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お清の中臈

陸 あばたの娘

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 夕刻屋敷に戻り鳴滝にまず報告と思っていると、奥方様に呼ばれたのでそちらに先に向かった。
 奥方様に叔母の書状を渡した後、先月の犬の件の髭もじゃの男が又四郎殿であったと話すと、奥方様はそれは愉快なことと笑った。

「叔母の話では時々そのような姿になっておられると。なんでも書物などを読んで夢中になると月代も髭も剃らぬそうで」
「あちらに参る時はきちんと剃っておられるのだが」

 奥方様は分家の出だが、両親が亡くなっているので、慶弔以外は実家にほとんど顔を出すことはない。従って部屋住みの又四郎に会うことはめったになく、会ってもきちんと月代や髭を剃った顔を見るだけだったのである。

「犬がお好きとは知らなんだ」
「あれは南蛮犬の血を引いた猟犬かと。兄が似た犬を飼っておりました」
「そうか。淑は犬が好かぬゆえ、気が合わぬかもしれぬな」

 淑姫は猫を飼っている。嫁ぐ時も二匹連れて行った。帰って来た時は子猫と合わせて七匹になっていた。あちらの殿様が猫が嫌いだったので、それも離縁の理由ではないかと囁かれている。

「猫がお嫌いとは限らぬのでは」
「いやいや、それがな、犬好きと猫好きは少々違うようでな。淑は猫は人になびかぬゆえ好きだが、犬は人に媚びるゆえ嫌じゃと言う。御前様は、猫はひねくれていて好かぬ、素直な犬がよいと仰せ。父と娘でも違うもの。なかなか犬も猫も好きという者はおらぬようでな。お佳穂はいかがじゃ」 

 奥方様はにこにこと笑って尋ねた。

「どちらも嫌いではありません。国では兄が猟犬を、家では陣屋の蔵の鼠退治のために猫を養っておりましたので」

 佳穂は殿様も淑姫も立てねばならぬから、そのように言った。本当は犬のほうが好きだった。

「ほお、陣屋の蔵の」
「はい。せっかくの年貢を台無しにしてはなりませんので。母は鼠捕りのうまい猫がいると聞けば、その猫の仔猫を家で育て、一人前になったら陣屋に勤めさせておりました」
「母とは、お志寿しづか」
「はい。それに今の母もそうです」

 志寿とは佳穂の生みの母である。だが、彼女だけでなく、継母の春も同じ仕事を受け継ぎ、父に重宝されていた。いわば国家老の妻の役目の一つだったのだろう。

「そうか、まことにそれはありがたいこと。百姓の納めた年貢をさようにして守ってくれていたとは。忠義の猫じゃ」

 奥方様は笑った。
 まだ奥方様が読んでいない叔母の書状の内容はとても笑えるものではないのだが。





 その後、鳴滝にも報告した。鳴滝は黙って佳穂の話を聞き、ご苦労と言った後で思い出したように言った。

「そういえば壁の穴だが、今日やっと修繕が済んだ。お佳穂のおかげじゃ」

 鳴滝は微笑んだ。佳穂はよかったと思った。だが、それにしても時間がかかったものである。
 犬の騒動の翌日には穴が見つかっていたはずだが。

「ありがたき幸せ。なれど、かように遅くなるとは、左官の手配がつかなかったのですか」

 江戸は冬の間、火災が多い。大工・左官は常に多忙だった。
 佳穂の問いに鳴滝は顔を曇らせた。

「申し訳ありません。余計なことを」
「いや、よい。そなたも知っておいたほうがよいかもしれぬ」

 そう言うと、鳴滝は静かに話し始めた。

「あの台所近くの土塀は分家が元々は造ったものゆえ、修繕費用は分家が出すものなのだ。だが、分家の用人が費用が足りぬゆえ、待ってくれと申してな」

 本家からの依頼に待ってくれというのはありえなかった。しかも分家の造った塀なのだ。

「費用というても、穴は犬一匹が通るのみ。通りに面した塀であれば、漆喰も上質なものを使わねばならぬが、内々の塀ならば、さほど費用はかからぬ。なのに、それが出せぬ。これはなんとしたことか」

 鳴滝の怒りは佳穂にも伝わった。声を荒げずとも怒りは伝わるものなのだ。

「結局、家老の高橋殿の案で、費用を当家から分家に貸すということで決着した。二年のうちに返すということでな」
「まことでございますか」

 信じられなかった。叔母の暮らしを見ても、分家が手元不如意とは感じられなかった。
 
「お佳穂、そなた、奥で瑠璃姫様に会わなんだか」
「いいえ。叔母の話ではご実家にご挨拶に伺っておいでということでした」
「やはりな」

 鳴滝はうなずいた。

「お佳穂、恐らく、分家は瑠璃姫様次第では、傾くやもしれぬ」
「さようなことが」

 分家の奥方瑠璃姫には何度か目通りしたことがある。美しい方だった。実家が譜代で裕福ということで、華やかな衣装をいつも身にまとっていた。その方次第で傾くとは、聞き捨てならぬ話であった。

