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事件
伍 目付の調べ
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佳穂にとっては拷問とも思える時間は思いがけず早く終わった。
書物に書かれていることは頭ではわかるのだが、口吸い以上のこととなると、人の身体の話とは思えなかった。そのようになるなど、想像もしていなかった。ことに男の身体の不可思議なことと言ったら、人とは思えなかった。
鳴滝の持ち物だから、嘘はないと思いたかったが、考えてみれば鳴滝もお清の身である。この書物が実は間違っているのではないかと、佳穂は思い始めていた。
奥で確実にお清の身でないのは奥方様であるが、まさかここに書いてあることはまことですかと伺うわけにもいかないので、これは困ったことと思っていると、鳴滝が戻って来て、今日は中奥で若殿様と夕餉をとるようにと伝えたのだった。
これは月野家では異例のことだった。
御前様にしろ、若殿様にしろ、基本的に三食は一人で食べる。奥に行くと午前中に伝えていなければ、奥では夕餉は用意されないのだ。
しかも奥で夕餉を食べる際は基本的には正室と同席し、御手付きの奥女中や側室と同席することはない。正室がいなければ、お気に入りの奥女中と食べることもあるが、現在の御前様には奥方様がいるので、そういうことはない。
これは若殿様も同じである。しかも若殿様は中屋敷ではなく上屋敷で御前様と暮らしている。従って奥で食事はできない。
それで中奥に佳穂を呼んで食事というのだから、これまでの慣例からすれば異例のことだった。
「よろしいか。これはあくまでも異例のこと。男の小姓どもがそばについておるが、軽々しく話しかけぬように。給仕なども男どもがするゆえ、いちいち礼を言わずともよい」
鳴滝は心配なのか、あれこれと注意をする。
「最後に酒かたばこを勧められるかもしれぬが、遠慮するように。若殿様から勧められたら嗜んでもよいが、度を過ごさぬように」
とにかく粗相のないように、表の小姓達を刺激しないようにと、鳴滝があれこれと心配りをしている事は有難かった。
けれど、佳穂の頭の中にあるのは、お園の兄のことである。ねだってはいけないと言われているから、罪一等を減じてなどとは言えぬが、一体どうしてこうなったのか、どういう罰が下されるのか、それを知りたかった。わかっていれば、お園を安心させることができるかもしれない。お園はずっと自室から出られず、一切の情報を知らされていないのである。さぞかし不安であろうと想像するだけで、佳穂は穏やかではいられない。
食事の時は無理かもしれぬが、食後に昨夜起きたことの詳細を直接伺おう、佳穂はそう考えて、表御殿に行く支度をした。
御錠口まで来た時、ちょうど御前様が中奥から奥へ入ってきた。佳穂は端に寄り、頭を下げた。
顔を上げるように言われ、佳穂は顔を上げた。殿様の顔は光信院様の四十九日を過ぎてようやく血色が戻ってきたようだった。
「お佳穂、又四郎の勝手に付き合わせてすまぬが、頼むぞ」
「かしこまりました」
最後の頼むぞという念押しは、鳴滝の望みと同じであろうということは察せられた。
御錠口から中奥の若殿様の食事の間まで小姓が案内した。佳穂にはお喜多が付き添っている。お喜多の夕餉は隣の部屋に用意されており、毒見もかねて佳穂より早く口にすることになっている。
佳穂はその先の食事の間に入った。まだ又四郎はいなかった。
いたのは、痩せた鋭い目つきの男だった。見たことがあるが、名まえは知らない。
佳穂はとりあえず頭を下げた。
すると男は口を開いた。低いがはっきりした声だった。
「拙者は目付の吉井采女でござる。若殿様より、昨夜の次第を説明するよう仰せつかった。若殿様は用事で少々遅くなられる」
なんと目付が。佳穂は驚き慌てて頭を下げた。
「畏れながら、中臈の佳穂と申します。吉井様からじきじきに話を伺うなど勿体ないことにございます」
「若殿様からの頼みゆえ。本来なら、かような話は奥の者にもせぬ。鳴滝殿も知らぬ話もあるゆえ、奥の方々には御内密に」
