ふたりの旅路

三矢由巳

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第二章 

肆 母と脇差

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「源之輔さまの妹御がおられたはず、十五になる妹御が」

 志緒は思い出した。杉が奥勤めをと願っていた妹である。

「妹……ああ、おりましたね」

 遠藤の妻も忘れていたようだった。

「後で息子に確かめに行かせましょう。火事場は何かとごたごたしますからね」

 たった十五の娘の置かれた境遇を思うと志緒は胸が痛んだ。





 遠藤の三男に護衛されて志緒は駒井家に帰った。

「志緒さん、聞きましたか」

 迎えた津奈の顔色は蒼白だった。すでに山中家のことを聞いたようだった。

「はい」
「なんということでしょう。山中様が亡くなられるとは。杉様もお気の毒に。斬られるとは」
「斬られたのですか」

 火事だから杉はてっきりやけどをしたのだと思っていた。志緒は恐ろしい想像が事実でないことを祈るしかなかった。だが志緒の祈りはかなわなかった。

「恐らく吉之進の仕業であろうと柴田様が言っていました。それにしても血の繋がった二親を斬るなど。さようなことは聞いたこともない」

 志緒も生まれてこのかたそのような残虐な話を領内で聞いたことがなかった。ごくまれに旅の芝居の一座が城下のはずれの掘っ立て小屋で演じる江戸で流行りの怪談の筋を聞くことはあったが、それはそれ、これはこれ、現実にそんなことがあるとは思えなかった。
 目付の柴田儀兵衛がわざわざ訪ねて津奈に委細を話したということは、間違いなく吉之進の仕業なのだろう。

「吉之進の死体が見つかっていないので、今探索しているそうです。さっきまで柴田様の配下の方々が、すでに入り込んでいるのではないかと屋敷を調べてくださいましたから大丈夫だと思いますが」 

 駒井家の敷地は家柄相応に広い。屋敷、庭園、裏の畑、馬小屋など、もし何等かの意図があって吉之進が入り込んだら隠れる場所はいくらでもある。
 しかも今は母と志緒、住み込みの下女いよしかいない。男がいない屋敷は危険だった。
 もし吉之進が探索の目を逃れてどこかに隠れていたら。油断はできない。
  
「じきに父上もお帰りでしょう。大丈夫です」

 志緒は不安を押し殺して微笑んだ。

「そうですね。でも、あなただけでも遠藤様のところに」

 確かにその方が安全である。だが、遠藤の妻が志緒を帰したということは何か策があるのかもしれなかった。ことによると志緒を囮にして吉之進を捕らえる策かもしれない。
 親の件だけでなく火事について吉之進が事情を知っている可能性がある。万が一火付けだった場合、重罪が課せられる。そんな者を城下に野放しにはできない。吉之進を捕らえ取調をせねばならない。となると彼がとる行動を予測して待ち伏せをするのが効率的だろう。
 逃げるなら隣の領地との間にある関所だが、夜間は開いていない。既に夜は明けているが、火事から一刻(約二時間)はたっているから恐らく関所には早馬で吉之進のことが知らされているはずである。関所破りは不可能だった。
 ならば自棄やけになって逆恨みの相手である駒井家に姿を見せるのではないかと目付らが考えても不思議ではない。
 志緒は山中の娘のことを津奈にも尋ねた。

「そういえば柴田様は何も仰せにならなかった。無事だとよいのだけれど」

 自分だけでなく遠藤の妻、津奈にまで忘れ去られている娘の影の薄さが志緒には哀れに思えた。





 志緒は部屋に戻り小脇差を手にした。一尺(約三十センチメートル)ほどの長さで小脇差の中でも小ぶりのものである。
 子が流れてから砂村雲斎の道場には二回しか行っていない。未だ明鏡止水の境地には至らないが、雲斎は今回は焦るなと言わなかった。
 志緒は無心に基本の技を練習した。大切な人を守るために強くなりたかった。以前のように闇雲に強くなりたいという気持ちとは違う。己を守るだけではなく大切な人を守る。それのみを思い鍛錬した。
 あの時私がもっと強かったらという後悔は常にあった。けれど、悔やんでばかりはいられなかった。立ち上がって太刀を振るわなければ強くなれないのだ。

「強うなったな」

 雲斎は帰り際に言った。

「そなたは一度は母になった身。母は強いというが、まことじゃ。わしも母には勝てぬ」

 たった一か月の母親だったというのに。志緒はその夜、あの時のことを思い出し泣いた。だが、涙はすぐに乾いた。雲斎は流れた子を子と認めてくれたのだ。つまり志緒は母だったのだ。決して母になり損ねたわけではない。
 あの後、人々は若いのだからまた授かる、次は丈夫な子だと、次のことばかり口にしていた。無論、それは志緒が苦しまぬよう、望みがあると励ますためだとわかっていた。それでも志緒は寂しかった。流れた子のことはどうでもいいのかと思ったこともある。
 そんな志緒の口に出せぬ苦しみを雲斎の言葉が救ってくれたような気がした。
 私は母になったのだ。一か月だけ。だから強くなると誓った。
 もし吉之進が来たら、今度は皆を守るために闘う。志緒は脇差を鞘から抜きその輝きを見つめた。母方の祖母の家から伝わった名もなき刀匠の作とはいえ、手入れを怠ることはなかったので切れ味は衰えてはいない。





