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第二章
弍 血と涙の道
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若葉まぶしい季節だというのに、駒井家は陰鬱な空気の中にあった。
志緒の流産直後に実家の騒ぎを知った佐江が手伝いに来て三日後、佐江が再び見舞いに訪れると、志緒は寝所の床から起き上がろうとしていた。佐江はそれを制した。
「まだ起きてはいけないわ」
「お気遣いありがとうございます」
志緒の言葉を佐江が途中で遮った。
「気を遣ってるのは志緒姉さまじゃないの。さあもう何も言わずに休んでいて」
「ありがとう、佐江さん」
「私にまでありがとうなんて水臭いわ。私だっていつ同じことになるかわからないんだもの」
佐江は志緒が床に就いたのを確かめ、志緒以上に気を落としている母の元へ向かった。
母は台所の隣の食事の間の板敷に座っていた。目の前には膳があった。膳の上の飯碗も汁椀も空だった。
「母上、山中の処分が決まったそうです」
佐江の言葉でも津奈の顔は晴れなかった。
「母上のせいではありません。山中吉之進が悪いのです。あの男は柔術の心得があるので、まともに相手にしても勝てるものではありません」
「だけど、私は志緒さんと子どもを守れなかった。源之輔殿に申し開きがたたない。私は一番近くにいたのに」
「母上も私と幸之助兄さまの間に子が生まれたけれど一か月くらいで亡くなったのでしょ。誰のせいでもない。そういう定めだったのよ」
「奥の美園様から亀の方様が持たせてくださった菓子もいただいたというのに。亀の方様にも申し訳ない」
何を言っても今の母の気持ちを慰められないと佐江は思った。
とりあえず事実だけを告げた。
「吉之進は酔って女子を突き飛ばし子を流させたことにより廃嫡・終身押込。父の山中藤兵衛は監督不行届ということで御役御免の上隠居。跡継ぎになった三男藤之介は若年ゆえ、家禄は半分に。今日の午後に目付から申し渡されます」
当初、吉之進の処遇については家老の次男の妻の実家に関わることなので切腹にしてはという意見も出たらしい。だが駒井甚太夫が養子の源之輔の実家なので穏便にと願い出て終身押込となったのだった。だが、命は助かってもこの先吉之進に領内での居場所はない。普請作事方への出入りは禁止され、柔術の師匠からは破門されてしまった。座敷牢の中で死ぬまで謹慎し続けるしかない。
また、穏便な処分を願った甚太夫は一方では山中藤兵衛の詫びを拒絶していた。事件当日の夜、やって来た藤兵衛を甚太夫は一喝した。
「おぬしが謝って済む話ではない。何故昼間から酒びたりになるような暮らしを止めなかったのだ。わしなら、見苦しい有様になる前に斬って捨てるわ」
家族も使用人も見たことのない怒り方だった。
「これ以上、山中の家の者の顔を見たら、わしは何をするかわからぬ。帰ってくれ」
甚太夫も役目相応の剣の腕前を持っていた。藤兵衛は引き下がり、遠藤家に行きどうかお取り成しをと弥兵衛に平身低頭して頼んだ。
「わしも甚太夫がかように怒った顔を見たことがない。今は無理だ。時がたてばおさまるやもしれぬ。とりあえず、山中殿は謹慎されることだ」
山中藤兵衛はその足で村田家に向かった。
だが、村田重兵衛は面会も拒絶した。対応したのは誠之助だったが、話を聞くだけで謝罪の品は受け取らなかった。
なお、吉之進は事を起こした後、城の西側にある目付の柴田儀兵衛の屋敷に身柄を預けられた。取調の後、彼の処分は目付が原案を出し、家老・奉行らの評議によって決定した。
佐江は夫の寛次郎を通じて家老の決定を知らされたのである。
「死罪ではないのですね」
津奈は吉之進の処分に不満のようだった。
「源之輔兄さまの御実家ですもの」
「あの家で源之輔殿が受けた仕打ちを思えば、いくら実家とはいえ」
それは佐江にもわかる。源之輔は養子に入って来てから数か月の間に顔つきが変わるほど目方が増えていた。駒井家の食事が特に贅沢というわけではない。むしろ質素といっていい。一体山中家ではどういうものを食べていたのか、一度だけ津奈が尋ねたことがあったが、彼は普通に三食いただいていましたと答えただけだった。まことにそうなのか疑わしかった。吉之進も藤之介も源之輔のように痩せてはいなかったのだから。
