照と二人の夫

三矢由巳

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六 家老と勘定奉行

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 祝言の翌年、長男の恵之助が生まれた。殿様の長男萬福丸まんぷくまるも同じ年に生まれており、幼い頃から恵之助は城に上がり、仕えることになった。といっても子どもだから一緒に遊んだり、剣術の真似事をしたり、文字を習ったりという程度のことであった。
 六歳になった萬福丸は殿様とともに江戸に行くことになり、恵之助もお供に選ばれた。
 照はさすがにまだ幼い恵之助を案じたが、萬福丸の生母の満津みつの方の心情を思えば、行かせぬわけにもいかず、八幡様のお守りを持たせて息子を見送ったのだった。
 照の元には四歳になる娘志津しづが残された。
 照は清兵衛の母親須万すまとともに志津を連れて城の奥を訪ねるようになった。
 側室の満津の方が沢井家の養女ということもあるが、腹を痛めて生んだ二人の子が江戸に行き、寂しいのではないかという同じ母親としての思いもあった。
 城に上がると志津は満津の方や奥女中に可愛がられた。小うめという狆と遊ぶことも許された。
 照は勿体ないことと思いながら、満津の方が行なっている照妙寺や、幼少の子どもの病を診る生育院への援助を手伝った。
 といっても襁褓や寝間着、布巾、雑巾等を縫うことがほとんどで、視察についていくことはなかった。
 生育院の勘定を担当しているのが宇留部孫右衛門という事を皆知っているので、声を掛けないようにしているのだと照にはわかっていた。
 照自身は離縁のことをさほど気にしていないのだが、周囲が気を遣っているのだ。
 祝言の十年後には次男の鐡之助てつのすけが生まれた。三十を越えての子だったので、清兵衛や両親は心配したが、意外なほどの安産であった。
 父の仁右衛門は孫が生まれて以来、それまでの体調が嘘のようによくなっていた。孫が生きる張り合いになっているようだった。
 清兵衛は父の甚太夫同様に、舅に敬意を示した。照にとってはありがたいことだった。





 祝言を挙げて十二年たった享保十五年庚戌かのえいぬの年、事件が起きた。
 二月の半ば、春とはいえまだ肌寒い夜のことだった。夫の清兵衛は城から帰るとすぐに小田切角兵衛のところに出かけていたが、それにしても帰りが遅いと思い、先に子らに夕食を食べさせた。
 子どもらを寝かせる刻限になっても戻って来ないので先に休ませた。
 話し込んでいるのかもしれないが、長居にしても限度がある。
 下男に様子を見に行かせようかと思っていると、清兵衛本人が戻ってきた。

「火事装束の支度を」

 半鐘の音もしないのにと不思議に思っていると、羽織を脱ぎながら清兵衛は告げた。

「これから城に参る。家の戸締りをきっちりせよ」
「なんぞあったのですか」
「これから起きるかもしれぬ。そなたは決して外に出てはならぬ。屋敷の守りは固めておるが、何があってもおかしくない」

 耳を澄ますと、屋敷の外で何やらかちゃかちゃと音が聞こえた。照は寒気を覚えた。これはもしや具足の音ではないか。何かとんでもないことが起きようとしているらしい。
 すぐに押し入れの奥から火事装束を出した。城下ではめったに火災は起きない。昨年、大火から七十五年になるということで、梯子乗りの披露の際は重臣らも火事装束を身につけた。それ以来の出番である。
 装束を手早く身につけた清兵衛は馬には乗らずに登城した。ふだんは羽織袴の部下たちも火事装束でそれに従った。誰も口を開かぬ静かな行軍だった。
 式台から部屋に戻ると、舅の甚太夫がいた。ふだんは離れにいるのだが、気配を察して起きてきたらしい。袴を着けていた。

「お父様、お休みを」
「休んでいられるものか。離れのほうが外の音が聞こえるのだ。どうも不心得者が出たようだな」

 甚太夫の手には種子島が握られていた。
 照は驚いた。確かに舅は狩りが好きでよく出かけているが、人相手に使うというのか。

「もし何かあったら、これがある。照さんは薙刀の用意を。それから炊き出しの支度をしたほうがよかろう。夜のうちに片がつけば朝皆腹をすかして帰って来るはず。片がつかずとも、握り飯の差し入れはできよう」
「かしこまりました」