「当家ですら倹約していても、蔵が満ちるということはない。分家は一万石ぞ。奥方が贅沢をすれば、簡単に傾く。塀の穴も直せぬほどにな。恐らく瑠璃姫様は実家に無心をされたのかもしれぬ」

 だとすると、これは大事である。分家の主は安穏とはしておられまい。

「下野守様は何をされておいでなのですか」
「あの方は、瑠璃姫様に頭が上がらぬ。又四郎様の件でもわかろう。明らかに長子であるのに、次男にしてしまわれた」

 薄々、佳穂もそうではないかと思っていた。年寄の鳴滝は恐らく、まだまだ佳穂の知らぬ話を知っているのであろう。

「叔母殿のところに行く際は気を付けておくれ」
「かしこまりました」

 要するに、佳穂に分家の様子を探れと言っているのである。その意図に気付かぬ佳穂ではなかった。





 部屋に戻ってお三奈とお喜多に叔母から預かった土産の菓子を分け、お園の部屋にも行って菓子を分けた。

「ありがとう。昨日休んだおかげで、今日はだいぶ具合がいい。お佳穂さんのおかげね」
「身体の調子が悪い時はお互いさま。今日は淑姫様、何か変わったことは」
「いつも通り。團十郎の錦絵を御覧になっていたから、そろそろ芝居が恋しいようで」
「それは大変」
「例のももんじの御末が辞めたから大丈夫。代わりに来たのが、いかつい娘でね。御家人の娘で、兄は道場で師範代をしてて、本人も小太刀が得意なんですって」
「それなら大丈夫ね」

 そんな話をして部屋に戻った。
 床に入ってふと思い出したのは、あの髭もじゃの又四郎殿である。失礼なことを言ってはいないはずである。だが、気になる言葉があった。

『川村様の御息女か』

 なぜ、あの時、そんなことを尋ねたのだろうか。わからない。自分の顔を見ていたということは顔を知っているということか。だが、佳穂はあのような男性に会った覚えがない。それとも自分は父に似ているのか。
 又四郎は国にいたことがあるから父に会ったことがあるのかもしれない。だが、叔母の話では十五年前に国から江戸に出ている。十五年前に会った父と自分の顔が似ているのであろうか。母に似ていると言われたことはあるが、父と似ているというのは聞いたことがないのだが。そもそも十五年前に会った父の顔を今も覚えているものだろうか。
 わからぬ。
 ふと自分の顔を見ていたことを思い出した。
 あっと気づいた。
 生え際のあばたである。
 国家老の川村の娘には生え際にあばたがあると江戸屋敷勤めの男達にも知られているのではあるまいか。その推測に、佳穂は背筋が震えた。
 国にいる時も、生え際のあばたを目印に、川村様の御息女とよく言われたことがあった。それが嫌で、勤め始めた頃はあばたのあたりの化粧を濃くしたりもしたが、生え際なので髪まで白粉おしろいがかかって、かえって悪目立ちしてしまった。
 江戸に出てからは奥勤めでほとんと男性と顔を合わせることがなかった。だから誰も川村の娘とあばたのことを結びつける者はいないと思っていた。が、考えてみれば本家と分家の家臣は親戚同士も多く、佳穂のように分家の家臣の家族でありながら本家に勤めている者もいる。表御殿で佳穂のあばたのことが知られていないと考えるのがそもそもおかしい。
 きっと、分家の上屋敷の表御殿に勤める者達も生え際にあばたのあるのは川村の娘と知っているに違いない。それが部屋住みの又四郎殿にも聞こえているのだ。
 だから、あばたを見て尋ねたのだ。
 その結論に至り、佳穂はため息をついた。一か月もたって気付くとは迂闊過ぎる。
 あばたの存在には慣れているはずだった。けれど、それによって、自分が川村三右衛門の娘と認識されているという事実は重い。まるで罪を犯した者に施される入れ墨のようだった。
 そう、あれは罪の印かもしれないと幾度思ったことか。自分の病がうつったために亡くなった母のことを思うと、今も胸が痛い。誰のせいでもないのだ、気にしなくてもいいと言ってくれた人がいたけれど、その人と会えなくなって十五年もたてば、次第に言葉の力も薄れてくる。顔も次第に忘れかけてきている。
 私はどうあってもあばたから逃れられない。自分からうつされた病で母が死んだことからも。
 しかも、よりによって、淑姫様の縁談の相手になるかもしれぬ又四郎殿にまで、あばたは分家の国家老川村の娘と認識されているとは。あばたという名の刻印の存在の重さが今更ながら、佳穂を落ち込ませた。
 佳穂は床の中で己の罪を思い、眠れず寝返りばかりをうっていた。




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