鳴滝にも内密の話。佳穂は背筋を伸ばした。
吉井の話の最初のほうは佳穂も知る話であった。だが、伶観という尼がさる貴人からの依頼でお志麻を唆していたとは、思いも寄らぬ話であった。
「ということで、拙者はお志麻が尼に唆された末に乱心してのことと考えておる」
だがと、吉井は続けてお志麻のところに出入りしていた伶観という尼が今朝浪人に斬りつけられた一件を語った。まだ奥には知らせていないということだった。
「問題はその浪人の落とした袱紗に付いていた紋と印だ。紋は月に片耳折れの兎、印は紅梅」
「分家のお」
言いかけて、佳穂は口を閉じた。まずい。あってはならぬことであった。が、吉井は言わんとしていたことを見抜いていた。
「お佳穂殿のお考えの通り。これは分家の紋に奥方様の御印。なぜ、それを浪人が持っていたのか。一分銀八枚二両は誰が渡したのか。それを知るため、今浪人を町方の手も借りて探しておる」
信じられなかった。いくら、分家の瑠璃姫様が又四郎を継子として憎んでいたとしても、そのような手の込んだことをして、又四郎の命を狙わせ、それに関わった尼の口を浪人を使って封じさせようとするとは。
だが、昨日の叔母の持って来た薬の件もある。佳穂には、瑠璃姫が関わっているはずがないと言いきれない。
「奥向きのことゆえ、本家の奥にも語れぬことなのだ。表御殿でも知っているのは重職のみ」
確かにそうだった。奥には佳穂のように分家の関係者もいる。奥方様も分家の出である。
「だが、我らは分家の奥のことをあまり知らぬ。鳴滝殿に尋ねるという手もあるが、鳴滝殿の実家は分家と縁のある家。年寄の梅枝とも親しい。そこで、そなたを夕餉ということで若殿様に呼んでいただいたのだ」
そうだったのかと、佳穂は得心した。若殿様のお呼びという名目なら奥に知られずに、中奥で目付が佳穂から事情を聞くのはたやすい。
だが、佳穂も元は分家の者である。
「吉井様、私は父が分家の国家老、叔母は御客応対ですが、よろしいのですか」
「若殿様がよいと仰せであった。お佳穂の方様は、信頼がおけると」
そんなふうに思われていると知り、佳穂は胸が熱くなった。
「かしこまりました。できる限り助力をさせていただきます」
「かたじけない。まずは、奥方様瑠璃姫様のこと。奥方様は若殿様を憎んでおいでなのか」
「憎むという言葉は使いませんでしたが、叔母の川村は、あまり若殿様のことをよく思っておいででないように語っておりました」
「それはどういうことか」
佳穂は叔母の話を思い出した。できるだけ正確に語ろうとしたが、さすがに一言一句同じというわけにはいかない。
「叔母に会ったのは、まだ光信院様がご存命の時のことでした。その時の話では、分家の家来衆の中には、文武に優れた次男の若殿様が分家を継ぐべきだと考える者がいるとのことでした。殿様もいずれは国許の政務を執らせようと思し召しのようですが、奥方様がよい顔をされぬゆえ、お考えだけのことということでした。血の気の多い者は、弱腰な殿様と不満を申しているとか。その時は、姫様との縁組の件を話していたのですが、叔母はもし姫様を娶られて分家を作ることになっても、当家にはゆとりがないと申しておりました。血の気の多い者は、次男の方が家を継げるようにしようと考えるはずと申しておりました」
吉井采女の表情に驚きの色が広がった。采女も佳穂があの時想像したことと同じことを想像したようだった。
「なるほど」
「叔母は若殿様が凡庸な方であればよかったとも申しておりました。お立場が微妙とも危ないとも」
話しながら、佳穂は微妙な立場の又四郎を分家の殿様が本家に養子に出したのは、渡りに船だったのかもしれぬと思った。分家にいれば、家中に災いをもたらす恐れがある又四郎のことを父親として守りたかったのだろう。
「そのような話があったとは」
どうやら目付の吉井も知らぬ話であったらしい。
佳穂は昨日の件も伝えねばなるまいと思った。奥でのことだから他言すべきではないのだが、又四郎が襲われた件に何か関係があるとしたら、目付に伝えておいたほうがいいと考えた。又四郎の一件に瑠璃姫が関わっているかどうかはわからぬが、昨日の薬の件は捨てておけないことだった。