 照は薙刀をいつでも使えるように、居間に立てかけた後、台所に入った。すでに須万も起きて米を研いでいた。
 照は薪を用意した。互いに言葉を交わさなくともやるべきことはわかっていた。
 火を起こし、竈に羽釜をかけた。火加減を見ながら薪をつぎ足した。その間に須万は梅干しや塩を用意していた。
 飯が炊けた頃、半鐘の音が聞こえた。鐘の鳴る間隔が少しあいているのですぐ近くではないようだが、下女らが起き出してきた。
 須万は下女を動揺させぬように、炊き出しの支度をしたから握り飯を作るように命じた。下女らは火事のための炊き出しと思っているようだった。
 夫の火事装束や舅の種子島のことを考えると、この火事はただの火事ではないように照には思えた。握り飯が出来上がった頃、半鐘の音は消火を知らせるものに変わった。
 やがて雨が降り始めた。
 夜が明けた頃、清兵衛の部下二人が屋敷に姿を見せた。
 彼らは隠居の甚太夫に報告を済ませると、勧められた握り飯を丁重に断り城に戻った。
 また、外を警備していた者らも一斉に引き上げた。
 照は子らに台所で朝食として握り飯を食べさせていたが、甚太夫に呼ばれたので、その場を離れた。
 座敷に入ると、甚太夫は昨夜の件をかいつまんで話した。
 小田切仁右衛門の隠居仲間、戸川漱流そうりゅうが寺子屋の師匠や浪人者と謀叛を図っていたことがわかり、捕縛されたというのである。
 照にとっては思いもよらぬ話であった。確かに父仁右衛門はよく戸川の隠居らとかたらって釣りに行ったり柳町の盛り場に行ったりしていた。隠居仲間の気楽な付き合いであろうと思っていたのだ。賭け事などに手を出している様子もないので、照も兄らも特に咎めることはなかった。

「よもや、小田切の父も」
「それはない」

 甚太夫ははっきりと言った。照はほっとした。舅は偽りを言う人ではない。

「それどころか、仁右衛門殿は此度の一件の功労者と言うてよい」
「功労者とは」

 照は何やらその言葉に引っかかるものを覚えた。

「照さん、落ち着いて聞いてくれ」

 嫌な予感がした。

「昨日の夕刻、仁右衛門殿が浪人に襲われてな」
「なんと」

 照は思わず腰を浮かせていた。

「大丈夫じゃ、怪我はない」

 怪我はないと言われても、襲われるなど尋常のことではない。

「怪我はなかったが、少々身体にこたえられたのか、体調を崩されて側用人の岡部殿の家に運び込まれた。医者にも診せ、角兵衛殿がつきそっておいでゆえ、心配はいらぬ」

 確か昨夜、夫は兄の角兵衛と会っていたはずである。とすれば、清兵衛は父のことを知っていたのではないか。だが、なぜ知らせてくれなかったのか。

「では、今すぐ岡部様のところへ」

 立ち上がろうとする照をまあまあと甚太夫は手で制した。

「慌てずともよい。それに事情があってのこと。それをわかっておいて欲しいのだ。決して父上を責めてはならぬぞ」

 父を責める。どういう意味なのか。照は浮いた腰を元に戻した。

「仁右衛門殿は、戸川の隠居や浪人の動きを探っておいでだったのだ。要するに密偵をされていた。それが露見し、戸川の隠居の一味の浪人に襲われたのだ」
「父上が、密偵」

 照はあまりのことにそれ以上、何も口にできなかった。

「驚いたであろうな。わしも驚いた。だが、やむにやまれぬ気持ちであったのであろうな。小田切の家は次右衛門殿の一件で閉門となっている。なんとか汚名をそそぎたかったのではあるまいか。わしも、もし同じようなことがあれば、己が生きているうちになんとかしてやりたいと思うであろう。愚かと思われるかもしれぬが、決して父上を責めてはならぬぞ」

 照には父を責めることなどできない。幸せな生活の中にいて、父の気持ちに気付けなかった己が恥ずかしかった。

「父上が襲われた一件がきっかけになって、昨夜のうちに城代様から殿にお話があり、戸川の隠居らの一味が皆捕まったそうだ。昨夜の火事は、一味の一人が住まいに火をかけたとのこと。辺りの家が八軒ほど焼けたが、火事で死んだ者はおらぬそうじゃ。そなたの父のおかげで企ては未然に防がれたのだ」

 それほどの大捕物が行なわれていたとは、まったく気づかなかった。

「それで、一件の始末で清兵衛は今日は帰れぬとのこと。清兵衛から、昨夜詳しいことが話せず申し訳ないと伝言があった。あれが仁右衛門殿のことを伝えなかったこと、悪く思わないでくれ。何があるかわからぬような時分に女の身で外を歩けば、どういうことになるか、わからんからの」

