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四 塩を撒く
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なぜ次兄の次右衛門が江戸で亡くなったのか。本当に病死なのか。
母をなだめた後、照は父に尋ねた。父は照一人を部屋に呼んだ。
「このことは母上にはまだ話しておらぬ」
そう前置きして仁右衛門は娘に江戸から知らされた詳細を伝えた。
江戸では新右衛門が世継ぎと決まり、竹之助は来年国許に戻されることとなった。それに次右衛門は不満を持ち、新右衛門に竹之助毒殺の濡れ衣を着せるため、新右衛門が竹之助に持って来た菓子に効き目の薄い毒物を他の小姓に仕掛けるよう唆したのだという。
それが露見し、次右衛門は死罪とされたが、殿のお慈悲で罪一等減じられ切腹を許されたとのことだった。唆された二人の小姓のうち、毒を仕掛けた石田彦十郎は玄龍寺預かり、拒んだ坂下兵伍は目付に次右衛門の奸計を伝えなかったということで押し込めとなったのだという。
「なぜ、兄上はさようなことを」
照にはわからなかった。才気のある兄のすることとは思えなかった。
「次男ゆえ、焦ったのかもしれぬ。竹之助様が世継ぎであれば、養子の口が来たかもしれぬが、そうでなければ養子の口があるかどうか」
「なぜ、さようなまわりくどいことを」
照には兄のやり方はひどくまわりくどいように思われた。新右衛門が嫌なら彼を毒殺すればいいのだ。いや、刀で一思いにという手もある。
「同じ死罪になるなら、差し違える覚悟でなければ」
「もうやめよ。もし、誰ぞに聞かれたら」
仁右衛門は真っ青になった。照はしまったと思った。父は意外と気が小さいのだ。
「申し訳ありません。兄上があまりに不甲斐なくて」
照とて新右衛門に恨みはない。ただ、次兄の振舞があまりに愚かに思えたのだ。国許の親兄弟に閉門の憂き目を見せることになるとは、あまりに短慮な振舞であった。
「照、そなたのつらい気持ちはわかる。だが、若殿様を恨んではならぬ」
「それはわかっております」
「孫右衛門殿にも申し訳ないことを」
次兄の件だけではないことは照にもわかっている。恐らく照との間に子を生せなかったことを父は申し訳なく思っているのだろう。
だが、それでよかったのだと照は思う。子どもがいたら、きっと宇留部家に未練を残すことになる。
翌日には嫁入り道具がすべてそのまま戻された。目付の部下がいったん門前で中に武器等が入っていないか確認した上で屋敷に運び込まれた。
箪笥の中の服も何もかも一切合切嫁入りの時と同じ状態で戻って来た。
しかも持参金も一銭たりとも手をつけぬまま戻ってきた。これには父の仁右衛門も驚き、宇留部孫右衛門は大した男だとつぶやいたのだった。
照にとっては当たり前のことだった。あれだけケチケチした生活をしていたのだ。自分の持参金に手を付ける必要などなかった。
それよりも照にはすることがあった。家老の父が隠居となれば扶持も減らされる。これまでのように暮らしていれば、生活はたちゆかない。母は嘆くばかりで少しも役に立たない。父はすっかり生気を失っている。自分がなんとかするしかない。
年が明け閉門が終わると、長兄は郡奉行の配下に配置替えになって山置郷に行き、すぐ上の兄の角兵衛は漢学を教える村越塾に住み込みで働くことになった。
屋敷替えで大手町から辰巳町のこじんまりした風呂のない家に移ることになり、照は思い切って自分の嫁入り道具を処分することにした。引き取りに来た道具屋は見事な細工でございますが、出戻った方のお道具ですので高くで売るわけには参りませんのでと、両親が見たら泣いていてしまうような値で買い叩いた。それでも、宇留部の家のことを思い出すよりはいいと思い売った。
桐箪笥や長持ちに入っていた物もすべて古着屋に売った。
嘆く母に狭い家には置ききれないからと言って。
嫁入り道具を銭に替え、兄達の少ない仕送りと合わせて照はなんとか日々を暮らした。皮肉なことに吝嗇な孫右衛門に教えられたおかげで、照は仕送りの範囲でやり繰りができるようになっていた。
米を炊くのは一日一回にして薪や炭を使い過ぎない。茶は贅沢なので白湯を呑む。行水の水はあらかじめ汲んでおいて日当たりのいい場所に置き温めておく。家の裏の空き地は畑にして野菜を植える。行灯の必要になる刻限になったら寝る。どうしても必要な時は魚油を使う。
香田角の中流以下の武家ならどこでもやっていることだが、家老であった小田切家では行なっていなかった。母親はそんなことまでしなくてもと言ったが、照はそんなことをしなければ生きていけないのだから仕方ないと、平然としていた。
気が付くと、とうに桜の季節は過ぎていた。江戸では殿様が病に倒れ隠居し、新右衛門隆礼が家督を相続したという。
だが、照はそんなことよりも梅干しを作るために、塩を手に入れねばならなかった。知行地の大半は殿様にお返ししたが、梅林のある土地だけは許された。収穫した梅を無駄にできなかった。
山間にある領内では塩は貴重品で高価だった。大久間の出湯では山塩といって塩分の多い出湯を煮詰めて塩が作られていたものの、生産できる量は多くないから高価だった。沿岸部で製塩された塩が多く利用されていたが、輸送費がかさむので、領内では産地周辺の四倍の値がつけられていた。
以前のように梅の目方の四割以上の塩を使うわけにはいかなかった。宇留部家でやっていたように塩を慎重に計って漬け込む照を見て、母はなんてことだろうと泣いたが、照は泣けなかった。泣いていては生きていけないのだから。