「実は、昨日、叔母が薬を持って参ったのですが」
「薬とは」
「分家の奥方様からの子宝の薬と言って。なれど、淑姫様が箱の中を見て、これは子流しの薬と仰せで」
「なんと、まことか、それは」
吉井は形相を変えた。無表情に見えた顔に明らかに驚きと怒りの色が見えた。
「鳴滝殿には知らせたか」
「いいえ。確証がありませんので。姫様が中身を庭に捨てておしまいになりましたし」
「箱はどちらに」
「淑姫様がお持ちのはずです」
「では、さっそく調べさせよう」」
箱には薬は恐らくわずかしか残っていないはずなのだが、わかるものなのだろうか。
吉井は外に待機している小姓を呼び、御錠口に淑姫様を呼ぶようにと告げた。
佳穂は姫様を呼びつけるなどと驚いたが、目付は屋敷内の監察を一手に引き受けているから、姫様といえど逆らえないのだった。
「ところで、なぜ姫様は薬の中身がおわかりだったのか」
嫁入り先でのことゆえ他言は無用と淑姫は言っていた。答えていいものか迷ったが、答えなければ恐らく姫様に同じことを質問するはずなので答えた。
「嫁ぎ先で同じ薬を贈られたことがあると仰せで。姫様には嫁入り先でのことゆえ他言無用と言われておりましたが、此度の一件は御家の大事ゆえ」
吉井はしばらく絶句していた。無理もない。女の世界のそのような陰湿な仕打ちなど、ほとんど知らないのだから。離縁の一件は姫様だけの責任ではないらしいと彼も気付いたようだった。
「分家の奥方様は若殿様の御子が生まれるのを望んでおらぬと、姫様は仰せでした」
吉井はこれは大変なことになったと内心思った。分家の奥方が若殿様のみならず御手付きの中臈にまで害をなすとは、もはや異常事態である。
「御方様、貴重な話、かたじけない」
吉井は恭しく頭を下げた。佳穂にしてみれば、目付から頭を下げられるなど、とんでもない話だった。目付の恐ろしさは国にいる頃から聞かされていた。その恐ろしい目付に感謝されるなど想像もできなかった。
「いえ、私にはこの程度のことしか手伝うことができませんので」
そう言った後、今ならばと佳穂はお園の兄のことを尋ねた。
「おそれいりますが、梶田仁右衛門殿にはいかなる処分があるのでしょうか。妹のお園は奥で働いておりますが、この一件で謹慎となってしまいました。せめて梶田殿のことがわかればと」
「それは申し訳ないが、教えるわけにはいかぬ。たとえ若殿様であっても、調べの途中で、お教えすることはできぬ。ただ、家中の法度では、人を殺す手助けをした者は追放以上の刑が科せられることになっておる」
追放以上。つまり閉門謹慎だけでは済まないということである。それを教えてもらっただけでも、よしとせねばなるまい。
吉井はそれではと部屋を出て行った。
佳穂はこの件でお園とはもう一緒に働くことはできなくなるかもしれぬと思った。追放やさらにその上の死罪ともなれば、御家は断絶、よくて家禄を下げられ、足軽に落とされることとなるのだ。そうなると妹のお園は中臈ではいられない。いや、その前に奥勤めも辞さねばなるまい。
せめて奥勤めをと願っても、本人にとっては針の筵であろう。兄がしたことは、本人に悪意がなくとも、若殿を危険に陥れたことなのだから、陰で何と言われることか。もし佳穂が同じ立場なら、とてもいたたまれぬであろう。持病の癪の薬も今までのように気軽に処方してもらうことはできまい。中臈の手当てから見れば薬代は大したことはないが、職を辞せば、薬代の負担は重い。お園の身体と心の苦しみは今以上のものとなる。
なんとかできぬものであろうか。
だが、佳穂は中臈でしかない。若殿様に好きだと言われて口吸いをされても、それだけなのだ。何の権力も持たないのだ。
権力。
これまで、ほとんど考えたことのない言葉だった。
もしかすると、人は、自分のためよりも、他人のために権力を欲する物なのかもしれない。権力があれば、周囲の者の苦しみを少しは楽にしてやれる。そのために権力を求めるのかもしれない。
もし、自分にそれがあれば。
奥で権力を持つには二つの手段がある。年寄になるか、子ども、それも男児を生んで側室となるか、である。
佳穂は年寄への道を失った。だが、もう一つの道はある。