 確かに騒動の中で辰巳町から大手町まで行くのは危険過ぎた。それを案じて清兵衛は何も言わなかったのであろう。だが、自分にもそれくらいの分別はあると思っている。

「そなたに心配をかけたくなかったのであろうな」

 それはわかるが、一言でいいから教えて欲しかったと照は思った。自分はそんなに頼りない妻なのであろうか。





 照は子どものことを須万に頼んで岡部家に向かった。
 側用人の岡部惣左衛門の屋敷は大手町の中でも城に近い一画にあった。殿に重く用いられているのだ。ふと見ると、はす向かいに宇留部家があった。宇留部家は孫右衛門が勘定方から奉行に抜擢されて以後、大手町に屋敷替えをしたのである。
 それはともかく兄の角兵衛は昨夜からほとんど寝ていないはずなので、照はちらと宇留部家の門を振り返っただけで、岡部家の門をくぐった。
 父の容体は思ったよりもよかった。ただ手足が痺れたり、胸が苦しくなったりするというので、しばらくは動かさないようにと医者から言われていた。
 父は照の顔を見るなり言った。

「すまぬな。子どもがいては忙しかろうに」
「心配いりません。沢井の父も母もおりますから」
「清兵衛殿にも迷惑をかけた」
「さようなことはありません。よくお休みください。よくなったら、鐡之助に釣りを教えてくださいませ」
「そうであった。わしの釣り竿を欲しがっていたからな」

 父は笑って見せたものの、老いは明らかだった。
 家の汚名を雪ぐためとはいえ、古くからの馴染みを探らねばならなかった父はいかなる気持ちであったのか。父を責めることなど照にはできなかった。
 午後には母と長兄の妻も駆けつけた。角兵衛とも話し合い、四人交代で父の面倒を看ることになった。照は毎日家事と岡部家通いで慌ただしく過ごしたのだった。その間、清兵衛と話す暇はほとんどなかった。
 起き上がり、自分の足で厠にも行けるようになったので、十日後に仁右衛門はやっと帰宅できた。
 が、ほっとしたのも束の間、仁右衛門は中風の発作を起こした。一命は取り留めたが、身動きもままならず、照は毎日実家に通って介護を手伝った。
 だが、照の仕事はそれだけでは済まなかった。
 岡部家に嫁いでいる夫の妹の実乃みのがお産を前に予定よりも早く里帰りしてきたのである。大きな腹をかかえている妊婦に家事を任せるわけにはいかなかった。下女達はいるが、照も須万も家事がそれぞれにある。実乃の体調にも気を配らねばならなかった。足のむくみがあれば医者を呼び、その指示に従い食事を家族とは別に作りと、増えた家事の負担は決して小さくなかった。
 実家に行けば、老いた母では大きな父の寝返りを打たせるのも一苦労なので、力仕事は照がすることになる。兄の角兵衛もよく手伝ってくれるが、学問所の教授の仕事もあるので、いて欲しい時にいるとは限らなかった。長兄の嫁も自分の親が病気がちなのでそちらの面倒もみなければならず、父の介護の負担は照に重くのしかかった。
 三月に入って、実乃が女児を出産すると、沢井家は赤ん坊中心の生活になった。実乃の乳の出が悪いので、乳母になる女性を探し出したのは照だった。実乃はなかなか体調が元に戻らなかったので、四六時中泣く赤ん坊の世話も照は手伝うことになってしまった。
 離れにいる姑も手伝ってくれるが、夜泣きの赤子の世話まではできなかった。
 照は自分でもいつ寝付いたかわからぬうちに朝を迎えていた。朝食の支度をし、夫の出勤の支度をし、子どもの面倒をみて、下女らに洗濯や掃除の指示をし、赤ん坊の様子を見た後は実家に行き、父の世話をし、母の手伝いをし、夕刻沢井家に戻り夕餉の支度をし、実乃の赤ん坊の世話を手伝い、夜は昼間できなかった繕い物をし、赤ん坊が泣けば襁褓を換えたりあやしたりと、茶を飲む暇もないありさまだった。
 二月の騒動で戸川の隠居の他にも調べられた隠居がいたこと、戸川の隠居が取り調べ中に牢内で死去したこと、関わった者達が捕まって処罰されたこと、上意討ちされた者がいたこと等等、照の耳を右から左へと素通りしていった。
 その日も、照は実家に行き、父の夕餉の支度まで済ませて家に向かった。
 そろそろ梅干しの梅を準備しなければならない、実家の梅林の出来はどうだろうかと思いながら大手町への道を歩いていると、誰かに呼び止められた。

