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二 嫁と姑
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「味噌はこの升が一人分」
そう言って姑は小さな升を渡した。
照はそれをまじまじと見つめた。手製らしい升はよく使い込まれているようで、ところどころすり減って光っていた。
「いつから使っているのですか」
「孫右衛門が元服前に作ったものゆえ、かれこれ十四、五年前」
こんな小さなものを作るとは器用なものと、感心した。が、すぐに細かいことに気づく男らしいと昨夜のあれこれが思い出された。
大体、味噌汁の味噌の量までいちいち決めるなど聞いたことがなかった。それも男が、である。
他にも、米は夕食の時だけ炊き、翌朝と昼はその残りを食べるという話や、漬け物に使う塩も目分量ではなく、漬ける青菜や梅の重さを量ってから決めるなど、照にとっては驚きの話が姑の口から語られた。
夕食の支度の手伝いをするため台所に入った照は、手伝う前から疲れてきた。
「照さん、いろいろ驚くことが多いかもしれないけれど、うちは私が嫁に来る前から、こうでね。最初は決まり事が覚えられるか、心配だったけれど、一年もすればなんとかなったから。照さんは賢いから、すぐ慣れますよ」
姑は微笑んでいるが、照には理解しがたかった。実家では漬け物の塩加減など、下女たちが勘でやっているけれど、いつもいい塩梅に漬かっていた。
「いったい、何のために」
「倹約ですよ。味噌を一年でどれくらい使うかわかっていれば、足らないとか余るとかいうこともないでしょう。漬け物もいつも同じように漬かるし」
姑はそう言うと、今年の分の味噌は照さんの分も作ったから大丈夫と微笑んだ。
「そうそう、味噌は四月から八月までは、すりきりより少しだけ多目にするようになっているから。汗をかくから少し塩辛いほうがいいんですって」
そう言いながら、姑は大きめの手製の升で鍋に水を入れていく。
「これ一杯が一人分、今夜と明日の分を入れればいいから」
家族三人と住み込みの下女一人分、合計八杯を姑は入れた。
舅は江戸詰めで不在である。
照は数年前に父を訪ねてきた姿を覚えている。孫右衛門によく似た細い身体をした壮年の男性だった。照はなんとなく怖いと思った。恐らく、あの後縁組が決まったのだと思う。
一体、どういうわけで、こんな味噌一つ無駄にせぬような家の嫁に選ばれたのか、照には不可解だった。
照には特に取り柄があるわけではない。習い事は特にこれが秀でているというものはない。とりあえずそこそこできるという程度である。
おまけに自分でもわかっているのだが、がさつである。繊細な竹之助は照を怖がっているし、孫右衛門に指摘されたように三三九度の回数が違っていても、別に気にならない。
そんな娘をよくも跡継ぎの嫁に選んだものと、舅の決断には畏れ入る。
やはり、父の小田切仁右衛門が家老でなければ嫁入りなど無理だったのかもしれない。
なにしろ、父の従妹の於絹の方は前の殿様の御国御前で、今の殿様のご生母様。つまり、小田切家は殿様の縁者なのだ。そことつながりができれば、これほど心強いことはあるまい。
結局、縁組は家同士のこと。当人同士の気持ちはさておき、家がつながればよいのだ。
恐らく自分が家老の娘でなければ、このような縁組もなかったのだろうと今更ながら思ったものの、それでは昨夜のことは、ただ家をつなげるためだけの行為だったのかと思い返すと、それだけでもないような気がする。
「照さん、手が止まってますよ」
姑の声に我に返った。決められた割合の塩で漬けられた菜っぱを切る手が止まっていた。
「申し訳ありません」
「ゆっくりでいいから、指を切らないようにね」
姑は例の味噌用の升に味噌を入れていた。
孫右衛門はいったい何を思って、こんな升を作ったのか。元服前の孫右衛門の顔を想像できぬ照であった。
味噌だけでなく、結婚生活は万事がそういうありさまだった。薪や炭の使用量を孫右衛門は毎日調べて、書き付けていた。しかも、ここ十年ほどの記録が残されており、それと比較して多過ぎるとあれこれけちをつけるのである。たとえ薪一本に満たぬ量であっても、である。
