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一章

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  ─── 目を覚ますと、そこには女神様がいた。

 月の澄んだ光を全身に浴びて、木の幹に体を預けている。ぼんやりと見つめた手元には、青い布が握られていた。
 彼女が軽く顔を伏せると、その肩口からハラリと煌めきが零れる。

 水の流れを思わせるような、比類なき白銀の髪。
 緩やかに波打つそれは、月明かりを閉じ込めたかのように輝いている。
 珍しい色彩いろに、より一層彼女の神秘的な美しさが増す。

 この世のものとは思えないその姿を、横たわったまま息を詰めてナツセは見つめた。

 ふと、白銀の水面が揺れた。
 その奥にある、淡い紫の瞳がナツセを捉える。
 僅かにその目が見開かれ、唇がそっと言葉を紡いだ。


「目が、覚めたんだね」


 ナツセに呼びかける声は、柔らかで優しい。聞いているだけで心地よくなれるような声。
 夢見心地でナツセはもう一度目を閉じる。


「僕 ─── 天の国に、連れて行かれちゃうの?」

「天の国? なぜ?」


 問い返す声は相変わらず、どこまでも柔らかい。
 ナツセは目を閉じたまま答えた。


「月が明るい夜は、天の国からすごく綺麗な女神様がやって来るんだって。それで、見つけた子を天の国に連れて帰って、友達にするんだって」


 そっか、と短く答える声がした。目を閉じたままのナツセの頬を、優しい手が撫でてくれる。


「でも、私は女神様じゃないよ」


 その言葉にナツセは目を開けた。目の前には、困ったような微笑みがある。
 そのとき、彼女の耳許で何かが光を弾いて輝き、チリリと涼やかな音色を零した。
 既視感を覚え、ナツセは目を見開く。


「 ─── ハク?」

「うん」


 そう言っては笑った。
 驚きと困惑がない交ぜになって、ナツセは混乱する。

 それを微笑ましげに見ていたハクが、ふと口を開いた。


「急に倒れるから驚いた。痛むところはない?」


 ナツセは頷いた。どうやらあの後すぐに倒れてしまったらしい。確かに、ハクの名前を聞いてからの記憶がなかった。


「リウナは……?」


 ずっと気になっていたことが口から零れた。
 尋ねた言葉が尻すぼみになったのは、ハクの神秘的な雰囲気に気圧されたからだろう。

 美しいが、どこか遠くて馴れ馴れしくできんない感じ。
 目の前に見えているのに、手を伸ばせばれずに通り過ぎてしまいそう。

 それを知ってか知らずか、彼女はまたナツセの頬を撫でた。
 さわれる。優しい手つき。


「まだ目は覚まさないけど、それ以外は大丈夫だよ。ただ、あまり負担はかけない方がいいかな。無理をさせたくはないし。あの子にも、君にも」

「僕にも……?」


 ナツセは瞬く。そう、と頷いて、ハクがその肩を押した。
 コテンと呆気なく後ろに倒れた体に、ふわりと彼女のローブが掛けられる。
 それは優しく広がって、隣に横たわっていたリウナをも包み込んだ。


「眠って。行く所があるんだ。明日の朝は早いよ」


 その言葉に、ナツセは目を閉じた。





♢♢♢♢♢♢





 やがてナツセが眠っても、ハクはそこに座ったまま並んで目を閉じる二人の顔を眺めていた。
 そしてふと彼女は立ち上がると、二人から少し離れた位置に座り直し、背からすらりと剣を抜き放った。昼間鼠を斬った大剣だ。
 古く年季の入ったその剣は、柄の部分に巻かれた布が血を吸いすぎて黒ずんでいた。元々は白かったはずなのに。
 少し緩んだそれを丁寧に巻き直すと、次いでハクは念入りに刀身の手入れを始めた。

 古ぼけた剣には不自然なほど、その刃は光を放っている。
 それは、まだ一度も使っていないもの特有の、鏡のような輝きではない。
 むしろその逆の、幾度も返り血を浴びてその都度丹念に研がれた、禍々しくも美しい ─── まるでそれ自体が生きているかのような光り方。

 そこに、ハク自身の姿が映り込む。

 彼女の髪はその刃の輝きの中に、今にも溶け込んでしまいそうに見えた。







 刀身の湾曲に合わせて、映る姿も歪んでいる。
 その上にツツッと指を滑らせてなぞってみた。

 この醜い姿こそ、自分にはお似合いだ。
 剣を握り腕を振るい、たくさんの命を奪った。今日の昼間だって。
 何度手を洗っても拭っても、掌にぬるりと返り血がへばり付いている気がしてならない。

 一通りの手入れを終えて剣を鞘に戻した後、ハクはごろりと寝転がった。
 ナツセたちとは少し離れた場所。これくらいの距離でちょうどいい。むしろまだ近すぎるくらいだ。
 汚れた自分には、穢れを知らない彼らは眩しすぎる。

