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本編
第36話
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「こっちに来ないつもりなら、それでもいいわ。私が東京に行けば済む話よ」
去年の年末、母は電話越しにそう言った。
住所を教えてないのだから来られるわけがないと高をくくっていたが――誰かが教えたのだろうか。まさかリイコはそんなことをしないと思うが、毎年彼女宛てに年賀状を出しているし、リイコの義実家の人間がこちらの住所を知ることは容易だ。
母は彼らと親しい。うまく丸め込んで聞き出した可能性は十分にある。あの人は昔から、他人の同情を買うのがうまいのだ。
シュンヤは電話に出ない。全身に冷や汗が滲み、手の震えが止まらなかった。緊張に強張る足で水たまりを気にする余裕もなく走る。雨はもうやんでいたが、暗雲が垂れ込めた空は自分の心中を表しているようだった。
シュンヤによれば「チカルの職場に挨拶に行く」と言って聞かないのだという。“教えないって粘ってたんだけど、お義母さんの機嫌が悪くなってきた。ヒステリー起こされたら黙ってんのムリかも”。彼は追加でそのメッセージを送信してきた。
シュンヤに対する態度はいつも優しく穏やかであったものの――思い通りにならないと態度を豹変させる母のことだ。最近はなかなか結婚を決めないと言って彼のことをこき下ろしていたし、怒りに任せてなにを言い出すかわからない。
自分のルールで難癖をつけてくる母に常識は通じないことを、娘であるチカルはよく知っている。もしもシュンヤを怒らせて口喧嘩にでもなったら、泥仕合になることは目に見えていた。
シュンヤも弁が立つが、勝ち目はないだろう。母の口を塞げる者は彼女の母親、つまりチカルの祖母しかいない。
母は従順なようにみえて、男たちを自分よりも格下の存在と蔑んでいるふしがある。難癖をつけられるようなことがあれば容赦なく持論を浴びせかけて戦意を喪失させ、ときには言葉巧みに被害者を装って……結果的に相手を黙らせてしまう。黙る代わりに殴ってくる男もいたが、母はさめざめと泣いて謝ったりはしなかった。顔を伏せたまま、乱れた髪がつくる陰のなかで、にたりと笑っていた。この顔がバレればただでは済まなかっただろうが、言い負かすことさえできれば殺されたっていいと思っていたのかもしれない。
ようやくホームに辿り着いたチカルは、雨粒を纏った電車に飛び乗った。
自宅の最寄り駅である中目黒までは20分。このわずかな時間をこんなにも長く感じたことはなかった。逸る気持ちで下車した彼女は、激しい鼓動を刻む心臓を服の上から押さえたまま早足で改札を抜ける。
今日は平日だ。部屋に誰もいなかったら母はいったいどうするつもりだったのだろうか。
シュンヤが代休を取ってさえいなければこんなことには――そう歯噛みするも、すぐにその考えを打ち消す。あの母がそのまま黙って帰るわけないじゃないか。でなければふたりとも働いていることを知っていて平日なんかに来るはずがない。
マンションのオートロックを解除し中に入った瞬間、人を乗せたエレベーターが閉まるのが見えた。
待ちきれず非常階段を駆け上がる。激しい呼吸のせいで乾いた喉が灼きつくように痛い。彼女は部屋のある階層の廊下に出ると、最後の力を振り絞るように走る。おぼつかない手つきで鍵を差し込み、室内に飛び込んだ。
「おかえり」
シュンヤの声が開けっ放しのリビングから聞こえた。スリッパの音がし、微笑を浮かべた彼が落ち着いた足取りでやって来る。
「思ったより早かったな」
「母さんは……?」
乱れた呼吸の合間、あえぐように訊ねたチカルにシュンヤは満面の笑顔のまま言った。
「まさかほんとに信じるなんて」
くつくつと喉で笑っている。絶句しているさまを眺めて、彼は悪びれもせずに続けた。
「嘘だよ。俺の作り話」
「――嘘?」
「おまえってほんとに、母ちゃんのことになると余裕がなくなるよな」
チカルは上がり框に膝をつく。崩れるように床に手をついた彼女を見下ろして、彼はその双眸を細める。
「あの人のことがそんなに嫌いか?」
「……今はいい、そんなことは」
頭がずきずきと痛む。額に手を当て、呻くように訊ねた。
「どうして嘘をついたの……」
「チカルがいなくてさみしかったからさ」
「は……?」
