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第一章 ハロウィン禁止命令‐偏狭な辺境伯は仮装を許さない‐
7 陽気な未亡人
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「ええっ! 籠城って、それじゃナンシーは戻って来れないじゃないの」
昼食の後、グレイスは城主である息子ロバートの口から城門をすべて閉ざしたことを知らされた。
「侍女のナンシーですか」
「ええ。ナンシーにお菓子を買って来てって頼んだの。ベイカーの菓子屋が作るお菓子がおいしいって聞いたから、万聖節のお菓子の参考にしようと思って」
ロバートはまたベイカーかと苛立ちを感じた。あの生意気な娘はベイカーの店の見習い職人だった。
「一人で城外に出したわけではないでしょう」
「ええ。衛兵のスコットが非番だったからついていってもらってたの。ナンシーの実家は城下から離れてる。城に入れないとなったら、今夜はどこに泊まればいいか」
「曲者さえ捕まえれば、城の門を開けます。それにペギーの屋敷に行けば泊めてくれるでしょう」
高齢で勤めができなくなったからと去年辞めた元侍女頭のペギーは面倒見がよく、侍女を休みの日にお茶に招いていた。特にナンシーはペギーから可愛がられていた。
「そうね。曲者を早く捕まえて頂戴。ああ、なんてことでしょう。可哀想なナンシー」
そう言った後、グレイスは息子に改めて尋ねた。
「あなた、誰かに恨まれるようなことを何かしたんじゃないの」
「していません。ですが、逆恨みする者はいるかもしれません。あるいは隣国の刺客か」
「逆恨みって……」
「さっきも、お触れを撤回しろと言う馬鹿な娘がおりました。領地のため、国のためを思い、出した触れだというのに。あれこそ逆恨みだ」
「触れ? 触れって何?」
グレイスは息子の出したお触れをまだ知らなかった。
「10月31日に仮装をして練り歩いた者を逮捕すると」
「はああああ! 逮捕って、万聖節でしょ。何を言っているの!」
息子が万聖節の仮装をよからぬことと思っていることは知っていたが、まさか逮捕とは。グレイスは息子の正気を疑った。
「まさか、あなた、その娘さんをやり込めたりはしなかったでしょうね」
「やり込めましたよ。店に戻って主と相談すると言ってました。もっとも、城門を閉ざしているので出ることはできませんが」
グレイスは娘が可哀想に思えてきた。頑固なロバートに立ち向かった挙句に、職場に戻れないとは。
「その娘さんはどこにいるの」
「どこって、クレイが割り当てた部屋でしょう。クレイなら知っているはずです」
「ここへ連れてらっしゃい。可哀想に、知った人もろくにいない城に一人ぼっちでいなきゃいけないなんて」
「母上、何を仰せですか。生意気な娘ですよ。ベイカー菓子店の見習い職人だかなんだか知らないが、まるで商店街の代表のようなことを言うんだから」
グレイスはその途端に目を輝かせた。
「ベイカー菓子店の見習い職人ですって。ロバート、連れてらっしゃい」
「母上、あのような無礼な娘に会うなどなりません」
「無礼でもなんでもいいわ。職人なら、菓子の作り方を知ってるはず。あなたのせいでナンシーが戻って来れないんだから、あなたには責任をとる義務があるわ。その娘さんを今すぐここへ連れてらっしゃい」
「駄目です」
「駄目って、あなた、母親の命令を聞けないの? わかったわ。城門が開いたら、私の全財産を教会に寄付して修道院に入るから」
ロバートは耳を疑った。母が結婚の際に持参金の一つとして持ってきた葡萄畑とコルクガシの林を持つ東部の土地はマカダム家にとって大事な収入源の一つだった。それを教会に寄付なんて冗談ではなかった。
「母上、お気が触れたのですか」
グレイスはそれはこっちの台詞だと思ったが、口にはしなかった。