「照様ではありませんか」

 振り返ると、それは沖津の妻だった。数年前に夫に先立たれ、家督を継いだ長男は勘定方に勤めているはずである。孫右衛門と離縁してからはすっかり疎遠になっていた。

「お久しぶりです」

 そう言った途端に目まいが照を襲った。地震かと思った。だが、それにしては揺れが大き過ぎた。

「照さまあ」

 沖津の妻の声が遠くに聞こえた。おかしい、こんなに近くにいるのに。そう思った途端に目の前が真っ暗になった。





「かたじけない」
「いえ、たまたま母と居合わせたので」

 男の声が聞こえた。誰だろう。足音が遠ざかっていく。
 照は己のいる場所がどこかわからなかった。床の上のようだった。なぜ寝ているのだろう。梅のことを考えていたことを思い出した。そういえば、誰かに会ったような気がする。
 あれは、そこまで思い出した時、寝ている場合ではないと思った。早く家に戻って夕餉の支度をしなければ。身体を持ち上げようとした。だが、容易に身体は上がらなかった。重いのだ。

「照、起きてはならぬ」

 大きな声が聞こえた。照は目を開けた。

「旦那様」

 いつの間にか、床の横に清兵衛が座っていた。城から帰宅した直後らしく、裃を着けていた。

「お着替えを」
「そんなことはどうでもいい。休め」

 見上げた先の清兵衛の顔は半分泣きそうだった。なぜ、そんな顔をするのだろうかと照は思った。

「すまぬ」

 なぜ、そんなことを言うのだろうか。照は夫を見つめた。

「そなたが寝る間もないほど忙しかったとは。実乃と赤子の世話はしなくともよい。岡部から人をよこしてもらう。小田切様のほうも下女を一人つけるゆえ、一人でやろうと思うな」

 照の多忙ぶりを清兵衛が知らなかったのは仕方のないことだった。清兵衛をはじめとして家中の重役は二月の騒動の後始末で皆忙しかったのだ。城に泊まり込むとまではいかないが、遅くまで残って協議をして帰宅は夜半になることも珍しくなかった。
 照は子ども二人と別室で寝ており、清兵衛は妻が夜中に起きて泣く赤子をあやしていたとは気付かなかったのである。

「そんな勿体ないこと」
「そなたの身に何かあってからでは遅い。今日はたまたま勘定方の沖津弥之助が倒れたそなたをうちまで運んでくれたからよかったが」

 沖津の息子は母親の近くにいたらしい。

「御礼を申さねば」
「それなら先ほど伝えた。それよりも今は休むのだ。志津と鐡之助は母上がみておるゆえ、心配いらぬ」
「申し訳ありません。情けないこと」

 やはり夫から見れば頼りないのだろうか。照は泣きたくなってきた。

「情けないなど。そなたはよくやっておるではないか。だからこそ、何もかも任せてしまった。申し訳ないのは私だ。小田切の父上や母上からお預かりしたのに。宇留部様にも何と言われるか」
「え」

 照は驚いた。清兵衛は宇留部の名を照の前で出すことはあまりなかった。
 清兵衛は照のまっすぐな視線から目をそらした。

「祝言の前にな、言われたのだ。照は一生懸命な女子だと。倹約を旨とする家風に合わせようと一生懸命だった。薪を使い過ぎぬように火加減をいつも気にしていた。味噌の量や漬物の塩加減を真面目に計っておった。梅酢にカビを浮かせてしまった時は、夜中までかかって梅を焼酎で一つ一つ洗っていた。だから、よくよく気を付けてやらねばならぬ。一生懸命になり過ぎて、己のことを忘れて無理をしてしまうかもしれぬと」

 孫右衛門にそんなこと言われた覚えはなかった。確かに宇留部家のやり方に慣れるために必死だった。大雑把で不出来だからこそ、そうしなければならぬと思っていた。梅漬けのカビにしても、あの時は梅干しなど子どもでも作れると言われた。だが、そのことを孫右衛門は一度も一生懸命だと言ったことはなかった。