ぽっかりと口を開け、シュンヤを見上げる。間抜けな顔だとでも思ったのか、彼は失笑しつつ言う。
「責めるなよ。おまえが悪いんだぜ?前に、俺が休みのときは休みを取れって言ったのに……今日普通に仕事行くんだもん。しかも男の家に」
「――ふざけないで」
自分の瞳に厚い水の膜が張るのを感じた。見られたくなくて床に俯く。シュンヤはおもむろに指を伸ばしチカルの髪をまとめていたヘアゴムを取った。乱れ落ちた髪を頬や首筋に感じながら、彼女は血が滲むほど下唇を噛む。
「たかがアルバイトなんだから適当にやってりゃいいんだよ。おまえの代わりなんていくらでもいるだろ?俺のために休んでくれたっていいじゃん」
「私だって……責任を持ってやってる。アルバイトっていう立場に甘えるつもり、ないよ」
「甘えるつもりない?そうは見えませんけど?」嘲笑いながら続ける。「実際こんな簡単に帰って来てるじゃん。正社員じゃこうはいかないぞ」
チカルは言い返す言葉が見つからず黙り込む。怒りと失望と悔しさと、あまりに多くの感情が入り乱れて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
シュンヤは指でヘアゴムを弄びながら、もう片方の手でチカルの腕を取って立ち上がらせた。
「早くシャワー浴びてこっち来いよ」
彼女の顔を覆い隠す髪を掻き上げてやりながら言った次の瞬間、彼は動きを止めた。
「――出掛ける時に着てた服と違うな」
フードの紐を引っ張り、笑顔の消えた顔でチカルの瞳を覗き込んだ。弁明を待たず襟刳りを両手で掴んで引き寄せると、首筋周辺に鼻を擦りつける。
「嗅いだことない匂いがする」
チカルの全身に、冷たい汗が滲む。――あまりに焦っていたせいで、服を借りていたことをすっかり忘れていた。
「そもそもさ……こんな服持ってないよな?だっておまえ、フードが邪魔だって言ってこういうの買わないもん」
彼は襟刳りに込めていた力をほどき、そのままチカルの頬を両の手の平で包む。すうと細められた目は冷たい光を湛え、彼女をまっすぐに見た。
「脱げよ」
言われるがまま、チカルはゆっくりとコートを脱ぐ。シュンヤはどこまでも優しい手つきで彼女の手首を取ると、折り返してある袖口を舐めるような眼差しで見た。
「男物だよな?これ」
彼女は凍りついたように身じろぎひとつしない。
「説明しろ。チカル……」
去年の年末、母は電話越しにそう言った。
住所を教えてないのだから来られるわけがないと高をくくっていたが――誰かが教えたのだろうか。まさかリイコはそんなことをしないと思うが、毎年彼女宛てに年賀状を出しているし、リイコの義実家の人間がこちらの住所を知ることは容易だ。
母は彼らと親しい。うまく丸め込んで聞き出した可能性は十分にある。あの人は昔から、他人の同情を買うのがうまいのだ。
シュンヤは電話に出ない。全身に冷や汗が滲み、手の震えが止まらなかった。緊張に強張る足で水たまりを気にする余裕もなく走る。雨はもうやんでいたが、暗雲が垂れ込めた空は自分の心中を表しているようだった。
シュンヤによれば「チカルの職場に挨拶に行く」と言って聞かないのだという。“教えないって粘ってたんだけど、お義母さんの機嫌が悪くなってきた。ヒステリー起こされたら黙ってんのムリかも”。彼は追加でそのメッセージを送信してきた。
シュンヤに対する態度はいつも優しく穏やかであったものの――思い通りにならないと態度を豹変させる母のことだ。最近はなかなか結婚を決めないと言って彼のことをこき下ろしていたし、怒りに任せてなにを言い出すかわからない。
自分のルールで難癖をつけてくる母に常識は通じないことを、娘であるチカルはよく知っている。もしもシュンヤを怒らせて口喧嘩にでもなったら、泥仕合になることは目に見えていた。
シュンヤも弁が立つが、勝ち目はないだろう。母の口を塞げる者は彼女の母親、つまりチカルの祖母しかいない。
母は従順なようにみえて、男たちを自分よりも格下の存在と蔑んでいるふしがある。難癖をつけられるようなことがあれば容赦なく持論を浴びせかけて戦意を喪失させ、ときには言葉巧みに被害者を装って……結果的に相手を黙らせてしまう。黙る代わりに殴ってくる男もいたが、母はさめざめと泣いて謝ったりはしなかった。顔を伏せたまま、乱れた髪がつくる陰のなかで、にたりと笑っていた。この顔がバレればただでは済まなかっただろうが、言い負かすことさえできれば殺されたっていいと思っていたのかもしれない。