「息子に邪険にされれば、修道院に入りたくもなります」
財産はともかく、母親が息子に邪険にされて修道院に入ったなどという話が広まったら、恥どころではない。「命よりも名を惜しめ」と家訓にもある。
「わかりました。連れて参ります。しかしながら、下賤の娘です。口走ったことをまともにとらないようにしてください」
「はいはい。さっさと連れて来て頂戴」
アデルに宛がわれた部屋は地下一階にある今は使用されていない使用人部屋だった。
半地下にあり、天井近くに横に細長い鉄格子のはまった窓があって、外の光がそこからしか入ってこないという、ベイカー菓子店の屋根裏よりもひどい部屋だった。
狙撃犯がまだ捕まっていないので、絶対に部屋から出てはいけないと言われた。部屋は湿気が多い上に、ベッドはあるが、マットは硬いし、変な臭いがする。まるで囚人になったようだった。
ここを出たら、頭から足の先まできれいに洗わないと、お菓子の出来に影響しそうだった。
当然のことながら、暖房はない。十月に入って朝晩冷え込み始めている。どうか今日のうちにここから出られますようにとアデルは祈った。
手を合わせていると、ドアを叩く音がした。
「ベイカー菓子店のアデルさん、大奥様がお呼びです」
若い女性の声がした。お呼びというのは出られるということだろうか。大奥様とは前の領主の夫人だろう。一体、何だろうと思ってドアを開けた。
お仕着せのドレスを着た亜麻色の髪のきれいな女性だった。背後には警備の衛兵がついている。
「私は大奥様付きの侍女のアンジーです。殿様の御命令でお迎えに上がりました」
「ここを出られるの」
「はい」
神様って本当にいるんだとアデルは思った。
アデルが連れて来られたのは城の三階にある大奥様グレイスの部屋だった。
「ようこそ。マカダム城へ」
グレイスは両手を広げて歓迎の意を表した。
「お招きにあずかり有難き幸せに存じます」
「そんな堅いことは言わないで」
グレイスは柔らかく微笑んだ。とても、あの領主ロバートの母親とは思えない。
「あなたはお菓子屋の職人だと聞いたわ。早速だけど、お菓子の作り方を教えて欲しいの。ほら、今度万聖節の祭があるでしょう。領主は商店街で作られた料理や菓子は食べないことになっている。だから、私が作って、息子や城で働いている者達に食べさせようと思って。だけど、私の知っている菓子は少々流行遅れなの。なにしろ嫁入り前に母や祖母から教わったものばかりでね。だからベイカーの店に侍女に菓子を買いに行かせたの。参考にするために。ところが、曲者が出たというじゃないの。城門を閉じたから侍女は帰ってこれない。あなたは勤め先に戻れない。それなら、あなたにお菓子の作り方を教わろうと思って。どうかしら、教えてくださる?」
アデルが口をさしはさむ隙は一切なかった。ロバートも言いたいことをはっきり言うが、母親もまた思っていることをそのまま口にする性質らしい。そういう点では母と息子は似ていた。
「はい、喜んで」
今はお得意様ではないが、将来そうなってくれる可能性のある城の大奥様の言葉である。断るわけにはいかない。それに城で働く人々には家族がいる。ベイカーの菓子の味を大奥様に教えて食べてもらえば、家族にも食べさせたいと思うはずである。大奥様が大量に作れるはずはないから、ベイカーの店に来るしかない。ベイカーの店の売り上げは増えるはずだ。職人見習いでも商いの計算はするのである。
それに何より、あの部屋にじっとしていなければならない苦痛を思えば、ずっとましだった。仕事ができるのだから。
「ありがとう。嬉しいわ」
グレイスは満面の笑みだったが、ふとアデルの袖に気付いた。
「その袖はどうしたの」
「ちょっと、弾がかすって」
グレイスはまあと目を剥いた。
「まさか、曲者の」
「はい。怪我はありませんから安心してください」
