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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐
08 マカダムの甲冑
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「何故だ、何故、当家には招待状がこないのだ」
ここは王都の中流と言われる貴族の邸宅が集まった地区の外れにあるイーストン子爵邸の一室。当主のジョシュア・サイクスはおろおろする妻子を前に怒りに震えていた。
ランバート辺境伯とバートリイ公爵令嬢の披露宴の招待状は王国の主だった貴族の元に送られていた。だが、イーストン子爵には届いていなかった。出入りしている紳士クラブでその事実を知らされた子爵は顔を真っ赤にしていた。何故招待状が来ないのだ。俺がしたことを公爵が知っているというのか。
「ベラ、デボラ、おまえたちがパーティであの辺境伯を捕まえてさえいれば……」
辺境伯と公爵令嬢の結婚が決まりさえしなければ、公爵は子爵のやったことを追及しなかったのではないかと思うと、つい妻と娘に愚痴の矛先が向かってしまう。
「あなたももう少し力添えくだされば。あなたは夜会ではいつも伯爵様についてまわって、私たちは二人で辺境伯様に立ち向かわなければならなかったのよ」
妻のベラは口を尖らせた。
「そうよ。お父様がもっと出世なさっていれば。公爵令嬢みたいなとは言わないけれど、もう少しましなドレスを作れたのに。いつだってそう。その前の夜会だって、三回続けて同じドレスだったし」
娘のデボラも母とともにふだんから思っていた不満を述べ始めた。認めるのは悔しいが、舞踏会でランバート辺境伯と踊っていたバートリイ公爵家令嬢ビクトリアのドレスも髪飾りも素敵だった。上質な絹、繊細なレース、体型を美しく見せる意匠、縫製技術等、女の目で見れば一目でデボラのドレスとの違いがわかる。
「勝手なことを言いおって」
子爵自身も身勝手な人間だが、妻も夫の苦労を知らない似たような人間だった。そんな夫婦から生まれた娘も自分の内面を磨く努力もせず結婚がうまくいかないのはドレスのせいだと考えるありさまだった。
これまでの労苦を子爵は思い出す。頭を下げたくもない人間に頭を下げ、おべっかを使い、やっと取り入ったギルモア伯爵の命令で、ランバート辺境伯の娘についての噂を密かに流したのに。伯爵は「計画」がうまくいったらしかるべき官職を斡旋すると言ってくれたのだ。
だが「計画」は潰え、官職の斡旋など夢のまた夢。その上、貴族であれば皆招待されるはずの披露宴に子爵の中でただ一人招かれぬとは。
ギルモア伯爵ダンカン・イーグルは同い年のバートリイ公爵を敵視していた。
元々は二人とも国王の学友で、国王は二人を爵位で差別をすることはなかった。若い頃は互いにエイブ、ダンと名を呼び合うほど親しかった。ギルモア伯爵家は王国を樹立した初代国王の妃を出した由緒ある家柄であった。伯爵自身も宮内省の高官として様々な儀式の運営に携わっていた。その職務上で知った公爵の末娘ビクトリアと第三王子エドガーとの婚約内定が伯爵の運命を狂わせた。
伯爵にも公爵の末娘と同い年の娘がいた。親の欲目を抜きにしても美しく聡明だった。それなのに健康だけが取り柄の丸々とした公爵家の末娘が選ばれるとは。伯爵は心のうちで沸々と怒りをたぎらせた。
