戒もせずに談笑していた自分の能天気さに今さらながらあきれてしまう。
アコはいつもの調子で淡々と話した。それがかえって痛ましく、タビトの胸を苦しくさせた。ときおり洟をすする音がし、涙の気配が伝わってきたが、彼はあえて慰めの言葉をかけず気づかぬふりをした。声でいつもどおりを装うその態度のなかに、今日撮影現場で顔を合わせる予定があるにもかかわらず電話をかけてきた理由が透けて見え、いかにもアコらしいと彼は思う。
通話を切ったあとも、不快な衝撃は消えなかった。彼は険しい顔で歯を磨きながら、先ほどの電話の内容を何度も頭のなかで反芻する。こんなにも理不尽な状況になっているのに、なにも打つ手がないだなんて。
アコがひとりで流した涙を思うと、遣る瀬無い気持ちが込み上げる。自分たちはあまりにも無力だ。
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