細かいことにうるさい孫右衛門に照は、内心あきれながらもはいはいと従っていた。
それでも我慢できたのは、姑がいたからだった。
普通、嫁と姑は仲が悪いと決まっているが、この家では違った。姑もまた夫と息子の口うるささに辟易していた。
何しろ、江戸の舅に毎月収入と支出の報告を手紙で送らねばならないのだった。それも品目まで書いて。約一か月後に届く返事には、その報告に対する感想とこれこれの費目を倹約しろとの命令が書かれていた。一言くらい姑のやりくりに礼くらい書けばいいのに、そんな言葉は一つもないのである。
ただ、さすがと思うのは舅もまた自分が一ヶ月に使った支出を品目とあわせて記録したものを書き送って来ることだった。
品目はほとんどが日用品で、外食などほとんどしないようだった。江戸にいる小田切の次兄からの手紙を見れば、どこで名物の団子や餅を食べたということが毎回書かれているというのに。
孫右衛門が家にいない昼間、隠しておいたお茶を飲みながら愚痴をこぼすのが嫁と姑の日課になっていた。
口うるさくて吝嗇なそれぞれの夫への人には言えないような愚痴が嫁と姑の絆を深めていた。
吝嗇といえば、閨でも徹底していた。
孫右衛門は一切、外では遊ばない男だった。照の友人の中には嫁いだ夫にすでに御手付きの女がいて、家で大きな顔をしていて実家に帰りたいと嘆く者もいた。だが、孫右衛門にはそんな女がいなかった。要するに他の女を囲うなど金の無駄ということである。
その代わりと言ってはなんだが、照は毎晩のように夫に求められた。初夜ほどではなかったが、する時は三度は求められた。
まじめそうな顔の夫は要するにむっつり助兵衛だったのである。
俗にいう四十八手を照は一か月もしないうちに全部させられた。
やはり舅も若い時はそうだったらしい。姑は茶を飲みながら言った。
「旦那様が江戸に行くと決まった日はもう嬉しくて嬉しくて。でも、そうなったら、今度は毎晩毎晩。江戸に行ったらやれないからって、いくらなんでもねえ」
照は孫右衛門がいつか江戸詰めになることを夢見ていた。
だが、姑はあっさりと言った。
「孫右衛門は江戸には行けないのよ。あの子は、七つの水無月祓えの時に麻疹にかかって行けなかったものだから」
家中では、七つの水無月祓えと十四の雷土山登山ができぬ者は江戸や大坂での勤めはできぬことになっていた。
「身体は弱くないんだけれど、そういう慣わしだから」
照はこの先ずっと、あの夫とこの家で暮らすのかと思うと、ため息が出そうになった。
孫右衛門はやきもち焼きだった。
結婚後も照は歌塾に通っていたのだが、何かの折に歌会で詠まれた他人の歌の話をしたら、それだけで孫右衛門は不機嫌になった。どうも歌を詠んだのが男だったのが気に食わなかったらしい。
その夜は翌朝起き上がれぬほど床の上で責められた。
そのくせ、朝は夫より早く起きろと言うのだから、たまったものではない。
さすがに耐えかねて、もう少し夜は加減してくだされと訴えたのは秋の頃だった。
線香一本燃え尽きるほどの間、胸の前で腕組みした孫右衛門は言った。
「子どもができるまでは、堪えてくれぬか」
照の予想もしていなかった答えだった。
「子ができるまで、でございますか」
「子ができれば、できぬゆえ」
ケチな夫はできぬ分の先取りを考えているのかと、照は絶句した。
「子ができる前に、倒れそうです」
この夏は畑で目眩を覚えたことは一度や二度ではない。
「そなたは丈夫が取り柄と小田切様がおっしゃっていたが」
「父上がさようなことを」
呆れた話である。親ならもう少し物の言い様があろうに。
「いくら丈夫でも、ものには限度があるかと存じます」
「嫌なのか」
孫右衛門の目が照を見据えた。なんだか怒られているようだった。嫌とかいう問題ではない。
「身がもちません。子どもどころではありません」
「そこまで言うなら善処しよう」
照は安堵した。
が、それは糠喜びというものだった。
三度が二度になっただけ。それも一度の時間が長くなってのことである。結局、疲れ方は同じだった。
嫌だと言っていればよかったと思ったが、後の祭りだった。
十月に入った。
衣類に綿を入れる冬支度もほぼ終わり、その日は昼食後、姑とこっそりと例の茶会をした。
菓子は姑のへそくりで買った羊羮である。それを少々大きめに切り分け、濃くいれた茶を飲むのは至福のひとときであった。