以来、伯爵は虎視眈々とバートリイ公爵の失脚を狙っていた。だが、公爵に隙はなかった。一方伯爵は名門とはいえ、さほど強い政治力を持たなかった。金はあるが人望がなかった。そうこうしているうちに、公爵の末娘は婚約内定を白紙にされ、第三王子と隣国の王女テオドラとの婚約が発表された。
当初、伯爵はざまあみろと内心笑っていたものの、公爵の立場はいささかも揺るがなかった。そればかりか、伯爵の愛娘が社交界デビュー直前に病に倒れた。医者の見立てでは重い胸の病で長くはないということだった。空気のいい領地で静養させたが、薬石効なく半年もたたずにはかなくなった。
公爵からは娘の死を悼む手紙が届いた。国王からは葬送の際にはお悔みの言葉と花を賜った。けれど伯爵の心は癒されなかった。何故うちの娘は死に、公爵の娘は婚約内定を白紙にされたにも関わらず生きているのかと。伯爵は知っていた。公爵の末娘が辺境伯領で職人の真似事をしているのを。放った密偵に末娘を襲わせようとしたこともあった。が、公爵が娘の周辺に配した部下たちにことごとく阻止された。
そんな中で、辺境伯領に放った密偵に某国の間諜が接触した。隣国との友好関係をよく思わぬ某国は名門でありながら学友の公爵を憎む伯爵に目をつけたのだ。
第三王子の結婚を阻止し、バートリイ公爵を引きずりおろし、自分がそれに代わる。平常の精神を保っていた伯爵なら、とうてい受け入れられぬ話だった。だが、彼は娘の死に打ちひしがれていた。加えて体調を崩し、休職を余儀なくされていた。某国の間諜の囁きはそんな彼の耳をとらえて離さなかった。
『あなたは宮内省の役人で終わる人ではない』
『公爵家が没落すれば、バートリイハウスはあなたのもの』
伯爵は間諜に唆されるままに、テオドラ王女のお国入り阻止を企てた。
配下を隣国との戦争での戦死者の遺族会に潜入させ、過激な考えを吹き込み、王女のお国入りを阻止させようと企んだのも、王女のお供の乗る馬車の車輪に壊れるように細工をさせたのも伯爵だった。他にも道路工事を邪魔するために工事現場に夜中に大量の馬糞を投棄したり、大雨の際に川の上流にある農業用のため池の堰を破壊したり、といったことを指示し実行させた。が、ことごとくランバート辺境伯はそれぞれに的確に対応し事なきを得た。王女のお国入りは予定通りに進行した。
次はバートリイ公爵令嬢が第三王子と王女の結婚を妬み邪魔をするという噂を流した。令嬢は第三王子との婚約が内定していたが白紙にされ心の病に冒され修道院で療養していたが、体面を気にした公爵が呼び戻したという尾鰭までつけて。かねてから伯爵の腰ぎんちゃくだったイーストン子爵らも使って噂を広めさせた。
貴族の女性達の間に噂は大いに広まり、バートリイ公爵の威信も地に落ちるかと思われた。その上王女の侍女達が騒いだ。これで結婚話も土壇場でひっくり返るに違いないと思ったが、第三王子も国王も噂を一切無視した。あろうことか、公爵も無視し、結婚式後の舞踏会に噂の娘を連れて出席した。
しかも噂の娘は王命によりランバート辺境伯と結婚することになった。ギルモア伯爵の策略をすべてぶち壊した辺境伯とバートリイ公爵の健康そのものの娘の婚約は、伯爵の怒りを増幅した。
こうなったら披露宴で公爵らに一泡吹かせてやろうと思っていた伯爵だったが、彼の元にも肝心の招待状は届いていなかった。
招待状が送られなかったのはロバートとバートリイ公爵の調査の結果を受けたものだった。
エドガー王子とアデルの婚約内定と白紙撤回の事実を漏洩し、さらに尾鰭を付けた噂を流した者をロバートは許せなかった。
国王が配慮して公にしなかったのに、それを蔑ろにしたばかりか、アデルの名誉まで傷つけたのだ。到底許せるものではない。