それはともかく、家を潰せば恨みを買う。ましてや山中家は津奈の遠縁だった。
「母上の遠縁でもあるし」
「ええ。でも、杉殿の件といい、今度のことといい、私はほとほと愛想が尽きました」
佐江自身もそう思っているが、夫や舅の立場があるから軽々に口にできなかった。
「この先山中家の人たちに悩まされることがなくなったと思えば」
「だとしても、あんまりですよ。志緒さんが可哀そうで。幸之助のことから立ち直って源之輔殿と祝言を挙げ、子に恵まれたというのに」
「お兄さまに手紙は書いたのでしょ」
「ええ。父上がね。とても私には書けなかった」
江戸との距離を考えると、二十日ほどで返信が届くはずだった。それを見た一家がまた悲しみに暮れることを想像し、佐江はため息をついた。
「このお膳を見て」
津奈の目の前の膳を再び佐江は見た。
「志緒さんのよ。志緒さんは寝所で一人で粥を食べているのだけれど、泣きながら食べてるの」
「見たの」
「膳を取りに行った時に泣き声が聞こえたのよ。声が外に漏れないようにしていたけれど、隠せるものではないでしょう」
津奈は顔を上げ娘を見た。
「幸之助が生まれる前に、子が流れてしまったことが私にもあったの。それまで悪阻で苦しくてご飯が食べられなかったのに、流れた途端に悪阻がなくなってご飯が食べられるようになった。それが悲しくてね。ご飯が食べられるのに泣くなんて、罰当たりだけれど」
一度も聞いたことのない母の悲しみだった。
「父上には言ってはなりませんよ」
「どうして」
「なおさら辛くなるだけでしょ。志緒さんのことだけでも辛いのに」
「わかった。でも、存外そういうことは多いのね。本当ならうちは四人きょうだいだったのね」
「そうですよ。だから今生きていることは、本当に有難いことなのですよ」
駒井家を辞した佐江は岡本家への道を歩きながら思った。
母だけでなく遥か昔から、女達は子を孕み産んできた。だが、一方では子が流れたり死産したり、生まれてもすぐ死んだり、多くの母親たちが血と涙を流してきた。女の生きる道は血と涙も流れる道なのかもしれなかった。一人で歩くには余りに辛すぎる道だった。
源之輔ならば志緒の悲しみをくみ取ってくれるに違いないと佐江は思う。
できることならば、寛次郎にも理解して欲しかった。帰ったら何から話そうか、佐江は考えを巡らせた。
これはうつつだ。
志緒は目覚めて起き上がった。涙はもう乾いていた。
悪夢であって欲しいと思ったけれど、胸のむかつきもこみ上げる吐き気もまったくない。
もう子はこの身にいないのだ。
幸之助の時のように、うつつが夢のように思えたり、夢がうつつのように思えることはなかった。
身体は回復に向かっていた。食欲があるのが何よりの証である。
障子を通して入る夕暮れの光を志緒は見つめた。
いつまでも寝ているわけにはいかない。早く元の生活に戻って父と母を安堵させなければ。村田の両親もどれほど心配していることか。他家に嫁いだ佐江にも心配をかけるわけにはいかない。
何より、もうすぐ幸之助の三回忌だった。駒井家の一員として供養しなければならない。それまでに元の生活に戻らなければ。
志緒はゆっくりと立ち上がった。寝間着から普段着に着替えた。解いた髪は漉いて後ろで束ねた。明日は津奈に丸髷を結ってもらおう。結い方を教えてもらおうか。そうすれば津奈の手を煩わせなくて済む。
「母上、お手伝いします」
台所に現れた志緒に津奈もいよも目を丸くした。
「志緒さん、無理はいけませんよ」
「身体はもう大丈夫です。動かないと身体が元に戻りませんから」
いよは困ったという顔になった。
「血の穢れがございますから、あと三日ばかりは台所の仕事は」
そう言われれば引き下がるしかない。慣習を無視するわけにはいかなかった。
「今無理をすると後で障りが出ます。どうか、お休みになってください」
「ありがとう」
志緒はいよに礼を言い、部屋に向かった。
すっかり暗くなった部屋には入らず、庭に面した縁側に立った。わずかに残った日の光が植え込みの躑躅の赤い花を照らしていた。