「鬼の居ぬ間のなんとやら」
息子を鬼呼ばわりする姑に思わず笑って同意する照だった。
孫右衛門は小田切家老の下で用人として秘書のような仕事をしており、この頃は小田切家の知行地の年貢米の計算等があって帰宅が遅いのだった。
帰りが遅いおかげで、夜一度もないことも幾日か続いており、照にとってここ数日は穏やかな日々であった。
最初に異変を感じたのは、姑だった。
「照さん、なんだか揺れてない。めまいかしら」
その言葉も終わらぬうちに、照でも気づくほどの揺れが始まった。照は驚き立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。
が、それでも這って障子戸を開けた。こういう時は立て付けが悪くなって表具が開かなくなることがあると聞いたことがあった。
揺れはまだ続いた。姑は腰を抜かしていた。幸い、この部屋には倒れても危険な家具はない。
照は庭に立つ古い石灯籠がぐらぐらと揺れているのに気づいた。
まだ足元が揺れていた。
「なんなの、これは」
姑は怯えていた。照も恐ろしかった。姑がいなければここから這ってでも逃げただろう。けれど、怯える人を置いてはいけない。
姑のところまで這って戻り、ぎゅっと両の腕で抱き締めた。
「お母様、大丈夫です。戸は開けてありますから、いつでも逃げられます。竈の火も消してますから」
竈の火の始末は留守中に湯を沸かしたことに気づかれないように、いつも念入りにやっている。
長い揺れがおさまった時、照は自分の手のひらににじむ汗に気づいた。
「念のため、台所を見て参ります。お母様はここから出ぬように」
そう言って立ち上がった時だった。ごとんという鈍い音がした。
照も姑も音の出所を見て顔を青ざめさせた。
先程まで揺れていた石灯籠が庭の地面の上に横倒しになっていた。
この日は宝永四年(一七〇七年)十月四日。
午後二時頃、南海トラフ沿いを震源とするマグニチュード八・四から九・三と推定される地震が起きた。
江戸は震度四から五で被害は比較的少なかったが、駿河より西の広い範囲で震度六以上の震度と推定される地震が起きて各地で家屋が倒壊したり山体崩壊などの被害があった。また陸奥国(青森県)八戸や中国でも揺れたという記録がある。
九州の各地でも被害が出た。肥後の人吉では震度五の揺れであったと推定されている。
香田角でも城の壁のひび割れや、古い石垣の崩落があり、幕府に補修の願いを出した。
だが、この地震の被害は揺れによるものだけにとどまらなかった。津波である。房総半島から九州の日向、種子島までの広範囲に及び、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、大坂湾にまで入り込んで犠牲者を出した。
この地震と津波による全国の被害は幕府への報告では死者五〇〇〇人余だが、死者は二〇〇〇〇人以上との推定もある。
(大坂での被害は圧死者五三五一人、溺死者一六三七一人との記録もあり、これを含めると推定はまた変わる)
他にも流失家屋は約一八〇〇〇、潰家約五九〇〇〇、半壊・破損約四三〇〇〇、蔵被害約二〇〇〇、船の流失・損壊約三九〇〇、田畑の損壊約一四〇〇〇〇石及び約一六〇〇〇町歩等の被害が幕府に報告されている。
その翌月、十一月二十三日には富士山が噴火し、山の側面に宝永山が出来た。火山灰は江戸まで飛び、十数センチメートル積もった。
打ち続く災害で米価は高騰した。
そんな全国的な規模の災害が起きていたとは、この時の人々は誰も知らない。
香田角では、揺れの後、各町で火災が起きていないか見回りの者が各家をまわっていた。
宇留部家にも大番組の者が様子を見に来た。無事だと告げた後、照はお城はいかがかと尋ねた。
「どなたもお怪我はありません。恐らく今夜は御家老様達は城にお詰めになるかと」
照の父が小田切家老だと知っているのか、教えてくれた。
父が城にいるなら、孫右衛門も一緒にいるはずである。ということは今夜は帰宅できぬかもしれぬ。
姑は時々起こる揺れに怯えていた。下女も怪我こそしなかったが、地震の時に慌てて転んでいる。
今夜は自分がしっかりと留守を守らねばならぬらしい。
照は覚悟を決めた。