それはアデルの父バートリイ公爵も同じだった。娘は婚約内定白紙で傷付いた。そこからようやく立ち上がったというのに心無い噂を流すとは父親として許し難かった。
公爵と協力し、ロバートは首謀者がギルモア伯爵ダンカン・イーグルだと突き止めた。伯爵は宮内省の役人であり、国王の学友であるので国の機密にかなり近づくことができる。公爵は古くからの友人の仕打ちを悲しんだが、国王の配慮を蔑ろにするようなことは許せなかった。彼らを娘の披露宴に招待する義理はない。ロバートも同意した。
しかも調査が進むにつれ、伯爵が辺境伯領に密偵を放っていたことが判明した。同時期に公爵はアデルを守るために腕の立つ配下を辺境伯領に送っていた。配下の者らはアデルに危害を加えようとする企てを幾度か阻止していたが、その背後に伯爵の密偵がいることが明らかになった。公爵も辺境伯も激怒した。
ロバートは領地に残る騎士団長に命じ、行商人として辺境伯領に出入りしていた伯爵の密偵を捕え取り調べさせた。彼の口からテオドラ王女のお国入りや結婚を阻止する計画に伯爵が関わっていたという証言が得られた。さらに背後には某国も関与していることも判明した。事ここに至り、花嫁の父と花婿だけで論ずる話ではなくなった。
国王に調査結果が報告された。国王はギルモア伯爵ら四家の宮廷への出仕を無期停止とすることを決定した。それが披露宴の七日前のことである。宮内大臣は披露宴終了後に改めて貴族裁判所に四人を召喚し取り調べをする手筈を整えた。
ギルモア伯爵以外のイーストン子爵等三家は王都の屋敷で自ら謹慎した。伯爵だけは謹慎せず国王からの出仕無期停止の勅命を受ける前同様の暮らしをしていた。それどころか領地の騎士団を王都に呼び寄せた。
さすがにその態度は国王や宮内大臣も見過ごしにはできなかった。挙式当日、挙式の行われる大聖堂周辺以外の警備が手薄になった地域で伯爵が何を起こすかわかったものではない。というわけで国王は後顧の憂いを断つことを決断した。
辺境伯と公爵令嬢の結婚式前日早朝、ギルモア伯爵邸の敷地を近衛騎士団と王都を防衛する陸軍第一師団第一大隊が取り囲んだ。指揮を執るのはランバート辺境伯の義兄の陸軍副司令クラーク・キャンベル少将である。
近衛騎士団長は門前で貴族裁判所からの召喚状を読み上げた。だが、無視された。それどころか、屋敷を警護している伯爵家の騎士達が門の外にいる近衛騎士団長に剣を向けた。
近衛騎士団長もキャンベル少将もこれは貴族裁判所及び国王への謀反の意思表示であると解釈した。
「やむを得ませんな」
「では、作戦通りに」
正面の門からは近衛騎士団と陸軍の砲兵部隊と歩兵部隊が、裏門及び使用人の出入りする通用門、屋敷の背後に広がる林からは陸軍の歩兵部隊が潜入、屋敷にいるギルモア伯爵と家族を拘束するというかねてからの作戦を実行することとなった。
「家族と使用人はできるだけ丁重に保護するように。抵抗するようなら武器の使用を許可する」
少将が念を入れて部下に命じたのは、明日が義弟の披露宴だからである。罪人の家族とは言え、できるだけ犠牲者を出したくはなかった。義弟にもこの作戦は知らせていない。知らせたら真っ先に駆けつけてくるはずである。明日に挙式を控えた花婿にさせるべき仕事ではない。
だが、キャンベル少将は近づく馬蹄の音に気付いてしまった。よもやと思っていると伝令が飛んで来た。
「辺境伯様です」
言い終らぬうちに先祖伝来の黒光りする甲冑を身に着け、槍と銃と剣と戦斧を背中に負った義弟が古風な馬用の鎧を付けた黒馬に跨っている姿が少将の視界に入った。彼の背後には辺境騎士団の面々が従っていて、こちらは軽装である。といっても主に比べての話で近衛騎士団や兵士よりも重装備だった。夏の早朝とはいえ見ているだけで暑苦しい集団が到来したのである。
