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五 大正の災害
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さて、話が少し先に進んでしまいました。
少し前に戻りましょう。
盛之は明治四十三年(一九一〇年)に二十五歳で結婚しました。大元帥の肝いりで相手はさる名家の令嬢でございました。
結婚の翌年、安積新右衛門が秋田で亡くなりました。何も語らず、新右衛門は急な病で静かに亡くなったそうでございます。安積家は当時多くの田畑を有し酒造業も順調で、大変盛大な葬儀だったそうです。家は盛之の弟の盛雄が継ぎました。この方があのハナさんと結婚した方です。今もその家系が続いております。
盛雄はハナさんのことを大切にし、新右衛門が亡くなるとすぐに実の父親を安積家に引き取りました。
実は、新右衛門は生前、ハナさんの父親のことを気にかけ、実家に折につけ金品を贈っていたのですが、どうも実家での待遇がよくないらしいという噂を聞いた盛雄は実家に行ってみることにしたのです。
盛雄が後に盛之に語ったところによれば、数年前に卒中で倒れた父親は右足を引きずりながら、畑の草取りを黙々としていたそうでございます。
ハナさんの父親は実家に帰った後、使用人と同じ小屋に住んで実家の農作業を手伝う日々を送っていたと一緒に働いていた小作人が語ったそうです。
病の身をおして働いている姿に衝撃を覚えた盛雄はその場で引き取ることに決め、乗って来た人力車に父親を乗せ先に安積家に帰し、自分は家の人々に話をつけてから帰宅したそうです。
ハナさんの父親は昭和の初めに亡くなるまで、安積家の母屋で娘や孫に囲まれ過ごしたそうでございます。
さて、翌大正元年に盛之に長男盛正、大正四年には長女吉子が生まれました。
その翌年の大正五年の年の暮、夏目漱石が亡くなった次の日でしたかA大元帥がお亡くなりになりました。盛之は第二の父として慕っておりましたので、たいそう嘆いたそうでございます。
舅の盛正は物心ついた頃で、盛之が厳かな顔でA大元帥閣下が亡くなられたと家族の前で話したことを覚えているそうです。
十二月十七日の国葬が終わった時明治が終わったと思ったと盛之は申しておりました。
大元帥は東京ではなく別荘のあった那須に眠っておいでだそうです。死後も故郷に戻ることはなかったのです。
安積新右衛門も秋田の安積家の墓所に眠っております。
さて、盛之にとっての大正が始まりました。
大正というと、デモクラシー、どこか華やいだようなイメージもございます。
けれど、決してそれだけではありません。
むしろ大きな災害がいくつか起きております。
その中でも当家に決して無関係ではなかったことをいくつか挙げておきます。
大正三年(一九一四年)一月十二日の鹿児島の桜島大噴火と地震
同年三月十五日の秋田仙北地震。
大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災。
聞いたことのあるものもあれば、あまり知られていないものもあるかと思います。
実は私も秋田の地震のことは存じませんでした。それから桜島の大噴火についても。この噴火で流れた溶岩によって桜島は島ではなく大隅半島と陸続きになったとは。
まず桜島大噴火。
ご存知かと思いますが、桜島は現在も活動している火山です。
それが大正三年に大噴火を起こしました。死者行方不明者五十八人、負傷者百十二人、全焼家屋二千百四十八戸、全倒家屋百十三戸という被害です。
三十億トンもの溶岩が流れ大量の軽石・火山灰が降り、火砕流が起き、マグニチュード七・一の地震、津波、地盤沈下、土石流までもが発生したのです。
大量の灰は桜島以外でも多いところでは一・五メートル以上積もり、多くの人々が故郷を離れ移住せざるを得なかったそうでございます。明治時代には二万人以上が島に住んでいたそうですが、この大噴火の後九千人以下になったそうです。
