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本編
第28話
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苦い感情が胸の奥にある洞でうごめくのを感じて、チカルはぶるりと震えた。
不快な汗が滲む手でスマホを握りなおす。一呼吸おいたあと、ぽつりとつぶやいた。
「ちょっとね……いろいろあったから」
言葉が消え入り静かになったとき、受話口越しに子どもの泣き声が聞こえてきた。
リイコの息子だ。抱っこをせがんできたのか、衣擦れの音。ママ、という声がさっきよりも近く聞こえる。水が飲みたいという子どもに対しリイコは優しく相槌を返して、こちらに意識を戻す。
「ごめんね、話の途中で」
「大丈夫。ずいぶんおしゃべりが上手になったのね……今年で3歳になるんだっけ」
「そう、5月で3歳。チカルが最後にこの子と会ったのって1年前くらい?」
「1歳の誕生日のときだから、もっと前よ」
「そっか……もうそんなに会ってないんだ。子どもの成長は早いし、次に会うときはチカルより背が大きくなっているかもよ?」
冗談めかした言葉のあとに続くスリッパの足音と、かすかな食器の音。
チカルは、産まれて間もないリイコの息子を抱っこさせてもらったときのことを、まだ鮮明に覚えている。
赤子特有の柔い肌、こぶしを握る小さな手やふくふくとした丸い頬。ガラス玉のような光沢の瞳に見つめられ、なぜだか泣きそうになった。
穢れのないまっさらな命。青葉に光る朝露のようなその輝き――
腕に抱いたときの確かな重みを、差し出した指先を握り返してくるしっとりとした手指の感触を……ずっと忘れられずにいる。
命の輝きに触れたあの日から何度も、もし自分に子どもがいたらと想像し、そのたびに打ち消してきた。
シュンヤとの未来に望むものはもうなにもない。自分たちは今にも切れそうな糸で繋がっているだけだ。彼の正体は深い霧にでも包まれているかのように見えず、どこを歩いているのかも、どこへ向かうつもりなのかもわからないのだった。
東京でふたりで肩を寄せ合い暮らし始めたときは、幸せの絶頂にいた。この幸福が崩れ去るときが来るだなんて考えもしなかった。
出世して交友関係が広くなるにつれ、彼の浮気癖はひどくなっていった。生活は裕福になったが、彼の金銭感覚やものの考え方に段々とついていけなくなり……価値観はすれ違い続け、最近はふたりで笑い合うこともほとんどない。あんなに幸せだった日々は過去のものとなりすっかり色褪せてしまっている。
走っても走っても追いつけない背中を遠くに見て、やがて立ち止まり膝をつき――息を切らしたままうずくまっているうちに、あまりにも遠く離れすぎてしまったように思う。今や進む先を照らし共に歩いてくれる人はいない。かろうじて結ばれている糸をたぐりながら、自分の足元に明かりを灯しひとり進んでいくだけだ。
ただただ、孤独がつのる。
「ねえ、さっきの話の続きだけど。いろいろあったって、シュンヤと?」
リイコの声で我に返る。なにも答えられずにいると、彼女は続けて言った。
「――なにかあったのね?」
子どもの甲高い泣き声がし、彼女は手のひらで顔を覆いそっと息を詰めた。ぐずる声とあやす声の合間に小さく言葉を差し込む。
「心配しないで……もう仲直りしたから」
「相変わらず嘘が下手ねえ」
リイコは責める口調でなくそう言う。
思わず少し笑うと、向こうも息だけでやわらかく笑った。
「ひとりで抱え込もうとしないでよ、チカル。あいつのことで悩んでるならいつでも力になるからね」
リイコの言葉が耳底にやわらかく響き、手のひらに埋めていた顔をあげた。