「安心て、あなた、それはあんまりよ。ロバートったら気が利かない。アンジー、すぐにドレスを。リーズのがしまってあったでしょ。出してちょうだい。動きやすいのをね。その前にお風呂ね。肩に蜘蛛の巣が付いてる。大方、昔の使用人部屋にあなたを入れたのでしょう」
グレイスの指示の下、侍女たちはアデルを浴室に連れて行き、湯あみをさせた。さらには新しい下着とドレスを着せられた。新しい下着は侍女たちのためにいつも用意しているということだった。ドレスは結婚した長女が着ていたもので、袖が膨らんでいた。
着替えたアデルを見たグレイスはため息をついた。
「素敵な栗色の髪なのに、ボンネットに隠していたなんて」
「菓子を作る時は邪魔になりますので」
「そうね。ボンネットとエプロンも用意しましょう」
「ありがとうございます、奥様。勿体ないことを」
「勿体ないなんて。あなたは私のお菓子の先生よ。謝礼を払わなければならないくらいなのに。そうそう、これを召し上がって」
テーブルの上に侍女たちが料理を運んで来た。白い焼きたてのパン、バター、ラズベリーのジャム、赤ワインで煮た子牛の肉、豆と温野菜のサラダ、酢漬けのキャベツ、葡萄……。アデルがいつも食べる賄いとは大違いだった。
「まだお昼を食べていないでしょ」
「籠城をするのに、よろしいのですか」
「勿論。籠城なんてせいぜい一日か二日だもの」
「おそれながら全部は食べきれませんので残してよろしいでしょうか」
「構わないわ。でも、どうして? 食が細いようには見えないけれど」
「あまりたくさん食べると味覚が変わってしまうので」
全部の職人がそうではないが、太ると味覚が鈍くなるような気がして、アデルは食べ過ぎないようにしていた。
「まあ、職人て大変なのね」
「おいしいものを作るためですから、そんなに大変なことではありません」
アデルはバターとジャムをそれぞれ載せたパン二個、子牛の肉を半分、サラダとキャベツを全部、葡萄は房の三分の一を食べ、水を飲んだ。食事はすべて美味だった。城の厨房の料理人は一流なのだろうとアデルは感動した。となると、一介の菓子職人見習いのアデルを厨房に入れてくれるとは思えなかった。厨房は料理人の聖域だ。
「私のような身分の者が厨房に入ってよろしいのでしょうか」
だが、グレイスはその心配を一蹴した。
「城の厨房には入れないけれど、私は自分の厨房を持っているの。万が一城の一階にある厨房が敵の手に落ちた場合、上の階に城主が籠もっても大丈夫なように城主夫人の部屋にも厨房がある。ふだんは使わないけれど、菓子を焼く時は使っている。さあ、いらっしゃい」
アデルは髪をひっつめにして用意されたボンネットをかぶり、エプロンを身に付けた。
グレイスは自室の奥にある厨房に案内した。
アデルは一目見て、まあと声を上げた。規模は小さいが、すべてがそろっていた。特にオーブンは店のものより一回り小さいが、それでもセルクル型のケーキなら一度に三台は焼けそうだった。
水もすでに井戸から運ばれて大きな水がめ二つに入っていた。グレイスの話では、井戸の水は沸かさなくてもそのまま飲めるということだった。
バターと牛乳と卵と砂糖と小麦粉もたっぷりあった。それに香辛料も。
アデルにとって理想の厨房だった。
「バターや牛乳・卵は出入りの商人が運んで来てくれる。籠城になったら商人も入って来れない。牛乳や卵はこのままだと腐ってしまうから、砂糖を入れてお菓子にすれば日持ちするでしょう」
グレイスの言葉にアデルは驚いた。貴族の夫人がそういうことを知っているとは。たいていの貴族は時間になれば黙っていても食事が目の前のテーブルに置かれると思っている。食糧の保存など考えたりしない。
やはり国境を守る辺境伯の前夫人ともなれば日頃から心掛けが違うらしい。
「おそれいりました。大奥様、こちらこそ、この立派な厨房を大切に使わせていただきます」