いつもなら退勤の太鼓が鳴る刻限になっても、大半の役人は城内で非常事態に備え待機しているようだった。
城下は非常事態ということであちこちに大番組や奉行所の者らが立っていた。
町人の住まいの中には壊れたものもあるようで、寺や神社に避難している者もいた。
宇留部家は幸い建物に被害はなかったが、近所には数軒家屋に被害が出ていた。
はす向かいの沖津家では、台所の竈にひびが入ったということで、煮炊きができなくなったという。
照は沖津家へ行き、うちで夕食をともに食べましょうと誘った。
沖津の妻からよく野菜をもらうので、その恩返しのつもりだった。沖津家は夫婦二人と老父だけだが、孫右衛門同様、夫は城から戻ってこない。二人分多く作っても、孫右衛門は今夜は帰って来ないのだ。わかるはずはない。
沖津の妻が畑の野菜を持ってきたので、おかずはいつもより品数が多くなった。
照は飯を多めに炊いて、翌朝の分ということで握り飯にして沖津の妻に渡した。
沖津の妻は恐縮していた。
「よろしいのですか。ご主人からお咎めは」
「困った時はお互い様」
照は母が同じように困った者に手を貸す姿を見て育っていた。握り飯程度で助かる者がいるなら、楽なものである。
「本当に照さんは豪気。あんなに揺れた後で平気で煮炊きをするんだもの。その上、よその家に握り飯など」
姑はそう言いながらも、不安げな顔を見せた。
「孫右衛門も照さんくらい融通がきけばよいのだけれど」
姑の心配は現実のものとなった。翌日の午後帰宅した孫右衛門は、どこで聞きつけたのか、沖津家の握り飯のことを知っていた。
「うちに、よその家に施しをするほどのゆとりがあると思っておるのか。そなたの実家とは違う」
帰宅するなり、抑揚のない静かな声で言われた言葉に、照はむっとして顔を上げた。
「沖津の奥様からは、いつもなりすぎた野菜をいただいております。うちからもお返しはしますが、あちらのほうが出来が立派で申し訳ないほど。かような時に恩を返さずに、いつ返せと」
「施しではないと申すか」
「はい」
「頼まれもせぬのに、握り飯をやるというのは施しではないのか」
「そういうことを頼むような図々しい人たちではないでしょう、沖津の方々は。頼まれなくとも、差し上げるのが人として当然の振る舞いではありませんか」
どこまでいっても平行線のやりとりに終止符を打ったのは、沖津の妻だった。
「昨日いただいた分のお返しです」
沖津の妻が米と籠一杯の野菜を持ってやって来た。
照は昨夜の夕食に使った以上の米と野菜に恐縮するしかなかった。
「米は半分だけいただく。かようにたくさん、我が家の釜では炊けぬはず。野菜は昨日もいただいたはず」
孫右衛門はそう言うと、野菜すべてと米を半分以上沖津の妻に突き返した。これには照も沖津の妻も驚いた。
「これでは、沖津に叱られます」
困惑する沖津の妻に孫右衛門は言った。
「先々、それがしが家督を継げば、勘定方を拝することになる。沖津様と仕事を一緒にすることもあるやもしれぬ。その際に、そちらと貸し借りができれば、お役目に障りがあるかもしれぬ。ゆえに、こちらが昨日出した分以上の米と野菜をいただくわけには参らぬのだ。かように沖津様にお伝え願えぬであろうか」
沖津の妻は畏まりましたと、返された米と野菜を持って家に帰った。
照は、己の浅はかさが恥ずかしかった。
宇留部の家は勘定方を代々勤めている。江戸詰めの舅も広敷用人として、奥向きの勘定を預かっている。
そんな家柄であれば、金銭や物の貸借に敏感にならざるを得ない。
貸した物以上のものを返されては、賄賂ともとられかねないのだ。
「気がつきませんでした」
そう言った照に、孫右衛門は頷いただけだった。
その夜、孫右衛門は珍しく、寝る前に言った。
「母上がそなたがいてくれて心強かったと仰せであった。世話をかけた」
照は雨が降るのではないかと思った。
雨は降らなかったものの、その後、孫右衛門はほとが乾く間もないほど照を抱いた。
そんな生活が三年続いた。子どもが生まれないので、夜は相変わらずであった。
三年たっても子どもが生まれないのだから、実家に帰してくれればいいのにと思って、ある日、夫にそれとなく子どもができないのは申し訳ないことですと言うと、子どもは生まれなくてもいい、いざとなったら養子をとればいいと言ったのには驚いた。