運の悪い時というのはいろいろ重なるものらしく、江戸から竹之助が国に戻ってしばらくすると於絹の方こと梅芳院様が病の床に臥すようになった。
父の仁右衛門の代理として照は何度か照妙寺に見舞いに行った。
その年の暮れに梅芳院は亡くなり、今度は年が明けると、江戸で隠居されていた前の殿様が亡くなった。
さらには流行の風邪で竹之助が亡くなった。御分家の壱姫様との祝言を前にしての訃報だった。
小田切家にとって、頼みの綱となる方々が皆死に絶え、ますます両親は老け込んだ。たまに帰って来る長兄も、ため息ばかりついていた。
角兵衛兄だけが以前と変わりなかった。学問好きの角兵衛にとっては今のほうが学問に集中できるらしく、家に帰って来る時も長兄とは違い生き生きとしていた。次兄の件で縁組が破談になったのだが、全然こたえていないようだった。
「わしには過ぎた話だったのだ。それに別の相手と祝言を挙げて、今は幸せでおるらしい。それでよかったのだ」
その翌年には、孫右衛門が再婚したという話が耳に入って来た。ああ、そうかと思っただけだった。
姑はいい人だから、きっとまたその人とうまくやっていくだろうと思った。
さらに翌年、江戸から公方様が変わったと知らせが届いた頃、宇留部家に男児が誕生したことを知った。
やはり自分は孫右衛門とは縁がなかったのだと思った。一年余りで子どもに恵まれた二人にはそれだけ深い縁があったということなのだろうと、照は静かに夕焼けの空を見つめた。
生活は相変わらず楽ではなかったが、近所から頼まれた仕立物や小間物屋から依頼される手鞠作りで、わずかながらも小銭が入って来るようになった。
近所の岡部の内儀が近頃目が暗くなって仕立物が早くできなくなったからと、依頼主に自分を紹介してくれるようになったおかげで仕事が増え収入もその分増えた。
そんなある日、塾の休みだからと角兵衛が客を連れて帰って来た。
客は沢井信之助、いや今は清兵衛だった。江戸から帰国した後、確か大番頭になって、この前は照妙寺の捕り物を指揮したと聞いている。
城下の西にある照妙寺は尼寺で、亡くなった先代の殿様に仕えた側室らが出家し菩提を弔う場であった。だが、その尼たちがあろうことか近くの寺の僧侶らと不義密通したとの訴えがあり、尼や僧らが禁じられた肉食をしているところに役人らが踏み込んだのだった。厳しい詮議によって不義密通の実態が暴かれ、幾人かの僧や尼は死罪となっていた。
その噂は領内に広がり、いろいろとあさましい話が照の耳にも入っていた。その捕り物で清兵衛は一躍名を上げたのだった。
女中もいないので、照は茶と昨日岡部の内儀から御裾分けされた団子を持って兄の部屋に入った。
「お、茶か。客がいないと白湯だからのう、うちは」
角兵衛は笑った。わざわざ言わなくてもいいのにと照は思った。
清兵衛は相変わらず穏やかな表情だった。子どもの頃はあまり感情を出さない方だと思っていたが、最近になってようやく照は清兵衛のあの表情は穏やかな時のものだとわかるようになっていた。
角兵衛はちょっと用を思い出したと部屋を出て行った。
照は清兵衛様に失礼なと思ったが、客を置いて出ていくわけにもいかなかった。
「兄が失礼をいたしまして申し訳ありません」
「いえ、それは。それがしが兄上に頼んだのです。照様と話をさせてくれと」
照は意味がわからなかった。一体、沢井清兵衛は何の話をするつもりだろうか。自分には兄のように学があるわけではないのに。
「話でございますか。何のお話をするのでございますか。論語でしょうか、史記でしょうか」
「それは」
清兵衛は明らかに困惑していた。そして緊張していた。どこか怒ったような顔にも見えた。
まるでいつぞやと同じだった。元服した後、照の縁組を祝った時と同じではないか。
そう気付いた時、あの時、清兵衛は本当は何を言いたかったのだろうかという疑問が照の胸に湧いた。
清兵衛は照の目をじっと大きな目で見つめた。
「やり直したいのです。あの時、あなたが宇留部家に嫁に行く前に戻って」
「やり直すって」
その言葉の意味がわからぬほど照も鈍くはない。無理だと思った。照は何も知らぬ乙女ではないのだ。孫右衛門の妻であった自分はさんざん女の歓びを教えられている。謹厳実直で江戸でもまったく遊郭に近づかなかったという清兵衛とはあまりに不似合いだった。
「やり直すというのは、一人の男と一人の女として、向き合って生きたいということです」
なんと遠回しの言い方だろう。まるで何も知らぬ乙女に少年が語るような硬い言葉だった。
「もっとわかりやすく言ってくださいませ」
「あなたはもう誰の妻でもない。それがしの妻になってくだされ」
一番恐れていたことだった。清兵衛の両親が許すはずがなかった。跡継ぎの清兵衛にはそれなりの家からふさわしい娘を娶るべきだろう。照は自分がふさわしくないことを知っていた。
「御断りします」
照ははっきりと言った。曖昧な言い方は清兵衛に期待をさせてしまう。はっきり断れば諦めるだろう。
だが、照が思っていたのとは違い、清兵衛はうなずいた。
「そうおっしゃると思いました。でも、それがしはあきらめません」
「沢井様はそうおっしゃいますが、父上様も母上様もお許しにはならないでしょう」
「父には許しをもらいました。母も父がいいと言うならと」
信じられなかった。御家老が跡継ぎと出戻りの結婚を許すとは。
「わたくしは生娘ではないのですよ」
「わかっております。ですからやり直すと言ったのです」
無理だと思った。自分の身体は孫右衛門の身体に慣らされている。清廉な清兵衛にはどう考えても不浄としか思えない。
「無茶をおっしゃらないでください」
「どこが無茶なのですか」