現在、陸軍は近代化が進み、歩兵や騎馬兵の装備は軽量化しており主に頭部と胸部が保護される形となっている。騎士団もまた動きやすさを重視した甲冑を装備している。義弟や辺境騎士団はそれに逆行したような姿をしていた。近代歩兵の中に二百年前の騎士団が現れたようなものである。このまま博物館に展示されても違和感はあるまい。
馬に跨ったまま近づいた義弟は面頬を上げた。かなりの暑さを堪えていたはずだが、ロバートは平然とした顔である。
「愛する者の名誉を汚した者を決して許すなとマカダムの掟にある」
キャンベル少将がなぜここへという理由を問う前に騎士は言った。
止めても無駄だと少将にはわかっていた。義弟はマカダムの男だ。決して後には引かない。
しかも近衛騎士団に所属していた頃の部下たちまでもが彼の周囲に結集していた。
「正面突破だ」
さすがに作戦を無視されては困るので少将は制止した。
「待て、砲兵が門を破壊してからだ。こっちも作戦があるのだ」
「では待とう。ただし、門が開いたら、後は好きにやらせてもらう」
「伯爵を殺すなよ。証言をとらねばならぬ」
「わかった。口だけはきけるようにしておく」
「くれぐれもやり過ぎるな」
すでに門の前には小型の大砲が準備されていた。ランバート鉱山の鉄鉱石から鋳造されたもので、型は古いが伯爵邸を破壊するには十分な威力があった。
砲兵たちは司令官の指示を待っていた。
キャンベル少将は懐中時計を見た。作戦開始時刻である。砲兵部隊長に目配せした。部隊長は放てと叫んだ。
凄まじい轟音とともに砲弾が門扉を支える右側の石の柱を粉砕し周囲の立ち木をなぎ倒した。後方にいた伯爵家の騎士達が何人も吹き飛ばされたのが土煙の向こうに見えた。この音だけで他の騎士や屋敷の使用人のほとんどは戦意を喪失するはずである。
「行くぞ!」
ロバートの声と同時に近衛騎士団員たちが騎馬で伯爵家へ突撃した。先頭にいるのは勿論ロバートである。
ギルモア伯爵邸の門を破壊した大砲の音はバートリイハウスの庭園でも聞こえた。
「例の伯爵が貴族裁判所から召喚されたようだが、少しばかり揉めているようだな」
公爵は不安げな顔の妻にそう言うと、朝の散歩を切り上げ邸内に戻った。
朝食のため食堂に入った二人に執事が耳打ちした。
「ビクトリアお嬢様の姿が見えません。厩を調べたところ、三十分ほど前にシルバーに乗って抜け出したようです。今追手をかけています」
「誰だ、アデルに余計なことを吹き込んだのは」
近衛騎士団と陸軍の合同作戦をロバートに知らせたのは公爵だった。知らぬ間にギルモア伯爵が拘束されたと知れば、ロバートが心穏やかに明日の式を迎えられるとは思えなかったのだ。
だが、娘にはギルモア伯爵の関係の話は一切していない。花嫁に知らせるような話ではないのだ。
「アデルが自分で調べたのでしょう」
食堂に先に来ていた三男のナサニエルが立ち上がった。首の後ろで一つに結んだ長い金色の髪が朝の光を受けてキラキラと輝いた。
昔から何を考えているかわからぬ子どもだった。突然写生旅行に行くと言って家を出て半年余り、やっと戻って来たと思ったら、何を言いだすのやら。
「アデルはギルモア伯の所業を知っているのか」
「はい。辺境伯殿の騎士の皆様はおしゃべりが過ぎるようですね。アデルの菓子には何か薬でも入っているのではありませんか」