江戸時代の安永八年(一七七九年)の噴火の規模はもっと大きく江戸や長崎でも灰が降ったそうでございます。そんな恐ろしい場所によく住めるものと思いますが、やはり住み慣れた地は離れがたかったのでしょう。
ですが、さすがに畑も村も灰の下では暮らしの手立てはなく、桜島を中心に被害のひどかった地域の三千世帯二万人以上が移住したそうです。近くにある大隅半島の村々や種子島、宮崎県、遠くは朝鮮半島にまで移住したとか。
現代であれば避難所が設けられ、やがて仮設住宅が作られ、そこに住んで郷里の復興を待つこともできるでしょうけれど、当時はそんなこともできず、県が指定した場所に、あるいは縁故を頼っての移住となったのです。
噴火翌日には新聞に第一報の記事が掲載されたそうです。盛之は気にかかりましたが、いかんせん秋田の父は亡くなっており、どこに親戚がいるかもわからず、どうしていいものか困ったようです。
それでもできることをと赤十字の募金に協力したり、被災地出身の部下の家族の安否確認をしたり、休暇が取れるように便宜を図ったようだと、姑が話しておりました。
さて、大噴火の恐怖もさめやらぬ中、三月十五日の早朝今度は秋田で地震が起きました。
秋田の仙北郡、今の大仙市が震源と推定されるマグニチュード七・一の地震です。震度七と推定された強首村強首地区では全戸が壊れ、五十パーセント以上が全壊したそうです。
この地震では九十四人が死亡、負傷者三百二十四人、六百四十棟が全壊しました。
秋田市では震度五が記録され、北海道から東海地方にかけて広い範囲で揺れが観測されたそうです。
秋田の安積家でもかなり揺れたようで、すでに起きていたハナさんや使用人を除く家族は全員これで飛び起きたとのこと。不思議なことに母屋の江戸時代に建てた部分はびくともせず、明治になって増築した部分の柱が折れたり、屋根瓦が落ちたということです。
この時は盛之は盛雄から「カゾクミナブジ」という電報を受け取り、ほっとしたそうです。
以来、盛之は家族には家を出る時は必ず行く先と帰宅時間を知らせよと口を酸っぱくして言うようになりました。
少しでも帰りが遅れると、それはそれは厳しく叱られたと舅が申しておりました。
その二年後に盛之は陸軍を退職し、某校で非常勤で剣道を教えるようになりました。昭和五年まで十年間勤めました。
その間には関東大震災などもあり、住んでいた小石川の家が倒れたりしましたが、家族は皆無事でした。
犠牲者十万五千人余りの震災で、よくもまあ皆無事だったことと舅の盛正はいつも申しておりました。
また小石川は空き地も多く植物園には一時は三万人以上が避難してきたとか。
十一歳の盛正は地震の起きた後、植物園に妹や母親と避難する時に、驚くような光景を目にしたそうです。それはクラクションを鳴らしながら走る自動車の列でした。
後で知ったとのことですが、自動車修理工場の工員さんたちがお客様から預かった車を火事から守るために空き地に避難させているところだったのです。
ですが、その光景は地震の中逃げ惑う人々の中にあって不思議な光景だったそうです。若い工員さんが懸命にハンドルを握っていた顔を今でも思い出せると舅は地震から七十年以上たった後も語っておりました。
恐らくあの顔だちからして、免許を取れるような年齢ではなかったのではないかとも語っておりました。今なら無免許運転と騒がれることでしょうが、それだけ皆あの時は必死だったのです。
その盛正は東京帝国大学を卒業後、南洋との貿易を扱う会社に就職し、男爵家の令嬢と結婚しました。昭和十五年に生まれた長男盛紀が私の夫でございます。他に昭和十二年に生まれた華子という方がおいでで、この方はさる商社の重役の家にお嫁にいき、昨年八十五歳で亡くなりました。
昭和二年の金融恐慌、昭和四年には世界恐慌と世間は不景気で、不穏な事件もいろいろと起きておりましたが、安積家はなんとかそれを凌いで生き延びて参りました。
盛之の質実剛健を受け継いだ盛正という人は、仕事の上でも浮ついたことを嫌い、株にも手を出さない人でした。おかげで安積家は恐慌の波をもろにかぶらずにいられたのです。もっとも会社の同僚からは石部金吉などと言われていたようですが。