「思う存分使って頂戴。残念だけれど、ロバートはハロウィンをよく思っていないから、それを連想させる菓子は今日は我慢して頂戴。後でこっそり教えて。その代わりに今日は日持ちがする菓子を教えて欲しいの。材料はあるものを何でも使っていいから」
日持ちのする菓子。アデルはベイカーの店で作りたいと思っていた焼き菓子があることを思い出した。手に入りにくい材料を使うので諦めていたのだ。だが、ここならあるかもしれない。
「それでは、干しブドウ、それから他にも干した果物があればそれを。胡桃も用意できたら。それから強いお酒はありますか」
「強いお酒というと、輸入物のサトウキビから作った蒸留酒があるわ」
「サトウキビの蒸留酒があるのですか」
「もしかして、蒸留酒に干しブドウを漬けたものを使うのかしら」
「はい。長く漬け込んだものがあればいいのですけれど」
「あるわよ。聖誕祭に作るケーキのために一か月前から干しブドウとピールを漬け込んだものが。サリー、私の食糧庫に行って果物の蒸留酒漬けと胡桃を取ってきて。胡桃はできるだけたくさん」
サリーはすぐに衛兵を伴い食糧庫に向かった。
その間、アデルはグレイスに菓子の作り方を説明した。
「まず、生地の材料は小麦粉、砂糖、卵、バター。先ほど頼んだ干した果物の蒸留酒漬けと胡桃、香辛料を生地に混ぜます」
「まあ、聖誕祭のケーキみたいね。酵母は入れないの?」
「生地の配合が違います。こちらはすべて同じ比率です。それから酵母は入れません」
「ということは膨らみの少ない重い生地になるのね」
アデルはグレイスの理解の速さに驚いた。教えるなどとはおこがましい話のように思えてくる。
説明を終えぬうちに、サリーと衛兵は果物の蒸留酒漬けの入った大きな壺と胡桃の入った大きな袋を運んで来た。
アデルは壺の蓋を開け、匂いをかいだ。これなら使える。
テーブルの上に侍女たちがボールや計りを運んで来た。
まさか、心の狭い領主の城でこんなことができるとは思ってもいなかった。アデルはオーブンに火を入れるようにサリーに指示した。薪は十分ある。アデルの心にも火が付いた。
昼食の後、グレイスは城主である息子ロバートの口から城門をすべて閉ざしたことを知らされた。
「侍女のナンシーですか」
「ええ。ナンシーにお菓子を買って来てって頼んだの。ベイカーの菓子屋が作るお菓子がおいしいって聞いたから、万聖節のお菓子の参考にしようと思って」
ロバートはまたベイカーかと苛立ちを感じた。あの生意気な娘はベイカーの店の見習い職人だった。
「一人で城外に出したわけではないでしょう」
「ええ。衛兵のスコットが非番だったからついていってもらってたの。ナンシーの実家は城下から離れてる。城に入れないとなったら、今夜はどこに泊まればいいか」
「曲者さえ捕まえれば、城の門を開けます。それにペギーの屋敷に行けば泊めてくれるでしょう」
高齢で勤めができなくなったからと去年辞めた元侍女頭のペギーは面倒見がよく、侍女を休みの日にお茶に招いていた。特にナンシーはペギーから可愛がられていた。
「そうね。曲者を早く捕まえて頂戴。ああ、なんてことでしょう。可哀想なナンシー」
そう言った後、グレイスは息子に改めて尋ねた。
「あなた、誰かに恨まれるようなことを何かしたんじゃないの」
「していません。ですが、逆恨みする者はいるかもしれません。あるいは隣国の刺客か」
「逆恨みって……」
「さっきも、お触れを撤回しろと言う馬鹿な娘がおりました。領地のため、国のためを思い、出した触れだというのに。あれこそ逆恨みだ」
「触れ? 触れって何?」
グレイスは息子の出したお触れをまだ知らなかった。
「10月31日に仮装をして練り歩いた者を逮捕すると」
「はああああ! 逮捕って、万聖節でしょ。何を言っているの!」
息子が万聖節の仮装をよからぬことと思っていることは知っていたが、まさか逮捕とは。グレイスは息子の正気を疑った。