 茂る木々の合間からは、紫紺の空と無数の星が見えた。
 人は死ぬと星になると聞いたことがある。もし本当にそうならば、母もあの中にいるのだろうか。


「天の国、ね……」


 ふと、夢うつつの中のナツセの言葉を思い出した。
 もしかしたら母も女神様に連れられて、天上の世界で自分のことを見ているかもしれないなと考える。

 でも。

 それならいっそ、星になっていてくれた方がいい。
 今のこの姿を、見られたくはないから。


  ─── 母は、そなたのこの髪が好きですよ。

  ─── まるでそなた自身の、何の穢れもない身心を映しているみたいで。


 母がそう言ってくれた幼い女の子は、もういない。その手は血に濡れ、冴ざえとした髪ばかりが冷たく輝くだけ。

 母は、こんな自分でも愛してくれるだろうか。
 昔とは違って赤く穢れた、醜い自分を。

 ……まさか。

 自分で自分の考えを否定した。馬鹿馬鹿しい。精々悲しそうな目をさせるだけだ。

 優しい母は、きっと責めたりしない。その代わり、あの白い手が自分を柔らかく抱きしめてくれることはないだろう。母にまでこの穢れが移ってしまう。
 汚れているのは自分だけで充分だ。そう自嘲した。仄暗い嗤いが口許に浮かぶ。




  ─── そのとき。




 サク、と僅かな足音。
 見えていたいた天の煌めきが、黒い影に遮られる。


「……血の匂いがする」


 言葉と共にハクの傍らに膝をついた人影は、すっと顔を覗き込んできた。


「泣いてたのか? ハク」


 夜空をトロリと溶かして固めたような漆黒の瞳がそこにはあった。濡れたように光る髪も同じ色。
 にやりと笑うことが多いその口許にはしかし、今は笑みの欠片もない。


「お帰り、コクラン」


 ハクのその言葉に、宵闇から抜け出してきたような青年はやっと少し笑んだ。





 “賞金首クビりのコクラン”。

 幼い頃に出会い、以来ずっと一緒にいる男。
 出会った頃には既に剣の達人と呼ばれるのに相応しい腕前をしていて、ハクにその扱い方を教えたのも彼だった。
 懸賞金のかかった罪人つみびとを捕え、時には殺して金を稼ぐ。残酷にも思えるが、そのやり方しか知らない男だった。

 そしてそれは、ハクも同じ。彼の稼いだ金で生きてきた。彼がいなければ、今の生活は成り立たない。
 他人の犠牲を前提とした、汚い生き方だと嗤われるだろうか。でも仕方ない。

 結局のところ、自分は我が身が大切なのだ。
 ……それと、この男と。

 彼とは、長い時を共に過ごしてきた。
 追っ手のかかる自分を笑い飛ばし、ずっとこの手を引いてくれた相棒。いつの間にか、己の半身のように思うようになっていた。

 理由もあてもなく、生き延びることこそが目的だった自分。
 だが今は、この男コクランが生きる意味……かも、しれない。



「怪我はしてないか、コクラン。どうだった?」

「怪我なんかねーよ。ぼちぼちってとこだな。三人狩った」

「そう…… おつかれ。ありがとう」


 ハクは体を起こすと、彼の背に腕を回して抱きしめた。その目に灯る光が、あまりにも昏くて。
 ん、とコクランが答えてハクの肩に顔をうずめた。そのまま暫く沈黙が続く。

 本当は、平気なはずがない。
 肉の感触、恐怖と憎悪に染まった目、断末魔の叫び ─── 。
 今夜も彼はきっと、悪夢をみる。

 少しでもその苦しみを貰ってあげたくて、ハクは彼との隙間がなくなるくらいに抱きしめた。





♢♢♢♢♢♢





 どれくらいそうしていただろう。

 暫くしてコクランは顔を上げた。何となく離れ難い気がして、そのままハクの細い肩に顎を預ける。
 ふと目を遣った先で、並んで眠る見慣れない二人組を見つけた。


「ハク、あれ何?」

「あれ? ……あぁ、あの兄妹ね。拾った」

「拾った?」


 そう、とハクが頷く。顔は見えないが、苦々しい声だった。


「……バケモノが、出た。鼠だったよ。私が着いたときにはもう、人を喰っていた」

「へぇ……。血の匂いは、これか」


 言いながらコクランは、ハクの髪に顔を寄せた。
 微かに甘い彼女自身の香りに混じり、鉄のような匂いがする。髪は匂いが移りやすいのだ。


「あの、コクラン……」


 おずおずといったように、ハクが声を上げた。彼女が何を言いたいのか分かって、コクランはにやりと笑ってみせる。


「拾ったもんは、責任もって面倒みないとな」

「……うん。ありがとう。ありがとうコクラン」

「何回も言うな鬱陶しい」


 彼女は返事の代わりに、ギュッと腕に力を込めた。


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