チカルの心を反映するかのように、幼子がいよいよ激しくぐずり始める。遠く聞こえるリイコの優しい声に耳を澄ませ、大きく静かに息を吐いた。その表情は安堵と虚しさの混じった奇妙なものだった。
不快な汗が滲む手でスマホを握りなおす。一呼吸おいたあと、ぽつりとつぶやいた。
「ちょっとね……いろいろあったから」
言葉が消え入り静かになったとき、受話口越しに子どもの泣き声が聞こえてきた。
リイコの息子だ。抱っこをせがんできたのか、衣擦れの音。ママ、という声がさっきよりも近く聞こえる。水が飲みたいという子どもに対しリイコは優しく相槌を返して、こちらに意識を戻す。
「ごめんね、話の途中で」
「大丈夫。ずいぶんおしゃべりが上手になったのね……今年で3歳になるんだっけ」
「そう、5月で3歳。チカルが最後にこの子と会ったのって1年前くらい?」
「1歳の誕生日のときだから、もっと前よ」
「そっか……もうそんなに会ってないんだ。子どもの成長は早いし、次に会うときはチカルより背が大きくなっているかもよ?」
冗談めかした言葉のあとに続くスリッパの足音と、かすかな食器の音。
チカルは、産まれて間もないリイコの息子を抱っこさせてもらったときのことを、まだ鮮明に覚えている。
赤子特有の柔い肌、こぶしを握る小さな手やふくふくとした丸い頬。ガラス玉のような光沢の瞳に見つめられ、なぜだか泣きそうになった。
穢れのないまっさらな命。青葉に光る朝露のようなその輝き――
腕に抱いたときの確かな重みを、差し出した指先を握り返してくるしっとりとした手指の感触を……ずっと忘れられずにいる。
命の輝きに触れたあの日から何度も、もし自分に子どもがいたらと想像し、そのたびに打ち消してきた。
シュンヤとの未来に望むものはもうなにもない。自分たちは今にも切れそうな糸で繋がっているだけだ。彼の正体は深い霧にでも包まれているかのように見えず、どこを歩いているのかも、どこへ向かうつもりなのかもわからないのだった。
東京でふたりで肩を寄せ合い暮らし始めたときは、幸せの絶頂にいた。この幸福が崩れ去るときが来るだなんて考えもしなかった。
出世して交友関係が広くなるにつれ、彼の浮気癖はひどくなっていった。生活は裕福になったが、彼の金銭感覚やものの考え方に段々とついていけなくなり……価値観はすれ違い続け、最近はふたりで笑い合うこともほとんどない。あんなに幸せだった日々は過去のものとなりすっかり色褪せてしまっている。
走っても走っても追いつけない背中を遠くに見て、やがて立ち止まり膝をつき――息を切らしたままうずくまっているうちに、あまりにも遠く離れすぎてしまったように思う。今や進む先を照らし共に歩いてくれる人はいない。かろうじて結ばれている糸をたぐりながら、自分の足元に明かりを灯しひとり進んでいくだけだ。
ただただ、孤独がつのる。
「ねえ、さっきの話の続きだけど。いろいろあったって、シュンヤと?」
リイコの声で我に返る。なにも答えられずにいると、彼女は続けて言った。
「――なにかあったのね?」
子どもの甲高い泣き声がし、彼女は手のひらで顔を覆いそっと息を詰めた。ぐずる声とあやす声の合間に小さく言葉を差し込む。
「心配しないで……もう仲直りしたから」
「相変わらず嘘が下手ねえ」
リイコは責める口調でなくそう言う。
思わず少し笑うと、向こうも息だけでやわらかく笑った。
「ひとりで抱え込もうとしないでよ、チカル。あいつのことで悩んでるならいつでも力になるからね」
リイコの言葉が耳底にやわらかく響き、手のひらに埋めていた顔をあげた。
チカルの心を反映するかのように、幼子がいよいよ激しくぐずり始める。遠く聞こえるリイコの優しい声に耳を澄ませ、大きく静かに息を吐いた。その表情は安堵と虚しさの混じった奇妙なものだった。
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