「まさか、あなた、その娘さんをやり込めたりはしなかったでしょうね」
「やり込めましたよ。店に戻って主と相談すると言ってました。もっとも、城門を閉ざしているので出ることはできませんが」
グレイスは娘が可哀想に思えてきた。頑固なロバートに立ち向かった挙句に、職場に戻れないとは。
「その娘さんはどこにいるの」
「どこって、クレイが割り当てた部屋でしょう。クレイなら知っているはずです」
「ここへ連れてらっしゃい。可哀想に、知った人もろくにいない城に一人ぼっちでいなきゃいけないなんて」
「母上、何を仰せですか。生意気な娘ですよ。ベイカー菓子店の見習い職人だかなんだか知らないが、まるで商店街の代表のようなことを言うんだから」
グレイスはその途端に目を輝かせた。
「ベイカー菓子店の見習い職人ですって。ロバート、連れてらっしゃい」
「母上、あのような無礼な娘に会うなどなりません」
「無礼でもなんでもいいわ。職人なら、菓子の作り方を知ってるはず。あなたのせいでナンシーが戻って来れないんだから、あなたには責任をとる義務があるわ。その娘さんを今すぐここへ連れてらっしゃい」
「駄目です」
「駄目って、あなた、母親の命令を聞けないの? わかったわ。城門が開いたら、私の全財産を教会に寄付して修道院に入るから」
ロバートは耳を疑った。母が結婚の際に持参金の一つとして持ってきた葡萄畑とコルクガシの林を持つ東部の土地はマカダム家にとって大事な収入源の一つだった。それを教会に寄付なんて冗談ではなかった。
「母上、お気が触れたのですか」
グレイスはそれはこっちの台詞だと思ったが、口にはしなかった。
「息子に邪険にされれば、修道院に入りたくもなります」
財産はともかく、母親が息子に邪険にされて修道院に入ったなどという話が広まったら、恥どころではない。「命よりも名を惜しめ」と家訓にもある。
「わかりました。連れて参ります。しかしながら、下賤の娘です。口走ったことをまともにとらないようにしてください」
「はいはい。さっさと連れて来て頂戴」
アデルに宛がわれた部屋は地下一階にある今は使用されていない使用人部屋だった。
半地下にあり、天井近くに横に細長い鉄格子のはまった窓があって、外の光がそこからしか入ってこないという、ベイカー菓子店の屋根裏よりもひどい部屋だった。
狙撃犯がまだ捕まっていないので、絶対に部屋から出てはいけないと言われた。部屋は湿気が多い上に、ベッドはあるが、マットは硬いし、変な臭いがする。まるで囚人になったようだった。
ここを出たら、頭から足の先まできれいに洗わないと、お菓子の出来に影響しそうだった。
当然のことながら、暖房はない。十月に入って朝晩冷え込み始めている。どうか今日のうちにここから出られますようにとアデルは祈った。
手を合わせていると、ドアを叩く音がした。
「ベイカー菓子店のアデルさん、大奥様がお呼びです」
若い女性の声がした。お呼びというのは出られるということだろうか。大奥様とは前の領主の夫人だろう。一体、何だろうと思ってドアを開けた。
お仕着せのドレスを着た亜麻色の髪のきれいな女性だった。背後には警備の衛兵がついている。
「私は大奥様付きの侍女のアンジーです。殿様の御命令でお迎えに上がりました」
「ここを出られるの」
「はい」
神様って本当にいるんだとアデルは思った。
アデルが連れて来られたのは城の三階にある大奥様グレイスの部屋だった。
「ようこそ。マカダム城へ」
グレイスは両手を広げて歓迎の意を表した。
「お招きにあずかり有難き幸せに存じます」
「そんな堅いことは言わないで」
グレイスは柔らかく微笑んだ。とても、あの領主ロバートの母親とは思えない。