アデルはほとんどランバートハウスから出ることはない。侍女を使い、ランバートハウスの騎士らにせっせと菓子を贈り情報を収集していたらしい。
「きっと辺境伯殿が連れ帰ってくれますよ」
ナサニエルは微笑んだ。
ここは王都の中流と言われる貴族の邸宅が集まった地区の外れにあるイーストン子爵邸の一室。当主のジョシュア・サイクスはおろおろする妻子を前に怒りに震えていた。
ランバート辺境伯とバートリイ公爵令嬢の披露宴の招待状は王国の主だった貴族の元に送られていた。だが、イーストン子爵には届いていなかった。出入りしている紳士クラブでその事実を知らされた子爵は顔を真っ赤にしていた。何故招待状が来ないのだ。俺がしたことを公爵が知っているというのか。
「ベラ、デボラ、おまえたちがパーティであの辺境伯を捕まえてさえいれば……」
辺境伯と公爵令嬢の結婚が決まりさえしなければ、公爵は子爵のやったことを追及しなかったのではないかと思うと、つい妻と娘に愚痴の矛先が向かってしまう。
「あなたももう少し力添えくだされば。あなたは夜会ではいつも伯爵様についてまわって、私たちは二人で辺境伯様に立ち向かわなければならなかったのよ」
妻のベラは口を尖らせた。
「そうよ。お父様がもっと出世なさっていれば。公爵令嬢みたいなとは言わないけれど、もう少しましなドレスを作れたのに。いつだってそう。その前の夜会だって、三回続けて同じドレスだったし」
娘のデボラも母とともにふだんから思っていた不満を述べ始めた。認めるのは悔しいが、舞踏会でランバート辺境伯と踊っていたバートリイ公爵家令嬢ビクトリアのドレスも髪飾りも素敵だった。上質な絹、繊細なレース、体型を美しく見せる意匠、縫製技術等、女の目で見れば一目でデボラのドレスとの違いがわかる。
「勝手なことを言いおって」
子爵自身も身勝手な人間だが、妻も夫の苦労を知らない似たような人間だった。そんな夫婦から生まれた娘も自分の内面を磨く努力もせず結婚がうまくいかないのはドレスのせいだと考えるありさまだった。
これまでの労苦を子爵は思い出す。頭を下げたくもない人間に頭を下げ、おべっかを使い、やっと取り入ったギルモア伯爵の命令で、ランバート辺境伯の娘についての噂を密かに流したのに。伯爵は「計画」がうまくいったらしかるべき官職を斡旋すると言ってくれたのだ。
だが「計画」は潰え、官職の斡旋など夢のまた夢。その上、貴族であれば皆招待されるはずの披露宴に子爵の中でただ一人招かれぬとは。
ギルモア伯爵ダンカン・イーグルは同い年のバートリイ公爵を敵視していた。
元々は二人とも国王の学友で、国王は二人を爵位で差別をすることはなかった。若い頃は互いにエイブ、ダンと名を呼び合うほど親しかった。ギルモア伯爵家は王国を樹立した初代国王の妃を出した由緒ある家柄であった。伯爵自身も宮内省の高官として様々な儀式の運営に携わっていた。その職務上で知った公爵の末娘ビクトリアと第三王子エドガーとの婚約内定が伯爵の運命を狂わせた。
伯爵にも公爵の末娘と同い年の娘がいた。親の欲目を抜きにしても美しく聡明だった。それなのに健康だけが取り柄の丸々とした公爵家の末娘が選ばれるとは。伯爵は心のうちで沸々と怒りをたぎらせた。
以来、伯爵は虎視眈々とバートリイ公爵の失脚を狙っていた。だが、公爵に隙はなかった。一方伯爵は名門とはいえ、さほど強い政治力を持たなかった。金はあるが人望がなかった。そうこうしているうちに、公爵の末娘は婚約内定を白紙にされ、第三王子と隣国の王女テオドラとの婚約が発表された。
