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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐

14 ほろ苦い菓子

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 ロバートの混乱の正体にベイカーのおかみさんは気付いていた。これは厄介なものだと。たぶんロバート自身は自分の混乱の正体に気付いていない。その正体にロバートが気づいてしまったら、面倒なことになる。

「騎士様、今宵はもう遅うございます。少し時間をおいてからおいでください。菓子屋は十二月の聖誕祭でまた忙しくなります。おそれながら、その間、冬の寒さで頭を冷やせば、落ち着いて正しい判断が下せるかと存じます」

 おかみさんはそう言うと、居間のドアを開けた。
 領主の権力をもってすれば、おかみさんを控えよと一喝して、アデルを力ずくでここから連れ出すこともできる。だが、ロバートはそうしなかった。それは一番アデルが軽蔑することに違いないのだ。アデルは人には皆尊厳があることを教えてくれた。

「わかった。アデル、今宵はすまなかった。貴重な眠りを妨げてしまったな」
「騎士様こそ、お忙しいところわざわざお越しくださり、まことに申し訳ないことに存じます」

 アデルの口調はおかみさんにもひどく冷たく感じられた。だが、仕方ないことだった。
 おかみさんは下の店まで騎士を見送った。戸締りをして戻って来たおかみさんは言った。

「やっぱり潮時だったんだね」
「おかみさん、ありがとうございました」
「御礼なんて水くさい」
「いえ、師匠もおかみさんも、本当によくしてくださって」

 アデルは俯いた。
 ロバートが自分に向ける感情は多少は理解できた。だからこそ拒絶しなければならなかった。まだ今なら引き返せるのだから。
 結ばれるはずの人との幸せを何年も夢みていたのに、ある日突然それが断ち切られた時の絶望をアデルは知っていた。まだ恋という気持ちを知らぬうちなら耐えられたかもしれない。だが、アデルは恋心を知ってしまった。だからこその絶望だった。
 だが、ロバートの気持ちはまだ恋の手前だ。拒絶されても傷は浅い。
 
「もうお休み。明日は早いよ」
「はい」

 アデルが屋根裏部屋に入ったのを確認し、おかみさんは居間に戻った。
 今夜は驚くことばかりだった。だが、亭主にも話すわけにはいかない。主やその家族の秘密を守るのは侍女にとって当然のことである。アデルの両親の恩義を思えば、今もアデルは大事なおひい様なのだ。
 勝手口をドンドンと叩く音が聞こえた。亭主が帰って来たらしい。
 おかみさんはやれやれと立ち上がり、階下へと向かった。





 翌朝、まだ日も上らぬ頃、マカダムの町は霧に包まれていた。この秋初めての霧だった。
 霧の中、前方に灯りをともした二頭立ての馬車がベイカー菓子店の勝手口に近い通りに止まった。
 すぐに勝手口が開き、ベンジャミン・ベイカーが出て来た。ベイカーは通りに馬車以外は見えないことを寝不足の赤い目で確認すると中に今だと声をかけた。
 出て来たアデルはボンネットを深くかぶっていた。おかみさんも出て来た。ベイカーはトランクを馬車の屋根に載せくくりつけた。
 アデルはその間に客車に乗り込んだ。ドアを閉める前にアデルは言った。

「ありがとう。本当にお世話になりました。皆様によろしくお伝えください」
「おひい様、数々の失礼、お許しください」

 ベイカーの態度は弟子に対する師匠のものではなかった。おかみさんは目頭を押さえていた。

「お幸せに」

 ドアが閉められるとすぐに馬車は走り出した。馬車の姿はすぐに霧の中に消えたが、石畳の上を走る馬のひづめと車輪の音を夫婦はいつまでも聞いていた。
 この日、マカダムの城下に住む男女三人が前日付けでそれぞれの奉公先を辞めて町を出て行った。彼らは馬車を守るかのように前後をそれぞれ馬に跨りバートリイ公爵領までの道を走った。





 万聖節の一夜が明け、マカダム城には変わらぬ日常が訪れていた。

「以上、昨夜の逮捕者は五名。いずれも軽微な罪でしたので、事情を聴取した後、身元引受人に身柄を引き渡す予定です」

 騎士団長の報告に、ロバートはうなずいた。

「よかろう。その中に工事関係者はいないな」
「はい。皆、昨夜は家族と別れを惜しんだはずですから、外で騒ぐ暇はなかったことでしょう」

 思ったよりも万聖節の仮装で不心得者は出なかったようである。逮捕者の内訳は裸で通りを走った者一人、酔って喧嘩をした者四人である。いずれもふだんは真面目に働く青年たちである。