「あなたはお菓子屋の職人だと聞いたわ。早速だけど、お菓子の作り方を教えて欲しいの。ほら、今度万聖節の祭があるでしょう。領主は商店街で作られた料理や菓子は食べないことになっている。だから、私が作って、息子や城で働いている者達に食べさせようと思って。だけど、私の知っている菓子は少々流行遅れなの。なにしろ嫁入り前に母や祖母から教わったものばかりでね。だからベイカーの店に侍女に菓子を買いに行かせたの。参考にするために。ところが、曲者が出たというじゃないの。城門を閉じたから侍女は帰ってこれない。あなたは勤め先に戻れない。それなら、あなたにお菓子の作り方を教わろうと思って。どうかしら、教えてくださる?」
アデルが口をさしはさむ隙は一切なかった。ロバートも言いたいことをはっきり言うが、母親もまた思っていることをそのまま口にする性質らしい。そういう点では母と息子は似ていた。
「はい、喜んで」
今はお得意様ではないが、将来そうなってくれる可能性のある城の大奥様の言葉である。断るわけにはいかない。それに城で働く人々には家族がいる。ベイカーの菓子の味を大奥様に教えて食べてもらえば、家族にも食べさせたいと思うはずである。大奥様が大量に作れるはずはないから、ベイカーの店に来るしかない。ベイカーの店の売り上げは増えるはずだ。職人見習いでも商いの計算はするのである。
それに何より、あの部屋にじっとしていなければならない苦痛を思えば、ずっとましだった。仕事ができるのだから。
「ありがとう。嬉しいわ」
グレイスは満面の笑みだったが、ふとアデルの袖に気付いた。
「その袖はどうしたの」
「ちょっと、弾がかすって」
グレイスはまあと目を剥いた。
「まさか、曲者の」
「はい。怪我はありませんから安心してください」
「安心て、あなた、それはあんまりよ。ロバートったら気が利かない。アンジー、すぐにドレスを。リーズのがしまってあったでしょ。出してちょうだい。動きやすいのをね。その前にお風呂ね。肩に蜘蛛の巣が付いてる。大方、昔の使用人部屋にあなたを入れたのでしょう」
グレイスの指示の下、侍女たちはアデルを浴室に連れて行き、湯あみをさせた。さらには新しい下着とドレスを着せられた。新しい下着は侍女たちのためにいつも用意しているということだった。ドレスは結婚した長女が着ていたもので、袖が膨らんでいた。
着替えたアデルを見たグレイスはため息をついた。
「素敵な栗色の髪なのに、ボンネットに隠していたなんて」
「菓子を作る時は邪魔になりますので」
「そうね。ボンネットとエプロンも用意しましょう」
「ありがとうございます、奥様。勿体ないことを」
「勿体ないなんて。あなたは私のお菓子の先生よ。謝礼を払わなければならないくらいなのに。そうそう、これを召し上がって」
テーブルの上に侍女たちが料理を運んで来た。白い焼きたてのパン、バター、ラズベリーのジャム、赤ワインで煮た子牛の肉、豆と温野菜のサラダ、酢漬けのキャベツ、葡萄……。アデルがいつも食べる賄いとは大違いだった。
「まだお昼を食べていないでしょ」
「籠城をするのに、よろしいのですか」
「勿論。籠城なんてせいぜい一日か二日だもの」
「おそれながら全部は食べきれませんので残してよろしいでしょうか」
「構わないわ。でも、どうして? 食が細いようには見えないけれど」
「あまりたくさん食べると味覚が変わってしまうので」
全部の職人がそうではないが、太ると味覚が鈍くなるような気がして、アデルは食べ過ぎないようにしていた。
「まあ、職人て大変なのね」
「おいしいものを作るためですから、そんなに大変なことではありません」
アデルはバターとジャムをそれぞれ載せたパン二個、子牛の肉を半分、サラダとキャベツを全部、葡萄は房の三分の一を食べ、水を飲んだ。食事はすべて美味だった。城の厨房の料理人は一流なのだろうとアデルは感動した。となると、一介の菓子職人見習いのアデルを厨房に入れてくれるとは思えなかった。厨房は料理人の聖域だ。
「私のような身分の者が厨房に入ってよろしいのでしょうか」