源之輔に会いたい。何も話さなくてもいい。ただ側にいて欲しかった。
志緒の流産直後に実家の騒ぎを知った佐江が手伝いに来て三日後、佐江が再び見舞いに訪れると、志緒は寝所の床から起き上がろうとしていた。佐江はそれを制した。
「まだ起きてはいけないわ」
「お気遣いありがとうございます」
志緒の言葉を佐江が途中で遮った。
「気を遣ってるのは志緒姉さまじゃないの。さあもう何も言わずに休んでいて」
「ありがとう、佐江さん」
「私にまでありがとうなんて水臭いわ。私だっていつ同じことになるかわからないんだもの」
佐江は志緒が床に就いたのを確かめ、志緒以上に気を落としている母の元へ向かった。
母は台所の隣の食事の間の板敷に座っていた。目の前には膳があった。膳の上の飯碗も汁椀も空だった。
「母上、山中の処分が決まったそうです」
佐江の言葉でも津奈の顔は晴れなかった。
「母上のせいではありません。山中吉之進が悪いのです。あの男は柔術の心得があるので、まともに相手にしても勝てるものではありません」
「だけど、私は志緒さんと子どもを守れなかった。源之輔殿に申し開きがたたない。私は一番近くにいたのに」
「母上も私と幸之助兄さまの間に子が生まれたけれど一か月くらいで亡くなったのでしょ。誰のせいでもない。そういう定めだったのよ」
「奥の美園様から亀の方様が持たせてくださった菓子もいただいたというのに。亀の方様にも申し訳ない」
何を言っても今の母の気持ちを慰められないと佐江は思った。
とりあえず事実だけを告げた。
「吉之進は酔って女子を突き飛ばし子を流させたことにより廃嫡・終身押込。父の山中藤兵衛は監督不行届ということで御役御免の上隠居。跡継ぎになった三男藤之介は若年ゆえ、家禄は半分に。今日の午後に目付から申し渡されます」
当初、吉之進の処遇については家老の次男の妻の実家に関わることなので切腹にしてはという意見も出たらしい。だが駒井甚太夫が養子の源之輔の実家なので穏便にと願い出て終身押込となったのだった。だが、命は助かってもこの先吉之進に領内での居場所はない。普請作事方への出入りは禁止され、柔術の師匠からは破門されてしまった。座敷牢の中で死ぬまで謹慎し続けるしかない。
また、穏便な処分を願った甚太夫は一方では山中藤兵衛の詫びを拒絶していた。事件当日の夜、やって来た藤兵衛を甚太夫は一喝した。
「おぬしが謝って済む話ではない。何故昼間から酒びたりになるような暮らしを止めなかったのだ。わしなら、見苦しい有様になる前に斬って捨てるわ」
家族も使用人も見たことのない怒り方だった。
「これ以上、山中の家の者の顔を見たら、わしは何をするかわからぬ。帰ってくれ」
甚太夫も役目相応の剣の腕前を持っていた。藤兵衛は引き下がり、遠藤家に行きどうかお取り成しをと弥兵衛に平身低頭して頼んだ。
「わしも甚太夫がかように怒った顔を見たことがない。今は無理だ。時がたてばおさまるやもしれぬ。とりあえず、山中殿は謹慎されることだ」
山中藤兵衛はその足で村田家に向かった。
だが、村田重兵衛は面会も拒絶した。対応したのは誠之助だったが、話を聞くだけで謝罪の品は受け取らなかった。
なお、吉之進は事を起こした後、城の西側にある目付の柴田儀兵衛の屋敷に身柄を預けられた。取調の後、彼の処分は目付が原案を出し、家老・奉行らの評議によって決定した。
佐江は夫の寛次郎を通じて家老の決定を知らされたのである。
「死罪ではないのですね」
津奈は吉之進の処分に不満のようだった。
「源之輔兄さまの御実家ですもの」
「あの家で源之輔殿が受けた仕打ちを思えば、いくら実家とはいえ」
それは佐江にもわかる。源之輔は養子に入って来てから数か月の間に顔つきが変わるほど目方が増えていた。駒井家の食事が特に贅沢というわけではない。むしろ質素といっていい。一体山中家ではどういうものを食べていたのか、一度だけ津奈が尋ねたことがあったが、彼は普通に三食いただいていましたと答えただけだった。まことにそうなのか疑わしかった。吉之進も藤之介も源之輔のように痩せてはいなかったのだから。
それはともかく、家を潰せば恨みを買う。ましてや山中家は津奈の遠縁だった。
