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十四 その日まで2

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 中学二年の一学期の終わり頃だった。
 高校生の姉が期末考査だとかで俺より早く帰宅したことがあった。授業はさぼるが、定期考査だけは一応受けるのだ。そうしないと、義務教育と違って落第すると姉も兄から口うるさく言われていた。
 俺は帰宅するといつものように母の部屋の押し入れにある文庫本を取りに二階に上がった。すると、部屋の前に姉がいた。
 姉はにやりと笑った。嫌な予感がした。夏休みの宿題を捨てられた翌朝もこんな顔をしてたのだ。
 姉は背中に回した手をさっと出した。その手に握られていたのは俺が何度も読んだ芥川龍之介の短編集だった。 

「こんなの読んでんだ」

 そう言うと、姉はカバーを外しびりびりと破った。あっと言う間に中身の本も数ページずつ破っていく。
 俺は信じられない物を見た気がした。この世に本を破る人間がいるなんて。

「ねえちゃん……」

 俺は生まれて初めて姉に飛びかかった。だが、散々に打ちすえられた。姉は高校の女番長だった。番町なんて死語だけど、俺の田舎では姉はそう言われていた。

「百年はええんだよ」

 そう言うと、姉は部屋の襖を開けた。
 中には小学生の妹と弟がいて、本だったもののかけらが周囲に舞っていた。
 その日、母は実家の兄を訪ねていて帰って来たのは夕方だった。
 部屋の惨状と俺の腫れ上がった顔を見てすべてを悟ったようだった。
 さらに姉は追い打ちをかけた。

「父ちゃんを裏切って、あいつの読んでた本なんか読ませてたなんて、サイテーの母親だよ」

 母は何も言わず、部屋の掃除を始めた。俺は母のそばで本だった紙を一枚一枚集めた。
 仕事から帰って来た父は黙って酒を飲み始めた。
 祖父母も黙っていた。
 兄は姉にいい加減にしとけよと言っただけだった。
 俺はその夜、一人で泣きながら姉の破った芥川龍之介の短編集だった紙をページ番号の順に並べた。他の本はタイトルがバラバラになってとても一晩で元に戻せそうになかったのだ。
 なんとかページをそろえ見つからないようにカバンの底に入れた。明日は段ボールに入れた他の本だった紙も元に戻そうと思って寝た。
 だが、翌朝段ボールは中身ごとなくなっていた。物を焼くような臭いがしたので、庭を見ると、母が焚火をしていた。俺は慌てて庭へ下りた。
 母は何も言わず、燃え盛る火を見つめていた。
 今にして思えばいくら番長でも年頃の姉にしてみれば、夫以外の男と子どもを作っておきながら、家から出ずに母親でございという顔をしている母が許せなかったのだろう。姉は真っすぐな気性だったのだ。同級生の女子が他校の男子に二股されたと知った時、その学校までバイクで乗り込み、授業中の教室から男子生徒を引きずり出し蹴り倒して停学になったこともあるのだ。
 母親の不貞はまだ物心つかない頃のことだが、兄が少しだけ男のことを覚えていてそれを聞いていた姉はずっと母に対する怨嗟を心の内にためこんでいたのだろう。
 母親が男の残した本を俺に読ませていたことなど許せるわけがなかった。
 母もまたそんな娘の気持ちを思えば、本を残しておくことなどできるはずがなかった。



 この事件をきっかけに、母は俺をこの町の外に進学させようと思い立ったようだった。
 町内にも高校はある。普通科と商業科のある公立だ。だが、番長の姉が通っているような学校である。正直、進学率はよくない。今は中学で一番だが、やはり進学率の高い競争相手の多い学校にやって、破落戸一家から脱出させなければこの子は駄目にされると思ったらしい。
 だが、自分が言っても父が言うことをきくはずがないとわかっていた母はお寺の奥さんや先生たちに根回しを始めた。母はその点では策略家だった。それに、良識ある人々は、俺がこのまま地元にいるのはよくないことだと思っていた節がある。
 うちの家族は寺での年忌法要には真面目に通った。法事を終えて和尚さんが雑談しながら父に言った。

「うちの息子は○○市に進学するんだが、お宅の次男さんもそうなんだろ」

 思いも寄らぬ和尚の言葉だった。父はとんでもない、こいつにはそんな頭はないと言った。

「東大出て弁護士になったら、何かあっても安心だと思うけれどね」

 その言葉に父は動かされた。弁護士。服役した時に同房の仲間が弁護士の良し悪しを話したのを聞いていた父は、自分についた弁護士がさほど腕のいい弁護士ではなかったと思っていたので、俺がもし弁護士になったらと和尚に言われて、その気になったらしかった。
 家庭訪問に来た担任が進学の話をすると、父は東大に受かるにはどこの高校に行けばいいのかと聞いた。
 担任は○○市のどこと具体的にいくつか名を挙げた。
 こうして中三の夏休み前には、俺がこの町を出て進学するのは既定のこととなった。
 あきれたことに、父は養育費を増額しろと要求した。息子が私立の学校に下宿して通うから金がいると言って。
 すると相手の親族は要求通り倍の金を父の口座に振り込んだ。父の酒量が増えたのは言うまでもない。
 またきょうだいに俺の勉強の邪魔をしないようにと言った。弁護士先生になったら、世話になるかもしれないからと言って。子どもにそういうことを平気で言う親というのもどうかと思うが、兄も姉も妹も弟も納得した。 
 ともあれ、俺の学習環境は驚異的によくなった。あまりにもうまく行き過ぎて気味が悪いほどだった。こんなこといつまでも続くはずがないような気がした。
 だが、本を平気で破るきょうだいと離れられると思えば、気持ちは楽になった。弁護士になろうとまでは思っていなかったが。母もこっそりとだが、弁護士にならなくてもいい、好きなことを勉強すればいいと言ってくれた。
 ただ勉強して遠くの学校に行って遠くの場所で就職してこの家から離れたかった。そしていずれ母と二人で同じ家に住むのだと思っていた。俺の未来図には父も父方の祖父母も兄弟姉妹も存在しなかった。



 翌年、俺は入試を受けて遠く離れた都市の高校に入学した。下宿先は和尚さんの知り合いの大学の先生の家だった。寺の息子は奥さんの実家、つまり祖父の寺に下宿した。進学先が同じで下宿先が近かったので、俺たちはよく顔を合わせた。
 高校は俺にとって天国に等しかった。中学までの環境とは大違いだった。学校の授業がこんなに静かなものだとは思わなかった。本のことを語る友人もできた。
 部活にも入った。勉強には体力がいるからスポーツをするように下宿先の先生に言われたのだ。
 中学まではとても部活に入れなかった。俺の兄や姉のことを知っている上級生は頼むから来ないでくれと言った。俺に問題はないが、部活を通して兄や姉と関わることになるのがよほど嫌だったらしい。俺がきょうだいから勉強で嫌がらせを受けていることを知っていたから、部活も嫌がらせを受けるに違いないと思ったのだ。
 俺は思い切り走りたかったのでサッカー部に入った。陸上部は強豪だったので、遠征の費用が負担になると思ったのだ。サッカー部はマイクロバスを持っていたので、交通費の負担がさほど多くなかった。



 本当に楽しい高校生活だった。宿題が多い、部活がきつい、監督が怖いと言う同級生もいたけれど、俺にとっては最高だった。誰も勉強の邪魔をしないし、運動が好きなだけできるし、夜は静かだ。監督の怖さなど父や姉の恐ろしさに比べればなんでもなかった、
 その日その時までは。



 その日俺の未来図から母も消えた。


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