やはり、自分はそちらで最善を尽くし、お園をなんとか助けるしかないのだろうか。
「お佳穂、怖い顔だな」
その声に驚き、佳穂は慌てて頭を下げた。
書物に書かれていることは頭ではわかるのだが、口吸い以上のこととなると、人の身体の話とは思えなかった。そのようになるなど、想像もしていなかった。ことに男の身体の不可思議なことと言ったら、人とは思えなかった。
鳴滝の持ち物だから、嘘はないと思いたかったが、考えてみれば鳴滝もお清の身である。この書物が実は間違っているのではないかと、佳穂は思い始めていた。
奥で確実にお清の身でないのは奥方様であるが、まさかここに書いてあることはまことですかと伺うわけにもいかないので、これは困ったことと思っていると、鳴滝が戻って来て、今日は中奥で若殿様と夕餉をとるようにと伝えたのだった。
これは月野家では異例のことだった。
御前様にしろ、若殿様にしろ、基本的に三食は一人で食べる。奥に行くと午前中に伝えていなければ、奥では夕餉は用意されないのだ。
しかも奥で夕餉を食べる際は基本的には正室と同席し、御手付きの奥女中や側室と同席することはない。正室がいなければ、お気に入りの奥女中と食べることもあるが、現在の御前様には奥方様がいるので、そういうことはない。
これは若殿様も同じである。しかも若殿様は中屋敷ではなく上屋敷で御前様と暮らしている。従って奥で食事はできない。
それで中奥に佳穂を呼んで食事というのだから、これまでの慣例からすれば異例のことだった。
「よろしいか。これはあくまでも異例のこと。男の小姓どもがそばについておるが、軽々しく話しかけぬように。給仕なども男どもがするゆえ、いちいち礼を言わずともよい」
鳴滝は心配なのか、あれこれと注意をする。
「最後に酒かたばこを勧められるかもしれぬが、遠慮するように。若殿様から勧められたら嗜んでもよいが、度を過ごさぬように」
とにかく粗相のないように、表の小姓達を刺激しないようにと、鳴滝があれこれと心配りをしている事は有難かった。
けれど、佳穂の頭の中にあるのは、お園の兄のことである。ねだってはいけないと言われているから、罪一等を減じてなどとは言えぬが、一体どうしてこうなったのか、どういう罰が下されるのか、それを知りたかった。わかっていれば、お園を安心させることができるかもしれない。お園はずっと自室から出られず、一切の情報を知らされていないのである。さぞかし不安であろうと想像するだけで、佳穂は穏やかではいられない。
食事の時は無理かもしれぬが、食後に昨夜起きたことの詳細を直接伺おう、佳穂はそう考えて、表御殿に行く支度をした。
御錠口まで来た時、ちょうど御前様が中奥から奥へ入ってきた。佳穂は端に寄り、頭を下げた。
顔を上げるように言われ、佳穂は顔を上げた。殿様の顔は光信院様の四十九日を過ぎてようやく血色が戻ってきたようだった。
「お佳穂、又四郎の勝手に付き合わせてすまぬが、頼むぞ」
「かしこまりました」
最後の頼むぞという念押しは、鳴滝の望みと同じであろうということは察せられた。
御錠口から中奥の若殿様の食事の間まで小姓が案内した。佳穂にはお喜多が付き添っている。お喜多の夕餉は隣の部屋に用意されており、毒見もかねて佳穂より早く口にすることになっている。
佳穂はその先の食事の間に入った。まだ又四郎はいなかった。
いたのは、痩せた鋭い目つきの男だった。見たことがあるが、名まえは知らない。
佳穂はとりあえず頭を下げた。
すると男は口を開いた。低いがはっきりした声だった。
「拙者は目付の吉井采女でござる。若殿様より、昨夜の次第を説明するよう仰せつかった。若殿様は用事で少々遅くなられる」
なんと目付が。佳穂は驚き慌てて頭を下げた。
「畏れながら、中臈の佳穂と申します。吉井様からじきじきに話を伺うなど勿体ないことにございます」
「若殿様からの頼みゆえ。本来なら、かような話は奥の者にもせぬ。鳴滝殿も知らぬ話もあるゆえ、奥の方々には御内密に」
鳴滝にも内密の話。佳穂は背筋を伸ばした。
吉井の話の最初のほうは佳穂も知る話であった。だが、伶観という尼がさる貴人からの依頼でお志麻を唆していたとは、思いも寄らぬ話であった。