 鞘に納めた刀を手に座敷に戻ると、父が帰ってきたところだった。
 お帰りなさいませと言うと、火事装束のままの甚太夫は手に陣笠を持ったまま腰を下ろした。

「話は聞いたか」
「はい。山中様たちが斬られたと」
「うむ。吉之進め、二親を斬った後、家に火を放ったようだ。藤兵衛殿は斬られた後逃げられず、杉殿は隣の坂野の家に逃げ込んで吉之進に斬られたと言ったそうだ。直後に屋敷から火が出た」
「座敷牢にいたのではないのですか」
「そのはずだが……。油断したのだろうな、牢から出したのだな。やはり死罪にすべきだったのだ。情をかけるべきではなかった」
「父上のせいではありません」
「いや、源之輔の兄だということで情をかけたわしが間違っていた。もし、あやつがここに来たら、わしが斬る。それが御家のため」

 父は腰に帯びた刀の束に手をかけた。その顔には悲壮な覚悟が見えた。
 志緒はいたたまれなかった。あの時、もし自分が押し倒されなかったとしたらこんな大事にはならなかったのかもしれない。弱さは罪なのだ。
 そこへ母が茶を持ってきた。

「お疲れ様でございます」

 父は茶を口に含んだ。

「一体、家とは何なのであろうな」

 茶碗を置いた後、父は独りちた。
 血の繋がりのない者が寄り集まって生きる家もあれば、繋がりがあっても傷つけあう家がある。一体山中家はどこで違ってしまったのか。志緒は悲しかった。

「あなた、山中様の娘御は怪我などはなかったのですか」

 津奈の問いに、甚太夫はああと頷いた。

「これはここだけの話にしてくれ。娘御は無事だ。普請作事奉行の小松様のところにおった」
「はあっ」

 津奈と志緒は同時に声を上げていた。志緒ははしたないことを言ったと思い慌てて口に手を当てた。

「まさか篤次郎とくじろう殿……」

 篤次郎の名は志緒も知っていた。小松家の跡継ぎで少々女癖が悪いという評判があった。

「そうだ。夜這いの逆だ。早鐘の音を聞いて小松様が篤次郎を叩き起こしに行ったら二人同じ床にいたそうだ」

 甚太夫は呆れ顔であった。津奈も唖然としていた。

「篤次郎は父親と火事場に行き、娘は小松の奥方に付き添われ山中の家へ帰ってみれば鉢合わせといういうわけだ」

 娘に何の怪我もなかったとはいえ、その場にいた者達は気まずかったであろう。

「おかげで父親の死骸の確認ができたがな。杉殿の看病で隣の坂野家に今はおる」

 母の杉は奥勤めを願っていたのに、娘は評判の悪い男と懇ろになるとは親の心子知らずである。そういう娘が奥勤めをすることにならなくてよかったと思うべきか。

「杉様のお怪我はいかがなのですか」

 志緒の問いに甚太夫はかぶりを振った。

「刀傷が深くてな。医者も長くはもつまいと」

 二度と来ないでと言ってしまったくらい杉に嫌悪感を抱いていたが、さすがに命の危機があると知れば志緒も同情せざるを得なかった。

「なんてことでしょう」
「自業自得ぞ。子を甘やかすからそうなる」

 津奈と甚太夫の会話を聞きながら、志緒は思う。親になるとはなんと厳しいことであろうか。子が親を殺めれば自業自得と言われるのだ。だが、源之輔を育てた山中藤兵衛を考えるとそうは思えなかった。父親が同じでありながら源之輔と吉之進はまったく違うのだから。
 自業自得とは言い過ぎではないか。そう思った時だった。
 なぜか唐突に杉が村田家に来た時のことを思い出した。
 じごう……。あの時、杉が言いかけていた言葉。途中で遮ったけれど、自業自得と言おうとしていたのではないか。
 息子が死んだのも自業自得、そう言おうとしていたのか?
 幸之助が死んだのが自業自得? あり得なかった。己の悪事の報いを幸之助が受けたというのか。幸之助が悪事を働くわけがないではないか。
 
「志緒さん、大丈夫? 顔色が悪いわ。疲れたのではない?」
「大丈夫です、母上」
「無理はよくない。少し休んだほうがいい。明るくなってきたから吉之進が来たらすぐわかる。弥兵衛の息子どもが見張っておるから心配はいらない。わしの腕もまだまだ落ちてはおらぬ」

 津奈や甚太夫に育てられた幸之助が悪事を働くわけがないと志緒は思いたかった。
  




 突然廊下をばたばたと走る音が聞こえた。

「御無礼いたします」

 障子を開けたのは土足のままの遠藤弥兵衛の三男だった。

「山中吉之進が見つかりました」 

 良かったと志緒が思った次の瞬間、思いも寄らぬことを三男が伝えた。

「村田家に押し入り、重兵衛様の孫の新之助を人質に立てこもっております」

 まだ六つの新之助の怯える顔が脳裏に浮かんだ途端、志緒は脇差を手に立ち上がっていた。




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