まっすぐな目で見つめられて、照は目をそらしたくなったが、ここでそらすわけにはいかなかった。
「わたくしは、人の妻だったのです。他の男が汚した身体なのです。そんな女子は沢井様にはふさわしくないではありませんか」
ここまで言えばわかるだろうと照は思った。
けれど、清兵衛の目は変わらず熱い。
「照様は汚れておりません。それがしにとっては、嫁入り前の照様と同じ。いえ、今のほうがずっとお美しい」
清兵衛の頭はどうかなってしまったとしか思えなかった。あまりに独り身の時が長くておかしくなってしまったのであろうか。照はこれ以上ここにいては兄や両親に誤解されると思った。
「もう、うちには来ないでください」
そう言うと立ち上がり、障子を開けて部屋を出た。台所へ行くと、兄がいた。
兄は暢気な顔で言った。
「よかったな」
照は兄を睨みつけた。こちらの気も知らずに、何を考えて清兵衛と二人きりにしたのかと。
「沢井様を連れて来ないでくださいませ」
「おい、照」
兄は慌てた。
「どうしたのだ。清兵衛様がせっかく」
「余計なお世話です」
照はそう言うと塩の壺を棚から取り出した。
「何をするんだ」
「塩を撒きます」
照は壺を抱えて先ほどまでいた部屋へ向かった。追いかける角兵衛を振り返らず、照はまっすぐに部屋を目指した。ちょうど清兵衛が出て来た。
照は壺の塩を親指と人差し指でつまんだ。本当は手のひらにザバっとつかんで投げたかった。けれど、できなかった。塩は貴重品だった。
摘まんだ塩を清兵衛めがけて投げた。ぱらぱらと廊下に白い粒が散った。
「照、何てことを」
角兵衛は頭を抱えた。清兵衛は無言で白い粒を見つめた。
照は踵を返して物凄い勢いで台所に戻った。塩壺を棚に置いた。
これでいいのだ。沢井様は呆れたに違いない。こんな非常識な女子を嫁にもらおうなどとは思うまい。
年が明けた。
殿様が国にお帰りになるということで城では畳替えや襖替え、障子の張替えなどが行われた。
奥は男の職人が入れないので、取り換えを手伝う女子を募るというのを聞いた照はすぐに応じた。小銭を少しでも手に入れたかった。近頃、父の体調が悪く、医者にかかって薬を出してもらうにはどうしても現金が必要なのだった。
昼間だけの十日ほどの仕事だった。足軽の家の娘たちに交じって照は襖や障子、畳を運んだ。
最終日に新しい表具を入れた後、女達は座敷の前の庭に呼ばれ御方様からのお礼ということで、それぞれに給金とは別に御年寄から品が贈られた。
仕事を終え他の女達とともに戌亥門を出るともう日暮れである。
皆暗くならぬうちにと近所同士で帰り道を急いだ。
照もまた辰巳町の家に急いだ。親しくなった娘と歩いていたが、鳥居町でその娘とも別れ一人になった。
八幡様のお社の近くまで来た時だった。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、周辺はいち早く暗くなっていた。
それでも、照は平気な顔で家までの道を進んだ。
ふと、誰かが後ろを歩いて近づく気配があった。照は足を速めた。すると後ろの足音も早くなった。
「照様、お待ちを」
背後からの声を聞けば、もう止まるわけにはいかなかった。照は小走りになっていた。
すると足音も小走りになっていた。
「照様」
そんな声で話しかけないで欲しかった。まるで沢井清兵衛が照を追いかけまわしているようではないか。通りを歩く人は少ないがちらほらといるのである。清兵衛は恥ずかしくないのだろうか。大番頭ともあろうものが、出戻り女を追いかけていると知れたら世間の笑いものである。これ以上、自分を呼んだら恥をかくのは清兵衛である。
照は立ち止まった。
「照様、家までお送りします」
追いついた清兵衛の声が背後から聞こえた。
「わたくしの名を呼ばないでください」
照は振り向かずに言った。
「それはどういう意味ですか」
「あなた様がわたくしの名を呼んだりするのを誰かに聞かれたら、あなた様が笑われます」
照は清兵衛の気配が近づくのを感じ歩き始めた。清兵衛もまたその速さに合わせて歩いた。
「わかりました」
清兵衛は小田切家まで一切口を開かず、照の背後をついていった。
形ばかりの柱だけの門の前で、やっと照は振り返った。
「お手数をおかけしました。今後はさようなことはなさらないでくださいませ」
持っていた風呂敷包から出したのは、城でいただいたお礼の末広の入った細長い箱だった。
「お礼を差し上げることができませんので、これを受け取ってください」
清兵衛は照を見つめた。その視線の強さに目を伏せたくなったが、堪えた。
「お礼などいりません。それがしが勝手にしたこと」
「勝手にされたくありません」
照はそう言うと箱を清兵衛の目の前に突き付けた。清兵衛は箱を握った手を左手でつかんだ。
照は手を引こうとしたが動かせなかった。
その時だった。若い男達の声が聞こえてきた。
「あの三角形の内円の積は」
「半径さえわかればな」
近所の岡部家の小治郎と犬飼家の丙三だった。
その姿が見えぬうちに清兵衛は手を離した。
「申し訳ありません」
照は何も言わずさっと小さな門の間を走って家に入ると戸を締め切った。
胸が早鐘のように鳴っていた。
若い娘でもあるまいし何を慌てているのかと照は台所で水を飲んだ。
けれど、動悸はすぐには収まらなかった。
一か月後、江戸から新しい殿様が国に入った。
照は前の殿の時に小田切家が処罰されたという憚りがあるので、行列を見に行かなかった。
塾の生徒たちを引率して見に行った兄の角兵衛がその夜、家に来て、老いた両親を前に行列の話を聞かせたのは少し無神経ではないかと思った。
