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六 災厄

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 俺はテーブルから立ち上がった。
 しばらく手紙のことを忘れたかった。
 マグカップを流し台に置き、洗面所で歯を磨いた。その間、ずっと歯のことばかり考えた。そうしなければおかしくなりそうだった。だが、歯というのはいけない。別のことを思い出してしまう。
 だから、結局すぐに口をゆすいで、歯ブラシを置いた。



 テーブルの上の手紙を見下ろす。
 あの老婦人は何を考えて、こんな手紙をよこしたのか。
 大舅の命の恩人の子孫への礼? だとしても書きようがあるような気がする。



 ハナの父親が実家でのつらい生活から抜け出せたのは、ほっとした。
 恐らく安積家では若旦那様と呼ばれていた人だから、実家での生活は耐えがたかったはずだ。それでもなぜそんな家にいたのか。
 盛之のように新たな居場所を別に求めてもいいはずじゃないか。
 それをしなかったのはなぜだ。
 危険な火山の島に住み続けた人々と一緒ってことなのか。
 いや、違うだろ。
 盛之と違い、ハナの父親は外へ出て行く勇気がなかった。知らない世界へ出ていく勇気がなかったんだろう。
 年齢の違いもあるだろう。盛之は血気盛んな十代の若者だったが、ハナの父親は二十を超えていたはずだ。しかも婿養子の生活で他人の釜の飯を食う辛さも知っていた。いくら若旦那様でも、自分の代わりはいくらでもいることを知っていたんじゃないだろうか。だから実家に戻っても、外へ出て行けなかったのじゃないか。家族の代わりはいないからな。
 彼がもっと無鉄砲な男であれば、実家で飼い殺しのような生活を送ることなどしなかっただろうに。



 俺が実家を離れることができたのも十代だったからかもしれない。
 あの頃の俺は家を離れることだけを願っていた。
 暴力にまみれたあの家から。
 離れたからこそ、今こうして生きていられる。
 生きていることが幸せなのか、不幸なのか、わからない時もあるけれど。
 自分が幸福かどうか、考えられるだけでも、有難いことだって言う人もいるが、考えること自体不幸なのかもしれない。
 本当に幸福な人間は自分が幸福かなんて考えるだろうか。
 失って初めてそれまでが幸福だったと考えるもんじゃないか。



 住むべき場所を失った人々も恐らくそこで初めてそれまでの暮らしの意味を知ったのかもしれない。
 だが立ち止まってはいられない。
 飯を食って生きなければならないんだから。
 新たな場所で土地をひらく。言葉にすれば簡単だが、容易なことじゃないだろう。



 柄にもないことを思った俺は椅子に座り、ヒマワリの種を口に運んだ。
 こんな時間にヒマワリの種。ハムスターだって寝ている時間だろうに。
 俺はネットで桜島の噴火を調べた。
 まっ黒な火山から噴出した灰の雲に覆われた写真は白黒だからこその迫力があった。
 記録もこの世の終わりと言わんばかりの記述にあふれていた。
 対岸の鹿児島市の人々は市内から近郊の村々に大挙して避難し、地震で塀や墓石が倒れ、火事が起き……。
 今同じ規模の噴火が起きたらどうなることか。想像するだけで寒気がした。
 新幹線のレールに灰が積もれば走行できなくなるだろう。JRもそうだ。道路も積もった灰で動けなくなった車で渋滞。飛行機もエンジンに灰が入れば異常をきたすから空港は利用できなくなる。上空を飛行する航空機も空路を変えなければならないだろう。
 大隅半島には海上自衛隊の航空基地があるけれど、それも使用できなくなる。ここは哨戒機が離発着するから、国防上問題が生じるんじゃなかろうか。
 交通機関がマヒするだけではない。田畑に灰が積もれば農業には大打撃だ。畜産も当然影響を受ける。
 灰が目に入ればコンタクトレンズも使えないし、呼吸器にも影響が出る。健康被害も甚大だ。
 精密機械も灰が入れば異常をきたす。予想のつかないくらい広い範囲で被害が出るんじゃないか。
 大正の噴火の時は噴火からしばらくしてから降り積もった軽石や火山灰の影響で桜島以外の場所で洪水や土石流が起きている。早いとこ除去しないと、台風がよく来る南九州の被害は甚大なものとなるだろう。
 こんな火山やその周辺に今も人が住んでるというのは、ちょっと理解できない。



 関東大震災も調べた。
 小石川を調べると、植物園の避難民はやはり三万人以上いたらしい。バラック小屋が建てられたというから、今の仮設住宅みたいなものだろう。だが、あれほど設備は充実してないだろうな。
 しかも小石川植物園には江戸時代の小石川養生所で使われた水質のいい井戸があって避難民はずいぶん助かったというから、ここに逃げた人は恵まれていたかもしれない。養生所をここに建てた人は病人にいい水を飲ませたいと思っていたのだろう。それが役に立ったわけだ。
 自動車についてはすぐにわかった。
 盛正が見た若い運転手はあの有名な自動車メーカーを創業した技術者かもしれない。
 違っていたとしても、懸命に職務を全うした技術者たちがいたという事実は重い。
 余震だってあったはずなのに。
 


 それにしても運のいい家族だ。
 秋田の地震でも親戚は無事だし。
 昭和初期の恐慌の影響も少ないとは。
 ところで俺の母方の祖先洞田家はどうしてるんだ?




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