ケチな孫右衛門らしくないことを言ったのはこの時だけだった。
そう言って姑は小さな升を渡した。
照はそれをまじまじと見つめた。手製らしい升はよく使い込まれているようで、ところどころすり減って光っていた。
「いつから使っているのですか」
「孫右衛門が元服前に作ったものゆえ、かれこれ十四、五年前」
こんな小さなものを作るとは器用なものと、感心した。が、すぐに細かいことに気づく男らしいと昨夜のあれこれが思い出された。
大体、味噌汁の味噌の量までいちいち決めるなど聞いたことがなかった。それも男が、である。
他にも、米は夕食の時だけ炊き、翌朝と昼はその残りを食べるという話や、漬け物に使う塩も目分量ではなく、漬ける青菜や梅の重さを量ってから決めるなど、照にとっては驚きの話が姑の口から語られた。
夕食の支度の手伝いをするため台所に入った照は、手伝う前から疲れてきた。
「照さん、いろいろ驚くことが多いかもしれないけれど、うちは私が嫁に来る前から、こうでね。最初は決まり事が覚えられるか、心配だったけれど、一年もすればなんとかなったから。照さんは賢いから、すぐ慣れますよ」
姑は微笑んでいるが、照には理解しがたかった。実家では漬け物の塩加減など、下女たちが勘でやっているけれど、いつもいい塩梅に漬かっていた。
「いったい、何のために」
「倹約ですよ。味噌を一年でどれくらい使うかわかっていれば、足らないとか余るとかいうこともないでしょう。漬け物もいつも同じように漬かるし」
姑はそう言うと、今年の分の味噌は照さんの分も作ったから大丈夫と微笑んだ。
「そうそう、味噌は四月から八月までは、すりきりより少しだけ多目にするようになっているから。汗をかくから少し塩辛いほうがいいんですって」
そう言いながら、姑は大きめの手製の升で鍋に水を入れていく。
「これ一杯が一人分、今夜と明日の分を入れればいいから」
家族三人と住み込みの下女一人分、合計八杯を姑は入れた。
舅は江戸詰めで不在である。
照は数年前に父を訪ねてきた姿を覚えている。孫右衛門によく似た細い身体をした壮年の男性だった。照はなんとなく怖いと思った。恐らく、あの後縁組が決まったのだと思う。
一体、どういうわけで、こんな味噌一つ無駄にせぬような家の嫁に選ばれたのか、照には不可解だった。
照には特に取り柄があるわけではない。習い事は特にこれが秀でているというものはない。とりあえずそこそこできるという程度である。
おまけに自分でもわかっているのだが、がさつである。繊細な竹之助は照を怖がっているし、孫右衛門に指摘されたように三三九度の回数が違っていても、別に気にならない。
そんな娘をよくも跡継ぎの嫁に選んだものと、舅の決断には畏れ入る。
やはり、父の小田切仁右衛門が家老でなければ嫁入りなど無理だったのかもしれない。
なにしろ、父の従妹の於絹の方は前の殿様の御国御前で、今の殿様のご生母様。つまり、小田切家は殿様の縁者なのだ。そことつながりができれば、これほど心強いことはあるまい。
結局、縁組は家同士のこと。当人同士の気持ちはさておき、家がつながればよいのだ。
恐らく自分が家老の娘でなければ、このような縁組もなかったのだろうと今更ながら思ったものの、それでは昨夜のことは、ただ家をつなげるためだけの行為だったのかと思い返すと、それだけでもないような気がする。
「照さん、手が止まってますよ」
姑の声に我に返った。決められた割合の塩で漬けられた菜っぱを切る手が止まっていた。
「申し訳ありません」
「ゆっくりでいいから、指を切らないようにね」
姑は例の味噌用の升に味噌を入れていた。
孫右衛門はいったい何を思って、こんな升を作ったのか。元服前の孫右衛門の顔を想像できぬ照であった。
味噌だけでなく、結婚生活は万事がそういうありさまだった。薪や炭の使用量を孫右衛門は毎日調べて、書き付けていた。しかも、ここ十年ほどの記録が残されており、それと比較して多過ぎるとあれこれけちをつけるのである。たとえ薪一本に満たぬ量であっても、である。
細かいことにうるさい孫右衛門に照は、内心あきれながらもはいはいと従っていた。
それでも我慢できたのは、姑がいたからだった。
普通、嫁と姑は仲が悪いと決まっているが、この家では違った。姑もまた夫と息子の口うるささに辟易していた。