「いやあ、まさか殿が馬に乗ってお国入りとは。前の殿様とは違って顔色も体格もいいし、あれだけお元気ならすぐに御世継もできましょう。それにしても江戸にいると背丈が伸びるというわけでもないのですが、大変背がお高くなられて。そうそう鶏を連れておいでになっていました。城の鶏小屋を増やすのでしょうね。狆という生き物も連れておいでで。猫より少し大きくて、顔が平べったいのですよ。毛並みが細い糸のようで、まるで絹か何かです。姫君へのお土産ということですが、江戸では大名の奥方や姫様達は皆こぞって飼っておいでだとか」
両親はそんな兄の話を穏やかな顔で聞いていた。
「岡部の惣左衛門殿もお帰りになったのだろう」
「はい。お元気そうでした。江戸で祝言をされてお子も生まれたそうですが、内儀は亡くなられたとか」
「あれはなかなか剣の腕が立った」
両親は江戸から戻った知り合いのことを兄にあれこれ尋ねては、なつかしそうに話していた。
「惣左衛門殿がもっと年上なら、照にちょうどよいのですけれど」
母の唐突な発言に、照は仰天した。
「母上、何をおっしゃっているのですか」
「あら、あなたはずっと一人でいるつもりなのですか。わたくし達がいなくなったらどうします」
そう言われると、返す言葉もなかった。兄達に頼るわけにはいかない。長兄には家族がいる。角兵衛はいまだ独立できずに村越塾に住み込んでいる。
「尼になります」
そうするしかないと思って言った。すると父がうーんとうなった。
「尼になるにしても喜捨をせねばならぬが、うちにはないぞ」
地獄の沙汰ではないが、確かに寺に入るにしても、それなりに金はいるのだ。
「角兵衛、どこぞにいい家はないか」
角兵衛は何も言わず、照を見た。清兵衛のことを兄はまだ考えているのかと思い、照は呆れた。塩も撒いたというのに。
大体、清兵衛が本気で縁組を考えているなら両親に話をするはずだが、両親がこのようなことを言うということは話をしていないのだ。やはり、清兵衛も照のことを諦めたに違いない。
少しだけ心の奥で冷たい風が吹いたような気がしたが、それでいいのだと照は思った。
殿が江戸から戻って以降、一緒に戻って来た若い家臣達の祝言が続き、両親は毎晩のようにどこの誰が誰と祝言を挙げるという話ばかりしていた。
さすがに娘にいい相手は誰かいないかと言うことはなかったが、暗に責められているようで、照はうんざりしていた。
八月も末のこと。照は頼まれていた仕立物を持って作田の家に行った。
奥方の多米は噂好きで、照は関わり合いにはなりたくなかった。下手なことを言うと、自分のこともあちこちで言いふらされかねない。
勝手口から見慣れぬ下女が出てきた。以前いた下女は母親が病気で里に帰っているとのことだった。下女は奥様は半刻前に用事があって出られましたが、そろそろ戻りますと言う。
では仕立物だけ預けて代金は後日取りに伺いますと言うと、待ってもらうように言われたましたのでと言う。
これは困ったと思ったものの仕方なく台所で待った。そろそろ戻るということなら家事に差し支えることはあるまい。
その間、下女はせわしなく口を動かしていた。作田家は主人の文左衛門以外は皆よくしゃべると聞いていたが、あまりのことに照は何も言えなかった。前の下女以上だったのだ。
「でとうとうその馬は売られてしまったそうでございますよ。馬といえば、大番組の騎馬姿、ご覧になりましたか。先だって殿様が山置に視察においでになった時、大番頭の沢井様は緋色の陣笠と陣羽織でお供されたんですよ。それはそれは姿がようございました。そうそう、大番頭の沢井様といえば、御存じですか。村越塾にこの頃仕事の後においでになるとか。小田切角兵衛様と昵懇ではないかと」
下女は照が小田切角兵衛の妹とは知らないらしかった。どうも小田切家の使用人だと思っているようだった。下女と間違われてもおかしくない地味な姿をしていればそうも見えるだろう。
だが、話の内容は聞き捨てならなかった。確かに兄と清兵衛は親しいが昵懇とは言い過ぎではなかろうか。
「大番頭様が奥様を娶らないのは、角兵衛様と何かあるからではないかと奥様も言っておりましたし」
下女のおしゃべりは留まるところを知らなかった。
「でも、衆道は御法度ですものね。お二人は道ならぬ恋に身を焦がしておいでなのですね」
照はあまりのことに顔に血が上って来た。座っていた床から立ち上がるや下女を怒鳴っていた。
「いい加減になさいませ。それでも、そなたは武家に仕える者か」
その権幕に、下女はまずいとようやく気付いたらしく、その場に額を付けて謝った。けれど照の憤りは収まらなかった。
「わたくしは小田切角兵衛の妹照。この仕立物の代金はいらぬ」
そう言うと照は仕立物だけ置いて作田家を飛び出した。
小田切家がかような仕儀にならねば、父が家老であれば、兄に衆道の浮名など立つこともなかったであろう。しかも沢井清兵衛が相手とは。
恐らく、作田家だけではあるまい。他の家でも似たような噂はささやかれていたはずで、何も知らぬ照はあれがあの角兵衛の出戻りの妹と陰で嘲笑われていたかもしれなかった。
照は家に戻ると、真っ先に井戸端へ行き、顔を洗った。洗いながら泣いていた。悔しい。よりによって兄と清兵衛との間にさような噂があるとは。兄は一体何を考えているのか。いくら家に清兵衛を連れて来るなと照が言ったからといって、村越塾の自室で会うとは。おかしな噂まで立っているというのに。大体、何を話すことがあるというのか。
混乱した思考がまとまらぬまま、顔を洗うのをやめたのは、作田の奥方が血相を変えてやってきたからだった。
「照様、申し訳ございません。うちの下女が失礼なことを申しまして」