「いつも自分のことよりも共に暮らす家族のことを考えていたとも言っていた。それゆえつらい思いをさせてしまったと」

 そんなことを清兵衛に語っていたとは照には思いも寄らぬことであった。 

「すまぬ。私がそなたに甘えてしまったゆえ、かようなことになったのだ。気が付かぬかったとはいえ、本当に情けない。これからは、つらいことがあったら、言うてくれ」
「つらくはないのです、働くことは。つらいのは、旦那様が気を遣って父の倒れたことをすぐに知らせてくださらなかったこと。なんだか、頼りなく思われているようで」
「そなた、それで」

 清兵衛ははっとしたように妻を見つめた。頼りないなどと思ったことは一度もなかった。照が家にいてくれるからこそ安心して仕事に専念できたのだ。
 だが、二月の一件は重大事件だった。下手をすれば、城下が火の海になっていたかもしれなかった。そんな非常時に妻を必要以上に不安にさらしたくはなかった。だが、照にとってはそれが不満だったらしい。

「すまぬ。私が気が付かなかった。あの時は非常の時で、あれ以上そなたを不安にしたくはなかったのだ。小田切の父上を襲った男もまだ捕まってはいなかった。そなたのことだから父上のいる岡部の家に行くのではないかと」
「一言でよかったのです。父上は襲われたが無事だから、家を守って欲しいと言ってくだされば。どうして、殿方は言うべきことを言うべき時におっしゃらないのでしょうか」

 照は思う。孫右衛門も清兵衛も困ったものだと。

「言うべきことを言うべき時に、か」
「はい」
「わかった。では、照、今夜はゆっくり休め。夕餉のことも実乃の赤子のことも考えずに。母上や女達に任せていいのだから」
「あの、子どもたちは」
「今夜は私が面倒をみる」

 照は梅のことを話そうと思ったが、今日でなくともいいことだと思った。明日朝、須万に話せばいい。
 清兵衛は照が眠るまで枕元にいたが、子どもらの足音が近づいてきたので、そっと立ち上がり部屋を出て障子を閉めた。

「静かに。母上は疲れておるのだ」

 志津も鐡之助も父の低い声に何事かを感じ、口を閉じた。
 翌朝から、照の仕事は楽になった。暇になったわけではないが、突然泣く赤ん坊の世話に走り回ることはなくなった。実家には下女が一人増えた。
 父仁右衛門はこの年六月に亡くなった。閉門を許された隠居仲間らの見舞いの数日後、家族に見守られ安らかに旅立った。





 この後、沢井清兵衛は中老から家老に進み、殿の補佐を務めた。
 長男の恵之助は御世継の萬福丸に信頼され、よく仕えた。
 照の実家小田切家も長兄の息子が小納戸役に任ぜられた。
 宇留部孫右衛門は勘定奉行として、家老の沢井清兵衛と協力して家中の財務状況を改善した。この二人なくしては啓文院こと山置隆礼の藩政改革は成立しなかったであろうと、後の世の研究者は述べている。
 孫右衛門の息子と清兵衛の娘志津は結婚し、両家は幕末まで親しく親戚づきあいをしていたと言う。
 明治の世になり、山置家の人々とともに宇留部家は上京、以後山置家の人々に仕えた。
 沢井家は地元に残り、所有していた山林を茶畑にして製茶業を営んだ。盆地で霧の多い香田角では以後製茶業が盛んになった。
 先祖代々、質素倹約を旨とする宇留部家では二十世紀半ばまで白湯しか飲まなかったが、沢井家から贈られる茶だけは好んで飲んでいたということである。


   完

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みんなの感想(2件)

みいーさん
2020.12.06 みいーさん

とっても面白い内容でした。一気に読んでしまいました。
ありがとうございます。

三矢由巳
2020.12.07 三矢由巳

初めまして、みいーさんさま
一気に読んでくださったとのこと、実に嬉しいです。
私も気に入った作品は眠るのも忘れて一気に読んでしまいますので。
ありがとうございます。

解除
堅他不願(かたほかふがん)

 夫婦和合を地で行く秀抜極まりないお話、一気に最後まで読み進めました。
 誰であれ長所もあれば短所もあります。主人公の最初の夫も、単なるドケチ虫ではなく、あれは彼なりのいくさだったと申せましょう。
 二人目の夫は最初とは性格が真反対で、しかし侍として持つべき長所を全て備えた善き男でした。
 偉大なる時代夫婦ロマンであります。

三矢由巳
2019.05.27 三矢由巳

初めまして、マスケッターさま
「彼なりのいくさ」というのはまったく意識していませんでした。
自分では意識していないものを読み取ってくださる方がいる。
作品を書く励みになります。
ありがとうございます。

解除

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