何しろ、江戸の舅に毎月収入と支出の報告を手紙で送らねばならないのだった。それも品目まで書いて。約一か月後に届く返事には、その報告に対する感想とこれこれの費目を倹約しろとの命令が書かれていた。一言くらい姑のやりくりに礼くらい書けばいいのに、そんな言葉は一つもないのである。
ただ、さすがと思うのは舅もまた自分が一ヶ月に使った支出を品目とあわせて記録したものを書き送って来ることだった。
品目はほとんどが日用品で、外食などほとんどしないようだった。江戸にいる小田切の次兄からの手紙を見れば、どこで名物の団子や餅を食べたということが毎回書かれているというのに。
孫右衛門が家にいない昼間、隠しておいたお茶を飲みながら愚痴をこぼすのが嫁と姑の日課になっていた。
口うるさくて吝嗇なそれぞれの夫への人には言えないような愚痴が嫁と姑の絆を深めていた。
吝嗇といえば、閨でも徹底していた。
孫右衛門は一切、外では遊ばない男だった。照の友人の中には嫁いだ夫にすでに御手付きの女がいて、家で大きな顔をしていて実家に帰りたいと嘆く者もいた。だが、孫右衛門にはそんな女がいなかった。要するに他の女を囲うなど金の無駄ということである。
その代わりと言ってはなんだが、照は毎晩のように夫に求められた。初夜ほどではなかったが、する時は三度は求められた。
まじめそうな顔の夫は要するにむっつり助兵衛だったのである。
俗にいう四十八手を照は一か月もしないうちに全部させられた。
やはり舅も若い時はそうだったらしい。姑は茶を飲みながら言った。
「旦那様が江戸に行くと決まった日はもう嬉しくて嬉しくて。でも、そうなったら、今度は毎晩毎晩。江戸に行ったらやれないからって、いくらなんでもねえ」
照は孫右衛門がいつか江戸詰めになることを夢見ていた。
だが、姑はあっさりと言った。
「孫右衛門は江戸には行けないのよ。あの子は、七つの水無月祓えの時に麻疹にかかって行けなかったものだから」
家中では、七つの水無月祓えと十四の雷土山登山ができぬ者は江戸や大坂での勤めはできぬことになっていた。
「身体は弱くないんだけれど、そういう慣わしだから」
照はこの先ずっと、あの夫とこの家で暮らすのかと思うと、ため息が出そうになった。
孫右衛門はやきもち焼きだった。
結婚後も照は歌塾に通っていたのだが、何かの折に歌会で詠まれた他人の歌の話をしたら、それだけで孫右衛門は不機嫌になった。どうも歌を詠んだのが男だったのが気に食わなかったらしい。
その夜は翌朝起き上がれぬほど床の上で責められた。
そのくせ、朝は夫より早く起きろと言うのだから、たまったものではない。
さすがに耐えかねて、もう少し夜は加減してくだされと訴えたのは秋の頃だった。
線香一本燃え尽きるほどの間、胸の前で腕組みした孫右衛門は言った。
「子どもができるまでは、堪えてくれぬか」
照の予想もしていなかった答えだった。
「子ができるまで、でございますか」
「子ができれば、できぬゆえ」
ケチな夫はできぬ分の先取りを考えているのかと、照は絶句した。
「子ができる前に、倒れそうです」
この夏は畑で目眩を覚えたことは一度や二度ではない。
「そなたは丈夫が取り柄と小田切様がおっしゃっていたが」
「父上がさようなことを」
呆れた話である。親ならもう少し物の言い様があろうに。
「いくら丈夫でも、ものには限度があるかと存じます」
「嫌なのか」
孫右衛門の目が照を見据えた。なんだか怒られているようだった。嫌とかいう問題ではない。
「身がもちません。子どもどころではありません」
「そこまで言うなら善処しよう」
照は安堵した。
が、それは糠喜びというものだった。
三度が二度になっただけ。それも一度の時間が長くなってのことである。結局、疲れ方は同じだった。
嫌だと言っていればよかったと思ったが、後の祭りだった。
十月に入った。
衣類に綿を入れる冬支度もほぼ終わり、その日は昼食後、姑とこっそりと例の茶会をした。
菓子は姑のへそくりで買った羊羮である。それを少々大きめに切り分け、濃くいれた茶を飲むのは至福のひとときであった。
「鬼の居ぬ間のなんとやら」
息子を鬼呼ばわりする姑に思わず笑って同意する照だった。