代金はいらぬと言ったものの、それがなければ父の医者代もままならぬ身では奥方を追い出すわけにはいかなかった。
母をなだめた後、照は父に尋ねた。父は照一人を部屋に呼んだ。
「このことは母上にはまだ話しておらぬ」
そう前置きして仁右衛門は娘に江戸から知らされた詳細を伝えた。
江戸では新右衛門が世継ぎと決まり、竹之助は来年国許に戻されることとなった。それに次右衛門は不満を持ち、新右衛門に竹之助毒殺の濡れ衣を着せるため、新右衛門が竹之助に持って来た菓子に効き目の薄い毒物を他の小姓に仕掛けるよう唆したのだという。
それが露見し、次右衛門は死罪とされたが、殿のお慈悲で罪一等減じられ切腹を許されたとのことだった。唆された二人の小姓のうち、毒を仕掛けた石田彦十郎は玄龍寺預かり、拒んだ坂下兵伍は目付に次右衛門の奸計を伝えなかったということで押し込めとなったのだという。
「なぜ、兄上はさようなことを」
照にはわからなかった。才気のある兄のすることとは思えなかった。
「次男ゆえ、焦ったのかもしれぬ。竹之助様が世継ぎであれば、養子の口が来たかもしれぬが、そうでなければ養子の口があるかどうか」
「なぜ、さようなまわりくどいことを」
照には兄のやり方はひどくまわりくどいように思われた。新右衛門が嫌なら彼を毒殺すればいいのだ。いや、刀で一思いにという手もある。
「同じ死罪になるなら、差し違える覚悟でなければ」
「もうやめよ。もし、誰ぞに聞かれたら」
仁右衛門は真っ青になった。照はしまったと思った。父は意外と気が小さいのだ。
「申し訳ありません。兄上があまりに不甲斐なくて」
照とて新右衛門に恨みはない。ただ、次兄の振舞があまりに愚かに思えたのだ。国許の親兄弟に閉門の憂き目を見せることになるとは、あまりに短慮な振舞であった。
「照、そなたのつらい気持ちはわかる。だが、若殿様を恨んではならぬ」
「それはわかっております」
「孫右衛門殿にも申し訳ないことを」
次兄の件だけではないことは照にもわかっている。恐らく照との間に子を生せなかったことを父は申し訳なく思っているのだろう。
だが、それでよかったのだと照は思う。子どもがいたら、きっと宇留部家に未練を残すことになる。
翌日には嫁入り道具がすべてそのまま戻された。目付の部下がいったん門前で中に武器等が入っていないか確認した上で屋敷に運び込まれた。
箪笥の中の服も何もかも一切合切嫁入りの時と同じ状態で戻って来た。
しかも持参金も一銭たりとも手をつけぬまま戻ってきた。これには父の仁右衛門も驚き、宇留部孫右衛門は大した男だとつぶやいたのだった。
照にとっては当たり前のことだった。あれだけケチケチした生活をしていたのだ。自分の持参金に手を付ける必要などなかった。
それよりも照にはすることがあった。家老の父が隠居となれば扶持も減らされる。これまでのように暮らしていれば、生活はたちゆかない。母は嘆くばかりで少しも役に立たない。父はすっかり生気を失っている。自分がなんとかするしかない。
年が明け閉門が終わると、長兄は郡奉行の配下に配置替えになって山置郷に行き、すぐ上の兄の角兵衛は漢学を教える村越塾に住み込みで働くことになった。
屋敷替えで大手町から辰巳町のこじんまりした風呂のない家に移ることになり、照は思い切って自分の嫁入り道具を処分することにした。引き取りに来た道具屋は見事な細工でございますが、出戻った方のお道具ですので高くで売るわけには参りませんのでと、両親が見たら泣いていてしまうような値で買い叩いた。それでも、宇留部の家のことを思い出すよりはいいと思い売った。
桐箪笥や長持ちに入っていた物もすべて古着屋に売った。
嘆く母に狭い家には置ききれないからと言って。
嫁入り道具を銭に替え、兄達の少ない仕送りと合わせて照はなんとか日々を暮らした。皮肉なことに吝嗇な孫右衛門に教えられたおかげで、照は仕送りの範囲でやり繰りができるようになっていた。
米を炊くのは一日一回にして薪や炭を使い過ぎない。茶は贅沢なので白湯を呑む。行水の水はあらかじめ汲んでおいて日当たりのいい場所に置き温めておく。家の裏の空き地は畑にして野菜を植える。行灯の必要になる刻限になったら寝る。どうしても必要な時は魚油を使う。
香田角の中流以下の武家ならどこでもやっていることだが、家老であった小田切家では行なっていなかった。母親はそんなことまでしなくてもと言ったが、照はそんなことをしなければ生きていけないのだから仕方ないと、平然としていた。
気が付くと、とうに桜の季節は過ぎていた。江戸では殿様が病に倒れ隠居し、新右衛門隆礼が家督を相続したという。
だが、照はそんなことよりも梅干しを作るために、塩を手に入れねばならなかった。知行地の大半は殿様にお返ししたが、梅林のある土地だけは許された。収穫した梅を無駄にできなかった。
山間にある領内では塩は貴重品で高価だった。大久間の出湯では山塩といって塩分の多い出湯を煮詰めて塩が作られていたものの、生産できる量は多くないから高価だった。沿岸部で製塩された塩が多く利用されていたが、輸送費がかさむので、領内では産地周辺の四倍の値がつけられていた。
以前のように梅の目方の四割以上の塩を使うわけにはいかなかった。宇留部家でやっていたように塩を慎重に計って漬け込む照を見て、母はなんてことだろうと泣いたが、照は泣けなかった。泣いていては生きていけないのだから。
運の悪い時というのはいろいろ重なるものらしく、江戸から竹之助が国に戻ってしばらくすると於絹の方こと梅芳院様が病の床に臥すようになった。
父の仁右衛門の代理として照は何度か照妙寺に見舞いに行った。