「母上の遠縁でもあるし」
「ええ。でも、杉殿の件といい、今度のことといい、私はほとほと愛想が尽きました」
佐江自身もそう思っているが、夫や舅の立場があるから軽々に口にできなかった。
「この先山中家の人たちに悩まされることがなくなったと思えば」
「だとしても、あんまりですよ。志緒さんが可哀そうで。幸之助のことから立ち直って源之輔殿と祝言を挙げ、子に恵まれたというのに」
「お兄さまに手紙は書いたのでしょ」
「ええ。父上がね。とても私には書けなかった」
江戸との距離を考えると、二十日ほどで返信が届くはずだった。それを見た一家がまた悲しみに暮れることを想像し、佐江はため息をついた。
「このお膳を見て」
津奈の目の前の膳を再び佐江は見た。
「志緒さんのよ。志緒さんは寝所で一人で粥を食べているのだけれど、泣きながら食べてるの」
「見たの」
「膳を取りに行った時に泣き声が聞こえたのよ。声が外に漏れないようにしていたけれど、隠せるものではないでしょう」
津奈は顔を上げ娘を見た。
「幸之助が生まれる前に、子が流れてしまったことが私にもあったの。それまで悪阻で苦しくてご飯が食べられなかったのに、流れた途端に悪阻がなくなってご飯が食べられるようになった。それが悲しくてね。ご飯が食べられるのに泣くなんて、罰当たりだけれど」
一度も聞いたことのない母の悲しみだった。
「父上には言ってはなりませんよ」
「どうして」
「なおさら辛くなるだけでしょ。志緒さんのことだけでも辛いのに」
「わかった。でも、存外そういうことは多いのね。本当ならうちは四人きょうだいだったのね」
「そうですよ。だから今生きていることは、本当に有難いことなのですよ」
駒井家を辞した佐江は岡本家への道を歩きながら思った。
母だけでなく遥か昔から、女達は子を孕み産んできた。だが、一方では子が流れたり死産したり、生まれてもすぐ死んだり、多くの母親たちが血と涙を流してきた。女の生きる道は血と涙も流れる道なのかもしれなかった。一人で歩くには余りに辛すぎる道だった。
源之輔ならば志緒の悲しみをくみ取ってくれるに違いないと佐江は思う。
できることならば、寛次郎にも理解して欲しかった。帰ったら何から話そうか、佐江は考えを巡らせた。
これはうつつだ。
志緒は目覚めて起き上がった。涙はもう乾いていた。
悪夢であって欲しいと思ったけれど、胸のむかつきもこみ上げる吐き気もまったくない。
もう子はこの身にいないのだ。
幸之助の時のように、うつつが夢のように思えたり、夢がうつつのように思えることはなかった。
身体は回復に向かっていた。食欲があるのが何よりの証である。
障子を通して入る夕暮れの光を志緒は見つめた。
いつまでも寝ているわけにはいかない。早く元の生活に戻って父と母を安堵させなければ。村田の両親もどれほど心配していることか。他家に嫁いだ佐江にも心配をかけるわけにはいかない。
何より、もうすぐ幸之助の三回忌だった。駒井家の一員として供養しなければならない。それまでに元の生活に戻らなければ。
志緒はゆっくりと立ち上がった。寝間着から普段着に着替えた。解いた髪は漉いて後ろで束ねた。明日は津奈に丸髷を結ってもらおう。結い方を教えてもらおうか。そうすれば津奈の手を煩わせなくて済む。
「母上、お手伝いします」
台所に現れた志緒に津奈もいよも目を丸くした。
「志緒さん、無理はいけませんよ」
「身体はもう大丈夫です。動かないと身体が元に戻りませんから」
いよは困ったという顔になった。
「血の穢れがございますから、あと三日ばかりは台所の仕事は」
そう言われれば引き下がるしかない。慣習を無視するわけにはいかなかった。
「今無理をすると後で障りが出ます。どうか、お休みになってください」
「ありがとう」
志緒はいよに礼を言い、部屋に向かった。
すっかり暗くなった部屋には入らず、庭に面した縁側に立った。わずかに残った日の光が植え込みの躑躅の赤い花を照らしていた。
源之輔に会いたい。何も話さなくてもいい。ただ側にいて欲しかった。
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