「そろそろ招集した人夫が集合する頃だな」

 ロバートは城門前の広場のざわめきに耳を澄ませた。

「それから、これは別件ですが」

 騎士団長は少し声を低めた。

「菓子をもらいに来た幼い男児の手に火傷があることに気付いた老婦人が、事情を聞いたところ、父親から折檻されたとのこと。不審に思い風呂に入れ、身体を見るとあちこちに青あざや火傷の痕があったと届けがありました。今、子どもは教会が保護しています」
「虐待か」
「恐らく」
「すぐに父親や他の家族を調べよ」
「はい。すでに子どもの家に部下をやっています」

 まさか、万聖節で子どもの虐待が判明しようとは。意外な仮装の効果だった。
 また、これは後で判明したことだが、菓子をもらいに来た子どもが急病で倒れていた老人に気付き、医者に連れて行き事なきを得たということもあった。
 どうやら、利益を得たのは商店主達だけではないようだった。
 ロバートは万聖節を契機に、子どもの虐待防止や独居老人を孤独にしないための政策を考えるようになった。
 さて、国境までの道路整備に集められた人夫たちの壮行会を終えたロバートは昼食を母といつものようにとった。母はサリーの件があってから元気がなかったが、やっと最近食欲も増してきたようだった。
 昨夜の事を話すとがっかりするかもしれないと思い、ロバートは何も言わなかった。母も特に話はしなかった。
 午後は久しぶりに騎士らと剣の稽古をした。
 この十日ばかり、第三王子成婚の件で様々な詔勅が下ったため、その処理に追われていたのである。
 一時間ほど汗を流し、一休みしていると、騎士が慌てた様子で練習場に駆け込んで来た。騎士はロバートがいるのに気付かずに叫んだ。

「大変だぞ。ベイカーの店のアデルがやめちまったって」

 ロバートは叫んだ騎士に向かって怒鳴っていた。

「それはまことか」

 ロバートの声と顔で騎士は自分が咎められているのだと思った。

「も、も、申し訳……あり」
「まことなのかと聞いている」
「まことでありまーす!」

 ロバートは震えあがっている騎士をそのままに、練習場を飛び出して厩舎に向かった。

「馬を引け!」

 予定外の命令に厩舎の者達は慌てて馬具を支度した。
 ロバートは漆黒の愛馬アイアンブラッドに跨ると城門を出て商店街のベイカーの店に向かった。人々は荒ぶる領主の姿に恐れをなし道を空けた。
 客たちやおかみさんが外の騒がしさに気付く間もなくベイカー菓子店のドアが開いた。

「アデル、アデルはいるか」

 ロバートの大音声に、皆目を見開き、震えあがった。一人おかみさんだけが平然としていた。

「お客様、大声を出さないでください。他のお客様の御迷惑ですよ」

 ロバートは菓子の並ぶ棚に近づいた。おかみさんは穏やかな顔である。

「何になさいますか」
「アデルは辞めたのか」

 ロバートは音量を下げた。客の迷惑だと言われたらそうするしかない。

「ええ」
「どうして……」
「田舎のおばあさんの具合がよくないそうでね。それに、御両親もそろそろ戻って来いと。年頃ですからね」
「年頃……」
「ええ。何になさいますか。ここは菓子屋です」
「南瓜のクッキーをくれ。ある限り」
「生憎、南瓜のクッキーは昨日までの限定で」
「アデルの作ったクッキーは……」
「クッキーはないけど、あの子が仕込んだ焼き菓子ならありますよ」
「全部」
「申し訳ありません。他のお客様もおいでなので、それは勘弁してください」
「いくつなら売ってくれる」
「五個なら」
「それでは頼む」
「はい。少々お待ちください」

 おかみさんが菓子を包んでいる間、ロバートは店を見回した。昨夜はよく見ていなかったのでわからなかったが、昼間見ると派手ではないがこじんまりとして清潔感のある店内だった。ここでアデルはずっと働いていたのかと思うと、なぜか鼻の奥がつんとしてきた。
 馬鹿な。なぜあの小娘のことを考えて、そんなことになるのだ。いや、そんなことより、なぜ自分は馬を飛ばしてこの店に来たのだろか。