少し前に戻りましょう。
盛之は明治四十三年(一九一〇年)に二十五歳で結婚しました。大元帥の肝いりで相手はさる名家の令嬢でございました。
結婚の翌年、安積新右衛門が秋田で亡くなりました。何も語らず、新右衛門は急な病で静かに亡くなったそうでございます。安積家は当時多くの田畑を有し酒造業も順調で、大変盛大な葬儀だったそうです。家は盛之の弟の盛雄が継ぎました。この方があのハナさんと結婚した方です。今もその家系が続いております。
盛雄はハナさんのことを大切にし、新右衛門が亡くなるとすぐに実の父親を安積家に引き取りました。
実は、新右衛門は生前、ハナさんの父親のことを気にかけ、実家に折につけ金品を贈っていたのですが、どうも実家での待遇がよくないらしいという噂を聞いた盛雄は実家に行ってみることにしたのです。
盛雄が後に盛之に語ったところによれば、数年前に卒中で倒れた父親は右足を引きずりながら、畑の草取りを黙々としていたそうでございます。
ハナさんの父親は実家に帰った後、使用人と同じ小屋に住んで実家の農作業を手伝う日々を送っていたと一緒に働いていた小作人が語ったそうです。
病の身をおして働いている姿に衝撃を覚えた盛雄はその場で引き取ることに決め、乗って来た人力車に父親を乗せ先に安積家に帰し、自分は家の人々に話をつけてから帰宅したそうです。
ハナさんの父親は昭和の初めに亡くなるまで、安積家の母屋で娘や孫に囲まれ過ごしたそうでございます。
さて、翌大正元年に盛之に長男盛正、大正四年には長女吉子が生まれました。
その翌年の大正五年の年の暮、夏目漱石が亡くなった次の日でしたかA大元帥がお亡くなりになりました。盛之は第二の父として慕っておりましたので、たいそう嘆いたそうでございます。
舅の盛正は物心ついた頃で、盛之が厳かな顔でA大元帥閣下が亡くなられたと家族の前で話したことを覚えているそうです。
十二月十七日の国葬が終わった時明治が終わったと思ったと盛之は申しておりました。
大元帥は東京ではなく別荘のあった那須に眠っておいでだそうです。死後も故郷に戻ることはなかったのです。
安積新右衛門も秋田の安積家の墓所に眠っております。
さて、盛之にとっての大正が始まりました。
大正というと、デモクラシー、どこか華やいだようなイメージもございます。
けれど、決してそれだけではありません。
むしろ大きな災害がいくつか起きております。
その中でも当家に決して無関係ではなかったことをいくつか挙げておきます。
大正三年(一九一四年)一月十二日の鹿児島の桜島大噴火と地震
同年三月十五日の秋田仙北地震。
大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災。
聞いたことのあるものもあれば、あまり知られていないものもあるかと思います。
実は私も秋田の地震のことは存じませんでした。それから桜島の大噴火についても。この噴火で流れた溶岩によって桜島は島ではなく大隅半島と陸続きになったとは。
まず桜島大噴火。
ご存知かと思いますが、桜島は現在も活動している火山です。
それが大正三年に大噴火を起こしました。死者行方不明者五十八人、負傷者百十二人、全焼家屋二千百四十八戸、全倒家屋百十三戸という被害です。
三十億トンもの溶岩が流れ大量の軽石・火山灰が降り、火砕流が起き、マグニチュード七・一の地震、津波、地盤沈下、土石流までもが発生したのです。
大量の灰は桜島以外でも多いところでは一・五メートル以上積もり、多くの人々が故郷を離れ移住せざるを得なかったそうでございます。明治時代には二万人以上が島に住んでいたそうですが、この大噴火の後九千人以下になったそうです。
江戸時代の安永八年(一七七九年)の噴火の規模はもっと大きく江戸や長崎でも灰が降ったそうでございます。そんな恐ろしい場所によく住めるものと思いますが、やはり住み慣れた地は離れがたかったのでしょう。