だが、グレイスはその心配を一蹴した。
「城の厨房には入れないけれど、私は自分の厨房を持っているの。万が一城の一階にある厨房が敵の手に落ちた場合、上の階に城主が籠もっても大丈夫なように城主夫人の部屋にも厨房がある。ふだんは使わないけれど、菓子を焼く時は使っている。さあ、いらっしゃい」
アデルは髪をひっつめにして用意されたボンネットをかぶり、エプロンを身に付けた。
グレイスは自室の奥にある厨房に案内した。
アデルは一目見て、まあと声を上げた。規模は小さいが、すべてがそろっていた。特にオーブンは店のものより一回り小さいが、それでもセルクル型のケーキなら一度に三台は焼けそうだった。
水もすでに井戸から運ばれて大きな水がめ二つに入っていた。グレイスの話では、井戸の水は沸かさなくてもそのまま飲めるということだった。
バターと牛乳と卵と砂糖と小麦粉もたっぷりあった。それに香辛料も。
アデルにとって理想の厨房だった。
「バターや牛乳・卵は出入りの商人が運んで来てくれる。籠城になったら商人も入って来れない。牛乳や卵はこのままだと腐ってしまうから、砂糖を入れてお菓子にすれば日持ちするでしょう」
グレイスの言葉にアデルは驚いた。貴族の夫人がそういうことを知っているとは。たいていの貴族は時間になれば黙っていても食事が目の前のテーブルに置かれると思っている。食糧の保存など考えたりしない。
やはり国境を守る辺境伯の前夫人ともなれば日頃から心掛けが違うらしい。
「おそれいりました。大奥様、こちらこそ、この立派な厨房を大切に使わせていただきます」
「思う存分使って頂戴。残念だけれど、ロバートはハロウィンをよく思っていないから、それを連想させる菓子は今日は我慢して頂戴。後でこっそり教えて。その代わりに今日は日持ちがする菓子を教えて欲しいの。材料はあるものを何でも使っていいから」
日持ちのする菓子。アデルはベイカーの店で作りたいと思っていた焼き菓子があることを思い出した。手に入りにくい材料を使うので諦めていたのだ。だが、ここならあるかもしれない。
「それでは、干しブドウ、それから他にも干した果物があればそれを。胡桃も用意できたら。それから強いお酒はありますか」
「強いお酒というと、輸入物のサトウキビから作った蒸留酒があるわ」
「サトウキビの蒸留酒があるのですか」
「もしかして、蒸留酒に干しブドウを漬けたものを使うのかしら」
「はい。長く漬け込んだものがあればいいのですけれど」
「あるわよ。聖誕祭に作るケーキのために一か月前から干しブドウとピールを漬け込んだものが。サリー、私の食糧庫に行って果物の蒸留酒漬けと胡桃を取ってきて。胡桃はできるだけたくさん」
サリーはすぐに衛兵を伴い食糧庫に向かった。
その間、アデルはグレイスに菓子の作り方を説明した。
「まず、生地の材料は小麦粉、砂糖、卵、バター。先ほど頼んだ干した果物の蒸留酒漬けと胡桃、香辛料を生地に混ぜます」
「まあ、聖誕祭のケーキみたいね。酵母は入れないの?」
「生地の配合が違います。こちらはすべて同じ比率です。それから酵母は入れません」
「ということは膨らみの少ない重い生地になるのね」
アデルはグレイスの理解の速さに驚いた。教えるなどとはおこがましい話のように思えてくる。
説明を終えぬうちに、サリーと衛兵は果物の蒸留酒漬けの入った大きな壺と胡桃の入った大きな袋を運んで来た。
アデルは壺の蓋を開け、匂いをかいだ。これなら使える。
テーブルの上に侍女たちがボールや計りを運んで来た。
まさか、心の狭い領主の城でこんなことができるとは思ってもいなかった。アデルはオーブンに火を入れるようにサリーに指示した。薪は十分ある。アデルの心にも火が付いた。
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