当初、伯爵はざまあみろと内心笑っていたものの、公爵の立場はいささかも揺るがなかった。そればかりか、伯爵の愛娘が社交界デビュー直前に病に倒れた。医者の見立てでは重い胸の病で長くはないということだった。空気のいい領地で静養させたが、薬石効なく半年もたたずにはかなくなった。
公爵からは娘の死を悼む手紙が届いた。国王からは葬送の際にはお悔みの言葉と花を賜った。けれど伯爵の心は癒されなかった。何故うちの娘は死に、公爵の娘は婚約内定を白紙にされたにも関わらず生きているのかと。伯爵は知っていた。公爵の末娘が辺境伯領で職人の真似事をしているのを。放った密偵に末娘を襲わせようとしたこともあった。が、公爵が娘の周辺に配した部下たちにことごとく阻止された。
そんな中で、辺境伯領に放った密偵に某国の間諜が接触した。隣国との友好関係をよく思わぬ某国は名門でありながら学友の公爵を憎む伯爵に目をつけたのだ。
第三王子の結婚を阻止し、バートリイ公爵を引きずりおろし、自分がそれに代わる。平常の精神を保っていた伯爵なら、とうてい受け入れられぬ話だった。だが、彼は娘の死に打ちひしがれていた。加えて体調を崩し、休職を余儀なくされていた。某国の間諜の囁きはそんな彼の耳をとらえて離さなかった。
『あなたは宮内省の役人で終わる人ではない』
『公爵家が没落すれば、バートリイハウスはあなたのもの』
伯爵は間諜に唆されるままに、テオドラ王女のお国入り阻止を企てた。
配下を隣国との戦争での戦死者の遺族会に潜入させ、過激な考えを吹き込み、王女のお国入りを阻止させようと企んだのも、王女のお供の乗る馬車の車輪に壊れるように細工をさせたのも伯爵だった。他にも道路工事を邪魔するために工事現場に夜中に大量の馬糞を投棄したり、大雨の際に川の上流にある農業用のため池の堰を破壊したり、といったことを指示し実行させた。が、ことごとくランバート辺境伯はそれぞれに的確に対応し事なきを得た。王女のお国入りは予定通りに進行した。
次はバートリイ公爵令嬢が第三王子と王女の結婚を妬み邪魔をするという噂を流した。令嬢は第三王子との婚約が内定していたが白紙にされ心の病に冒され修道院で療養していたが、体面を気にした公爵が呼び戻したという尾鰭までつけて。かねてから伯爵の腰ぎんちゃくだったイーストン子爵らも使って噂を広めさせた。
貴族の女性達の間に噂は大いに広まり、バートリイ公爵の威信も地に落ちるかと思われた。その上王女の侍女達が騒いだ。これで結婚話も土壇場でひっくり返るに違いないと思ったが、第三王子も国王も噂を一切無視した。あろうことか、公爵も無視し、結婚式後の舞踏会に噂の娘を連れて出席した。
しかも噂の娘は王命によりランバート辺境伯と結婚することになった。ギルモア伯爵の策略をすべてぶち壊した辺境伯とバートリイ公爵の健康そのものの娘の婚約は、伯爵の怒りを増幅した。
こうなったら披露宴で公爵らに一泡吹かせてやろうと思っていた伯爵だったが、彼の元にも肝心の招待状は届いていなかった。
招待状が送られなかったのはロバートとバートリイ公爵の調査の結果を受けたものだった。
エドガー王子とアデルの婚約内定と白紙撤回の事実を漏洩し、さらに尾鰭を付けた噂を流した者をロバートは許せなかった。
国王が配慮して公にしなかったのに、それを蔑ろにしたばかりか、アデルの名誉まで傷つけたのだ。到底許せるものではない。
それはアデルの父バートリイ公爵も同じだった。娘は婚約内定白紙で傷付いた。そこからようやく立ち上がったというのに心無い噂を流すとは父親として許し難かった。