その年の暮れに梅芳院は亡くなり、今度は年が明けると、江戸で隠居されていた前の殿様が亡くなった。
さらには流行の風邪で竹之助が亡くなった。御分家の壱姫様との祝言を前にしての訃報だった。
小田切家にとって、頼みの綱となる方々が皆死に絶え、ますます両親は老け込んだ。たまに帰って来る長兄も、ため息ばかりついていた。
角兵衛兄だけが以前と変わりなかった。学問好きの角兵衛にとっては今のほうが学問に集中できるらしく、家に帰って来る時も長兄とは違い生き生きとしていた。次兄の件で縁組が破談になったのだが、全然こたえていないようだった。
「わしには過ぎた話だったのだ。それに別の相手と祝言を挙げて、今は幸せでおるらしい。それでよかったのだ」
その翌年には、孫右衛門が再婚したという話が耳に入って来た。ああ、そうかと思っただけだった。
姑はいい人だから、きっとまたその人とうまくやっていくだろうと思った。
さらに翌年、江戸から公方様が変わったと知らせが届いた頃、宇留部家に男児が誕生したことを知った。
やはり自分は孫右衛門とは縁がなかったのだと思った。一年余りで子どもに恵まれた二人にはそれだけ深い縁があったということなのだろうと、照は静かに夕焼けの空を見つめた。
生活は相変わらず楽ではなかったが、近所から頼まれた仕立物や小間物屋から依頼される手鞠作りで、わずかながらも小銭が入って来るようになった。
近所の岡部の内儀が近頃目が暗くなって仕立物が早くできなくなったからと、依頼主に自分を紹介してくれるようになったおかげで仕事が増え収入もその分増えた。
そんなある日、塾の休みだからと角兵衛が客を連れて帰って来た。
客は沢井信之助、いや今は清兵衛だった。江戸から帰国した後、確か大番頭になって、この前は照妙寺の捕り物を指揮したと聞いている。
城下の西にある照妙寺は尼寺で、亡くなった先代の殿様に仕えた側室らが出家し菩提を弔う場であった。だが、その尼たちがあろうことか近くの寺の僧侶らと不義密通したとの訴えがあり、尼や僧らが禁じられた肉食をしているところに役人らが踏み込んだのだった。厳しい詮議によって不義密通の実態が暴かれ、幾人かの僧や尼は死罪となっていた。
その噂は領内に広がり、いろいろとあさましい話が照の耳にも入っていた。その捕り物で清兵衛は一躍名を上げたのだった。
女中もいないので、照は茶と昨日岡部の内儀から御裾分けされた団子を持って兄の部屋に入った。
「お、茶か。客がいないと白湯だからのう、うちは」
角兵衛は笑った。わざわざ言わなくてもいいのにと照は思った。
清兵衛は相変わらず穏やかな表情だった。子どもの頃はあまり感情を出さない方だと思っていたが、最近になってようやく照は清兵衛のあの表情は穏やかな時のものだとわかるようになっていた。
角兵衛はちょっと用を思い出したと部屋を出て行った。
照は清兵衛様に失礼なと思ったが、客を置いて出ていくわけにもいかなかった。
「兄が失礼をいたしまして申し訳ありません」
「いえ、それは。それがしが兄上に頼んだのです。照様と話をさせてくれと」
照は意味がわからなかった。一体、沢井清兵衛は何の話をするつもりだろうか。自分には兄のように学があるわけではないのに。
「話でございますか。何のお話をするのでございますか。論語でしょうか、史記でしょうか」
「それは」
清兵衛は明らかに困惑していた。そして緊張していた。どこか怒ったような顔にも見えた。
まるでいつぞやと同じだった。元服した後、照の縁組を祝った時と同じではないか。
そう気付いた時、あの時、清兵衛は本当は何を言いたかったのだろうかという疑問が照の胸に湧いた。
清兵衛は照の目をじっと大きな目で見つめた。
「やり直したいのです。あの時、あなたが宇留部家に嫁に行く前に戻って」
「やり直すって」
その言葉の意味がわからぬほど照も鈍くはない。無理だと思った。照は何も知らぬ乙女ではないのだ。孫右衛門の妻であった自分はさんざん女の歓びを教えられている。謹厳実直で江戸でもまったく遊郭に近づかなかったという清兵衛とはあまりに不似合いだった。
「やり直すというのは、一人の男と一人の女として、向き合って生きたいということです」
なんと遠回しの言い方だろう。まるで何も知らぬ乙女に少年が語るような硬い言葉だった。
「もっとわかりやすく言ってくださいませ」
「あなたはもう誰の妻でもない。それがしの妻になってくだされ」
一番恐れていたことだった。清兵衛の両親が許すはずがなかった。跡継ぎの清兵衛にはそれなりの家からふさわしい娘を娶るべきだろう。照は自分がふさわしくないことを知っていた。
「御断りします」
照ははっきりと言った。曖昧な言い方は清兵衛に期待をさせてしまう。はっきり断れば諦めるだろう。
だが、照が思っていたのとは違い、清兵衛はうなずいた。
「そうおっしゃると思いました。でも、それがしはあきらめません」
「沢井様はそうおっしゃいますが、父上様も母上様もお許しにはならないでしょう」
「父には許しをもらいました。母も父がいいと言うならと」
信じられなかった。御家老が跡継ぎと出戻りの結婚を許すとは。
「わたくしは生娘ではないのですよ」
「わかっております。ですからやり直すと言ったのです」
無理だと思った。自分の身体は孫右衛門の身体に慣らされている。清廉な清兵衛にはどう考えても不浄としか思えない。
「無茶をおっしゃらないでください」
「どこが無茶なのですか」
まっすぐな目で見つめられて、照は目をそらしたくなったが、ここでそらすわけにはいかなかった。
「わたくしは、人の妻だったのです。他の男が汚した身体なのです。そんな女子は沢井様にはふさわしくないではありませんか」