孫右衛門は小田切家老の下で用人として秘書のような仕事をしており、この頃は小田切家の知行地の年貢米の計算等があって帰宅が遅いのだった。
帰りが遅いおかげで、夜一度もないことも幾日か続いており、照にとってここ数日は穏やかな日々であった。
最初に異変を感じたのは、姑だった。
「照さん、なんだか揺れてない。めまいかしら」
その言葉も終わらぬうちに、照でも気づくほどの揺れが始まった。照は驚き立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。
が、それでも這って障子戸を開けた。こういう時は立て付けが悪くなって表具が開かなくなることがあると聞いたことがあった。
揺れはまだ続いた。姑は腰を抜かしていた。幸い、この部屋には倒れても危険な家具はない。
照は庭に立つ古い石灯籠がぐらぐらと揺れているのに気づいた。
まだ足元が揺れていた。
「なんなの、これは」
姑は怯えていた。照も恐ろしかった。姑がいなければここから這ってでも逃げただろう。けれど、怯える人を置いてはいけない。
姑のところまで這って戻り、ぎゅっと両の腕で抱き締めた。
「お母様、大丈夫です。戸は開けてありますから、いつでも逃げられます。竈の火も消してますから」
竈の火の始末は留守中に湯を沸かしたことに気づかれないように、いつも念入りにやっている。
長い揺れがおさまった時、照は自分の手のひらににじむ汗に気づいた。
「念のため、台所を見て参ります。お母様はここから出ぬように」
そう言って立ち上がった時だった。ごとんという鈍い音がした。
照も姑も音の出所を見て顔を青ざめさせた。
先程まで揺れていた石灯籠が庭の地面の上に横倒しになっていた。
この日は宝永四年(一七〇七年)十月四日。
午後二時頃、南海トラフ沿いを震源とするマグニチュード八・四から九・三と推定される地震が起きた。
江戸は震度四から五で被害は比較的少なかったが、駿河より西の広い範囲で震度六以上の震度と推定される地震が起きて各地で家屋が倒壊したり山体崩壊などの被害があった。また陸奥国(青森県)八戸や中国でも揺れたという記録がある。
九州の各地でも被害が出た。肥後の人吉では震度五の揺れであったと推定されている。
香田角でも城の壁のひび割れや、古い石垣の崩落があり、幕府に補修の願いを出した。
だが、この地震の被害は揺れによるものだけにとどまらなかった。津波である。房総半島から九州の日向、種子島までの広範囲に及び、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、大坂湾にまで入り込んで犠牲者を出した。
この地震と津波による全国の被害は幕府への報告では死者五〇〇〇人余だが、死者は二〇〇〇〇人以上との推定もある。
(大坂での被害は圧死者五三五一人、溺死者一六三七一人との記録もあり、これを含めると推定はまた変わる)
他にも流失家屋は約一八〇〇〇、潰家約五九〇〇〇、半壊・破損約四三〇〇〇、蔵被害約二〇〇〇、船の流失・損壊約三九〇〇、田畑の損壊約一四〇〇〇〇石及び約一六〇〇〇町歩等の被害が幕府に報告されている。
その翌月、十一月二十三日には富士山が噴火し、山の側面に宝永山が出来た。火山灰は江戸まで飛び、十数センチメートル積もった。
打ち続く災害で米価は高騰した。
そんな全国的な規模の災害が起きていたとは、この時の人々は誰も知らない。
香田角では、揺れの後、各町で火災が起きていないか見回りの者が各家をまわっていた。
宇留部家にも大番組の者が様子を見に来た。無事だと告げた後、照はお城はいかがかと尋ねた。
「どなたもお怪我はありません。恐らく今夜は御家老様達は城にお詰めになるかと」
照の父が小田切家老だと知っているのか、教えてくれた。
父が城にいるなら、孫右衛門も一緒にいるはずである。ということは今夜は帰宅できぬかもしれぬ。
姑は時々起こる揺れに怯えていた。下女も怪我こそしなかったが、地震の時に慌てて転んでいる。
今夜は自分がしっかりと留守を守らねばならぬらしい。
照は覚悟を決めた。
いつもなら退勤の太鼓が鳴る刻限になっても、大半の役人は城内で非常事態に備え待機しているようだった。
城下は非常事態ということであちこちに大番組や奉行所の者らが立っていた。