「ということで、拙者はお志麻が尼に唆された末に乱心してのことと考えておる」
だがと、吉井は続けてお志麻のところに出入りしていた伶観という尼が今朝浪人に斬りつけられた一件を語った。まだ奥には知らせていないということだった。
「問題はその浪人の落とした袱紗に付いていた紋と印だ。紋は月に片耳折れの兎、印は紅梅」
「分家のお」
言いかけて、佳穂は口を閉じた。まずい。あってはならぬことであった。が、吉井は言わんとしていたことを見抜いていた。
「お佳穂殿のお考えの通り。これは分家の紋に奥方様の御印。なぜ、それを浪人が持っていたのか。一分銀八枚二両は誰が渡したのか。それを知るため、今浪人を町方の手も借りて探しておる」
信じられなかった。いくら、分家の瑠璃姫様が又四郎を継子として憎んでいたとしても、そのような手の込んだことをして、又四郎の命を狙わせ、それに関わった尼の口を浪人を使って封じさせようとするとは。
だが、昨日の叔母の持って来た薬の件もある。佳穂には、瑠璃姫が関わっているはずがないと言いきれない。
「奥向きのことゆえ、本家の奥にも語れぬことなのだ。表御殿でも知っているのは重職のみ」
確かにそうだった。奥には佳穂のように分家の関係者もいる。奥方様も分家の出である。
「だが、我らは分家の奥のことをあまり知らぬ。鳴滝殿に尋ねるという手もあるが、鳴滝殿の実家は分家と縁のある家。年寄の梅枝とも親しい。そこで、そなたを夕餉ということで若殿様に呼んでいただいたのだ」
そうだったのかと、佳穂は得心した。若殿様のお呼びという名目なら奥に知られずに、中奥で目付が佳穂から事情を聞くのはたやすい。
だが、佳穂も元は分家の者である。
「吉井様、私は父が分家の国家老、叔母は御客応対ですが、よろしいのですか」
「若殿様がよいと仰せであった。お佳穂の方様は、信頼がおけると」
そんなふうに思われていると知り、佳穂は胸が熱くなった。
「かしこまりました。できる限り助力をさせていただきます」
「かたじけない。まずは、奥方様瑠璃姫様のこと。奥方様は若殿様を憎んでおいでなのか」
「憎むという言葉は使いませんでしたが、叔母の川村は、あまり若殿様のことをよく思っておいででないように語っておりました」
「それはどういうことか」
佳穂は叔母の話を思い出した。できるだけ正確に語ろうとしたが、さすがに一言一句同じというわけにはいかない。
「叔母に会ったのは、まだ光信院様がご存命の時のことでした。その時の話では、分家の家来衆の中には、文武に優れた次男の若殿様が分家を継ぐべきだと考える者がいるとのことでした。殿様もいずれは国許の政務を執らせようと思し召しのようですが、奥方様がよい顔をされぬゆえ、お考えだけのことということでした。血の気の多い者は、弱腰な殿様と不満を申しているとか。その時は、姫様との縁組の件を話していたのですが、叔母はもし姫様を娶られて分家を作ることになっても、当家にはゆとりがないと申しておりました。血の気の多い者は、次男の方が家を継げるようにしようと考えるはずと申しておりました」
吉井采女の表情に驚きの色が広がった。采女も佳穂があの時想像したことと同じことを想像したようだった。
「なるほど」
「叔母は若殿様が凡庸な方であればよかったとも申しておりました。お立場が微妙とも危ないとも」
話しながら、佳穂は微妙な立場の又四郎を分家の殿様が本家に養子に出したのは、渡りに船だったのかもしれぬと思った。分家にいれば、家中に災いをもたらす恐れがある又四郎のことを父親として守りたかったのだろう。
「そのような話があったとは」
どうやら目付の吉井も知らぬ話であったらしい。
佳穂は昨日の件も伝えねばなるまいと思った。奥でのことだから他言すべきではないのだが、又四郎が襲われた件に何か関係があるとしたら、目付に伝えておいたほうがいいと考えた。又四郎の一件に瑠璃姫が関わっているかどうかはわからぬが、昨日の薬の件は捨てておけないことだった。
「実は、昨日、叔母が薬を持って参ったのですが」
「薬とは」
「分家の奥方様からの子宝の薬と言って。なれど、淑姫様が箱の中を見て、これは子流しの薬と仰せで」
「なんと、まことか、それは」