「お客様、用意できました。お勘定は」
「後で城から持ってこさせる」

 そう言った後で、昨夜この女はアデルが辞めることを知っていた上で話をしていたことに気付いた。
 頭を冷やせという言葉は、あの時はアデルが納得するような案を考えろという意味ではないかと思っていた。
 今ならわかる。アデルが辞めるから、城に来てもらうこと自体を諦めろという意味だったのだ。
 そして、ロバートの頭が冷やさねばならぬほどのぼせ上がっているという事実にもこのおかみは気付いていたのだ。ロバート本人はたった今まで気づいていなかったのに。

「お買い上げありがとうございました」

 菓子の入った袋を手に、ロバートは馬に跨った。城まで鞭をくれることもなかったので、馬はゆっくりと進んだ。馬上の割れ顎の男は袋から出した菓子を口に入れた。カラメル入りの焼き菓子は甘くほろ苦かった。菓子は甘いものだけだというのは間違いかもしれない。甘さの中に苦味を持った菓子もあるのだ。
 城に帰ればたくさんの書類が待っている。アデルのことを聞き付けた母の質問攻めがあるかもしれない。
 この馬上の時間はロバートだけの時間だった。





 グレイスは城に戻って来た息子の様子がおかしいのにすぐ気づいた。遠乗りから戻ってしばらく執務室に閉じこもったままというのは滅多にないことだった。
 侍女のアンジーには心当たりがあった。

「ベイカーの店のアデルが辞めて家に帰ったそうです」
「まあ、なんてこと!」

 グレイスにとって、アデルは単なる菓子職人ではなかった。命の恩人で勇敢で健気な娘だった。貴族であれば、息子の嫁にもと考えたこともあった。さすがに身分を考えるとそうはいかないが。せめてもの礼にと赤いバラの髪飾りを作って息子に昨夜もたせた。
 そんなアデルがベイカーの店を辞めた。グレイスにとっては衝撃だった。よもや昨夜息子が何かしたのではないかと思ったが、アンジーの話はその疑いを打ち消した。

「なんでもおばあさんが病気で田舎に帰ったそうです。新しい職人が一人入ってたそうですから、前から決まってたんでしょうね。殿様はたぶんご存知なかったのでは」

 グレイスは侍女達に、いつもと同じようにロバートに接するように命じた。侍女達も心得たものでアデルのあの字もロバートの前では口に出さなかった。
 夕食の後、ロバートは珍しくお菓子をいただきたいと母に言った。
 グレイスは自分の食糧庫に貯蔵している菓子を持ってくるように侍女に告げた。しばらくして侍女が持って来たのはアデルがあの日焼いた菓子だった。それを切り分けクリームを添えたものが運ばれてくるとロバートはほんの一瞬だけ、小さなため息のような息を吐いた。
 グレイスは何も言わず、息子とともに菓子を口に入れた。中に入っている乾燥した果実や胡桃とサトウキビの蒸留酒と生地がなじんで、単に甘いだけではない深い味わいを醸し出していた。二週間余りでこうなるのだから一か月もたてばもっと熟成されるだろう。人生もそうだ。歓びも悲しみも何もかも時間とともに熟成され、味わい深くなっていく。
 菓子を食べ終わった後、ロバートは何事もなかったかのように告げた。  

「母上、明日から国境の砦に三日ほど出かけます」 

 隣国の王女の国入りの日程の調整のため、交渉が必要だった。辺境伯のロバートは国王から婚礼の様々な交渉事を任されたのである。

「御武運を祈ります」

 武器をとって戦うわけではないが、交渉もまた戦いだった。グレイスは国境の砦に領主が赴く際の慣例に倣って言ったのである。
 息子が食堂を出た後、グレイスは少しだけ安堵していた。これから数か月、息子はアデルのことを思い出す暇もないくらい多忙な日々を過ごすことになるだろう。思い出さねばやがては忘れる。忘却もまた救いとなる。
 息子のことだから、国王から命じられた仕事を懸命に遂行するだろう。それが認められれば、他の貴族らから若過ぎる辺境伯と侮られることもあるまい。試練を乗り越える手助けはできないけれど、見守っていこうとグレイスは思った。母親には見守ることしかできないのだ。もし、妻がいたらもっと身近で助けることができるものを。
 
 

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