公爵と協力し、ロバートは首謀者がギルモア伯爵ダンカン・イーグルだと突き止めた。伯爵は宮内省の役人であり、国王の学友であるので国の機密にかなり近づくことができる。公爵は古くからの友人の仕打ちを悲しんだが、国王の配慮を蔑ろにするようなことは許せなかった。彼らを娘の披露宴に招待する義理はない。ロバートも同意した。
しかも調査が進むにつれ、伯爵が辺境伯領に密偵を放っていたことが判明した。同時期に公爵はアデルを守るために腕の立つ配下を辺境伯領に送っていた。配下の者らはアデルに危害を加えようとする企てを幾度か阻止していたが、その背後に伯爵の密偵がいることが明らかになった。公爵も辺境伯も激怒した。
ロバートは領地に残る騎士団長に命じ、行商人として辺境伯領に出入りしていた伯爵の密偵を捕え取り調べさせた。彼の口からテオドラ王女のお国入りや結婚を阻止する計画に伯爵が関わっていたという証言が得られた。さらに背後には某国も関与していることも判明した。事ここに至り、花嫁の父と花婿だけで論ずる話ではなくなった。
国王に調査結果が報告された。国王はギルモア伯爵ら四家の宮廷への出仕を無期停止とすることを決定した。それが披露宴の七日前のことである。宮内大臣は披露宴終了後に改めて貴族裁判所に四人を召喚し取り調べをする手筈を整えた。
ギルモア伯爵以外のイーストン子爵等三家は王都の屋敷で自ら謹慎した。伯爵だけは謹慎せず国王からの出仕無期停止の勅命を受ける前同様の暮らしをしていた。それどころか領地の騎士団を王都に呼び寄せた。
さすがにその態度は国王や宮内大臣も見過ごしにはできなかった。挙式当日、挙式の行われる大聖堂周辺以外の警備が手薄になった地域で伯爵が何を起こすかわかったものではない。というわけで国王は後顧の憂いを断つことを決断した。
辺境伯と公爵令嬢の結婚式前日早朝、ギルモア伯爵邸の敷地を近衛騎士団と王都を防衛する陸軍第一師団第一大隊が取り囲んだ。指揮を執るのはランバート辺境伯の義兄の陸軍副司令クラーク・キャンベル少将である。
近衛騎士団長は門前で貴族裁判所からの召喚状を読み上げた。だが、無視された。それどころか、屋敷を警護している伯爵家の騎士達が門の外にいる近衛騎士団長に剣を向けた。
近衛騎士団長もキャンベル少将もこれは貴族裁判所及び国王への謀反の意思表示であると解釈した。
「やむを得ませんな」
「では、作戦通りに」
正面の門からは近衛騎士団と陸軍の砲兵部隊と歩兵部隊が、裏門及び使用人の出入りする通用門、屋敷の背後に広がる林からは陸軍の歩兵部隊が潜入、屋敷にいるギルモア伯爵と家族を拘束するというかねてからの作戦を実行することとなった。
「家族と使用人はできるだけ丁重に保護するように。抵抗するようなら武器の使用を許可する」
少将が念を入れて部下に命じたのは、明日が義弟の披露宴だからである。罪人の家族とは言え、できるだけ犠牲者を出したくはなかった。義弟にもこの作戦は知らせていない。知らせたら真っ先に駆けつけてくるはずである。明日に挙式を控えた花婿にさせるべき仕事ではない。
だが、キャンベル少将は近づく馬蹄の音に気付いてしまった。よもやと思っていると伝令が飛んで来た。
「辺境伯様です」
言い終らぬうちに先祖伝来の黒光りする甲冑を身に着け、槍と銃と剣と戦斧を背中に負った義弟が古風な馬用の鎧を付けた黒馬に跨っている姿が少将の視界に入った。彼の背後には辺境騎士団の面々が従っていて、こちらは軽装である。といっても主に比べての話で近衛騎士団や兵士よりも重装備だった。夏の早朝とはいえ見ているだけで暑苦しい集団が到来したのである。