吉井は形相を変えた。無表情に見えた顔に明らかに驚きと怒りの色が見えた。
「鳴滝殿には知らせたか」
「いいえ。確証がありませんので。姫様が中身を庭に捨てておしまいになりましたし」
「箱はどちらに」
「淑姫様がお持ちのはずです」
「では、さっそく調べさせよう」」
箱には薬は恐らくわずかしか残っていないはずなのだが、わかるものなのだろうか。
吉井は外に待機している小姓を呼び、御錠口に淑姫様を呼ぶようにと告げた。
佳穂は姫様を呼びつけるなどと驚いたが、目付は屋敷内の監察を一手に引き受けているから、姫様といえど逆らえないのだった。
「ところで、なぜ姫様は薬の中身がおわかりだったのか」
嫁入り先でのことゆえ他言は無用と淑姫は言っていた。答えていいものか迷ったが、答えなければ恐らく姫様に同じことを質問するはずなので答えた。
「嫁ぎ先で同じ薬を贈られたことがあると仰せで。姫様には嫁入り先でのことゆえ他言無用と言われておりましたが、此度の一件は御家の大事ゆえ」
吉井はしばらく絶句していた。無理もない。女の世界のそのような陰湿な仕打ちなど、ほとんど知らないのだから。離縁の一件は姫様だけの責任ではないらしいと彼も気付いたようだった。
「分家の奥方様は若殿様の御子が生まれるのを望んでおらぬと、姫様は仰せでした」
吉井はこれは大変なことになったと内心思った。分家の奥方が若殿様のみならず御手付きの中臈にまで害をなすとは、もはや異常事態である。
「御方様、貴重な話、かたじけない」
吉井は恭しく頭を下げた。佳穂にしてみれば、目付から頭を下げられるなど、とんでもない話だった。目付の恐ろしさは国にいる頃から聞かされていた。その恐ろしい目付に感謝されるなど想像もできなかった。
「いえ、私にはこの程度のことしか手伝うことができませんので」
そう言った後、今ならばと佳穂はお園の兄のことを尋ねた。
「おそれいりますが、梶田仁右衛門殿にはいかなる処分があるのでしょうか。妹のお園は奥で働いておりますが、この一件で謹慎となってしまいました。せめて梶田殿のことがわかればと」
「それは申し訳ないが、教えるわけにはいかぬ。たとえ若殿様であっても、調べの途中で、お教えすることはできぬ。ただ、家中の法度では、人を殺す手助けをした者は追放以上の刑が科せられることになっておる」
追放以上。つまり閉門謹慎だけでは済まないということである。それを教えてもらっただけでも、よしとせねばなるまい。
吉井はそれではと部屋を出て行った。
佳穂はこの件でお園とはもう一緒に働くことはできなくなるかもしれぬと思った。追放やさらにその上の死罪ともなれば、御家は断絶、よくて家禄を下げられ、足軽に落とされることとなるのだ。そうなると妹のお園は中臈ではいられない。いや、その前に奥勤めも辞さねばなるまい。
せめて奥勤めをと願っても、本人にとっては針の筵であろう。兄がしたことは、本人に悪意がなくとも、若殿を危険に陥れたことなのだから、陰で何と言われることか。もし佳穂が同じ立場なら、とてもいたたまれぬであろう。持病の癪の薬も今までのように気軽に処方してもらうことはできまい。中臈の手当てから見れば薬代は大したことはないが、職を辞せば、薬代の負担は重い。お園の身体と心の苦しみは今以上のものとなる。
なんとかできぬものであろうか。
だが、佳穂は中臈でしかない。若殿様に好きだと言われて口吸いをされても、それだけなのだ。何の権力も持たないのだ。
権力。
これまで、ほとんど考えたことのない言葉だった。
もしかすると、人は、自分のためよりも、他人のために権力を欲する物なのかもしれない。権力があれば、周囲の者の苦しみを少しは楽にしてやれる。そのために権力を求めるのかもしれない。
もし、自分にそれがあれば。
奥で権力を持つには二つの手段がある。年寄になるか、子ども、それも男児を生んで側室となるか、である。
佳穂は年寄への道を失った。だが、もう一つの道はある。
やはり、自分はそちらで最善を尽くし、お園をなんとか助けるしかないのだろうか。
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