ようやくホームに辿り着いたチカルは、雨粒を纏った電車に飛び乗った。
自宅の最寄り駅である中目黒までは20分。このわずかな時間をこんなにも長く感じたことはなかった。逸る気持ちで下車した彼女は、激しい鼓動を刻む心臓を服の上から押さえたまま早足で改札を抜ける。
今日は平日だ。部屋に誰もいなかったら母はいったいどうするつもりだったのだろうか。
シュンヤが代休を取ってさえいなければこんなことには――そう歯噛みするも、すぐにその考えを打ち消す。あの母がそのまま黙って帰るわけないじゃないか。でなければふたりとも働いていることを知っていて平日なんかに来るはずがない。
マンションのオートロックを解除し中に入った瞬間、人を乗せたエレベーターが閉まるのが見えた。
待ちきれず非常階段を駆け上がる。激しい呼吸のせいで乾いた喉が灼きつくように痛い。彼女は部屋のある階層の廊下に出ると、最後の力を振り絞るように走る。おぼつかない手つきで鍵を差し込み、室内に飛び込んだ。
「おかえり」
シュンヤの声が開けっ放しのリビングから聞こえた。スリッパの音がし、微笑を浮かべた彼が落ち着いた足取りでやって来る。
「思ったより早かったな」
「母さんは……?」
乱れた呼吸の合間、あえぐように訊ねたチカルにシュンヤは満面の笑顔のまま言った。
「まさかほんとに信じるなんて」
くつくつと喉で笑っている。絶句しているさまを眺めて、彼は悪びれもせずに続けた。
「嘘だよ。俺の作り話」
「――嘘?」
「おまえってほんとに、母ちゃんのことになると余裕がなくなるよな」
チカルは上がり框に膝をつく。崩れるように床に手をついた彼女を見下ろして、彼はその双眸を細める。
「あの人のことがそんなに嫌いか?」
「……今はいい、そんなことは」
頭がずきずきと痛む。額に手を当て、呻くように訊ねた。
「どうして嘘をついたの……」
「チカルがいなくてさみしかったからさ」
「は……?」
ぽっかりと口を開け、シュンヤを見上げる。間抜けな顔だとでも思ったのか、彼は失笑しつつ言う。
「責めるなよ。おまえが悪いんだぜ?前に、俺が休みのときは休みを取れって言ったのに……今日普通に仕事行くんだもん。しかも男の家に」
「――ふざけないで」
自分の瞳に厚い水の膜が張るのを感じた。見られたくなくて床に俯く。シュンヤはおもむろに指を伸ばしチカルの髪をまとめていたヘアゴムを取った。乱れ落ちた髪を頬や首筋に感じながら、彼女は血が滲むほど下唇を噛む。
「たかがアルバイトなんだから適当にやってりゃいいんだよ。おまえの代わりなんていくらでもいるだろ?俺のために休んでくれたっていいじゃん」
「私だって……責任を持ってやってる。アルバイトっていう立場に甘えるつもり、ないよ」
「甘えるつもりない?そうは見えませんけど?」嘲笑いながら続ける。「実際こんな簡単に帰って来てるじゃん。正社員じゃこうはいかないぞ」
チカルは言い返す言葉が見つからず黙り込む。怒りと失望と悔しさと、あまりに多くの感情が入り乱れて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
シュンヤは指でヘアゴムを弄びながら、もう片方の手でチカルの腕を取って立ち上がらせた。
「早くシャワー浴びてこっち来いよ」
彼女の顔を覆い隠す髪を掻き上げてやりながら言った次の瞬間、彼は動きを止めた。
「――出掛ける時に着てた服と違うな」
フードの紐を引っ張り、笑顔の消えた顔でチカルの瞳を覗き込んだ。弁明を待たず襟刳りを両手で掴んで引き寄せると、首筋周辺に鼻を擦りつける。
「嗅いだことない匂いがする」
チカルの全身に、冷たい汗が滲む。――あまりに焦っていたせいで、服を借りていたことをすっかり忘れていた。
「そもそもさ……こんな服持ってないよな?だっておまえ、フードが邪魔だって言ってこういうの買わないもん」
彼は襟刳りに込めていた力をほどき、そのままチカルの頬を両の手の平で包む。すうと細められた目は冷たい光を湛え、彼女をまっすぐに見た。
「脱げよ」
言われるがまま、チカルはゆっくりとコートを脱ぐ。シュンヤはどこまでも優しい手つきで彼女の手首を取ると、折り返してある袖口を舐めるような眼差しで見た。
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