現在、陸軍は近代化が進み、歩兵や騎馬兵の装備は軽量化しており主に頭部と胸部が保護される形となっている。騎士団もまた動きやすさを重視した甲冑を装備している。義弟や辺境騎士団はそれに逆行したような姿をしていた。近代歩兵の中に二百年前の騎士団が現れたようなものである。このまま博物館に展示されても違和感はあるまい。
馬に跨ったまま近づいた義弟は面頬を上げた。かなりの暑さを堪えていたはずだが、ロバートは平然とした顔である。
「愛する者の名誉を汚した者を決して許すなとマカダムの掟にある」
キャンベル少将がなぜここへという理由を問う前に騎士は言った。
止めても無駄だと少将にはわかっていた。義弟はマカダムの男だ。決して後には引かない。
しかも近衛騎士団に所属していた頃の部下たちまでもが彼の周囲に結集していた。
「正面突破だ」
さすがに作戦を無視されては困るので少将は制止した。
「待て、砲兵が門を破壊してからだ。こっちも作戦があるのだ」
「では待とう。ただし、門が開いたら、後は好きにやらせてもらう」
「伯爵を殺すなよ。証言をとらねばならぬ」
「わかった。口だけはきけるようにしておく」
「くれぐれもやり過ぎるな」
すでに門の前には小型の大砲が準備されていた。ランバート鉱山の鉄鉱石から鋳造されたもので、型は古いが伯爵邸を破壊するには十分な威力があった。
砲兵たちは司令官の指示を待っていた。
キャンベル少将は懐中時計を見た。作戦開始時刻である。砲兵部隊長に目配せした。部隊長は放てと叫んだ。
凄まじい轟音とともに砲弾が門扉を支える右側の石の柱を粉砕し周囲の立ち木をなぎ倒した。後方にいた伯爵家の騎士達が何人も吹き飛ばされたのが土煙の向こうに見えた。この音だけで他の騎士や屋敷の使用人のほとんどは戦意を喪失するはずである。
「行くぞ!」
ロバートの声と同時に近衛騎士団員たちが騎馬で伯爵家へ突撃した。先頭にいるのは勿論ロバートである。
ギルモア伯爵邸の門を破壊した大砲の音はバートリイハウスの庭園でも聞こえた。
「例の伯爵が貴族裁判所から召喚されたようだが、少しばかり揉めているようだな」
公爵は不安げな顔の妻にそう言うと、朝の散歩を切り上げ邸内に戻った。
朝食のため食堂に入った二人に執事が耳打ちした。
「ビクトリアお嬢様の姿が見えません。厩を調べたところ、三十分ほど前にシルバーに乗って抜け出したようです。今追手をかけています」
「誰だ、アデルに余計なことを吹き込んだのは」
近衛騎士団と陸軍の合同作戦をロバートに知らせたのは公爵だった。知らぬ間にギルモア伯爵が拘束されたと知れば、ロバートが心穏やかに明日の式を迎えられるとは思えなかったのだ。
だが、娘にはギルモア伯爵の関係の話は一切していない。花嫁に知らせるような話ではないのだ。
「アデルが自分で調べたのでしょう」
食堂に先に来ていた三男のナサニエルが立ち上がった。首の後ろで一つに結んだ長い金色の髪が朝の光を受けてキラキラと輝いた。
昔から何を考えているかわからぬ子どもだった。突然写生旅行に行くと言って家を出て半年余り、やっと戻って来たと思ったら、何を言いだすのやら。
「アデルはギルモア伯の所業を知っているのか」
「はい。辺境伯殿の騎士の皆様はおしゃべりが過ぎるようですね。アデルの菓子には何か薬でも入っているのではありませんか」
アデルはほとんどランバートハウスから出ることはない。侍女を使い、ランバートハウスの騎士らにせっせと菓子を贈り情報を収集していたらしい。
「きっと辺境伯殿が連れ帰ってくれますよ」
ナサニエルは微笑んだ。
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