ここまで言えばわかるだろうと照は思った。
けれど、清兵衛の目は変わらず熱い。
「照様は汚れておりません。それがしにとっては、嫁入り前の照様と同じ。いえ、今のほうがずっとお美しい」
清兵衛の頭はどうかなってしまったとしか思えなかった。あまりに独り身の時が長くておかしくなってしまったのであろうか。照はこれ以上ここにいては兄や両親に誤解されると思った。
「もう、うちには来ないでください」
そう言うと立ち上がり、障子を開けて部屋を出た。台所へ行くと、兄がいた。
兄は暢気な顔で言った。
「よかったな」
照は兄を睨みつけた。こちらの気も知らずに、何を考えて清兵衛と二人きりにしたのかと。
「沢井様を連れて来ないでくださいませ」
「おい、照」
兄は慌てた。
「どうしたのだ。清兵衛様がせっかく」
「余計なお世話です」
照はそう言うと塩の壺を棚から取り出した。
「何をするんだ」
「塩を撒きます」
照は壺を抱えて先ほどまでいた部屋へ向かった。追いかける角兵衛を振り返らず、照はまっすぐに部屋を目指した。ちょうど清兵衛が出て来た。
照は壺の塩を親指と人差し指でつまんだ。本当は手のひらにザバっとつかんで投げたかった。けれど、できなかった。塩は貴重品だった。
摘まんだ塩を清兵衛めがけて投げた。ぱらぱらと廊下に白い粒が散った。
「照、何てことを」
角兵衛は頭を抱えた。清兵衛は無言で白い粒を見つめた。
照は踵を返して物凄い勢いで台所に戻った。塩壺を棚に置いた。
これでいいのだ。沢井様は呆れたに違いない。こんな非常識な女子を嫁にもらおうなどとは思うまい。
年が明けた。
殿様が国にお帰りになるということで城では畳替えや襖替え、障子の張替えなどが行われた。
奥は男の職人が入れないので、取り換えを手伝う女子を募るというのを聞いた照はすぐに応じた。小銭を少しでも手に入れたかった。近頃、父の体調が悪く、医者にかかって薬を出してもらうにはどうしても現金が必要なのだった。
昼間だけの十日ほどの仕事だった。足軽の家の娘たちに交じって照は襖や障子、畳を運んだ。
最終日に新しい表具を入れた後、女達は座敷の前の庭に呼ばれ御方様からのお礼ということで、それぞれに給金とは別に御年寄から品が贈られた。
仕事を終え他の女達とともに戌亥門を出るともう日暮れである。
皆暗くならぬうちにと近所同士で帰り道を急いだ。
照もまた辰巳町の家に急いだ。親しくなった娘と歩いていたが、鳥居町でその娘とも別れ一人になった。
八幡様のお社の近くまで来た時だった。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、周辺はいち早く暗くなっていた。
それでも、照は平気な顔で家までの道を進んだ。
ふと、誰かが後ろを歩いて近づく気配があった。照は足を速めた。すると後ろの足音も早くなった。
「照様、お待ちを」
背後からの声を聞けば、もう止まるわけにはいかなかった。照は小走りになっていた。
すると足音も小走りになっていた。
「照様」
そんな声で話しかけないで欲しかった。まるで沢井清兵衛が照を追いかけまわしているようではないか。通りを歩く人は少ないがちらほらといるのである。清兵衛は恥ずかしくないのだろうか。大番頭ともあろうものが、出戻り女を追いかけていると知れたら世間の笑いものである。これ以上、自分を呼んだら恥をかくのは清兵衛である。
照は立ち止まった。
「照様、家までお送りします」
追いついた清兵衛の声が背後から聞こえた。
「わたくしの名を呼ばないでください」
照は振り向かずに言った。
「それはどういう意味ですか」
「あなた様がわたくしの名を呼んだりするのを誰かに聞かれたら、あなた様が笑われます」
照は清兵衛の気配が近づくのを感じ歩き始めた。清兵衛もまたその速さに合わせて歩いた。
「わかりました」
清兵衛は小田切家まで一切口を開かず、照の背後をついていった。
形ばかりの柱だけの門の前で、やっと照は振り返った。
「お手数をおかけしました。今後はさようなことはなさらないでくださいませ」
持っていた風呂敷包から出したのは、城でいただいたお礼の末広の入った細長い箱だった。
「お礼を差し上げることができませんので、これを受け取ってください」
清兵衛は照を見つめた。その視線の強さに目を伏せたくなったが、堪えた。
「お礼などいりません。それがしが勝手にしたこと」
「勝手にされたくありません」
照はそう言うと箱を清兵衛の目の前に突き付けた。清兵衛は箱を握った手を左手でつかんだ。
照は手を引こうとしたが動かせなかった。
その時だった。若い男達の声が聞こえてきた。
「あの三角形の内円の積は」
「半径さえわかればな」
近所の岡部家の小治郎と犬飼家の丙三だった。
その姿が見えぬうちに清兵衛は手を離した。
「申し訳ありません」
照は何も言わずさっと小さな門の間を走って家に入ると戸を締め切った。
胸が早鐘のように鳴っていた。
若い娘でもあるまいし何を慌てているのかと照は台所で水を飲んだ。
けれど、動悸はすぐには収まらなかった。
一か月後、江戸から新しい殿様が国に入った。
照は前の殿の時に小田切家が処罰されたという憚りがあるので、行列を見に行かなかった。
塾の生徒たちを引率して見に行った兄の角兵衛がその夜、家に来て、老いた両親を前に行列の話を聞かせたのは少し無神経ではないかと思った。