ですが、さすがに畑も村も灰の下では暮らしの手立てはなく、桜島を中心に被害のひどかった地域の三千世帯二万人以上が移住したそうです。近くにある大隅半島の村々や種子島、宮崎県、遠くは朝鮮半島にまで移住したとか。
現代であれば避難所が設けられ、やがて仮設住宅が作られ、そこに住んで郷里の復興を待つこともできるでしょうけれど、当時はそんなこともできず、県が指定した場所に、あるいは縁故を頼っての移住となったのです。
噴火翌日には新聞に第一報の記事が掲載されたそうです。盛之は気にかかりましたが、いかんせん秋田の父は亡くなっており、どこに親戚がいるかもわからず、どうしていいものか困ったようです。
それでもできることをと赤十字の募金に協力したり、被災地出身の部下の家族の安否確認をしたり、休暇が取れるように便宜を図ったようだと、姑が話しておりました。
さて、大噴火の恐怖もさめやらぬ中、三月十五日の早朝今度は秋田で地震が起きました。
秋田の仙北郡、今の大仙市が震源と推定されるマグニチュード七・一の地震です。震度七と推定された強首村強首地区では全戸が壊れ、五十パーセント以上が全壊したそうです。
この地震では九十四人が死亡、負傷者三百二十四人、六百四十棟が全壊しました。
秋田市では震度五が記録され、北海道から東海地方にかけて広い範囲で揺れが観測されたそうです。
秋田の安積家でもかなり揺れたようで、すでに起きていたハナさんや使用人を除く家族は全員これで飛び起きたとのこと。不思議なことに母屋の江戸時代に建てた部分はびくともせず、明治になって増築した部分の柱が折れたり、屋根瓦が落ちたということです。
この時は盛之は盛雄から「カゾクミナブジ」という電報を受け取り、ほっとしたそうです。
以来、盛之は家族には家を出る時は必ず行く先と帰宅時間を知らせよと口を酸っぱくして言うようになりました。
少しでも帰りが遅れると、それはそれは厳しく叱られたと舅が申しておりました。
その二年後に盛之は陸軍を退職し、某校で非常勤で剣道を教えるようになりました。昭和五年まで十年間勤めました。
その間には関東大震災などもあり、住んでいた小石川の家が倒れたりしましたが、家族は皆無事でした。
犠牲者十万五千人余りの震災で、よくもまあ皆無事だったことと舅の盛正はいつも申しておりました。
また小石川は空き地も多く植物園には一時は三万人以上が避難してきたとか。
十一歳の盛正は地震の起きた後、植物園に妹や母親と避難する時に、驚くような光景を目にしたそうです。それはクラクションを鳴らしながら走る自動車の列でした。
後で知ったとのことですが、自動車修理工場の工員さんたちがお客様から預かった車を火事から守るために空き地に避難させているところだったのです。
ですが、その光景は地震の中逃げ惑う人々の中にあって不思議な光景だったそうです。若い工員さんが懸命にハンドルを握っていた顔を今でも思い出せると舅は地震から七十年以上たった後も語っておりました。
恐らくあの顔だちからして、免許を取れるような年齢ではなかったのではないかとも語っておりました。今なら無免許運転と騒がれることでしょうが、それだけ皆あの時は必死だったのです。
その盛正は東京帝国大学を卒業後、南洋との貿易を扱う会社に就職し、男爵家の令嬢と結婚しました。昭和十五年に生まれた長男盛紀が私の夫でございます。他に昭和十二年に生まれた華子という方がおいでで、この方はさる商社の重役の家にお嫁にいき、昨年八十五歳で亡くなりました。
昭和二年の金融恐慌、昭和四年には世界恐慌と世間は不景気で、不穏な事件もいろいろと起きておりましたが、安積家はなんとかそれを凌いで生き延びて参りました。
盛之の質実剛健を受け継いだ盛正という人は、仕事の上でも浮ついたことを嫌い、株にも手を出さない人でした。おかげで安積家は恐慌の波をもろにかぶらずにいられたのです。もっとも会社の同僚からは石部金吉などと言われていたようですが。
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