町人の住まいの中には壊れたものもあるようで、寺や神社に避難している者もいた。
宇留部家は幸い建物に被害はなかったが、近所には数軒家屋に被害が出ていた。
はす向かいの沖津家では、台所の竈にひびが入ったということで、煮炊きができなくなったという。
照は沖津家へ行き、うちで夕食をともに食べましょうと誘った。
沖津の妻からよく野菜をもらうので、その恩返しのつもりだった。沖津家は夫婦二人と老父だけだが、孫右衛門同様、夫は城から戻ってこない。二人分多く作っても、孫右衛門は今夜は帰って来ないのだ。わかるはずはない。
沖津の妻が畑の野菜を持ってきたので、おかずはいつもより品数が多くなった。
照は飯を多めに炊いて、翌朝の分ということで握り飯にして沖津の妻に渡した。
沖津の妻は恐縮していた。
「よろしいのですか。ご主人からお咎めは」
「困った時はお互い様」
照は母が同じように困った者に手を貸す姿を見て育っていた。握り飯程度で助かる者がいるなら、楽なものである。
「本当に照さんは豪気。あんなに揺れた後で平気で煮炊きをするんだもの。その上、よその家に握り飯など」
姑はそう言いながらも、不安げな顔を見せた。
「孫右衛門も照さんくらい融通がきけばよいのだけれど」
姑の心配は現実のものとなった。翌日の午後帰宅した孫右衛門は、どこで聞きつけたのか、沖津家の握り飯のことを知っていた。
「うちに、よその家に施しをするほどのゆとりがあると思っておるのか。そなたの実家とは違う」
帰宅するなり、抑揚のない静かな声で言われた言葉に、照はむっとして顔を上げた。
「沖津の奥様からは、いつもなりすぎた野菜をいただいております。うちからもお返しはしますが、あちらのほうが出来が立派で申し訳ないほど。かような時に恩を返さずに、いつ返せと」
「施しではないと申すか」
「はい」
「頼まれもせぬのに、握り飯をやるというのは施しではないのか」
「そういうことを頼むような図々しい人たちではないでしょう、沖津の方々は。頼まれなくとも、差し上げるのが人として当然の振る舞いではありませんか」
どこまでいっても平行線のやりとりに終止符を打ったのは、沖津の妻だった。
「昨日いただいた分のお返しです」
沖津の妻が米と籠一杯の野菜を持ってやって来た。
照は昨夜の夕食に使った以上の米と野菜に恐縮するしかなかった。
「米は半分だけいただく。かようにたくさん、我が家の釜では炊けぬはず。野菜は昨日もいただいたはず」
孫右衛門はそう言うと、野菜すべてと米を半分以上沖津の妻に突き返した。これには照も沖津の妻も驚いた。
「これでは、沖津に叱られます」
困惑する沖津の妻に孫右衛門は言った。
「先々、それがしが家督を継げば、勘定方を拝することになる。沖津様と仕事を一緒にすることもあるやもしれぬ。その際に、そちらと貸し借りができれば、お役目に障りがあるかもしれぬ。ゆえに、こちらが昨日出した分以上の米と野菜をいただくわけには参らぬのだ。かように沖津様にお伝え願えぬであろうか」
沖津の妻は畏まりましたと、返された米と野菜を持って家に帰った。
照は、己の浅はかさが恥ずかしかった。
宇留部の家は勘定方を代々勤めている。江戸詰めの舅も広敷用人として、奥向きの勘定を預かっている。
そんな家柄であれば、金銭や物の貸借に敏感にならざるを得ない。
貸した物以上のものを返されては、賄賂ともとられかねないのだ。
「気がつきませんでした」
そう言った照に、孫右衛門は頷いただけだった。
その夜、孫右衛門は珍しく、寝る前に言った。
「母上がそなたがいてくれて心強かったと仰せであった。世話をかけた」
照は雨が降るのではないかと思った。
雨は降らなかったものの、その後、孫右衛門はほとが乾く間もないほど照を抱いた。
そんな生活が三年続いた。子どもが生まれないので、夜は相変わらずであった。
三年たっても子どもが生まれないのだから、実家に帰してくれればいいのにと思って、ある日、夫にそれとなく子どもができないのは申し訳ないことですと言うと、子どもは生まれなくてもいい、いざとなったら養子をとればいいと言ったのには驚いた。
ケチな孫右衛門らしくないことを言ったのはこの時だけだった。
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