「いやあ、まさか殿が馬に乗ってお国入りとは。前の殿様とは違って顔色も体格もいいし、あれだけお元気ならすぐに御世継もできましょう。それにしても江戸にいると背丈が伸びるというわけでもないのですが、大変背がお高くなられて。そうそう鶏を連れておいでになっていました。城の鶏小屋を増やすのでしょうね。狆という生き物も連れておいでで。猫より少し大きくて、顔が平べったいのですよ。毛並みが細い糸のようで、まるで絹か何かです。姫君へのお土産ということですが、江戸では大名の奥方や姫様達は皆こぞって飼っておいでだとか」
両親はそんな兄の話を穏やかな顔で聞いていた。
「岡部の惣左衛門殿もお帰りになったのだろう」
「はい。お元気そうでした。江戸で祝言をされてお子も生まれたそうですが、内儀は亡くなられたとか」
「あれはなかなか剣の腕が立った」
両親は江戸から戻った知り合いのことを兄にあれこれ尋ねては、なつかしそうに話していた。
「惣左衛門殿がもっと年上なら、照にちょうどよいのですけれど」
母の唐突な発言に、照は仰天した。
「母上、何をおっしゃっているのですか」
「あら、あなたはずっと一人でいるつもりなのですか。わたくし達がいなくなったらどうします」
そう言われると、返す言葉もなかった。兄達に頼るわけにはいかない。長兄には家族がいる。角兵衛はいまだ独立できずに村越塾に住み込んでいる。
「尼になります」
そうするしかないと思って言った。すると父がうーんとうなった。
「尼になるにしても喜捨をせねばならぬが、うちにはないぞ」
地獄の沙汰ではないが、確かに寺に入るにしても、それなりに金はいるのだ。
「角兵衛、どこぞにいい家はないか」
角兵衛は何も言わず、照を見た。清兵衛のことを兄はまだ考えているのかと思い、照は呆れた。塩も撒いたというのに。
大体、清兵衛が本気で縁組を考えているなら両親に話をするはずだが、両親がこのようなことを言うということは話をしていないのだ。やはり、清兵衛も照のことを諦めたに違いない。
少しだけ心の奥で冷たい風が吹いたような気がしたが、それでいいのだと照は思った。
殿が江戸から戻って以降、一緒に戻って来た若い家臣達の祝言が続き、両親は毎晩のようにどこの誰が誰と祝言を挙げるという話ばかりしていた。
さすがに娘にいい相手は誰かいないかと言うことはなかったが、暗に責められているようで、照はうんざりしていた。
八月も末のこと。照は頼まれていた仕立物を持って作田の家に行った。
奥方の多米は噂好きで、照は関わり合いにはなりたくなかった。下手なことを言うと、自分のこともあちこちで言いふらされかねない。
勝手口から見慣れぬ下女が出てきた。以前いた下女は母親が病気で里に帰っているとのことだった。下女は奥様は半刻前に用事があって出られましたが、そろそろ戻りますと言う。
では仕立物だけ預けて代金は後日取りに伺いますと言うと、待ってもらうように言われたましたのでと言う。
これは困ったと思ったものの仕方なく台所で待った。そろそろ戻るということなら家事に差し支えることはあるまい。
その間、下女はせわしなく口を動かしていた。作田家は主人の文左衛門以外は皆よくしゃべると聞いていたが、あまりのことに照は何も言えなかった。前の下女以上だったのだ。
「でとうとうその馬は売られてしまったそうでございますよ。馬といえば、大番組の騎馬姿、ご覧になりましたか。先だって殿様が山置に視察においでになった時、大番頭の沢井様は緋色の陣笠と陣羽織でお供されたんですよ。それはそれは姿がようございました。そうそう、大番頭の沢井様といえば、御存じですか。村越塾にこの頃仕事の後においでになるとか。小田切角兵衛様と昵懇ではないかと」
下女は照が小田切角兵衛の妹とは知らないらしかった。どうも小田切家の使用人だと思っているようだった。下女と間違われてもおかしくない地味な姿をしていればそうも見えるだろう。
だが、話の内容は聞き捨てならなかった。確かに兄と清兵衛は親しいが昵懇とは言い過ぎではなかろうか。
「大番頭様が奥様を娶らないのは、角兵衛様と何かあるからではないかと奥様も言っておりましたし」
下女のおしゃべりは留まるところを知らなかった。
「でも、衆道は御法度ですものね。お二人は道ならぬ恋に身を焦がしておいでなのですね」
照はあまりのことに顔に血が上って来た。座っていた床から立ち上がるや下女を怒鳴っていた。
「いい加減になさいませ。それでも、そなたは武家に仕える者か」
その権幕に、下女はまずいとようやく気付いたらしく、その場に額を付けて謝った。けれど照の憤りは収まらなかった。
「わたくしは小田切角兵衛の妹照。この仕立物の代金はいらぬ」
そう言うと照は仕立物だけ置いて作田家を飛び出した。
小田切家がかような仕儀にならねば、父が家老であれば、兄に衆道の浮名など立つこともなかったであろう。しかも沢井清兵衛が相手とは。
恐らく、作田家だけではあるまい。他の家でも似たような噂はささやかれていたはずで、何も知らぬ照はあれがあの角兵衛の出戻りの妹と陰で嘲笑われていたかもしれなかった。
照は家に戻ると、真っ先に井戸端へ行き、顔を洗った。洗いながら泣いていた。悔しい。よりによって兄と清兵衛との間にさような噂があるとは。兄は一体何を考えているのか。いくら家に清兵衛を連れて来るなと照が言ったからといって、村越塾の自室で会うとは。おかしな噂まで立っているというのに。大体、何を話すことがあるというのか。
混乱した思考がまとまらぬまま、顔を洗うのをやめたのは、作田の奥方が血相を変えてやってきたからだった。
「照様、申し訳ございません。うちの下女が失礼なことを申しまして」
代金はいらぬと言ったものの、それがなければ父の医者代もままならぬ身では奥方を追い出すわけにはいかなかった。
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